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カナン・サガ3~帝都内乱~  作者: 藤田 暁己
第3章 帝都Ⅲ――叛乱
10/31

3-3



 従者の話によると、皇帝はルークシェスト皇子との口論の後、はなはだしく機嫌を損ねた様子で、宰相はなだめるのに随分手間取ったようだ。

 そののち宰相は、職務のため天枢城に戻り、皇帝は就眠した。それが、深夜の鐘の半刻――つまり一時間ホラほど前。それから三十ミヌテほどして、正神殿火災の連絡をもって宰相が再び戻った際、寝室から異様な呻き声を聞いた。

 驚いた彼が合鍵で寝室へ入ると、皇帝は口から大量の血を吐いて、寝台ベッドに倒れていたという。その傍らには、先刻ネストリウス医師が置いていった薬の入った硝子杯グラスが転がっていた。


「我々は即刻ネストリウス医師を御呼びし、診察をして頂きました。先生のおっしゃるには、陛下は一命を取り留められましたが、予断よだんを許さぬ状況にあるということです」

「原因については何か?」

「ネストリウス医師は、陛下がお飲みになられた薬は処方したものとは別物であるとおっしゃられました」

「何?」

「何者かによってすり替えられた毒薬だと……」


 二人の顔が引き締まった。


「こうしてはいられませぬ。レイファシェール殿下、一刻も早く黄金宮へ参りましょう」

「うむ」


 二人は従者を伴い、衛士が連れてきた馬に乗って、黄金宮へ馳せ参じた。

 そこは、すでに近衛によって緊急配備が敷かれていた。二人の姿を認め、近衛隊を指揮するファビウス将軍がやってくる。


「祭主様、殿下。大変な事態になりました」

「うむ。状況は?」


 皇帝の元へ向かいながら、祭主はきびきびと将軍に質問を発する。

 泰然としたその態度に、案内した従者が安堵の色をみせた。やはり、彼に対する信頼は大きいようだ。


「すでに黄金宮への人の出入りを封鎖し、全員にて宮内の探索をはじめております」

「何か犯人を示す手がかりはあったのか?」

「は、それが……」


 剛毅ごうきなファビウス将軍が、口篭くちごもった。


「どうした? 陛下の御命が危ぶまれるこのとき、どのようなこまかな手がかりでも構わぬ。申してみよ」

「細か、とは申されませぬが……陛下の寝台の陰より、これを発見いたしました」


 ファビウス将軍は懐から白い絹に包んだものを取り出し、祭主の前で広げて見せた。

 神の鳥・不死鳥フェイニクスかたどった、幅広の黄金の腕輪である。鳥の目は紅玉ルビーで、鉤爪には金剛石ダイヤモンドで縁取られた巨大な青玉サファイアを掴んでいる。

 その意匠は、豪華であるだけでなく、ある特殊な立場の者にしか許されぬものであった。


「むう……」


 アレス・リキタスは低い唸りを発して、腕輪を取り上げた。


「これは、陛下がルークシェスト皇子の成人の祝いとして贈られた、帝位継承者のあかし。なぜ、このようなものが、そのようなところに?」

「実は、一時間ホラほど前に陛下は殿下とその、口論をなされたそうでして……その際に落とされたものと考えたのですが……」

「なんだ?」

「口論の際、落ちて割れた……と。これは故意か事故かは分かりませんが、花瓶を片付けた侍従の話では、その時には何も見当らなかったと申すのです」

「確かか?」

「はい。侍従は、長年陛下のお側近くに仕えてきた謹直な男ですし、その彼が飛び散った破片があってはいかぬからと、陛下には失礼ながら部屋の隅々まで掃除をし直したと申しているのです」

「ふむ……」

「こうなれば、私どもといたしましては……この腕輪は、犯人の遺留品と考えるよりは他にございません」


 将軍は、沈痛に締めくくった。明朗快活なルークシェストは、老若を問わず軍兵士に人気が高い。彼こそは次の主人と心決める将軍にとって、それは何よりも辛い決断だった。

 祭主は白絹ごと皇子の腕輪を懐中へ収め、


「殿下への連絡は?」

「すでにリアン大佐を碧水宮へ向かわせております」

「ファビウス将軍」

「はっ」

「――慎重にな」


 将軍は、祭主の冷静な青い眼に見つめられ、反射的に眼を伏せた。


――恐ろしい御方だ……。


 天性の王と言うべきか、その侵しがたい威厳と風格は、やはりセイデンの及ぶところではない。

 事件について話し合う二人に従いつつ、レイは、案内をした従者に問いかけた。


「陛下は、今宵はこちらにてお休みであられたのだな」

「はい。十日ぶりのことでございます」

「そのことは、皆も……?」

「は、私どもは無論。何しろ、天枢城であのような事件がございましたゆえ……。陛下も浅手あさでを負われましたので、黄金宮にてゆるりとお休みになりたいと、かように申されまして」

