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カナン・サガ3~帝都内乱~  作者: 藤田 暁己
第4章 カルディアロスⅠ――邂逅
11/31

4-1

 


 東の大国カルディアロスは、古五王国の中でも最古であると広言してはばからない、古代より数百の民族が入り乱れて、分裂統合を繰り返してきた王国である。

 現在は、太祖たいそリ・ロンビンの下に百四十二の民族が連合を成し、彼の血脈を嗣ぐリ王家によって統治されている。

 彼らは独自の文化や民族様式を非常に重んじ、広く流布している光明神教ルクシオンでさえ、東界光明神教アース・ルクシオンと呼ぶべき独特の形態で信仰されていた。またそれだけに、世界が統一されて三千五百年余りを経、なお管理体制を緩めようとしない帝都への反発も強かった。


 カルディアロスの首都ラサ。

 賑わう昼間の往来の中に、およそカルディアロス人らしからぬ二人の人物がいた。

 旅の剣士に身をやつした、レイとイリヤである。

 一時間ホラほど前に、ノアによってラサ市郊外の林に空間移動トランスフェーズしてきた二人は、身につけていたわずかな金と宝飾品を売って、帝都の身分を示す衣服と鎧の代わりに馬と旅装を手に入れた。

 すりきれた外套を頭から被り、厚手の綿の上下に革の長靴ブーツといういでたちで、救いの鍵となる剣士の居所を目指す。


「――見つかりますかしら?」

「さあな。なにしろ御年八十三歳の老人だ。見つかったは良いが、墓の下だったなどということになるかもしれないな」


 差し迫った状況の中で軽口をたたく皇子を、頭巾フードの下からイリヤが睨む。


「御冗談を。相手は、世に埋もれたとはいえ〝剣聖〟と称されたほどの剣士。たとえ亡くなられていたとしても、彼の流儀を世に伝え残している者くらいいるはずですわ」

「そう願いたいが……」


 呟いて、レイは人の山を見渡した。

 多民族国家というわりにあまりにも似通った黒髪の小柄な人々は、せわしくとっつきにくそうな様子だ。

 カルディアロス人の友人から話は聞いていたが、想像より数倍多い人口と熱気とに、思わず目が眩む。異国の地理は不案内な上に、道を聞こうにもレイの容姿は目立ち、人目を引きすぎた。


――これでは、ディーンに連絡をとるどころではなさそうだな……。


 いざとなれば友人の情報に頼るつもりでいたレイは、まるで雲を掴むような探索に、ため息をもらす。だが、幸運が来るまで待っていられる状況ではない。


――こうなれば、いちばちかだ。


 レイは馬を降り、通りの一画へ向かった。


「レイ様!」


 囁きで発せられたイリヤの制止を背に流し、レイは辻角つじかどで物売りをしている男に話しかけた。


「道を尋ねたいのだが……」

「……」

「アデル・ケイトンにはどう行けばいいのだ?」


 胡坐を組んだ男の前のむしろには、煙草らしきくすぶった香りのする細かな葉を山と積んだざるをいくつかと、小瓶、煙管キセル火打箱ひうちばこなどが雑多に並んでいる。

 男は、黒髪をざっくりまとめた上に頬かむり、前合わせの上衣に山袴もんぺ。南国のアルビオン人よりは色の薄い、だが渋皮しぶかわのように褐色に日に焼けた肌に、薄い鼻梁びりょうと高い頬をした顔立ちは、表情がほとんど読めない。

