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神聖皇帝は、世界を束ねると、それらすべてを
統治する場所を探し求め、ひとつの地を選んだ。
その地は、光のもっとも澄んだ光、アイテールと呼ばれた。
そして、残された土地は影の地、シェイドローンとなった。
――法典より抜粋――
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第1章 帝都――蠢動
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冴えわたる冬の夜空。星の凍える闇夜に、細い新月が切れるように浮かぶ。
かすかな月の光さえ憚るように厚く帳を降ろした寝室で、一組の男女が戯れていた。
香ではない薫りが、甘く深く、室内にたちこめている。
男が、感に堪えかねたように、長い吐息を洩らした。
「ああ……」
女の体をかき抱き、
「ああ……もう、貴方とこうして人目を忍んで逢うのは我慢ができぬ」
「私にお飽きになりまして?」
男の腕をのがれ、女が半身を起こす。
わずかに残った燭台の炎に照らされ、女の体は怖いほど白く、凝脂に輝いて見えた。
豊艶な肢体。それでいて男の手に余らぬのは、彼女が小柄で、何より武術に鍛えられた肉体の持ち主であるからだ。
だが女は、今はそんな影を一切潜め、一匹の謎めいた生き物のごとく彼の目の前に横たわっている。
切り揃えられた朱金の髪が肩を滑りおりる様を、男は感嘆の眼差しで見つめた。
「どうかなさいました?」
「……いや。貴方があまりに美しくて見惚れていたのだ」
「まあ……」
男は女を引き寄せ、背後から両腕で抱えた。うなじに濃い髭を押し当て、
「姫。このままずっと私と一緒にいてくれ」
「でも、貴方には大切な奥様が……」
「何度も申したであろう。あれは、家のために親同士が勝手に決めた相手。愛情などない。今の私には貴方しかおらぬ……おらぬのだ」
「カドフェル様……」
「貴方がためらうのも無理はない。だが――もうじきその苦悩も終わる」
はっとして、女が彼を仰いだ。
男はわずかに微笑むと、素裸のままに寝台を降り、部屋の左隅にある書棚へ向かった。二、三の本を動かして、壁裏の隠し金庫を開ける。そして、そこから一綴りの紙の束を取り出した。
「これが我々の武器――祭主の告発文だよ」
誇らしげに書類を掲げ、男は寝台の上の女に手渡した。
「これには、この半年余りの祭主の行動が綿密に記されている。どこで誰と会い、どんな話をしたか。彼の裏切りのすべてが明らかにしてあるのだよ」
「なんて……」
「さすがに水晶宮の奥殿には入れなかったが――。だが、これを御覧になれば、陛下も彼を処分なさらずを得まい。皇兄といえど反逆罪は重罪。奴は……失脚する」
最後の一言には、女の息を止める重い響きが宿っていた。
男は、女の足元に跪き、両の手にその手を取った。
「そうなれば姫、貴方もあの残虐な養父君から開放されるのだ」
「本当に……?」
「本当だとも。貴方は自由だ。これほど苦しんだ貴方が幸せを掴むのを誰が邪魔するものか。苦しみは、終わったのだ」
女は片手で口を覆い、潤んだ眼を隠すように面を伏せた。
男の頬に血の色が昇る。女の両手に口付け、ほとばしるように告げた。
「すべてが終わった暁には……姫。貴方に、正式に求婚を申し出るつもりだ」
「え……」
「貴方も苦しい立場だ。整理するには時間がかかるかもしれぬ。だが――何年でも待っていよう。すべてを捨てて私の元へ来て下さるという貴方の言葉を、私は信じている」
「本当に……?」
「私の真心のすべてを賭けて――愛しています、姫」
「カドフェル様――」
