映し鏡の幸福
私には何もない。そう気付いたのはいつだっただろう。
私は大手企業を経営する北条家の長女として生まれた。名を北条伊織という。
私には4つ年上の優秀な兄が居た。兄は何でも出来た。
兄は特に人を指揮し指示を出すのが得意で、その才を生かして父の手伝いを始め、現在22歳にして若社長としての頭角を既に現している。一回りも年上の方々からも一目置かれる、私にとっても誇らしい自慢の兄だ。
私も幼少の頃よりそんな優秀な兄に憧れ、いつか兄のように誰かを助け、父様にとっても自慢となる娘になりたいと…幼い頃から思っていた。
志した8歳の頃から、自分の誇りとなる才能を探して何でもやってみた。勉強、水泳、生け花、日舞、ピアノ…思いつく限りの習い事は全てやらせてもらったが、特に何が出来ないでも、飛び抜けて上手い訳でもなく…私はそのたびに何度も打ちひしがれ悔し涙を流した。
兄が人を指揮するのが上手いと言ったが、それは何もそれ以外に才能が無い訳ではない。それよりは劣るが、兄の先を行く人が多少なりとも存在するだけで凡人と比べると雲泥の差だという兄の得意分野もかなりあった。
同じ母親から生まれたのだ。私だって出来るはずだ。
そうやって何度も自分を叱咤して色んな事に励んだ。…でも…それでも、中学を卒業するまでに私は自分の才能を見出す事は出来なかった…
『伊織、お前は高校に行かずに私の部下の嫁となって彼に尽くせ』
ため息を吐きながらソファで頭を掻く父様を見て、悔しくて下唇をバレないように噛んだ。…まるで、お前には才能なんてものは無い。と遠回しに言われたようで、酷く心が荒んだ。
これは私が小さい頃から幾度となく言われた言葉だった。お前は中学を卒業したら結婚しろと。
勿論16になってからの話だ。私自身結婚に夢など持ってはいない。大企業の娘として生まれたのなら、せめて役に立つように父様の決めた相手と結婚すると小学生の頃から腹は括っていた。
…でも…私はそれに簡単に頷けない。
諦められないのだ。私に才能があるかも知れない可能性を。
はい、ともいいえ、とも言わぬ私に今度は兄がため息を吐いた。兄も自分の後追いをしようとしている私を兄なりに心配してくれているのだ。
『伊織、いいか?お前は俺とは違うだろう?そこそこ何かが出来るならそれで良いじゃないか。どうして特別な何かが欲しいんだ?兄さんは別にこの才能もあって良かったことなんてほとんどないぞ?大人になると役に立たない事ばかりだ』
分かっている。兄さんの得意だったサッカーやスケボー…今では会社に何の役にも立たないと言って辞めてしまった、今の自分に不要な才能もあるという事ぐらい。
でも、そうじゃない。会社の役に立つから欲しいのではないのだ。私は…私が、意味のある人間だと……感じたいのだ。
才能とは、神様がそれぞれに与えたプレゼントだと思う。兄さんはこれを使って頑張れ、と神様に渡されたのだ。
では私は?私は一体何を頑張れと神様が授けてくれたのだろうか?
後々いらなかったと思っても良い。ただ、誰よりも優れていて…誇りになるような物が1つで良いから欲しいだけなのだ。
『…違うの、兄さん。そうじゃない。私……自分の誇れるものが欲しいの。1つで良い。探したい。…お願いします、父様…あと3年……大学は行けなくていいです。でも、せめて高校までは探させて下さい…!お願いします…お願いしますっ…!』
土下座で父様に頭を下げた。頭上から2人の息を呑む気配を感じた。生まれて初めてした土下座は、2人にそれなりには衝撃を与えたらしい。
その必死の説得が決め手となって、幾度も行われた縁談話は一時保留となり、私は高校までの自由をなんとか取り付ける事が出来た。
桜の舞った高校はとても華やかで、皆が期待と不安に揺れた表情をしていた。
私はその中で異質に見えた事だろう。この学校で過ごす3年間に全てを賭けていた私は睨むように校舎を目に焼き付けていた。
1年目。教室はざわざわと騒がしく、新しい出会いに声を高くして皆が挨拶を始めていた。
それぞれが興味のある事を語り、交友の助けとなる自己紹介の常套句を、私1人だけがすっ飛ばし教室はざわざわと揺れた。
…友達が欲しくない訳ではない。だが、大企業の娘ともなると付き合う人間を考えろと口を酸っぱくして父様と母様に言われてきた私は、あまり変な事を言って北条家の不利益になるかも知れない可能性を考え、最低限の挨拶だけこなして席に座った。
…冷たく思われたかも知れない…
今になって後悔した私は、ごまかすように髪をくるくると弄って遊ぶ。会社を取って冷たく言ってしまったが、別に愛想を悪くするつもりはなかった。
だがそれは私の言い訳に過ぎず、やはりというか学校では孤立してしまった。
1年の間は友達も出来ず、名前も北条さんで固定されて特に仲の良いクラスメイトも出来ない味気ないものだった。
期待していた部活は、一通り仮入部で試してみたが、どうにも上手く出来ない。色々な部活を試しまわっている内に、徘徊女子といつの間にか陰で呼ばれるようになってしまった。
テストもやはり伸びなかった。中の上…自分ではかなりいい点を取れたと思ったものですらこれだ。我ながら眩暈がする。
一体私と兄さんの何が違うというのだろうか?兄さんは当然ながらトップだったというのに…
…努力が足りないのかも知れない。兄さんはもっと頑張ってたのかも知れない。
頭の中で兄さんが長い足を組んでゲームをしていたのを思い出す。確か兄さんのテスト期間中の事だ。
……いや、違う。兄さんは勉強をしてたんだ。じゃないと…おかしい。だって、勉強しないでトップなんて…そんな訳、ない。
私はちゃんと勉強してなかったから。だから、2年からはもっとしっかり勉強してー…
(それって、才能があるって言えるの?)