「そうか」


 レイは、祭主と将軍の後について黄金宮の離れへと向かった。皇帝は、ネストリウス医師の診断のもと、本殿の寝室を離れ、絶対安静のためこちらへ移ったらしい。

 離れは、近衛兵によって厳重に守られ、中には医服を纏った人々が群れひしめいていた。その中から、青い上着を羽織った初老の男がこちらへやって来た。


「祭主猊下、レイファシェール殿下」

「ネストリウス医師。して、陛下の御様子はいかがです?」

「現在は、処方の眠り薬にてお休み頂いております」


 小柄な医師は、分厚い眼鏡の縁から祭主を見上げた。音をたてぬよう寝室の扉を開け、寝台の天蓋の重いとばりをそっと持ち上げる。

 レイは、はっと息を飲んだ。

 室内の燭台にわずかに照らし出される皇帝は、蒼褪め、まるで死人のような顔色だった。

 アレス・リキタスも同じ思いだったらしく、帳を戻す医師に、固い声で尋ねる。


「御悪いのか?」


 その問いに、ネストリウス医師は、二人を隣室へ連れ出して答えた。


「一言で申し上げますと、陛下が生きておられるということの方が不思議なくらいです」


 率直な医師の物言いに、さしもの祭主も眉を顰めた。


「剣士でもあらせられる陛下の肉体だからこそ、毒に耐え得られたのでしょう」

「毒の正体は?」

「正確を期すためにはまだ二、三の検査を行なわねばなりませんが、陛下の症状、残された毒薬の粉末などから、毒の種類はほぼ判明してございます」

「して、それはどのような?」

「言うてもはじまりませぬ」


 長い八の字髭の先を撫でつつ答える医師を、祭主がちらりと睨んだ。


「毒薬の正体が判明いたしておるならば、犯人の特定にもつながりましょう。先生御一人の胸に収めるなどとは、いささか慎重にすぎませぬかな?」  

「毒など、誰にでも入手は可能でござる。そこの庭にも生えてございますよ。鈴蘭、ジキタリス、夾竹桃きょうちくとう……気づかずとも、毒は我々の周りにあるものです。薬などは、皆そうですぞ」