 切れ込んだような黒い両眼が、ちらりとレイを見上げる。


 レイは懐から銅貨を掴むと、手の中で音を立てた。


「その煙草はいくらだ?」

「……一袋三十オン」

「では、一袋もらおう」


 レイは、百オン銅貨を男に見せた。男が手を伸ばす。と、レイは銅貨を引っ込め、


「道は?」

「金が先だ」


 レイは、青銅貨を男の手のひらに落とした。男は、素早く陰でそれを噛み、本物かどうか確かめた。


「で……どこへ行きたいんだって?」

「アデル・ケイトンだ。そこの剣術の道場に行きたいのだ」

「アド・カトンだ。なんだ、お仲間に用があるんじゃねぇんだな」


 男はやや目つきをゆるめ、


「まあ、いいや。アド・カトンはこの道を真っすぐ行って、橋の手前を右に入った向こうだ。剣術の道場は、俺は知らねぇし、聞いたこともねぇ」

「そうか」


 立ち去ろうとするレイの前に、男がもう一度手を差し出した。指をひらひらさせて、金を催促する。

 レイは苦笑して、


「おや、礼を言うのを忘れていたかな。ありがとう」


 朗らかに、男の手を握り締めた。眼を白黒させる男の膝の上に、もう一枚青銅貨を落とす。


「悪いな、もうこれ以上は出せんのだ」


 煙草の袋を掴んで、馬上で待つイリヤの元へ戻った。


「危ないことを……」

「だが、おかげで分かったよ。この先だ」


 レイは馬に跨がり、拍車を駆ると一路アド・カトンへ向かった。


 アド・カトンは、ラサの中心部と郊外のちょうど中間地点に位置し、少し開けた土地柄のためか、神殿や商家の別荘も多い。帝都から来たばかりのレイとイリヤは、無論そんなことは知るよしもなかった。

 道場を探しながら馬をゆっくりと進め、アド・カトンの外れまで来てしまった二人は、一層深まった周囲の森を眺め、歩を止めた。


「レイ様、ここは……」

「うむ」


 レイは頷き、頭巾の下から、森の向こうにそびえ立つ頑強な石の城壁を見上げた。まるでそこだけが異国であるように立ちはだかる堅固な建物は、帝都の総督府・聖魚城イクトゥスであった。

 レイは、先程の煙草売りが言っていたことを思い出した。


――お仲間、とはこのことか……。


「行こう」


 レイは、馬首を回した。


 ラサの春は早い。

 空気はまだ渇き、冷たさを保っているが、郊外にくると山裾やますそがわずかにえ、茶色く枯れた草の下からは新しい生命の息吹いぶきが聞こえてくるようだ。


 小さな料理屋に立ち寄ったレイとイリヤは、目指す剣士の道場が十余年前に閉鎖されたことを知り、隠居先である隣のネダ村へと向かった。

 二人は馬を飛ばして急いだが、休憩を挟み、また慣れない道もあって、ネダ村に到着したのは夕刻にさしかかる頃であった。


――まずいな……。


 早くタオ=フェイ老人を捜し出すか、宿を見付けないと、ここで野宿をするのは危険だ。

 同じく、ある特有の感覚を抱いたイリヤが、気遣わしげな視線をレイに送る。

 レイは無言で頷いて、辺りを見回した。

 道を尋ねる人間を探すが、遠く連なる山並みまで続く田畑と、それを貫いて蛇行するシールイ川はあくまでも静かで、人の気配を感じさせなかった。

 かすかに声がした。


「歌……?」


 銀鈴ぎんれいのごとく澄んだ旋律が、とぎれとぎれに風に乗って耳に届く。二人は、慎重に馬を進め、歌声の聞こえる方へ向かった。


 右の眼下に伸びるシールイ川の土手に、ひとりの娘がいた。農家の娘らしく、ふりわけた黒髪の上から手拭を被り、広げた前掛けエプロンに日向に生えた春一番の恵みを収穫している。

 傾いていく太陽と競争するように、少女の手は深く積み重なった枯草を探り、緑の芽を摘んでゆく。だが、その口から、歌と笑顔が途絶えることはなかった。

 小数民族の血をひいているのか、歌詞はまったく意味不明だが、独特の節回しと何よりも魂の琴線を震わす美しい声が、二人の耳を陶然とさせる。


――では、あの少女に聞くか……。


 レイがそう思った瞬間、何かが、来た。


――やはり……!