突如冷静な声が中から私に問いかけた。
私はそれを振り払うように何度も首を振って、思い出しそうになる言葉を消すように勉強に打ち込んだ。
…努力出来るのも才能…そう、だから…頑張らなくちゃ…!頑張らなかったら……私はっ……
何もない人間だ。
頭にその声が流れる前に、適当な数式を思い出して私はその真実から逃げた。
2年になると、そんな私にも転機が訪れた。それは、今年から転校してきた男子との出会いから始まった。
『北条さん、樫野の案内を頼めるか?』
いつもより早く学校に来た私は、初めて教室に一番乗りで席に着いた。
今日はこのままチャイムが鳴るまで予習しようかと教科書を開きかけた時、昨日発表された新しい先生が、これまた昨日の朝礼で挨拶をしたばかりの樫野君を連れて教室に入って私に打診した。
樫野君は昨日どうやら放課後は忙しく、クラスの誰かが案内してくれる前に用事があると言って帰ってしまったらしい。だから今日は朝早くから来て校内を把握しようとこんな時間から来ていたようだ。
私は笑顔で了承し、開きかけていた教科書を鞄に仕舞って樫野君を連れて校舎を回った。…先生に当てにされて嬉しかったのだ。正直、友達がいないのはいいが腫れものに触るようなよそよそしさに息が詰まっていた私は、先生に普通の生徒としての事を期待されているようで安心した。
『僕、樫野裕介っていうんだ。よろしくね、えっと…』
『知ってるわ。昨日挨拶してたじゃない。…北条伊織よ、樫野君。こちらこそよろしくね』
久々に穏やかな会話だった。家では得意な事は見つかったか?と探りをそれとなく入れてくる家族に嫌気がさしていた私は、久々の普通の会話に声が弾んだ。いつもより機嫌が良い声に自分がビックリして思わず髪を弄ってしまった。
案内している時間は酷く穏やかだった。道案内は得意なのかも知れないと一瞬思い、道案内という事で警察はどうだろうか…と考えをすぐ巡らせる自分に苦笑した時、樫野君は再び口を開いた。
『北条さんは丁寧に教えてくれるね。分かりやすいよ。北条さんに案内してもらえてよかった。これが他の人だったら、今日だけで覚えられる自信がないよ』
何気なしに語られた言葉にじん、と涙が目を覆った。
…役に立てた。こんな私でも、人に喜ばれる事があった。
初めて感じた達成感は、樫野君がくれた。きっと彼にとっては取るに足らない…もう忘れてしまっているような出来事だろう。
私はいつまでも宝物のようにその言葉を心に持っていた。その一言だけで、私はこれから頑張れる気がしたから。
樫野君の事は、家族の誰にも教えなかった。大切なものが汚れてしまう気がしたからだ。
…その出会いから、私の人生は色を変えた。
樫野君に道案内をしてからというもの、教室に入ると1番に私に挨拶をしてくれるようになった。そして、それを見たクラスメイトが『北条さんって話しやすいんだね』と言って話しかけてくれるようになった。
この時から、私の痛い程に張りつめていた心は緩んだように感じる。全てが良い方向に転がるようにさえ感じ、ゆっくりと…自分の速度で、得意な事を探せるようになった。
それに樫野君は私を頼ってくれるから、それも嬉しかった。
樫野君は勉強があまり得意ではないらしく、私に教えてくれと泣きついてきた時には笑ってしまった。だって、私だってそんなに得意ではないのに。
それを正直に樫野君に告げると、樫野君は『北条さんの教え方の方が賢い奴らよりも頭に入って来る』と私をまっすぐ見て言ってくれた。
…嬉しい。きっと私が彼の言動にこんなにも満たされている事を、彼は生涯知る事は無いだろう。でも、それで良い。これは私だけの宝物。鍵をかけて誰にも知られないようにひっそりと厳重に心に仕舞った。
彼に勉強を教えていると、私も少々だけれど成績が上がった。彼は私より少し下の順位だ。
彼は凄い!と言って褒めてくれたが、彼の期待を裏切らないようになお一層頑張らなければ。そう決意した努力は、今までの物と違って心地よかった。私自信がそう在りたいと望んだからだと思う。
半年を過ぎると、彼の人望の厚さが顕著になった。彼はクラスメイトどころかどの学年でも知らない人が居ない人物になっていった。
そんな彼が最初に必ず話しかけてくれるのが私だという優越感もあるが、それと違った感情がこの時、私の中で淡く灯っていた。
あの時なら分からなかったが……今ならわかる。…きっと、私は…彼が好きだったのだ……
そんな彼は、今年生徒会に立候補するらしい。それを私に1番最初に話してくれた事に、私は恥ずかしく思った。
放課後の教室…まるで告白をされているようだ、と捨てたはずの幼い私の心が弾んだ。まだそんな馬鹿な事に憧れていたのか。
『いいと思うよ。樫野君、皆から凄く慕われてるもの。…ただ…わ、私はちょっと、寂しいかな…』
言ってからバカな事を言ったと思った。何がしたいのだ、私は。
後ろめたくて夕日に顔を向けて何でもないフリをしていると、とんでもない事を樫野君が言いだした。
『大丈夫だよ。僕が生徒会長になったら、北条さんには副会長になって欲しいんだ。僕を…支えてほしい』
『…えっ…』
副会長。その響きにドクンと胸が重い音をたてた。
生徒会はまだ試した事のないジャンルだ。兄さんも…昔、生徒会長をやっていたらしい。それで人を指揮する才能を見出したのだ。
もしかしたら…私の才能も、ここにあるのかも知れない…
その希望と、樫野君が言ってくれた支えて欲しいという言葉が、私を無言で頷かせた。
私は…支えられているのだろうか?樫野君を…ならば、副会長になってもっと頑張れば、もっと樫野君を支えられるかも知れない…!
そんな邪な考えも知らない樫野君は、初めて会った時と変わらない太陽のような眩しい笑顔で、私の答えに笑った。
そうして樫野君はとんとん拍子に生徒会長になり、私は約束通り樫野君の補佐として副会長に任命された。
初めて上がった壇上は、とても眩しく思えた。生徒全員に見られる恥ずかしさとこの場に立てた興奮で眩暈がした。
私以外の役員達は皆女の子を指名した樫野君は、陰でハーレム王と呼ばれているらしい。心外だ。彼はちゃんと能力で決めていたというのに、周りから見れば女子で周りを固めたようにしか見えなかったのだろう。
でも、だからこそ私がしっかり働いて、その噂を払拭しようと思った。他人の為に頑張るのは初めてだったけど、樫野君が居てくれるなら大丈夫な気がした。
私が生徒会入りした事は、家族にもすぐに知らせた。兄さんと同じ立場に立てた事が嬉しかったのですぐに話したかったのだ。
『凄いじゃないか、伊織!頑張った甲斐があったな』
兄さんに頭を撫でられて子供じゃない!と怒ってしまったが、凄く嬉しかった。父様も、口には出さないけれどお祝いにプレゼントをくれた。母様は私の大好きなハンバーグを作ってくれた。
何もかもが上手く進んで、これから私はもっと色んな事をして、色んな人の役に立って…そう思うとドキドキして眠れなかった。もし私だけの得意な事が見つかったらどうしよう、と長年の夢が叶うかも知れない事実にさらに眠れなくなり、やっと寝れたのは空が明るくなってきた頃だった…
思えば、私の人生の全盛期はこの日までだったのかも知れない。
副会長になってから、私は樫野君の役に立てばと自主的に行動を起こせるようになった。樫野君が案を出したら、それに対する学校側の許可を取りに行ったりもした。
樫野君は喜んでくれた。気が利くとも言ってくれた。樫野君以外の生徒会役員とはあまり仲良くなれていないけれど、これから時間をかけて仲良くなれたら…と思っていた。
3年生になると、私の幸福に綻びが出始めた。
役員の子が、私にだけお茶を出してくれなくなった。
それ自体は自分で煎れれば済む話なので特に気にはしていない。私が入れたお茶に樫野君を除いた全員が口をつけてくれなかったのは困ったけれど。
樫野君がそれを見て注意すると、全員が私を睨んだ。その時やっと気付いた。ああ…この子達は全員、樫野君が好きなんだ、と。
樫野君はやっぱり今でも私に優しいし、私に1番に挨拶してくれる。きっとそれが気に入らないのだろう。
でも、私は彼女達がどう思おうと樫野君が望む限り何があってもずっと副会長で居続ける。これは、あの放課後の時にずっと決めていた事だ。
そんなギスギスした生徒会だが、私は特に気にする事も無く樫野君の役に立つように進んでアイデアを出したり、感想を言ったりした。
『北条さんはよく気付くね。いつもありがとう』
樫野君は驕ることなくいつも柔和な態度で私に感謝をしてくれた。それに私はいつもそわそわしてしまう。ありがとうなんて、今更いいのに…
スケジュール管理も私の新しい仕事だ。秘書のように樫野君に予定を事細かに伝える、ミスの出来ない仕事だ。
元々は庶務の山口さんがしていた事だったが、樫野君たっての希望で私が任される事となった。
私は鼻が高かった。あの優秀な山口さんではなく、私がお願いされたという事が。私の得意な事はもしかしたら人のスケジュールを管理する事だったのかも知れない、と。
—だから、ある日生徒会の扉に手を掛けようとした時に聞こえてきた会話に、私は動きを止めた。
『生徒会長、どうして私じゃなくて北条さんに任せたんですか?』
それは山口さんの声だった。
だとすると、山口さんが言っているのは、スケジュールの事についてだろうと停止した体で考えた。すると、私が再度動き出す前に他の役員達が次々と不満を口にしだした。
『そうです!あの人、遅いし向いてないと思うんです!どうして北条さんに変えたりしちゃったんですか!?』
『樫野君が仲良くしてるのは知ってるけど、いくら何でもあれは無いわ。あれなら他の人を新しく入れた方がマシよ』
…手が震える…。いつも睨むように見られていたが、本当にそう思われていたのか…
迷惑をかけるつもりじゃなかったと言えば分かってもらえるだろうか。本当は、樫野君がどうしてもと言ってくれたからしているだけで、特にどうしてもやりたかった訳ではなかった。私自身、私より山口さんの方が向いていると思っているし。
…ちょっと、気分が悪い…
もう少し時間を空けてから入ろうとドアに背を向けた所で、その声は静かに私の耳に届いた。
『うーん…皆が言うのももっともだけど…あれで北条さんも頑張ってるからね…もうちょっと様子を見てあげようよ。それで改善しないなら山口さんに戻すし』
………今のは……樫野君が、言ったの?