「では、先生のいらっしゃる医宮は、毒の宝庫ということになりますぞ」

「そのとおり。犯人は、私かもしれませぬな」


 分厚い透鏡レンズから覗く医師の眼が、瞬きもせず祭主を仰ぐ。


「……ご冗談を。先生を疑うなどと、とんでもない」

「冗談ではありません。陛下の、ひいては統一世界人カナナイト全民の命が懸かっているのです。迂闊うかつには物事を申せませぬし、人を信用することもできませぬぞ」

「これは……御厳しい。しかし先生、陛下は助かるのでございましょうな?」


 その問いに、老医師は偽りの笑みひとつみせなかった。


「分かりませぬ」


 レイの背に、じっとりと汗が浮かんだ。

 医師が告げた残酷な事実への衝撃ではない。告げられた瞬間に、祭主の口元に浮かんだかすかな笑みを、レイの眼は捉えてしまったのだ。

 ふいに振り向いた祭主と視線が合う。

 父と同じ青の瞳が、すっと細まった。

 冷酷な光。

 レイは知らず、一歩後ろへ後退あとずさった。


「――殿下?」


 何も気付かないネストリウス医師が、不審そうに声をかける。

 そこへ、入り口で別れたファビウス将軍が、白い法衣を纏った皇后を伴って現われた。


「清妙院様」

「ネストリウス、陛下の御容体はどうなのです?」


 女神官を従えたカリスタは、化粧した顔に火影が陰影をあたえ、十は老けて見える。


「御無事です。ですが、あまり楽観視できぬようです」


 医師の代わりに答え、アレス・リキタスはつい、とカリスタの側へ寄り添った。耳元に、


「それよりも、哀しい御報せがございます。我々は、どうやらルークシェスト皇子殿下を逮捕せねばならないようです」

「何と申す!」

「陛下の寝室に、これが落ちておりました」


 祭主は、皇后の前で白絹の包みを開いて見せた。

 黒く隈取くまどったカリスタの瞳が見開かれる。震える指先で息子の腕輪に触れた。


「おお……何ということ……」

「我々は、殿下の無実を信じております。ですが、真犯人を逮捕するためにも、ここは形だけでも私に全権を委託して頂きますまいか」

「アレス・リキタスどの……」


 カリスタは、全幅ぜんぷくの信頼を込めた眼差しで、背の高い義兄を見つめた。

 正式に帝位継承権剥脱の通達が行なわれていない今ならば、ルークシェストが皇帝代理となるはずだが、その彼に皇帝殺害未遂の容疑がかかるとなれば、皇后である清妙院カリスタが皇帝に代わって政務を行なわなければならない。

 しかし、カリスタは神妃ディーヴァとして聖職に就く身。世俗と関わりを持つのは、あまり良しとされることではなかった。


「分かりました。アレス・リキタス・クリスタル。そなたを皇帝代理と認めます」

「ありがとう存じます、皇后陛下。陛下に代わり、全力をあげて真の反逆者を捜し出し、必ずや殿下の無実を晴らしましょう」


 重々しく誓い、祭主はカリスタの手の甲に口付ける。

 ファビウス将軍が意義を唱えた。


「ルークシェスト様には容疑がかかっているというだけで、まだ犯人と決まったわけではございません。ここはルークシェスト様に皇帝代理を任された方がよろしいのでは――」

「皇帝殺害の嫌疑をかけられた者を、誰が代理と認めるのじゃ! わらわは世俗を捨て、神の道へ入った身ゆえ、政務者として代理を務めることができぬ。それゆえ、祭主どのにお願いしておるのではないか!」

