感光写真の裏側
カシスソーダを飲みながら、私は少なからずほっとしていた。
居酒屋に集まった面々は、最初こそぎこちなさがあったものの、飲み放題のグラスを重ねるごとに肩の力が抜けてきたらしく思い出話も弾んでいるようだった。私もちゃんと楽しめている。四年ぶりの再会にしては上出来すぎるくらいだ。
私のひとつ上の学年と、下の学年。高校の写真部の、はじめての同窓会である。
それにしてもよく集まったものだ。個人主義の集まりだと思っていたのに、と、言い訳のように見渡し、単独行動の象徴めいて思い描いたひとをおそるおそる視界に入れる。彼女でさえも来た。
「汐崎さんはさ、」
ちょうど先輩に話しかけられている。
「今もフィルム派?」
「結局フィルムですね」
「デジタルにしないの?」
「デジタルにすると現像するのサボるんで」
そう言ってにやと笑ってみせる様子に、思わず意表をつかれて目を逸らす。そういえば案外、茶目っ気もある子だった、らしい。同期だというのに、四年のブランクのうちにイメージばかりが膨らんでいていけない。
目を戻すと彼女と目が合った。
「こっち来なよ。真梨子」
「あっはい」
「ビビってんの?」
「いやいやいや」
因縁をつけるチンピラのような物言いである。実を言うと少しビビっているけれど、これは彼女のせいではないのだ。
隣に腰を下ろすと、彼女は私のグラスをしげしげと眺めた。
「真梨子が酒飲んでるのって新鮮」
「卒業以来だもんね。てか鶴乃のハイボールには負けるわ」
「私勝ってんの? やったね」
きりっとした顔がほころぶ。ショートカットから伸びる首筋はほんのりと薔薇色をしている。汐崎鶴乃。私の代の副部長だ。ちなみに部長は私で、もうひとりは幽霊部員だった。
彼女の座る椅子の背もたれに、カメラが提げられている。
「大学でもカメラ続けてるって?」
「やってるっても、みんなスマホで撮るくらいするでしょ」
「あー、うん、それはまあ」
「サークルに入ったのをカメラを続けるって呼ぶなら、そうね」
でも結局は個人活動だからな。
訝しむように言って、鶴乃は私にスマホを向けた。レンズと見つめ合っているとカシャリと鳴る。視線を外すともう一度。グラスを傾けてもまた。横目でうかがうとまだカメラが私を見ていたので、つい、笑ってしまった。カシャリ。
「うまく撮れた?」
「送ったげるよ」
言うが早いか、テーブルに伏せたスマホが震えた。返してみれば二秒前の私の姿が届いている。と、その写真を押し上げて、メッセージが着いた。
『この後サシ飲みに行こう』
目を上げる。鶴乃は何食わぬ顔で、画面に指先を走らせている。
『22時にはお開きになるだろうし』
それを思うと、ラストオーダーはそろそろだろう。
一瞬、彼女の言葉を見つめる。それから、空になったグラスの下敷きになっていたメニュー表を引き抜き、氷ばかりになったジョッキを呷った鶴乃に手渡す。
「おっけー」
少しぎこちなかったかもしれない。両方の口元をほのかに上げた鶴乃はメニュー表を眺めもせずに、
「ハイボールお代わり」
と言った。
テーブル席に座りもしないうちから、
「で、何にビビってんの?」
と切り込んでくるので、唸りながらメニューをめくっている。一瞥してもう決めたらしい鶴乃に、頬杖でページを覗かれているのが拍車をかけてくる。
「……とりあえずホットの紅茶とミルクレープにする」
「はいよ」
サシ飲み、とは言っていたものの、喫茶店に入ることになった。朝方まで開いているというから、もしかすると終電などもう勘定に入っていないのかもしれない。アルコールでゆるんだ気持ちがまた挙動不審になっている。同窓会をすると聞いて予想された状況ではあるのだけれど。
予想と違うのは、鶴乃はどうやら激してはいないらしい、ということだ。
「ちなみに私そんなにビビってた?」
「最初に顔合わせたときもそうだし、隣来てって言ったときもだし、サシ飲みに誘ったときもそうでしょ」
「すいませんでした」
「何まだ気にしてたの?」
思いのほか穏やかな笑い方だった。私と共通のことを考えているのも確かだった。穏便な関係を保ちながら高校の三年間を一緒に過ごしてきた私たちの間で、気持ちを引きつらせるものといえば、お互いひとつしかなかったらしかった。
「みこ、来なかったな」
「そうだね」