声は確かに樫野君だ。だけど、話の内容が、結び付かない……。
口に知らず知らずのうちに唾が溜まるがうまく飲みこめず、飲み込めてもそれは私の不信感と同じ速度でどんどん口の中を満たしていった。
……そんなはずはない、だって…だって、樫野君は—…
『北条さん、スケジュール管理って得意かな?北条さんにやってもらいたいんだけど……』
『わっ私!?…や、やった事無いけれど…それで大丈夫なら…』
『全然良いよ!北条さん細かい事得意でしょ?この前、見せてもらった予定表も山口さんより見やすかったし、出来ればお願いしたいんだけど…だめ、かな?』
そう手を合わせて窺うように見られて、私は結局頷いた。樫野君の役にたてるなら、と思ったのだ。
じゃあ、何故。どうしてそう言ってくれた樫野君が……
『もし、ごねるようなら僕から辞退してって言うし。ね?』
そう言って周りの反応を窺うような声色に、私は血の気が引くのを感じた。
—ごねるって、…何?私が無理やりやりたがったって、言ってるの?
何で?どうして?
私の中の大切に飾っていた樫野君の笑顔にどんどん影が差して見えなくなってくる。…あれ?樫野君は、どんな顔で私に微笑んでいた?
『……もしかして、樫野君は―…』
呟きかけた言葉に嫌な予感がして、私は図書室に逃げ込んだ。…生徒会室には、入れなかった。
そのまま最後まで生徒会室に入れなかった私は次の日、朝から樫野君に心配された。
『北条さん、昨日来なかったけど大丈夫?どこか悪いの?』
『う、うん。昨日、ちょっと…もう大丈夫だから!』
……嘘をついてしまった。本当の事を聞くのが怖かった私は心配そうに私の顔を覗き込む樫野君に恐怖し、無意識に俯いた。
嘘だと言って欲しい。…でも、もし本当だったら…
私の喉から疑問がせり上がって今だ、今だと口を開閉している内にチャイムが鳴って樫野君は自分の席に戻って行ってしまった。
悪い事というのは続けてやって来るもので、その日も衝撃は違う形でやって来た。
『樫野、何でお前は大きいテストの時ばかり点数を落とすんだ?』
廊下で会った数学の先生に荷物持ちを頼まれ職員室のドアを開けた瞬間、そんな会話が私の耳に入った。
会話の出所を見やると、担任の先生が険しい顔で樫野君と中間テストの話をしていた。樫野君の顔は反対を向いていて見えなかったけれど、珍しく面倒くさそうに気だるい立ち方と返事をしている。
『えー…別に、ちゃんとしたテストの時は頑張れば学年トップ取れるんですから良いんじゃないんですか?順位が貼り出されないなら普通に満点取りますけど…』
持ったノートを落とすかと思った。言っている会話の意味が理解出来ない。
―…樫野君は成績がいいの?私よりも少し低いぐらいじゃなかったの?
まだ前の疑問が解決していないのに新たな疑問が生まれ、私はこの時完全に樫野君を信用出来なくなってしまった。
グラグラする。気持ち悪い。意味が分からない。
フラフラと足をよろめかせて私は逃げるようにノートを机に投げ置いて廊下を走った。
―なんで?なんで私に嘘をついてるの?勉強、苦手だったんじゃないの?私より、得意だったの?
疑問はどれだけ振り払っても湧いてきた。人のいない校舎に辿り着いた頃、その声に出来ない感情が目から溢れ出て、私は髪を掻き毟った。
『…っ……あああ、ああああぁぁぁああ…っ!!』
ただただ私は呻きを上げながら怯えるように頭を押さえ泣いた。どうして泣くのかさえ、今の私には分からない。
私の憧れた樫野君が分からない。何を考えているのか分からない。
『―北条さん、数学って得意かな?僕、苦手で…良かったら教えて欲しいんだけど…』
『わぁ!北条さん、頭良いんだね!僕なんてあんなに教えて貰ったのにこんな順位で…恥ずかしいな……』
一体裏でどんな顔をして言っていたんだろう。笑ってたのだろうか。同じレベルで高め合っていると思って偉そうに教えていた私を。
『……樫野君のっ……嘘つき…っ……!!』
胸に浮かぶ言葉を吐き出したその瞬間、気付いた。……あぁ、そうか…私は樫野君を…きっと信用していたんだ。それはたぶん、家族よりも。
涙の意味を理解すると、不思議と胸は痛まなかった。どこかで樫野君も、何も出来ない私に愛想を尽かす時が来ると分かっていたからだろう。
零れた言葉と共に、心の中で鮮やかに色付いていた宝物の記憶が朽ちるように色を無くしていった。……そして、樫野君が消えた私の世界には何もないという事を……知りたくなかった現実を、皮肉にもこの日…知ってしまった。
—そして…この日、私は確実に壊れた。
それからは地獄のような日々だった。
朝、樫野君を見るたびに吐き気が襲った。心の中で何を考えているのか分からないのが怖くて激しい動悸に襲われた。
生徒会室ではさらに激しい気持ち悪さを感じた。
まるで皆仲良し、とでもいうような態度の樫野君が私の煎れたお茶を飲むのを発狂しそうな思いで凝視した。お茶の味が濃くなってしまった事に気付くのがまるで犯行現場を見られたような気分で、逃げ出したくなった。
他の子達も、あの時話していた事を何一つ口にしない。何を考えてるの?私じゃ役に立たなかったんじゃないの?
……気になるなら聞けば良い。そんな事は分かっているのに恐怖で声が出ない。
そしてしばらくは私を心配してくれていた樫野君は、怯える私の反応を面白がるようにわざと私を教室で待ち伏せてずっと喋りかけてくるようになった。そして、私が短く悲鳴を上げると笑みを深めて腕を掴み、さらに恐怖を与えてくるようになった。そこにはもう、私の好きだった樫野君の優しい笑みは無かった。
きっとこれが彼の本性だったのだろう。こんな嫌がらせをされる程私は樫野君に嫌われていたのだ。
分かっていた事なのに、夜になると毎日涙が頬を滑り落ちた。嫌わないで、樫野君。ごめんなさい、役に立てなくてごめんなさい。
―そんな日々を3ヵ月繰り返した頃、とうとう私は学校に行く時間、家で倒れた。
目が覚めると病院で、重度のストレス障害だと言われた。私はボーっと自分の腕に刺さった点滴の袋を見つめた。
『伊織…どうしてストレス障害なんてなったんだ?』
兄さんが私の顔を険しい顔で見ながら問いかける。
聞いた話では頭に幾つも髪の毛が抜けた跡があったらしい。胃も穴が開く寸前だったそうだ。
でも、私がストレスを感じるなんて失礼な話だと思う。だって、私が役立たずなのが悪いのに。皆にも迷惑をかけて申し訳ない。私に才能がないのが悪い。父様、母様、せっかく高校に入れてくれたのにごめんなさい。兄さんみたいになれなかった。ごめんなさい。
そう零すと母様が悲鳴を上げて泣き崩れた。
―…そして、私が退院してから一度も学校に行くことなく、父様の判断で私は学校を退学した。
『伊織、こちらが父様の部下の堺浩平君だ。堺君、こっちが私の娘の伊織だ』
父様に私の夫となる方を紹介されたのは、それから程なくしての事だった。
元々父様に結婚を勧められていたが、まさかこんなに早く話を持ってくるとは…と少し驚いた。しかし、親としては悲しかった事を早く忘れて欲しかったのかも知れないと思い、話を持ってきて私の様子を心配そうに見る父様に私は無言で微笑んだ。…きっと、父様は父様なりに私を心配してくれている。
紹介された方…浩平さんは、父様の部下というには若い…というより私と歳の近そうな男性だった。聞けば現在21歳らしい。
異例の出世を果たした父様期待の新人らしいその人は、人懐っこい感じの樫野君と違って落ち着いたあまり感情を顔に出さなそうな方だった。
でも今の私には樫野君に似てないという事が酷く私の心を落ち着けてくれた。あまり話は弾まなかったが、私が転びそうになると飛んでくる勢いで私の体を支えてくれたのが決め手で彼と結婚する事を決めた。…それに、この結婚は私の意思とは関係なく、ほぼ決定事項だったと思う。
「伊織、あまり遅くまで起きていると体に悪いぞ。寝てろ」
「お帰りなさい、あなた。だってあなたにお帰りを言うのが妻の仕事でしょ?それに私眠くないわ」
あのお見合いから1ヵ月程経ち、今日も私は夫を出迎えにシーツを体に巻き付けて玄関へ向かう。
夫は時計が午前を回るか回らないかの時間に帰って来る。それにお帰りを言うのが現在の私の仕事だ。
結婚してから分かったが、夫は分かりにくいだけで以外に甘えん坊だ。今も私を抱きしめたままスーツも脱ごうともしない。
「あなた。スーツが皴になります。お風呂もどうするのですか?」
「…スーツは買い替えるから良い。風呂よりも伊織、お前を抱きしめて寝たい」
相変わらずの甘い言葉にくらくらする。こんな仏頂面で口付けながら言うのだから人とは見た目で分からないものだ。
政略結婚のようなものなのだから愛など無いと思っていた私だったが、実際の政略結婚はそうでもないらしい。
「…そんな事で良いのなら、私は何度でも一緒に寝ますよ。私にはそれしか出来ませんから」
もう自分の身の程は知った。今はあの時のように必死で出来る事を探そうとは思わない。
人には限度があるのだ。元から才能がある人は容量も違うのだろう。私はその容量が小さかったのだ。努力では埋まらない程に。
分かっていた。自分に飛び抜けた才能なんてない事ぐらい。でも、私はそれを長年諦められなかった…。
今思うと滑稽ね。と、夫の背中を撫でながら思いを馳せていると、不意に私の首にキスを落としていた夫が私の言葉にそれは違うぞ、と反論した。
「伊織、お前は何も出来ないと思っているが、俺にはそれで十分だ。元より人よりも我慢したりため込んだりしやすいお前だ。あまり自分を責めるな。俺は…伊織が楽しいと思う事を極めればいいと思う。得意な事を探すのが伊織の好きな事なら止めない。だが、そうでないなら……もう、自分を責めるな。俺の事だけ、考えろ」
衝撃に撫でていた手が止まる。その時初めて気付いたのだ。自分が今まで楽しいと思って始めた事が何一つ無かったという事に……。それにまさか、私が才能を探していた事を知られていた?