囁いて、女が男の胸に身を投げかける。
男は、顔面をみるみる幸福の色に染め、女を抱き締めた。
その耳に、聞き覚えのない硬質の声が響く。
「だけど――終わらないのよ」
刹那、男の全身を熱いものが貫いた。焼け火箸を突き立てられたような熱は、すぐに激痛となって彼を襲う。
「う……あ……?」
男は、茫然と腕の中の女を見た。
女はかすかに微笑んだまま、彼を見つめている。母のように。
男は震えながら視線を落とし、己れから止めどなく溢れ出る血と、ぽっかりと腹部に口を開けた巨大な空隙を認めた。
至上の歓喜から、絶望の奈落への転落。
叫ぼうにも、喉はかすかな音を立てるだけで声にならない。
むせ返るような甘い匂い。
救いを求めるようにのばした男の手が、女の肩先を滑った。ごぼり、と口から血が零れる。
男は、そのまま泳ぐように寝台にうつぶせ、息絶えた。
女は無言のまま、血の海に横たわる男を見下ろした。手にした書類で無造作に返り血を拭うと、燭台の炎にかざす。
わずかな音を立て、紙の束が燃え上がった。
一瞬、女の顔が、鮮やかな緋色に彩られる。
くっきりとした巴丹杏形の双眸、細い鼻梁、薄い紅唇。完璧な配置をみせる小作りの顔は、寒気がするほど美しかった。
曙色と讃えられた髪が、一層朱く妖しく闇に映える。
女は、火のついた書類を男の死骸の上に投げると、後も見ずに部屋を出ていった。
* * *
統一暦三五九七年。春を控え、年が終わろうとしている。
[大災厄]をすでに十二年前の過去に忘れ、世界は、以前と変わらぬ平穏な日々を取り戻していた。だが五百年以上も続いた平和に、もはや人々が慣れ、浸りきったそこには、まぎれもなく頽廃の色が濃く忍び寄ってきていた。
それは、倦怠という名の膿だったのかもしれない。いずれにしろ、それはひそやかに確実に人々の生活へ浸食していった。
帝都――アイテール。
至上の光都と呼ばれるそこでは、世界の移ろいすら忘れたように、さらに気怠く生温い毎日が繰り返されていた。
温室の花々のごとく貴婦人たちが、中庭に集い、日常を彩る噂話にわきたっている。
「お聞きになりました、奥様? 昨晩のローデシア第一天公爵邸の火災!」
「勿論ですわ。随分と酷かったようですわね。そういえば、グレン夫人。お屋敷がお近くではございませんの?」
問われて、厚い化粧で年齢をおおった年配の婦人が、羽扇を振った。
「ええ、それはもう恐ろしゅうございましたわ。昨夜は何か起こるような気がしておりましたけれど、まさかこんな身の毛もよだつようなことになるとは……!」
大袈裟に体を震わせる。他の貴婦人たちは、恐れつつも、身を乗り出して話に耳を峙てた。
「――真夜中、私はいつものように床に就いておりましたの。そこへ、侍女のマレーネが取り乱してやってきて、ローデシア第一天公爵邸が火災だと言うではありませんか。私は夫と共にすぐに駆け付けました。ですがもうすでに遅く、炎は火柱となって天高く燃え上がり、家具も扉も真っ黒に焼け落ちていたのです。私たちは、他へ燃え移らぬよう努力するのが精一杯でした。お屋敷にいらしたのはルドルイン卿御一人だけで、早々に医宮へ運ばれましたわ。御無事であらせられればよろしいのですけれど……」
大幅に脚色された話に、婦人たちは口々に嘆声をあげた。一人の婦人が、
「ですけれどねぇ……こう申し上げるのも何ですけれど、やはりあの火災は天罰ですわよ」
「どういうことですの?」
「御存じありませんの、奥様?」
栗毛の婦人の問いに、金髪の婦人が応じた。声を潜め、ことさら強調して言う。
「ルドルイン卿には、女の方がいらしたのよ」
一様に、非難の声がさざめいた。
「お可哀相なヴィオラ……!」