 レイは馬から飛び降り、走りながら少女に向かって叫んだ。


「逃げろ!!」


 少女が顔を上げる。と、その目の前に巨大な影が出現した。

 こわい毛で覆われた躰、強靱な四肢、獣の瞳。そして、眉間からのびる一本の角――。

 妖魔だ。

 少女が、けたたましい悲鳴をあげた。


「きゃああああぁっ!!」


 レイは、輝破矢かぐはやを抜刀しようとしたが、下げ緒が絡まって上手く抜けない。ち、と舌打ちをして、先程買った煙草の袋を妖魔の顔に思いきりぶちまけた。


《――ギャァッ?!》


 煙草が眼に沁みたのか、妖魔が頭を抱える。その隙に、レイは少女を腕に抱えて退却した。

 土手の中腹まで二人が辿り着いたところで、妖魔が向き直る。だが、レイは逃げようとせず、そのまま少女を胸に抱き締めた。

 封印から目覚めた直後の攻撃に、妖魔が怒りを倍加ばいかさせて襲いかかろうとした、その時。


《ギャアアアアッ!》


 さらなる叫びをあげ、妖魔が火花を散らして倒れた。

 少女を抱きかかえるレイの手が、封印の形に結ばれている。ほとんど動かぬ唇から、低く早く呪言が流れ出た。それに平行して、青い火花に包まれた妖魔の躰が、次第に小さく、薄くなっていく。