驚きに目を見開いて夫を見つめると、夫がよく見ないと分からない程うっすらと頬を染めて「お前の事なら、何でも分かる。ずっと、見てたからな」と言って私に強く口付けた。
…これは父様から聞いた話だけれど、夫は高校を卒業してすぐ入社して、血反吐を吐く程の努力の末今の地位に就いた叩き上げだったらしい。
どうしてそこまで頑張れたのだろうと本人に聞いた所、どうやら夫は入社式で見た私に一目惚れして、社長に気に入られれば私との結婚もあると聞いて頑張ったらしい。
顔から火が出るかと思った。どうしてこんな無表情でそんな可愛い思考をしているのだ。
「…頑張って、良かった。俺も報われない事が幾つもあったが、それがお前に辿り着くための苦難だったと考えれば……悪くない」
何気なしに呟かれたその言葉に頭に雷が落ちたような衝撃を受けた。
…そうか。私のあの努力も、全部が全部、無駄ではなかったのか。
あの時学校に通わなかったら、当時まだその立場についていない夫とは結婚する事はなかっただろう。きっと、他の人と結婚させられていた。
学校では苦しい事も多かったが、全てが嫌な事だった訳ではない。クラスの女の子は私が残って書類を整理しているとよく手伝ってくれていたし、私に憧れていると言ってくれていた子もいた。
その子達とはもう連絡は取れないが、楽しかった記憶として心に残っている。
学校で学んだことも、人間関係の難しさも、全て無駄ではなかった。今では夫が心配して私を1人では決して出してくれないから人間関係のいざこざに巻き込まれる事も無いが、今度同じような事になったら私からちゃんと話をしようと…そう思えるようになった。
きっと…浩平さんが居てくれたら大丈夫な気がするから。
甘えるように夫の胸に顔を擦り付ける。聞こえてくる私よりも早い心音に無意識に笑みがこぼれた。
樫野君の事を思い出すと、今でも胸が張り裂けそうになる。…きっと、あれは初恋だったのだと思う。
あの時、樫野君にちゃんと聞けていれば何か変わったのだろうか?…変わったとしても、私にはこれで良かったと思う。
樫野君はきっと私が居なくても大丈夫。元々人気者で明るい樫野君だ。私が居なくなった事に寂しがりはするだろうけれど、きっと元気にやっているだろう。
そんな私の頭の中を見透かしてか、夫が「俺以外の事を考えるな」とより深く口付けてきた。その時一瞬見えた瞳が、どこか樫野君に似ているように思った。
「浩平さんの事しか考えていませんよ。…あなたに出会えて、良かった。もし…私が何も出来なくて迷惑をかけても…浩平さんは私を、捨てずにいてくれる?」
「捨てない。捨てられるとしたら俺の方だ。こんな愛想の無い俺だが嫌わないでくれ…伊織が居なくなったら、俺はすぐに死ぬ。未練はない」
私をまっすぐ見て偽りのない真剣な眼差しで言う夫に軽く息を呑んだ。…でも…それ以上にそこまで私の事を思ってくれる夫が、愛おしくてたまらない。
会社の為に私自身が出来る事は何一つ無かったけれど、1人の人間を支え寄り添う事で幸せになってくれる人が居る。それを、あなたが教えてくれた。
「…嬉しい。あなたの妻になれて、幸せです…」
才能や、得意な事を見つける事より、あなたに愛された事が…何よりも“幸福”。
「…ところで伊織。最近は危ない奴が多いから絶対に外に出るなよ?」
「何言ってるんですか?あなたが私の服を全部持って出かけるから家から1歩も出れませんよ。全裸で出かけられると思う?もう、返してください」
「だめだ、返さん」
―…………………………
一体どこから変わってしまったのか。僕は未だに、分からない。
新しく転校した学校で、僕は運命を知った。
教室で1人教科書を開こうとしている手を止めて不思議そうにこちらを見る彼女は、まるで触れてはいけない精霊のようだった。
眠たそうに下がったまつ毛が縁取る垂れ目の瞳。絹のように触ったら滑らかに消えてしまいそうな輝きを放つ黒曜石のような美しい黒髪。穢れを知らない白く噛みつきたい程柔らかそうな頬……
精霊は北条伊織という、美しい響きの名前をしていた。しっとりと落ち着いた雰囲気の彼女は伊織という名前が酷く似合っていたが、それを言う勇気は僕には無かった。
変に浮ついた汚らわしい男だと思われたくなかったから。
朝1番に北条さんに挨拶をするのは僕の義務だ。始まりは北条さんで心を癒して幸せな気分で始めたい。…そして、誰よりも先に彼女と喋りたい。
北条さんは特に親しい人が居ないので僕はとても安心していた。北条さんに近付く男が居たら殺してしまいそうだったから。
でも、僕が話しかけ始めてすぐ、他のクラスメイトも北条さんに話しかけるようになったのは誤算だった。僕はいいけれど、どうしてこいつらにまで北条さんの笑顔を見せなくてはいけないのだろうか?