「侍女の話ですから確かですわ。相手が誰かは存じませんけれど、酷い話ですこと」
「最近ではよくある話ですわ」
「そういえば、ラディ夫人の今度のお相手は、ハウエル准将だそうですわよ」
「まあ、汚らわしい!」
年配の婦人が眉をひそめた。紅を刷いた頬に手を当て、大げさな嘆息を洩らす。
「本当、この頃は不穏なことばかり。このアイテールも変わってしまいましたわ。美しさも華やかさもそのままなのに……」
「何が変わったとおっしゃられるの?」
「人ですよ、人。以前は皆さんを含め、皇族の方々を中心とした輝くような気高い人々が集っていたというのに、今は――!」
婦人は、額に手を当ててよろめいた。隣の婦人が心得顔で助け起こす。
「確かに外界人が増えましたわね。モルガン将軍などは元はリューンの方ですし」
「ライムス宰相もカルディアロスの御出身ですわ。とてもそうは見えないほど御立派で、お美しい方ですけれど……」
別の婦人が頬を染めて付け加えた。気を取り直した年配の婦人が、ドレスの形を整えて言う。
「モルガン将軍やライムス宰相は、元々徳の高い立派な御方。それが陛下のお目にお止まりあそばしただけのこと。この帝都にふさわしい方ですわ」
「では、どなたが――?」
「あの女ですよ、あの女!」
グレン夫人は、口にするのも汚らわしいというように、羽扇の影で吐き捨てた。
婦人たちに理解の色が広がる。それを見て、夫人は極上の笑みを浮かべた。
「陛下も、いかな兄君のお頼みとは申せ、あのような賎しい娘を帝都に上げるなどと……」
「ですが、あの方は確かエファイオス貴族の娘とか」
「どのような貴族か分かりませんわ」
「覚えていらっしゃいます、奥様? あの娘が初めてこのアイテールに来た時のことを」
「忘れはしませんわ。あんな貧相な娘では、御心優しいアレス・リキタス様が同情されるのも無理はないと思いましたもの」
「本当、ちっぽけな小娘でしたわね。それにあの服! ぼろきれかと思いましたわ」
婦人たちは、その服を美しく飾っていた眼の醒めるような朱金の髪には触れず、声を立てて笑った。笑いをきっと収め、グレン夫人が言う。
「なのにあの小娘は、陛下や祭主様の御恩を忘れ、今ではしたい放題! あの女がいては帝都の風紀が乱れます!」
「いつぞやも、いつもお一人で御可哀相だと同情して、わざわざお茶にお誘いして差し上げたというのに、剣の鍛練があるからと断ったのですよ!」
「無礼な女! それなのに貴族の若者や長老たちまでちやほやして、皇太子様にまでお気に召されているようですし……」
「それに飽き足らず、この頃では、妾腹のあの銀の皇子にも手を出しているようですわよ」
「レイファシェール皇子もエファイオスにいらしたそうですから、お話が合うのでしょう」
「下賎は下賎同士ですわね」
「陛下も、ルークシェスト様という正統な跡継ぎがいらっしゃるのものを、下々の娘に産ませた子を帝都に呼ばなくとも……ねぇ?」
「外界人にここの暮らしは無理ですわ。育ちが違いすぎますもの」
婦人たちは顔を見合わせ、意地の悪い笑いを洩らした。年配の婦人が皮肉げに言う。
「でも、妾腹の皇子は皇太子様のお気に入り。あの雌狐は皇子に取り入って、皇太子妃の座を狙っているのですわ。悪くとも、次の皇弟の妻という座をね……」
その時、耳に心地よい男の声が、彼女たちの会話に割って入った。
「おやおや。この辺りから聞き慣れぬ鳥たちの霊妙な声がすると思いきや――」
背後の木陰から現われた二十代前半の男は、伴ってきた女性を振り向いて感嘆する。
「これは美しい御婦人方ばかりが集まって、まさに花園の麗しさだな、姫?」
「ええ、本当に」
同じく二十代と見られる女が、微笑んで同意した。
一は皇太子ルークシェスト、いま一人は祭主の娘イルレイア姫であった。