 そしてすぐに点となって、わずかな煌めきと共に、かき消えた。


「お怪我はありませんか?」


 つつみの上から、レイの馬を引いたイリヤが呼びかける。


「ありがとう、イリヤ。大丈夫だ」


 答え、レイは、腕の中の少女と共に堤に上がった。

 顔を伏せてレイにしがみついている少女は、年の頃は十二、三。線が細く小柄で、漆黒と言ってよいつややかな髪のせいか、色白の顔がなおさら蒼褪めて見えた。


「大丈夫か? 恐かっただろう。だが、もう平気だ」

「……」

「ここは、危険な土地柄のようだ。特に今のような逢魔おうまが時には――あんな生き物も出てくる。一人で来たのか?」


 少女が、黙って頷く。


「では、送ろう。帰りにまた何かあっては大変だ。家は近いのか?」

「――あっちよ」


 少女は、川の上流を指差した。レイは乱れた外套を直し、少女を自分の馬に乗せた。イリヤが、妖魔の出現でこぼれた少女の荷物を持って、その後に従う。


「名前は何というのだ?」

「……リィナ・ハーベイ」

「わたしはレイ・セジェウィク。彼女はイリヤだ」

「旅の、人……?」


 恐怖が和らいできたのか、少女が尋ねた。


「そうだ。人を捜している」

「どんな人?」

「剣士だ。父が昔世話になった人なのだが、もう亡くなっているかもしれない。大分だいぶ御年だからな」

「あたし……おじいさまに聞いてみましょうか?」


 思いがけぬ事を少女が言い出した。


「分かるのか?」

「ええ。おじいさま顔が広いし、このあたりに住んでいる人なら大体分かると思うわ」

「タオ=フェイ・シンという方なのだが……」

「……ごめんなさい。あたしは聞いたことがないわ。でも、剣士なんでしょう?」

「ああ」

「だったら、きっと大丈夫よ。兄さんもいるし」


 リィナはようやく笑顔になって、


「兄は剣士じゃないけど、そっちの方面に知り合いが多いの。もしも知らなくても、知っていそうな人くらい紹介してあげられると思うわ」


 大きな瞳でレイを見上げた。レイは、思いもよらぬ救世主の出現に、一筋の光明を見出だした気がする。


「ありがとう。とても助かる」

「いいえ。あたしこそ、助けてもらったんだもの」


 屈託なく言い、リィナは首を回して、背後のレイを振り向いた。


「言い付けを破って春菜摘はるなつみなんかしたから、あんな恐い目にあっちゃったけど……。でも、レイに会えたからよかったのかな」

りないな、君は」

「だって……会えて嬉しいんだもの」


 リィナは頬を染め、甘えるようにレイの胸に頭を預ける。夕暮れの中で、その顔は愛らしく眼に映った。


「この先は?」

「右に見える小さな橋を渡って、少し行ったところがあたしの家よ」


 リィナの示すとおり、あしに大分姿を隠した小川に小さな木橋がひとつ架かっている。それを渡ると、農家を改造したような瓦屋根の家が一軒立っていた。

 遠くには、すでに押し迫ってきた闇夜を背景に九龍連山くりゅうれんざんそびえ、それに続く森と岩山が辺りを取り囲んでいた。


――随分と寂しいところだな……。


 レイは、さらに濃度を増した霊気に、少なからず警戒を強める。

 突然。

 強い妖気が屋内からこちらへ向かってきた。イリヤが外套を開け、剣に手を掛けた。


――だが、この気は……。


 思い、レイが輝破矢を抜くのを躊躇ちゅうちょした隙に、少女は馬を降り、家へ走っていった。


「リィナ――」


 危ない、と言いかけた瞬間、家の中からそれが現われる。


「あ―――っ。リィナ、やっと帰ってきたあっ」

「ごめんなさい。遅くなっちゃった」


 笑顔で少女が言う相手は、どう見ても十歳足らずの少年である。ただ、その髪は透明なほど蒼く澄み、くっきりとした両眼は虹色の虹彩と青い瞳を持つ、希有な容姿であった。

 レイの頬に、微笑が宿った。

 腕組みをした少年が、上目遣いで少女を睨む。


「まぁた土手に行っていたでしょう? ちゃんと匂いがするよ。それに――」


 くんくん、と鼻をうごめかして、少年は眉を顰めた。


「リィナ……妖魔に会ったね?!」

「ごめんなさい。その……そう」


 否定を許さない問いに、少女がうなだれる。


「だけどね、九曜。あの人たちに助けて頂いたのよ」


 そこでようやく少年も、門前の二騎に気が付いた。


「……え。まさか……」


 その時、家の中からもう一人の人物が、騒々しい音をたてて現われた。


「リィナ!」


 その人物は水浴びでもしていたのか、上半身裸で、乾ききらぬ髪から水を滴らせている。


「おまえ、あれほど土手には行くなと――」


 張りのある声で少女に呼びかけ、彼はやめた。

 遅蒔きながら見慣れない旅人の姿に気付き、申し訳程度に濡れた髪を手拭タオルで拭く。だが癖の強いその髪は、短く揃えられているものの奔放に飛びはね、収まりのつく様子はない。

 カルディアロス人には珍しい長身で、日に灼けた剥出しの上半身は、明らかに二年前と比べて厚みが増し、絞りこまれていた。

 右腕には、一条の傷跡。彫りの深い顔立ちはどこの国ともつかぬもので、鋭い光を放つ紫の双眸は、明けの空のごとく澄んでいる。


 レイは眼を閉じ、現実かどうか確かめるように、もう一度まぶたを開けた。

 馬を下り、外套の頭巾フードを取る。


「――」


 その人物の眼が、驚きに見開かれた。

 緊迫した空気を険悪ととったのか、リィナが慌てて間に入る。


「兄さん、言い付けを破ったりしてごめんなさい。この人たちが危ないところを助けてくださったの。ぜひうちでおもてなしを――」

「あ……ああ」

「二人とも人を探して旅してるんですって。こちらがレイ。こちらがイリヤよ」


 リィナが笑顔で紹介をする。その横で、また別の笑いをこらえた少年が、何か言いたそうに彼らを交互に見つめている。

 その人物は、ようやく微笑んだ。


「ああ。知っているよ」


   *


「こんなところにいるとはな、ディーン」

「それはこっちの台詞だ」


 自分を助けてくれた相手に投げやりに応じる兄に、少女が戸惑い顔になる。

 一人九曜は、満面の笑顔を振りまいた。


「とりあえず、あがってもらったら?」

「ああ……そうだな」


 一同は玄関に入った。レイたちを普通の旅行者と信じるリィナが、丁寧に教える。


「家の中で靴は履きませんから、ここで脱いで上がってくださいね。脱いだ靴は、そのまま置いておいてください」

「そんなことそいつらに言う必要はねーよ」


 いまだ半裸のまま乱暴に言う兄を、リィナはきっと睨んだ。


「兄さん、あたしを助けてくれた方に失礼でしょう?」

「あんなところに行ったおまえが悪い」

「兄さん!」


 妹の非難をかわすように、するりとディーンは家の奥に消えた。

 リィナは申し分けなさそうに、


「すいません、失礼な兄で」

「いや」


 レイの笑顔に、少女が顔を赤らめる。


「あ、あの、わたし、馬を繋いできますから――」


 ぴょこんと頭を下げると、人外の色を纏った少年の手を掴んで、ひきずるようにして出ていった。

 初めて触れる異国の風習に、レイとイリヤが戸惑いながらブーツ長靴を脱いで板間に上がると、衝立ついたてに似た紙製の扉が音もなく横へ滑り、上着を着たディーンが現われた。