女子は良いけれど男子は我慢出来なかったのでそれとなく脅して話しかけられないようにした。それでも憧れに似た視線を彼女に飛ばすのは止められなかったけれど…。
優しい彼女に勉強を教えて貰うのも僕の特権だ。彼女と向き合って1つの机で勉強するのは死ぬほど幸せだった。
初めて道案内をしてくれた時もそうだけど、頬を上気させてカチカチに固まって何かを一生懸命教えようとする彼女はすごく可愛い。こんなに可愛いといつか悪い男に攫われそうで心配だ。
勉強自体は元々出来るけれど、彼女に教えて貰うのが至福過ぎて普段の勉強なんかとは質がそもそも違う。普段の勉強が賞味期限切れギリギリのおにぎりなら、彼女との勉強はこの世の贅の限りを尽くした具材の入った1つ5万はしそうな高級おにぎりだ。
テスト後に彼女の成績を褒めるとこれまたとんでもなく可愛い。照れているのか髪を弄りながらそわそわと落ち着かない様子に僕は息が上がりそうな程興奮した。
僕の言葉が響いたのか、成績が発表される頃はいの1番に表を見に行って成績が上がっているのを確認しガッツポーズしている所なんて堪らなくて後ろから抱きしめて首筋を舐めようかと思った程だ。
でも僕はそんな下品な男ではないので勿論何事も無かったかのように彼女に声をかけて褒めた。
本当はこんな優男は僕の性格とは真逆だけれど、彼女が接しやすいと思って無理やり優男のような柔和な話し方に改変した。結果は、彼女に優しい人だと思われてとても効果的だった。
2年になると、とても素敵な話を貰った。それは、次の生徒会長に立候補してみないか?という物だった。
本当は北条さんとの時間が減るから断ろうと思っていたけれど、とても良い案を思いついたので僕は生徒会長になる事にした。
『僕が生徒会長になったら、北条さんには副会長になって欲しいんだ。僕を…支えて欲しい』
そう言った僕の顔を驚いたように目を丸くする彼女に、僕は告白しているような錯覚に陥った。
彼女の背後から漏れる茜色の光が儚く彼女の輪郭を縁取って、そのままどこかに消えそうな彼女を僕は頷いてくれ、と祈る気持ちで見つめる。
すると、小さくだが、彼女はこくん…と首を縦に振った。夕焼けに照らされた彼女の顔が林檎のように色付いて………僕は野蛮だとは知りつつも、食べてしまいたい衝動に襲われた。
そもそも彼女の言った「寂しい」ですら危うかった。自分で自分を褒めてやりたい。
その日は当たり前だが、彼女のその風景が蘇ってよく寝られなかった。
『……よし、卒業式で…告白しよう…!!』
彼女の反応に勢いづいた僕はベッドの中で何度もそれを口に出して、来る日に向けて何度もその瞬間を練習した。
結果は、当たり前だと言えば当たり前だが、僕が生徒会長になった。
それもこれも北条さんの為に頑張った結果だろう。優しく明るい男というのは大体の人間を引き付けるらしい。僕が立候補すると、何人もが僕に入れると直接言いに来てくれた。
勿論、副会長には北条さんを指名した。生徒会長と副会長ならば、どれだけ遅くなっても一緒に居られる。
家に帰ってしまえばもう会えない北条さんだけれど、生徒会を理由に隣にずっと居てもらえる。我ながら良い事を思いついたものだ。
…でも…、と僕は冷めた目で僕の隣に居座る女子を順に見やる。
他の役員は正直凄く邪魔だ。だけど選ばない訳にもいかないので適当に女子で固めた。周りからはハーレム王とか言われたけど、北条さんと仲良くする男なんて出てきたら何するか分からないので絶対に女子にしようと初めから決めていた事だ。
北条さんは「樫野君は真面目に選んだのに…」としょんぼりしていたけれど、実はそんなに真面目に選んではいない。でも、しょんぼりと肩を落として不満げな北条さんも可愛いので訂正せずにありがとう、と言って肩に手を置いた。……本当はキスぐらいはしたいけど。
生徒会が始まると、やはり思ってた通り楽しかった。何と言っても北条さんを無条件で連れ回せる!こんな幸せがあって良いのだろうか?
大和撫子な北条さんは、決して僕の横に立たず後ろをてこてこ付いて来るのでニヤニヤしそうになる顔を必死で押し留めた。
元々、北条さんに会うまでの僕は表情筋が異常なのかという程表情が変わらなかった。前の学校でのあだ名もサイボーグだ。
でも、北条さんを見ていると努力もしていないのに勝手に口角が上がった。これがきっと恋という物なのだろう。北条さんに会うまでは幻だと思っていた。
そのおかげで、楽しくもないのに近くに北条さんが居るからという理由で笑顔が止まらなくなった。周りからは穏やかな人間に見えている事だろう。
その中でも生徒会の人間は、特に僕の笑顔に触れやすい環境に居たからか僕に好意のような視線を投げかけてくる事が多くなった。
昔から言われていた事だが、僕は顔が悪くはないらしい。むしろ笑えばかなり良い部類に入ると前の学校の悪友にも言われた。それ故彼女達は僕を間違って認識して好意を寄せているのだろう。
でも、それは違うよ?僕は君達だけでは笑わないんだ。
北条さんがいるから。北条さんが隣で笑っているからこうして無意識に笑えるんだ。
僕は北条さんの煎れたお茶を飲んで、隣で必死にスケジュール帳を見返している彼女に視線を向けて目を細めた。
……それを、生徒会の女子達に見られていたとも気付かずに。
—ある日突然、他の女子達が北条さんの煎れたお茶だけ飲まなくなった。
僕は冷めていくお茶を見て眉間に皴を寄せた。…何で飲まないのに煎れてもらうんだ。いらないなら僕にくれ。
埃が被りそうになるお茶に僕が手を伸ばす前に北条さんがささっと片付けてシンクに流してしまう。ああ、もったいない…
お前達のせいだぞ、と睨むように女子達を見ると、彼女たちは逆にシンクにお茶を流す北条さんを睨んでいた。
…お茶煎れて貰って飲まないくせに睨むって、どういう神経してんだ。
引っ叩いてやりたい衝動に駆られたけれど、暴力男は北条さんに嫌われると思い留まった。何も知らない北条さんはまたお茶を煎れなおしている。健気すぎて眩暈がしてきた。可愛すぎる…!
…全員に気が無いという事を言うべきだろうか…?いや、そうすると北条さんに被害が及ぶかも知れない…
お茶を飲みながら色々と考えてみたが、こういう時は男が出ない方が良いと聞き、僕は何も知らないフリをしてまたニコニコと笑った。
『生徒会長、どうして私じゃなくて北条さんに任せたんですか?』
北条さんが遅れているのをいい事に、役員の1人が僕に意見してきた。不満に手を震わせて庶務の女が不満を口にする。今は北条さんが居ないから良いものの…勘弁してくれ…
僕が黙っていると口々に女子達が僕の北条さん贔屓を非難してくる。当たり前じゃないか。この生徒会は北条さんありきだ。北条さんが嫌ならお前達が辞めろ。
ただ、この会話を北条さんには聞かれたくない。心優しい北条さんだ、きっと僕がスケジュール管理を無理やりお願いしたから自分ではやはり無理だったと言って辞退してしまうだろう。
でも、それは困る。僕は他の女子を連れ歩く趣味はない。北条さんだけを連れて歩きたいんだ。
なのに庶務の女がこれから僕に引っ付いて回るのか?そんな地獄ってあるか?北条さんを見れもしないそのスケジュール管理自体がそもそも意味がない。北条さんにしてもらいたいからわざわざ作ったのに。
北条さんが居ないからやる気も無くだらんと椅子にもたれる僕に焦れたように、会長!とキンキンした声で僕の鼓膜を突く女子を、一時的ではあるが宥める為に僕は仕方なく嘘を並べた。
『うーん…皆が言うのももっともだけど…あれで北条さんも頑張ってるからね…もうちょっと様子を見てあげようよ。それで改善しないなら山口さんに戻すし』
戻す訳ないけどね?
でもその言葉でもまだ納得しきれないのか、本当?という表情でそれぞれ僕を訝しんで見てきた。…面倒くさいなぁ…
ダメ押しでもう一言言うとやっと安心したようにそれぞれの持ち場に付いた。…やれやれ、北条さんが戻って来たら傷付く所だったじゃないか。そういう事は陰でこそこそ言うだけに留めとけよ…
耐えきれなくなったように出たため息は、思っていたよりも大きなもので自分で驚いてしまった。でも女子達は僕の溜息の元凶が北条さんだと思ってほくそ笑んでいる。性格の悪い奴らだ。北条さんを見習え。
…そして、その日…北条さんは初めて生徒会室に来なかった。
次の日、いてもたってもいられず北条さんよりも先に学校に来た。…一体どうしたのだろうか?…まさか、彼氏でも出来てそいつと帰ったとか?いや、そんな訳ない。あの北条さんがそんな事で自分の職務を放棄する訳がないし。…それに北条さんは僕のうぬぼれで無ければいいけれど、きっと僕に好意を抱いてくれている…
僕を見つめる瞳の奥に温もりに似た光を見た。あれはきっと僕に恋をしてくれている。
初めて気付いた時には家に連れ帰ってしまおうかと思うほど狂喜したが、彼女にも生活がある。それに聞いた話では北条さんは社長令嬢らしいので、あまりそういう行動は未来的に考えても良くはないだろう。誰かこんなに我慢の出来る僕を褒めて欲しい。
心の中で勝手に伊織と呼んでいるのは内緒だが、後々本人に堂々と言えるのを考えるといくらでも我慢が出来る。それに将来同じ苗字になるのなら北条さんと呼ぶ方がレアだから、まあ…良いかな?