突然の話題の主の登場に、女たちの化粧した顔がその場に貼りついたようになる。
「こ……皇太子殿下、イルレイア姫も、突然のお越しにて……」
慌てて立ち上がり膝を折る婦人たちを、ルークシェストが手で制す。
「何、内宮へ戻るのに多少散策していたところ。何もそう堅苦しくなることはない」
日に日に逞しくなる皇太子は、精悍な面差しに気持ちのよい微笑をたたえた。
おしゃべり好きな婦人たちを見回し、
「噂話に花が咲くとは、アイテールも平穏で何よりだ」
「は……」
「このところ、帝都にもおもしろからぬ事が多い。だが、そなたたちのような賢い貴婦人方は、このような時こそ心乱すことなく務めると、さよう心得られているものと信じている」
ルークシェスト皇子は、グレン夫人の手を我が手に取ると、その耳元で囁いた。
「それにアマリア。貴方の美しい唇には、噂話より……愛の囁きの方がよく似合う」
手の甲に口付ける。唖然とする婦人たちに笑顔を投げかけ、皇子は鮮やかな金髪をひるがえすと、姫と共に立ち去った。
婦人たちから充分に離れ、イルレイアがくすりと笑いを洩らした。
「なんだ、姫?」
先程とは打って変わり、苦虫を潰したような顔でルークシェストが振り返る。
「いえ、よくぞお堪えになられたと存じまして……」
「皮肉か?」
「違いますわ。素直に、忍耐に敬服しておりますだけです」
微笑みを絶やさぬまま、イリヤが答える。ルークシェストは、刈り揃えられた木立を縫いつつ、自嘲気味に言った。
「あのおしゃべり雀たちは、何を言っても口を閉じはせぬ。せいぜい釘を差して、他愛のない話題を提供するのがせいぜいだ」
金の睫毛に縁取られた、蒼天の瞳が曇る。
「ノアならば、もう少し巧く言いくるめたであろうに……」
「あの方の口の巧さは特別ですわ。私は、あれで充分かと存じます」
「そうか?」
「ええ。私でしたら、言葉だけでは済みそうにありませんもの」
何気なく言われた台詞は、日頃温和で知られる女性の発言だけに、なお皇子を驚かせた。
「少し感情的すぎるかもしれませんわね。けれど私、レイファシェール様に対しての暴言だけは許せませんの」
姫の黒目がちの童顔に、意志の強さが漂った。
「私が賎しい生まれというのも、この帝都にふさわしくないというのも本当。ですが、私への非難にレイ様を持ち出して当て擦るなどと……!」
イルレイアは紅唇を噛んだ。ルークシェストが、眼を丸くして見つめる。
――この女性は、まるで炎だ。
彼女が剣、法術ともに最高位にある聖騎士であることは承知していたが、自分もその可憐な容姿にごまかされていたのかもしれないと思う。
帝都にいる貴婦人たちとはまるで違う、姫の生き生きとした美しさに、ルークシェストは知らず微笑みを浮かべていた。
「たとえ貴方が何者であろうと、私は今もこれからも、貴方と巡り合えたことを何よりも嬉しく思うだろう。レイファシェールのために……私のために」
「ルークシェスト様」
驚いてイリヤが足を止める。その手をとり、皇子は熱っぽく囁いた。
「姫。私は、ずっと――」
彼女を胸に引き寄せる。
イリヤは逆らわず、代わりに軽く腕を押し上げるようにして、するりと皇子の腕の中から逃れた。
「その続きは、私よりもっと美しく立派な姫君の耳元でおっしゃいませ」
「姫。私は本気なのだぞ?」
「では、なおさらですわ」
肩上で切り揃えた曙色の髪を揺らし、イルレイアは艶やかな笑顔で切り返す。
「そのお言葉を受けましたら、私、明日にでも帝都随一の悪女の栄冠を手にすることになりますもの。御遠慮いたしますわ」
ルークシェストは、返す言葉を失った。口元に、苦い笑みが浮かぶ。
皇子はかすかに首を振ると、ため息と共に、この回の勝ちを彼女に譲った。