 洋袴(ズボンの上から短丈みじかたけの木綿の着物を着、帯を巻く彼は、なるほどさすがにぴたりと着こなしている。


「いつこっちに?」

「今日の昼だ」

「それはお忙しいことで」


 皮肉な言い様に、わずかにイリヤのおもてに警戒がよぎった。ディーンは構わず、


「人を探してるんだって?」

「ああ。難しいようだったら、おまえに聞こうと思っていたんだ。ちょうどよかった」


 レイは微笑み、外套を脱いだ。ごく自然な動作で、イリヤがそれを受け取る。


「タオ=フェイ・シンという剣士だ。かたくなに世に出るのをこば拒み、素顔を知る者はほとんどいないと言われるが、かつては〝剣聖〟とも称された永世天位えいせいてんいの持ち主だ」

「タオ=フェイ・シンねぇ……聞いたことあるような気もするけど、思い出せないな」

「以前父の師匠だった方なのだ」


 ディーンは、二年前リューンで会った堅物な男を思い出し、顔をしかめた。


「じゃあ、居場所くらい分かるんじゃないのか?」

「真っ先に行ったよ。道場は十三年前に閉められ、彼は隠居して消息不明。この辺りに住んでいるらしいときいたはいいが……それ以上の手がかりはなしだ」

「年はいくつだ?」

「生きておられれば八十三歳だ」

「うーん。じじいに聞いてみるか……」


 レイは、リィナが〝おじいさま〟と呼んでいた人物が、以前聞いたディーンの剣を教えた老人だと思い至った。

 ディーンが、レイたちの馬を厩舎きゅうしゃに入れて戻ってきた妹を呼ぶ。


「リィナ!」

「なぁに?」

()()()、いるか?」


 リィナは、玄関から庭先を覗き込んで、


「さっき床の間で見たけど……どうかしたの?」

「いや。じじいならじじいを知ってるかと思ってさ」


 それを聞くや、大きな眼をきらきらさせて、少女が板間にあがってきた。


「じゃあ、レイとイリヤのお手伝いをしてくれるのね?」

「ま、ここまできたら、手伝わないわけにはいかないだろう」

「やった」


 少女が手を叩いて飛び上がる。はしゃぐ妹をたしなめ、ディーンが、


「おまえ、タオ=フェイ・シンって聞いたことないか?」

「知らないのよ。兄さんは?」

「それが、どこかで聞いた気がするんだけどな」

「サリは知らないかしら?」

「現役の剣士やつならともかく、引退した奴は守備外だろう」

「あたし、おじいさまに聞いてくる」


 レイが止める間もなく、リィナは黒髪をなびかせて去った。

 ディーンは再会したばかりの友を放って、考え込んでいる。


「タオ=フェイ・シンねぇ……あ――まさか」


 そこへ、少女が戻ってきた。弾んだ声で、


「兄さん、おじいさまが部屋へお客さまを連れて来なさいって」

「まあ、そうだろうな」


 冷静な兄の返答に、一同が驚く。


「兄さん、何か心当たりがあったの?」

「まあな」

「どういうこと?」

「ヒントは――永世天位の剣士なんて、ざらにはいないってことさ」

「そんなの知らないわよ」


 ふくれっつらになる妹の額をやさしく小突き、


「じじいの名前を忘れたのかよ」


 ディーンはレイたちを家の中へ誘った。


   *


 その家はレイたちの住んでいた家屋とは違い、木材を主として作られており、屋根は、雪は降っても暖かいラサ特有の気候に合わせ、薄い瓦がいてあった。家の外周を廊下がぐるりと囲み、L字状になった家の窪地には、シールイ川の支流を引いた池が設けられている。