そんな事を長い間考えていたのか、不意にガラガラと教室のドアが開く音がして急いで視線を向けると、驚いたような顔で後退る北条さんが居た。ああ、今日も可愛いなぁ…
そんな北条さんに挨拶をして、昨日はどうしたのかと聞いたら、どうやら体調が良くなかったらしい。…確かに、今日の北条さんは顔が少し青ざめている。
僕はいつも通り北条さんの前の席に座って、彼女の好きだというアニメ映画の話をした。でも、僕がいつも通り会話をしても、北条さんは一向に元気にならない…それどころかだんだん元気が無くなっているような気がする…。
保健室を進めようかと思った途端、チャイムが鳴り、間を置かず先生が入ってきて僕は渋々自分の席に戻った。…結局朝から北条さんの笑顔は見れなかった。はぁ……ブルーだ…
悪い事は続くもので、北条さんに今度こそ保健室に連れて行って相談に乗ろうと考えていた矢先、いつか呼び出されるだろうと思っていた担任に呼び出されてしまった。
嫌々職員室に入ると案の定テストの事で文句を言われた。テストでわざと低い順位ばかり取るのがバレているようだ。でも、あんな風に廊下に貼り出すから悪いと思うんだけど。
僕だって貼り出さないなら普通にテスト受けるけど、あんなことされたら僕が北条さんより賢いのがバレて教えて貰えなくなるじゃないか。
あ、でも貼り出すの止めないでね?あれで一喜一憂する北条さんが死ぬほど可愛いから。
言葉にそれを滲ませて笑うと先生は気味が悪そうに顔を背けた。ひどいなぁ。
途中で誰かが物を叩きつけたような大きな音がしたけれど、早く終わらせて北条さんに会いに行きたいから無視した。…ガサツだなぁ、北条さんの淑やかさを見習え。
やっとの事で教室に帰ると、北条さんの姿が無くてパニックになった。どうしよう!どこかで倒れたんじゃないか!?
周りの生徒に聞きまわっていたら、どうやら体調が芳しくないようで先程早退して家に帰ったらしい。ああ…僕のオアシスが…
こうなると僕は1日何のやる気も出ない。だらんと体を投げ出して、家に帰ったという北条さんに想いを馳せた。
今北条さんは何を考えているだろう?僕の事かな?ああ、それだったらやばいな!もう日に日に北条さんの事しか考えられなくなってきた!
僕は周りの事を気にも留めず、北条さんの些細な行動を思い起こしては1人ニヤニヤと口角を上げた。
僕の為を考えて行動してくれる北条さんが好きだ。困った時、髪をくるくる回す所も好きだ。階段から落ちるのが怖くて手すりをがっちり掴んでいるのが好きだ。僕に話しかけられて嬉しそうに教科書を擦る所が好きだ。
彼女の好きな所を上げればきりがない。兄がいると北条さんは言っていたけれど、きっと北条さんのお兄さんよりも僕の方が北条さんを知っている。
1日中北条さんの事を考えて終わる事は日常茶飯事だ。今日だっていつの間にか家に帰ってベッドに入っていた。
…明日は北条さんと何を話そう…出来れば髪を触らせて欲しいなぁ。好意の無い男に髪を触られると女の人は嫌がると聞いたけれど、北条さんは僕に触らせてくれるだろうか?
…より興奮して眠れなくなってしまった。早く寝ないと…早く、北条さんに……伊織に、会いたい……。
お決まりの言葉を最後に、僕は夢に世界へと旅立った。
思えば、この時からだ。この時から、何かがおかしかった。
北条さんは常に何かに怯えるように俯く事が多くなった。僕が覗き込むと小さく悲鳴を上げられ心臓が抉れた。死にたい。
それに気付いて謝ってくれたけど、謝るよりもキスして欲しい。でも…何故だか最近、北条さんとは視線も合わない。
生徒会室では北条さんが僕に必要以上話しかけなくなったので他の女子が上機嫌だ。鬱陶しい。
でも、その中でも北条さんの煎れてくれるお茶は唯一の癒しだ。……と、口を付けて気付いたけれど…北条さん、ちょっと30秒ぐらい長めに蒸したのかな?渋みが出てる。
お茶目だなーと笑って指摘すると北条さんはサッと顔を青ざめさせて謝ってきた。
指先が震えているのを確認して可哀想な事をしてしまったと自分を心でボコボコにした。ああっ!!やり直せるならやり直したいっ!!
そんな日が3ヵ月続いた。初めはどうしたのかと聞いたけれど、こうやって怯えているような北条さんも可愛い事に気付いてからはむしろそれを楽しむようになってきた。
僕が北条さんより先に来ていると高確率で怯えるので、可哀想な震えている手を掴んで席にエスコートしてあげた。何が怖いのかギュッと髪を掴んでいるのがすごく支配欲をそそった。北条さんと一緒に居ると僕は自分も気付かない自分によく気付く。
……でもそんな日も長くは続かなかった。
その日も僕は北条さんより先に教室で待っていた。
いつもは僕の次に入って来る北条さんは、その日は違う人に負けていた。寝坊したのかな?それも可愛いなぁ…
いつか寝てる顔も見たいなぁ…と寝顔を思い描いていると、授業開始のチャイムが鳴った。………えっ!?北条さんいつの間に来たの!?
慌てて席を見ると、北条さんは来ていなかった。……風邪をひいたのだろうか?
不安になって先生に聞くと、まだ家から連絡は来ていないらしい。どうやら家族は留守だったそうだ。
何やってんだよ家族!!北条さんが家で苦しんでるかも知れないんだぞ!?
憤慨して先生に北条さんの住所を聞いたが、教えて貰えなかった。個人情報だから無理なんだと。
北条さんはスマホも持ってないから連絡も出来ない。ああっ、家で北条さんが1人苦しんでるかも知れないのにっ!!
僕はどうして北条さんの家を把握しておかなかったのかと、先生が今日の連絡事項を話している間ずっと後悔した。
その日は心配で何も手に付かなかった。他の役員がお茶を煎れてくれたが、何が入っているか分かったものではないし、まずそうだったから飲まなかった。…ていうよりそもそも仕事する気力がない。
ああ、明日は元気な北条さんが見られるだろうか?出来ればまだフラフラしてて僕に寄りかかってくれたら嬉しいんだけれど。
……でも、その願いは踏みにじられた。次の日、学校に登校した僕は今日も北条さんが居ない事に肩を落とす。今日こそは北条さんの住所を聞いてやる!と北条さん不足でイライラしながら息巻いていた僕は朝、先生が発した衝撃の言葉に息が止まった。
『えー、クラスメイトの北条伊織だが、今日で退学する事となった。家の都合だそうだ。もう会えないがここまで一緒に学んできたクラスメイトだ。机もそのままにしておこうと思う。お前達も残りの5ヵ月、北条さんの分まで頑張るんだぞ』
『……は?』
やっと出た言葉はそれだけだった。しかしその声はざわざわと揺れる教室で誰に聞かれることも無く溶けて消えた。
……は?……北条さんが…………退学?
周りは自由に予想を立てているが、どれも僕の耳には届かなかった。だって……意味が分からない。
僕達は今高校の3年だ。こんな時期にどうして退学をする事がある?おかしい。
北条さんは決して留年するような成績ではなかった。留年が決まったショックでというのも考えられない。
じゃあ、何故?答えなんて僕が知りたい。だって…この間まで楽しく話していたじゃないか。体調は悪そうだったけれど…
そこまで考えてはたと気付いた。あ……もしかして北条さん……何か重い病気にかかったんじゃ…!?
僕はガタンっと大きな音を立てて椅子から飛び上がった。周りが僕を見て痛まし気に視線を投げかけるけれど、今の僕にはそいつ等を睨みつける余裕もなかった。
北条さんが………死ぬかも知れない…っ!!