「しかし、聖母の御意見も拝聴せぬうちに――」

「黙りゃ! 己れは皇后の命に逆らうか!」


 声高に怒鳴り、カリスタは錫杖しゃくじょうで将軍の顔面をぴしゃりと打ちつけた。

 錫杖の彫刻が額を傷つけ、血がにじむ。屈辱を耐え、将軍は右手を胸に当てて謝罪した。


「……御無礼を申しました。どうかお許しを」

「もうよいでありましょう。お二方とも、今は心を乱している時ではありませぬ」


 穏やかに仲裁に入ったアレス・リキタスは、そこでようやく銀髪の皇子の姿が消えていることに気が付いた。


「殿下はどちらへ?」

「さあ。気が付きませぬでしたが?」


 どうでもよいとでも言いたげに、カリスタが答える。

 祭主は、自分を冷静に観察していた皇子の表情を思い出した。


――気が付いたか……。まあ、よいわ。


「どのみち、同じことよ」


 うっすらと独りごちる。


「アレス・リキタス殿?」


 何でもないというように首を振り、祭主にして皇帝代理アレス・リキタスは、ファビウス将軍へ命令を下した。


「――戒厳令を布け。何人なんびとたりとも、このアイテールから外には出してはならぬ!!」


   *


 深い木立に囲まれた碧水宮で、ルークシェストは今しも眠りに就こうとしていた。

 彼にしては早い時間だが、危急の時でもあり、これからの困難に備えて充分な休息を取っておく必要があった。だが、頭は冴え、気持ちは一向に休まらない。

 髪をとく小姓のガルヴィーヴに退室を命じる。


「下がってくれ。ありがとう」

「では、失礼いたします。ごゆっくりお休みなさいませ」


 ルークシェストは夜着のまま、窓辺に立った。腕を組み、青い眼を伏せる。


――私も未熟だな。このような時に気持ちが焦るとは……。


 苦笑する。その彼の耳に、突然、声にならぬ悲鳴が響きわたった。


『――ルークシェスト……!!』


 それは、彼の半身である女性からの、助けを請う悲痛な叫びだった。

 皇子の知覚の中で、帝都を護っていた黄金の光が急速に収縮してゆく。そして、ひとつの暗い点となって、光は完全に消え失せた。


「ぬぅ……っ」


 かつてない異常事態に、蒼白となったルークシェストが小姓を呼ぼうとしたその時。


「ルークシェスト様っ」


 ガルヴィーヴが飛び込むようにやってきた。


「リアン大佐が御出でに……。至急、殿下にお会いしたいと」


 告げる声は小さく、震えている。ルークシェストの双眸が細まる。


「その……陛下が毒を盛られたと……」

「なに……」

「御命は御無事ですが、ただ……」

「ただ?」

「大佐は一個小隊を率いてきている模様です」


 その一言で、ルークシェストは状況を理解した。つまり、自分がどんなに不利な立場に置かれているということを。


「ガルヴィーヴ――支度を」


 祭主と皇后の元から去ったレイファシェールは、中庭を駆け抜け、碧水宮の兄の元へ危急を告げに向かった。

 その最中、レイは一瞬周囲が真暗の闇に包まれるのを感じた。周囲を満たしていた、目に見えぬ巨大な光が消えたのだ。


――聖母……? まさか……!


 だが、ここで立ち止まるわけにはいかない。

 其処此処そこここで、慌ただしく六芒聖軍ヘクサッドの号令が飛び交っている。

 黄金宮と碧水宮は、内宮でもほぼ正反対に位置していた。情報に通じているとはいえ、ルークシェストが黄金宮の異変を知っているとは考えられない。

 下手をすれば、逮捕と共にその事実を知らされるかもしれないのだ。

 レイは、宮殿を囲む裏の林から近付き、そこで立ち止まった。

 馬を駆った皇帝の近衛兵が、碧水宮に到着したのである。


――しまった……遅かったか。


 腑甲斐ふがいなさに歯噛みするレイの目の前で、近衛は強引に宮殿内へ押し入った。

 怒号、悲鳴、そして恐ろしいまでの沈黙。

 ややあって、外套マントを纏ったルークシェストの長身が宮殿から現われた。暗闇で表情は窺えないが、両脇を近衛に固められている今、それはむしろ彼女にとって救いだった。


――兄上……!


 宮殿内から、侍従たちの泣き叫ぶ声が聞こえる。

 兄のきららかな黄金の髪が、暗闇に消えていく。喉の奥から突き上げてくるものをぐっと堪え、レイはその後を追った。

 皇子を連行した近衛が着いた先は、天枢城だった。政治の表御殿であるこの城には、反逆者を投獄しておくための地下牢がある。


――祭主め、兄上をもう反逆者扱いする気か……!