 冬の庭に映えるシンラの緑を左に見つつ、一同はなかほどの部屋に入った。

 その老人は、小さな行灯あんどんをひとつ灯しただけの小間で、ちょこんと座布団に座っていた。

 年を取ると一回り小さく見えるものだが、生来小柄なのだろう。

 長い白髯はくぜんが膝に届きそうなほど背を丸め、ゆっくりと細首ほそくび煙管キセルを吸っている。柴色しばいろの着流しに藍鼠あいねずの羽織を身につけた彼は、静かな余生を送る、ただの年寄りに見えた。

 白い眉の下の眼が、入ってきた客をちらり、と見上げた。


「懐かしい名を呼ぶのは、おぬしたちかな?」

「……はい」


 老人が、身振りで彼らを招く。レイとイリヤは畳敷たたみじきの部屋に上がり、彼の前の座布団に不器用に座った。ディーンは部屋の片隅で胡坐をかいて、傍観を決め込む。


「貴方が、タオ=フェイ・シン老ですか?」

「そうとも言えるし、そうでないとも言える。わしはその名を捨てたのでな」


 レイの問いに、無斎むさいを名乗る老人は、もぐもぐと答えた。煙管を煙草盆に置き、


「名も剣も捨てて十余年。世を離れた老人に、今さら何の御用がおありかな?」

「まずはこれをお読みください」


 懐から封筒を取り出し、レイが差し出す。

 無斎は、指先で読むがごとく、表に書かれた宛名を撫でた。


「懐かしい名を訪ね、懐かしい人がやってきたか……」


 手紙を開かぬまま、養い子の青年に声をかける。


「ディーン。客人と儂に、茶をくれぬか」


 心得たディーンが、何も問わずに部屋を出る。

 無斎は手紙を開くと、ゆっくりと読み下した。文章はそう長いものではなさそうだったが、手紙を広げたまましばらく沈思ちんしし、煙管を取り上げて、長々と吸う。


「……きみは、よほどに切羽詰せっぱつまっていると思われる」

「はい。父も兄も現在身動きができず、帝都は伯父の思うがままに操られております。ここは如何いかにしても御助力をたまわりたく――」


 膝を進めてレイが言いかけた時、廊下で足音が聞こえた。茶を入れたディーンが、わざと気配を消さずに戻ってきたのだ。


「入れ」

「失礼します」


 室内の空気を察したのか、茶を出してすぐに下がろうとする彼を無斎が止めた。


「まあ、座れ」


 腰を降ろした彼の前に、無斎がレイから受け取った手紙を差し出す。

 怪訝けげんな顔で受け取り、一読したディーンは、さらに困惑した表情になった。


「これは……?」

「師弟なれば親子も同然。助けねばなるまいよ。……じゃが、儂はすでに隠居の身。今さらこの老体に鞭打ったところで、役には立たぬ」


 煙管を灰吹きに叩いて、無斎は気軽に告げた。


「ディーン。おまえがやりなさい」


 思いもよらぬ発言に、三人は驚きの声を上げる。


「フェイ老!」

「何言い出すんだよ、じじい!」

「どういうことです。今、我々への助力を承諾してくださったのでは――?」


 惑乱する彼らに、老人はあくまでも淡々とした態度を崩さない。


「よいかな。この手紙には、おぬしたちの身柄を儂に託すとある。儂はそれを引き受けた上で申し上げておるのじゃ」


 そう言って、レイとイリヤの前に手紙を広げた。

 太い力強い文字が、簡潔に用件だけを告げていた。


〝親愛なる我が師。

 忘れがたき遠き日の思い出を頼り、この者をお預け致したくお願い申し上げます。

 何卒なにとぞ御導きの程、よろしく存じ上げます〟


 レイは愕然とした。

 外界ランドで救出の手筈てはずを整えるために派遣されたと信じていたが、これではまるで厄介払いではないか。

 父の思惑を計り切れず、レイは暗澹あんたんとした気分になる。


「いずれにしろ、すべては明日からじゃ。二人とも、今宵はこの家にて休みなさい。リィナが、おぬしらのために料理の腕を奮うとはりきっておったからのう」


 穏やかに、無斎が言った。



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