急いで職員室に向かって、中に入ろうとしていた先生を捕まえる。せめて、電話番号だけでも聞かなければ…!!
『先生!せめて電話番号だけでも…!!』
『樫野、北条のご両親に言われたが…もう学校との関りを断ちたいそうだ。だから残念だが電話番号もお前には教えられない』
『……っ…嘘だ………だって……だって……』
呆然と呟く僕に何か言いかけたような先生が口をもごもごとさせたが、結局何も言わずに背を向けて去っていった。
僕はその場で尻餅をつくように座り込む。……どうやって立っていたか、思い出せなくなってしばらくその場に1人蹲っていると、耐えきれなくなった興奮が鼻の奥から溢れ出して滴りだした。
……北条さん………どうして?
問う相手のいない疑問は、僕の胸の中で痛みとなって滲んだ。
それからは、無気力に生きた。
生徒から要望があっても、何もする気が起きなかった。それを役員の女子がフォローしていたらしいけれど心底どうでもいい。
それよりも僕はやらなければいけない事がある。そう、北条さんの入院した病院の特定だ。
県内のどこかだと思い範囲を絞ってしらみ潰しに探していたが、結局県内の全ての病院を回っても北条さんは居なかった。どうやら県外に入院しているようだ。
学校が終わると残りの時間は全て北条さんの捜索に充てた。学校は行かないと結婚した時に北条さんを養えないので嫌々だが通っている。だが最近役員の女子も煩くなってきた……生徒会長なんて、なるんじゃなかった。
北条さんが居なくなって1ヵ月、やっと北条さんが入院している病院を見つけた。………しかし、来るのが遅かったのか…そこにはもう北条さんの姿は無かった。
『北条さんですか?あの方なら半月ほど前に入院されてましたけれど…』
そう言って受付の女は訝しんで僕を見てきた。当たり前の事を知らされていない僕を怪しんでいるのだろう。
僕だって北条さんに連絡手段があればきっと教えて貰えた!だけど北条さんの両親が学校との関わりを無理やり断つから、北条さんは僕に連絡出来なくて泣いてるんだっ!!
大声でそう怒鳴ってやりたかったけれど、きっと北条さんがそばに居たらこんな横暴な態度だと幻滅されるだろうと、ふとそんな考えが脳を掠めてやめた。きっと、大人しく純真な彼女はそんな騒音を好まない。
そしてまた振り出しに戻ってしまった。パソコンの前で僕は頭を抱えた。
…一体、一般人なんてどうやって探せば良いんだ……。
一般人……そう考えてふと俯いていた顔を画面に向ける。
『…北条さんは……社長令嬢だった…っけ?』
縋る気持ちで片っ端から北条という名前の付く社長を探す。すると、少し前までこの県に住んでいたと思われる大手企業の社長が目に留まった。
『……鼻は似てないけど…目の二重が途中で切れてる感じと、笑った時の口の端に穴が開いて見えるのが似てる…』
この人だ、と直感ですぐ思った。
場所を詳しく検索しようとしたが、流石にセキュリティが硬いというか…現在暮らしている場所の詳しい位置は流出していなかった。なので僕は直接社長に取り次いでもらい北条さんに合わせて貰おうと考えた。
学校を勝手に辞めさせるような父親だ。きっと北条さんの居場所はなかなか吐かないだろう。…それでも、何としてでも僕は北条さんのいる場所を突き止めてみせる!たとえそれが…犯罪だと言われようとも。
学校の休みの日に北条さんの父親が居ると思われる本社に来た。最悪尾行して家を突き止めるので学校が連休の時に来たが、そのせいで随分時間を食ってしまった。2週間も北条さんに会えない日を増やしてしまい、段々と元気が無くなってきた…ああっ、早く北条さんに会いたい!
希望に頬が紅潮する。久しぶりの感覚だ。もしこのビルのどこかに北条さんが居たら、攫って帰ろうかな。もうどこにも行けないように、取られないように僕の家でずっと服を着せずにベッドに寝かせておくんだ。
きっと恥ずかしがり屋の北条さんは家から出られない。学校でよくやっていたように、外に憧れるように窓から外を眺めている北条さんを背後から襲うのも楽しそうだ。
北条さんが居ないとやりたかった事がたくさん浮かんできた。それを、もしかしたら今日実行出来るかも知れないと考えると勝手に口角が上がった。これも随分久しぶりだ。
そのままの顔で受付に向かったら、学生が来たからか受付嬢は不穏な顔をした。
『…いらっしゃいませ。本日は、どのような御用で?』
『こんにちは。社長に会いたいんだ。北条社長、呼んで貰えますか?』
そう言うとより増した不穏な空気を隠しもせずに関係を問われた。関係って…義理の息子ってもう言っても良いのかな?
どうしようかと迷っていると、背後から偉そうな男が声をかけてきた。
『おい、君は…高校生か?何をしに来た?』
『…社長に取り次いでもらおうとしているだけですけど?』
振り返ると真顔の嫌味な顔をした男が立っていた。男は愛想も無い仏頂面で、それでも制服を着ている僕に驚いたのか、目を僅かに目開いて見える。
真顔でインテリ臭い目の前の男に不思議と不快感が湧く。穏便に事を運ぼうとしていたのに、僕とした事が苛立たし気に返してしまった。
反省している僕とは裏腹に、何も思っていなさそうな男に再び不快感を抱く。…何だコイツ。分かったら早くどっか行けよ、鬱陶しい。
無視して受付嬢を見ていると、その受付嬢は困惑するように「堺常務…」と男に視線を送った。………常務?
再び振り返って男を見る。コイツが、常務?…常務にしては若すぎないか?
こういうのは大体腹の出たおっさんだろうと思っていたが、どうやら本当らしい。オシャレな金のネームプレートにご丁寧にも常務と書かれていた。
じろじろと不躾に睨む僕を変わらず真顔で見るこの男に不快感の正体を確信した。
ああ、この男………昔の僕にそっくりだ。
頭の奥に、愛想の無かった頃の僕が浮かぶ。あのまま大人になっていれば僕もこうなるのだろうと何となく思った。
涼し気な冷たい目元に嘘は絶対につけなそうな硬そうな口……僕が北条さんに会って捨てた物の塊でその男は出来ていた。
男への嫌悪感の正体に気付くと、僕はこの男をバカにする笑みに変わった。これは北条さんも嫌いそうなタイプの男だ。
しかし僕の笑みに何か感情が浮かんだりもしないのか、男は一言だけ僕にその硬そうな口を開いた。
『社長は来られない。分かったら帰れ、ここは子供の遊び場ではない』
笑顔が固まった。
………はぁ?……コイツ、今なんて言った?
インテリクソ男はそれだけ言って僕に背を向けてエレベーターで上がっていこうとする。……いやいや待てよ、こちとら遊びでわざわざこんな所来てんじゃねぇんだよ。
感情のまま去ろうとする男の肩を掴んだ。自分でも力が入っているのが分かるが、今は男の肩よりも北条さんだ。
『じゃあ呼んでくれません?僕、社長に聞きたい事があるんですよ~』
口調が砕けそうになるのを必死で我慢する。嫌悪感よりも何よりも優先順位は北条さんだ。
ピキピキと顔の筋肉が引きつるのを感じる。絶対に逃がすか、と手に力をさらに込めると、男は意外にも歩みを止めて顔だけ振り返った。
その顔は何とも形容し難い複雑な顔をしていた。怒っているような心配しているような愛しいような……何とも腹の立つ顔だ。
『…伊織さんの事か?』
『……ンで…っ!!、お前が呼び捨てにしてんだよっ!!?』
重い音と悲鳴が上がった。悲鳴は受付嬢の声だ。…でも今そんな事はどうでも良い。この男…!!僕の北条さんを呼び捨てにしやがったっ…!!
インテリ男は殴られた頬を擦る事も無く何やら挑戦的な目で僕を睨みつけてきた。真顔のくせに、目だけはよく喋るようだ。同族嫌悪だろうか?僕を敵だと判断したのだろう。
『彼女はもう学校には戻らないと聞かなかったのか?もう退学した』
『知ってるわ!お前に言われなくてもっ!!だから北条さんを…伊織を連れ戻す為にわざわざ社長に会いに来たんだよ!!分かったら引っ込め!!二度と伊織を呼び捨てにするなっっ!!』
顔面をボコボコにしてやろうと殴りかかるが、うまい具合に躱され最初のパンチ以外インテリ男に僕の拳が当たる事は無かった。
あああ…腹が立つ腹が立つ!!僕が一生懸命練習して大事にしてた伊織の名前がコイツに穢された!!