 レイは、総毛立つほどの怒りを覚えた。その時、各宮殿の警鐘が一斉に鳴りはじめる。

 高らかに長く響きわたるその鐘の音に、レイは心臓を鷲掴みにされた気がした。


「緊急度6。戒厳令か!」


 戒厳令は、帝都内の反乱を想定したもので、発令から三十ミヌテ後には、完全に帝都から出ることは不可能になる。例え、聖母の能力であったとしてもだ。

 城内に身を潜めるレイの側を、帝都兵士が数人通りかかった。


「まったく、一体どうなっているんだ、今夜は」

「ああ。ルークシェスト様まで逮捕されるとは……先が思いやられる」

「皇帝代理は祭主様だそうだな」

「ライムス宰相とやり合わねばよいが……」

「そういえば、姿が見えぬという話だが」

「陛下が御倒れになって、身の危険を感じたのだろうよ。切れ者とはいえ、余所者は所詮余所者だ」


 陰で息を押し殺し、彼らをやり過ごすレイは、苦い思いでその会話を聞いていた。


――何とか兄上をお助けしなければ……。


 かつて辛苦を共にした黒髪の少年の顔が、胸中をよぎる。彼が傍にいてくれたら、どんなに心強いだろう。

 だが彼は帝都ここにはいない。レイは唇を引き結び、ぐっと拳を握り締めた。


――……よし。


 アイテール全域への警戒に衛士たちが散る天枢城で、城内へ向かう人影に注意を払う者はいない。レイは、まるで侵入者のように隠れながら、素早く管理室へ入った。無人だ。

 レイは、はやる心を押さえつつ、机上の書類を漁る。


「違う……違う。これでもない」


 自然に口から洩れる呟きと共に、白い紙が床に散っていく。


「あった。これだ」


 レイは、一冊の冊子をとってめくると、一枚を破り取ろうとした。

 甲冑の音を立てて、何者かがこちらにやってくる。レイは慌てて冊子を背に隠した。


「レイ様!」

「……イリヤ」


 レイの口から、小さな息が漏れた。美しい祭主の姫は、純白の聖騎士の鎧を纏っている。


「陛下が……ルークシェスト様も大変なことになって……」

「分かっている。とりあえず、ここから出よう」


 レイは力任せに紙を引きちぎると、懐に収めた。


「それは何ですの?」

「はっきりとは分からない。ただ、確かめたいことがあるんだ」


 再び足音が聞こえ、レイは扉の傍に、ぴったりと身を寄せた。


「レイ様……」

っ。静かに」


 イルレイアは共に身を潜めながら、囁くように尋ねた。


「何故隠れる必要が?」

「皇帝代理は伯父上だ」

「それが……」

「私は、彼を疑っている。そして、彼はそのことを知っているのだ」


 姫の息を飲む音が聞こえた。


「急がねばならない。手遅れになる前に、シェスを助け出す方法を見付けなければ――」

「……」

「イリヤ。貴方の立場は分かっている。私を手伝ってくれなどとは言わない。ただ、ここで私に会ったことは、しばらくの間黙っていて欲しい」

「いえ……」


 イルレイアは、静かにレイの手を取った。


「私は、レイ様と運命を共にいたします」

「……イリヤ」

「ルークシェスト様の無実を私も信じております。お手伝いをさせて下さいませ」

「しかし……」

「私は祭主の娘であると同時に、陛下の忠実なる臣下。聖騎士として神に選ばれた以上、何をおいても統一世界カナンの正義と平和を護らねばなりません。養父ちちが本当に反逆の大罪を犯したというのならば、黙って見過ごすわけには参りませぬ」

「イリヤ……」


 レイは甲冑を纏う姫の手を握り返した。


「ありがとう」

「これから何処に?」

「とりあえず、シェスと話をしなければ……」


 管理室の外では、軍兵士たちが声高に話し合い、一向に去る気配がない。

 レイは姫に眼で合図すると、一呼吸おいて、一気に部屋を飛び出した。


「あ……レイファシェール殿下がっ!」

「お待ち下さい、殿下!」


 口々に叫び、兵士が二人を追う。レイの後ろに続いたイリヤは、燭台を倒し、回廊の扉を塞いでそれを防いだ。

 地下牢に続く階段への通路に差しかかり、レイは足を止めた。

 階段を塞ぐように、兵士を従えた黒い肌、禿頭の男が立ちはだかっている。


「レノア将軍――」

「レイファシェール殿下。皇帝の許可なく囚人と面会することは禁じられておりますこと、御存じでございましょう」

「毒に犯された陛下の苦痛こそが許可だ」

御戯おたわむれを……」

「戯れなどではない。貴様こそ、未だ公判も開かれぬのに第一皇子を犯罪者扱いするとは一体どういうつもりだ!」


 怒りに任せた皇子の非難に、将軍の顔色がわずかに蒼褪める。


「皇帝代理であるアレス・リキタス様の御指示です。殿下、貴方も反逆を治めるために我々に御協力をお願い申し上げます」

「陛下へのやいばを隠した男なぞ、私は皇帝代理とは認めぬ」

「お言葉がすぎますぞ!」


 レノア将軍は、己れの心を鎮めるように、固く拳を握り締めた。


「ルークシェスト様は、これで帝都に平穏が戻るならと、進んで縄を打たれ、牢へ向かわれたのですぞ! 皇家の環コローナもなく御身ひとつで――。その……そのお姿を、我々が喜んで見ていたと、そう御思いなのですか……っ!」