この愛称を聞くのも、四年ぶりといったところか。
みこ、と呼ばれる後輩がいた。今日の同窓会には用事で来られなかったと聞いている。人なつっこく、部活にもよく顔を出していたから、きっとそれは嘘ではない。
でも、申し訳ないことに、少しだけほっとしてしまったのだ。鶴乃とみこが一緒にいる空間で、私は、どういう顔をすればいいのかわからなかっただろうから。
写真部では、毎年夏に合宿があった。合宿所まで出かけていって、座学をしたり、撮影会をしたりするのだ。部長の肩書きを背負っていた二年生の年はともかく、三年生にもなると随分気楽な行事になる。
その高校最後の合宿の、自由撮影時間のことだったと思う。
合宿に来ている同期は鶴乃だけだったので、森林公園内で好きに撮影はしつつも、なんとなくつるんでいた。後輩たちがしゃがみこんだり木立に見え隠れしていて、うるさいほど蝉が鳴いていた。
深い意図はなかった。無意識に鶴乃の視線を追って、何気ない感想を口にしたつもりだった。
鶴乃ってさ、みこのこと、
よく見てるよね、とか、可愛がってるよね、とか、その程度のことが続くはずだったのだけれど、最後までは言えなかった。
振り返った鶴乃が、とても綺麗な無表情をしていたからだ。
足下のキノコにしゃがんでピントを合わせていた私は、彼女を仰いで言葉を失った。私たちは少しの間、黙って見つめあい、鶴乃はおもむろにカメラを構えて私を撮った。
そのときの私がどんな顔をしていたのか、私はいまだに知らない。
ただ、ひどいことをしてしまった感触だけが残っている。フィルムカメラの裏蓋を引っかけて、写っていたはずのものを真っ白に焼いてしまったような。暗い中で守られていたものを暴きたててしまったような。
「その節は、どうも申し訳なく……」
「真梨子は悪くない。知らなかったんだから。それに私も知らなかった」
ティーカップに伸ばしかけた指を引っ込める。
「真梨子が言いかけたから、そういうことだって気づいた。誰かに撮られないとわからないこともあるよね」
淀みのない言葉。たぶん、彼女はずっと考えて、自分の中で言葉にしてきたのだ。その過程で葛藤とか、恨みとか、あったのかどうか私にはわからない。見ることが許されているのは、彼女自身が濾過した結果だけだ。
フォークを置いた鶴乃は、ズボンのポケットを探り、何か取り出した。硬い音を立ててテーブルに置かれたのは、指輪だった。
「詮索されても面倒だから外してたんだけどさ」
「えっみこ?」
「ちゃうわ。全然別の子です」
「マジか……」
「マジで」
だからさ、とさらりとした声で言いながら、鶴乃は指輪をはめた。可愛らしい銀の環は、右手の薬指に吸い付くように収まった。
「ビビんないでよ」
「それはどういう」
「私の行く末を照らしてみせたのは真梨子だけど、不幸にはなってないってこと」
とりあえず、飲み損ねたミルクティーをすする。顔を上げようとしたけれど、一秒と見ていられずにまた、ティーカップを見つめる。そのうち、表情筋を抑えていられなくなって、私は笑み崩れた。
「よく素面で言うよね?」
「日和んないで飲み屋に入るべきだったわ」
「やっぱ甘いものがほしいって言い出したの鶴乃じゃん」
「じゃあケーキ食い終わったら飲み屋行こう、どうせオールは覚悟してんでしょ」
「カノジョさんの写真見せてよ」
「酔いが回ったらな。その前にこれ」
取り出されたのは今度は指輪ではなく、写真である。しげしげと見るまでもない。私だ。
「渡してなかったやつ」
カメラを構えたまま、しゃがんだ私はこちらを見上げている。
ずっと頭に引っ掛かっていた瞬間との思いがけない再会に、今の私はどんな顔をしていたのだろう。
「鶴乃」
「ん」
「なんでこのとき撮ったの?」
「見たことない顔してたから」
即物的な理由に苦笑いがこぼれる。ただの珍しい被写体。もっと早く、ちゃんと話す機会を持っていればそれでよかったのかもしれない。
「これからも会ってくれる?」
「呼んでくれたら今まででも会った」
「鶴乃が呼んでくれてもいいのよ」
「だから早く飲みに行こうって。変に恥ずかしいわ」
会わない四年のうちに負い目が醸成したイメージはようやくぬぐい去られて、鶴乃とやっと再会した私は、すっかり渋くなってしまった二杯目の紅茶を飲み干した。