きっとコイツ含め会社の連中は二度と伊織を出さないつもりだ…!ああ、可哀想な伊織…こんな所に生まれたばっかりに!僕の方が社長令息だったら良かったのに。そしたら、伊織を攫ってお金の力で伊織の存在を隠蔽して、誰の目にも触れないで一生一緒に居られたのに…っ!ごめんね。ごめんね、伊織。
悔しくて知らないうちに涙が出ていた。ああ、涙を流したのも初めてだ。…伊織は凄い。僕にいろんな感情を教えてくれる。
涙を拭う為に一時拳を止めて、手の甲で雫を拭う。すると、それを見たインテリ男が奇怪そうな声色で静かに僕に問いかけた。
『………お前…伊織さんが、好きなのか?』
『っ!!だからぁ!!呼ぶなっつってんだろうがああっ!!!』
再び無礼にも伊織の名前を呼ぶので、僕は目の前が真っ赤になって男に掴みかかろうと手を伸ばした……が、いつの間に来たのか、警備員が数人で僕を羽交い絞めにして、これ以上奴に近付く事は出来なかった。
『放しやがれえっ!!こいっ、コイツ!!僕の伊織を呼び捨てに―』
『伊織さんは先日結婚した。もうお前の物でもない。諦めろ』
…………………………は?
『………………は?』
『…伊織さんはこの間挙式を挙げられたばかりだ。夫と2人、仲睦まじく暮らしている。邪魔をするな』
………………何言っている?この男………気がおかしくなったのか?
呆然と目の前の男の目を見つめる。嘘は、見られない…。
…伊織が、結婚?僕と?……違う、僕は伊織に何ヶ月も会ってない………………じゃあ、誰と……?
『……………誰と…』
『………社長の部下の男とだ』
その瞬間、僕は気が狂う程の怒りを知った。
『おおおおっっ!!!お前らあああっっ!!!ぜってえ許さねえええっっ!!!伊織の人生を何だと思ってやがるっっ!!会社の駒の1つかよ!!返せよおっっ!!僕の、っ!!僕の伊織だあっ!!返せええっっ!!!』
声帯が切れて声が出なくなるかと思う程の声が僕の喉から出た。けれど僕はそれを気にも留めず叫んだ。
―伊織が穢された。伊織が、汚された。
僕の物だ。勝手に触れるな。僕が見つけた精霊だ。羽を捥ぐのも僕だけだ。
あと少しで男に届きそうだった手は風を切った。警備員以外の周りの連中まで僕の邪魔をしてくる。
インテリ男は僕を冷めた目で見つめると、時計を見て頬を緩め何事も無かったかのようにエレベーターに乗り込んだ。
僕はその姿を記憶に刻むように目に焼き付けた。…何故だか、男が付けている結婚指輪が光に反射して煌めく所だけは、覚える気も無いのに妙に僕の頭に残った。
—それから、僕は警察を呼ばれ…会社からは接近禁止令が出された。
迎えに来た両親が何か言っていたけれどよく覚えていない。学校に行っても先生の言った言葉を理解は出来なかった。だって聞く気がそもそも無いから。
僕の雰囲気が変わったからか、今まで接してきた人間は誰も寄って来なくなった。でもそれでいい。僕は、他の誰でもない…伊織と過ごした時間だけを感じていたいから…。
伊織の後ろの席だった僕は、黒板ではなく伊織の机を見るのが日課だ。こうしていると、伊織の後ろ姿が思い出せて幸せな気分になれる。…ああ、伊織はここに居たんだ。
…でも、そんな些細な幸せを壊しに来た奴がいた。
生徒会の誰かだった女だ。伊織が居なくなる前によく騒いでた女。伊織に仕事を取られて怒っていた女。
この女は同じクラスだったらしい。知らなかった。でも、その女は僕に話しかけるのに座りたかったのか、あろうことか伊織の椅子に座った。
伊織の椅子に。
「きゃあああああっっ!!!」
騒音でぼんやりしていた頭が覚醒する。
何だ…皆が壁に張り付くようにして僕を遠巻きに見ている。
不思議に思って辺りを見渡すと、変な物が床に転がっていた。よく見るとそれはさっきまで伊織の椅子に座っていた女だった。
ブルブルと震えて気持ちの悪い女は、丸まって涙を流しながら謝っている。伊織の椅子に座った事を謝ってるのかな?だったらその涙止めてよ。汚い。
段々と思い出してきた。そうだ。僕がこの女を殴ったんだったっけ?それと蹴ったんだ。ああ、だから皆こんなに怯えてるんだ。
スッキリしたので倒れた伊織の椅子を戻してまたうっとりと伊織の椅子を見る。ああ…後ろから見る伊織の黒髪はどうしてこんなに性欲を刺激するんだろう…
教室の窓側の後ろから2番目…その一角は、まるで時空が歪んでいるように異様な狂気に包まれていた…
気付けばいつの間にか生徒会長が新しい2年生と変わったらしい。僕は知らない間に生徒会長ではなくなっていた。でも良いんだ、別に。伊織が居ての生徒会だったから。
…そう…。ただ、伊織が居たから…生徒会長になったんだ。……伊織が………
伊織の笑顔が浮かび、僕は無意識に歩みを止めた。
『私、樫野君のサポート頑張るからね。頑張って、生徒会長』
「……っく…………い……伊織…っ……!!」
幸せだった頃の伊織の照れたような笑顔が僕の胸を突き刺した。
―ずっと、伊織は僕の傍で笑ってくれていると思っていた。僕は、いつか伊織の髪を撫でて、伊織に口付けて…伊織をこの手に抱けると、信じていた。
『僕が生徒会長になったら、北条さんには副会長になって欲しいんだ。僕を…支えて欲しい』
…あの時、生徒会の事でなく、僕が伊織に告白をしていたら…何か変わっていたのだろうか?
想像しようにも、その続きの伊織の顔がどうしても浮かばず僕は頭を殴りつけた。
「ああああああっ!!くそっ、くそっ、くそおおおおおおぉっっ!!!」
痛くないのに涙が止まらない。伊織が居ないのに感情が止まらない。
こんな事なら知りたくなかった。伊織が居ないのに、僕はずっと伊織への想いに体を焼かれ続ける。
…一体、どうしてこうなってしまったのだろう。思い出そうとしても、どこが始まりか………僕には永遠に分からない。
きっと、僕が伊織以外を愛する事は無いだろう。きっと…死んだとしても僕は伊織だけを望んで転生もせずに彷徨うと、僕自身が確信している。
僕はもう、この想いから逃げられない。伊織が誰かと結婚しても、僕だけは伊織を愛して見知らぬ男に永遠に憎悪し続けるだろう。
……—なら、いつか伊織を攫った男を見つけたら、その男を殺して伊織を閉じ込めればいい。
不意にそんな声が僕の中で囁いて広がった。
…ああ、そうか。伊織は死んでないんだからその手があった!何で気付かなかったんだろう?僕は名案に笑い声を大きく町に響かせた。
ああ、おかしくて堪らない!どうして伊織をもう手に入れられないと決めつけていたのだろう?結婚が終わりじゃあないじゃないか。…これから。これから伊織を迎えに行けば良いだけの話だ。
伊織は結婚させられたけれど、汚れたなんて僕は思わない。きっと伊織はその男に心までは晒していないはずだから。
楽しくて、嬉しくて鳥肌が止まらない。夜道の街灯が僕の行く末を祝福するように道を照らし、僕はその眩しさに目を細めて微笑んだ。
「あああ、伊織、伊織。待っててね。もうすぐ…今度こそ僕が伊織と結婚するからね。静かな邪魔の入らない家でずうっと一緒にいよう」
星の光を浴びて、スキップをしながら僕は楽しく夜道を歩いた。頭の中に、伊織と僕だけの家を建てて。
「愛してるよ。伊織」
—僕はもう、きみ以外愛せない。