「……」

「お願いです、殿下。我々にもう一度、同じ思いをさせないで頂きたい。貴方まで失うわけにはいかないのです!」

「――だめだ、将軍」


 レイは、涙を浮かべた瞳で将軍を見た。兵士たちから、無念の呻きが洩れる。


「私は、祭主には従えない。彼の微笑みを見てしまったから……。陛下の容体を聞いた時の、あの笑みを眼にしたその時から、私と彼は決定的に道が別れてしまったのだ」

「……」

「それに、たとえ従ったところで、自分を反逆者と疑う私を祭主は許しておくだろうか?」

「レイファシェール様……」

「頼む。兄に会わせてくれ、将軍」


 強く結ばれた将軍の唇が震えた。押し殺した声音が絞り出される。


「――できません」

「そうか……」


 レイは、外套マントをばさりと背に払った。腰に帯刀した輝破矢かぐはやが、銀色に輝く。


「ならば、力付くで通してもらおう!」

「いけません、レイ様! 剣を抜いては――剣を抜けば、貴方も反逆者とみなされてしまいます!!」

「構わぬ!!」


 イリヤの制止を振り切り、レイが輝破矢を抜き払おうとしたその時。


「囚人が逃げたぞぉ……っ!!」


 地下から、牢を警護する兵士の叫び声が聞こえた。レノア将軍の顔色が変わる。


「ルークシェスト様かっ?!」

「兄上が?」

「早く、早く追っ手を……!!」


 なおも叫ぶ声に、レノア将軍は舌打ちをすると、兵を率いて地下牢へ引き返した。

 それに続こうとしたレイとイリヤは、


「――殿下、こちらです」


 廊下の柱の陰から囁きかける男の低声に、足を止めた。


「誰だ?」

「私です」


 姿を現わしたのは、ライムス宰相だった。


「ノア、これは……?」

「急ぎましょう。彼らが[谺エコー]を追っているうちに」

「……わかった」


 法術を用いて将軍らの注意を逸らしたのだ。ノアに先導され、二人は回廊を渡った。まるで迷路のように、侍従たちが使う細い通路を抜け、階段の踊り場へと出る。

 階段の上からも下からも、混乱に陥った人々の怒号が響く。


「ノア、この先は行き止まりだ」

「そうでもありませんよ」


 ノアは、踊り場の壁を片手で撫でる。すると、微光と共に石の壁がくぼみ、ぽっかりと穴が開いた。


「参りましょう」


 ノアに促され、レイとイリヤは、恐々こわごわと暗い穴に身を滑り込ませる。何もない空間に入った二人の足が踏みしめたものは、柔らかな草の大地だった。

 はっと、イルレイアが息を飲む。


「ここは……」


 正面には、篝火かがりびに白く浮かび上がる巨大な神殿がそびえ立っている。その後方には、光なくとも乳白色に輝く帝都の柱[象牙の塔]が、今や暗い朽木くちきとなってたたずんでいた。

 二人の顔から血の気がひいた。


「まさか、そんな……」

「何者かによって空間が歪められ、誰も塔の中に入ることができなくなっているのです」

「では、もしや……」

「案じてもはじまりません。我々は、我々のできることをのみ成すのです。さあ、急ぎましょう」


 倉庫の火災と天枢城での騒ぎに、神殿の衛士たちは出払っている。三人は裏手から金剛の宮に潜入し、中心である飛遠ひえんの間に向かった。


 大広間の倍はあろうかという室内は、祭壇を奥に押しやり、代わりに中央の石床に描かれた巨大な魔法陣が存在を主張している。円を基調とした幾何学模様に記号に文字。四方の壁も同じように埋め尽くされたそれは、世界のはじまりのまじないと呼ばれ、もはやその出来しゅつらいを識る者もいないとされた。

 現代では一部の古代文字を解読することで、〝飛遠ひえんの術〟として正神殿および五大神殿を空間で結ぶことに成功しているが、その発動には金位の法術師が五人は必要といわれる。


「ノア、一体ここで何をするつもりだ?」

「貴方をここから逃がすのです」

「馬鹿な……!」


 レイは、激しい怒りをこめて一蹴した。祭壇の石板の呪言を読んでいたノアが振り向く。


「私はここに残って、兄上を助け出す!」

「どうやってです?」


 いつになく厳しい声で、ノアが問い返した。


「それは……」

「いいですか。祭主は皇帝代理という最強の武器を手にしたのですよ。この帝都に、逃げ場はありません」

「分かっている。だが……」

「いいえ、貴方は何もお分りになっていない。投獄された人間を当てになどしてどうするというのです。ルークシェスト様を助け出して、それから? 反逆罪で二人共捕まって、それこそ祭主の思うがままでしょう。それよりも、逃げて応援を呼ぶのです」

「応援?」

「ここにその方の居所が書いてあります」


 宰相は懐から一通の書状を取り出すと、レイに手渡した。


「かつて陛下がお世話になった方です。この手紙をお見せすれば、必ずや力になって下さるでしょう」

「この手紙は……まさか、父上が……」


 答えずノアは、レイの頬を両手で包んだ。


「貴方には、いつも辛いことばかり降りかかっているように見えます。でも……それでも、決して負けないで下さい」


 皇子の体を抱き締め、祭主の姫君を振り向いた。


「イルレイア姫。貴方はどうなさいます?」

「私は――」


 傍らで様子を見守っていたイルレイアは、わずかにためらって口を開いた。


「参ります。レイ様と共に、私も――」


 ノアの顔に、何とも言えぬ微笑が広がる。


「分かりました。――では、お二人とも円の中心に立って下さい」


 ノアは石板に手をかざした。途端、幾つかの記号が青白い光を放って宙に浮かび、組み替えられて文字列を形作った。呼応するように、壁の記号も光を放ち、石の塊が上下左右へとずれて呪言を編み上げていく。

 鈍い衝突音ではなく、カォン、コォンと、むしろ澄んだ金属音にも似た音を立てて動いていた石壁が、ふいに動きを止める。いつしか広い室内の四方の壁は、光る文字に埋め尽くされていた。


「ノア、飛遠の呪の発動を知れば、各神殿へ連絡が入り、居所が分かってしまうのではないのか?」

「――二年前のリューンでの事件を覚えていますか?」

「ああ?」

「あの事件では、不特定の広域で人が消え、レオノイス島の一ヶ所に呼び寄せられました。その逆もまた、可能とは思いませんか?」

「まさか――」

「貴方がたを目的地の近くまで飛ばします」


 ノアは、今や中空に浮かぶ光る文字に向かって手を動かしつつ、不敵に笑った。


「もっとも私も初めてですから、保障はできませんけれどね」

「しかし――」

「動かないで! 呪法が発動を始めました!」


 ノアの言葉と同時に、壁の文字が発光を止め、レイたちの足元に描かれた呪文が黄金の光を放ちはじめた。

 両手で印を組み、宰相はすでに、法力を極限まで高める呪言の詠唱に没入している。

 次第に高まりゆく光の中で、レイは、空間がすごい力で押し寄せてくるのを感じた。


――体が……吹き飛ばされる……!


 妖魔を追って亜空間を移動した時とは似て非なるその衝撃に、レイがよろめいた。その腕を何者かが掴んで支える。


――イリヤ……。


 すでに音声などない。二人はしっかりとお互いを支え合いながら、眼を閉ざした。

 と、轟音と共に、施錠を叩き割った兵士たちが、飛遠の間に押し入ってきた。

 彼らの眼に、光の輪の中に立つ二人と呪言を唱えるノアの姿が飛び込む。


「馬鹿な……! たった一人で飛遠の呪法を行なおうというのか……っ?!」


 兵士たちが痛烈に嘲笑した、その刹那。

 黄金の光が空へと突き抜け、大音響と共に、皇子たちがその場から消えた。


「!!」

「そんな……馬鹿な……」


 呆然と宙を見つめる兵士たちの中で、真っ先に我に返ったのは、指揮を執るライリー少佐だった。印を解いて立つ男へ、


「――ライムス宰相。先程アレス・リキタス皇帝代理閣下によって戒厳令が発動したこと、御承知でありましょうな?」

「……」

「皇子の逃走に加担するとは、重大な反逆行為ですぞ!」


 彼の頭の片隅で、相手が優れた能力者ヴィサードであるとの噂や、今見た光景が警告を発していたが、怒りがそれを無視させた。


「ライムス宰相、貴方を逮捕する!」

「――お止めなさい」


 背を向けたまま、宰相は静かに告げた。


「なんだと……?」

「私は、レイファシェール殿下や皇太子殿下のように優しくはありません。向かってくれば……必ず、全員殺します」


 ()()()()が彼らを振り向いた。左のびんを残して束ねられた髪が、ぱらり、と解けて、そのまま空を漂う。

 緑玉の瞳が、人ならぬ光を宿した。


「な……」


 少佐は一瞬、身を退いた。だが、退いた己れへの屈辱が、取り返しようのない激昂へと彼を突き進ませた。


「宰相を捕らえろ!!」


 号令と共に、兵士が一斉に飛びかかる。

 瞬間。

 ノアの姿が、真っ白な光そのものと化した。

 音が、色が、形が、時が消失する。そして――。

 正神殿の一画が、煙を上げて崩れ落ちた。





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