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開かない箱

作者: segakiyui

 机に向かっているといらいらする。受験日はどんどん近づいて来ているっていうのに。

 何をするのは無駄なのか、何から始めればいいのか、それだけを考えて時間がたつ。

 自分が何もしていない、何も永久にできないと怯えるだけになってくる。

 だから、僕はケータイを手にして、目をつぶっても押せる番号を押していく。

「もしもし」

『あ。ケン君?』

「あ…えーと、みやちゃん、かな」

『そう。今、みんなとケン君のこと、話してたよ』

 悪名高く、ついでに料金も半端じゃない、複数で話し合えるパーティライン。

 そこにいるのは、現実とは関わりのない僕と、電話の中にだけいる友人達。

 こんなことをしてていいのか。

 これは単なる逃避にしか過ぎない。こうしている間にも、お前はみんなに置いて行かれるぞ。

 社会に適応できない落伍者になるんだ。

 そんな心の声を無視するように、声の調子を上げる。

「うれしいな、みんな、来てるのかい?」

『きてまあーす。わっかるかなあー、ケン君』

「オオトモだろ」

『あたしもいます』

「桜子」

『さすが、リーダー。はずれなし、かよ』

「カタミチ。じゃあ、四人全員…」

 言いかけた僕の声に、もう一つ、聞き覚えのない声が重なって響いた。

『へえ、なるほど、君は声だけで相手が誰だかわかるんだね。それとも、それが、ここのリーダーだという証明になるのかな?』

「……」

 警戒して黙り込む僕をなだめるように、オオトモが口を挟んできた。

『ってこと。今日はね、新しいお客さんがいる、ってわけなんだよ、リーダー』

『自己紹介をしたほうがいいんだろうね。それとも、君達が勝手に、私に名前とイメージをくれるのかな、ケン、とか桜子、とか』

『仲間に入る気なら、ちゃんと礼儀をわきまえてほしいな。一応、ゴリッパな大人、なんだろ、おっさん』

 『よそもの』のからかい口調に、カタミチが殺気立った声で応じた。

 無理もない、とは思う。

 つい最近も、私立探偵だか小説家だかしらないが、妙に慣れ慣れしげな男がラインに接触してきて、僕達は無防備にも話し込んでしまった。ところが、その連絡の後、あることないこと週刊誌にぶちまけてくれ、社会的に不適応な人間の関わりだとか、青少年に有害なデジタル環境だとかで追及された後、結果的に僕達は、貴重なラインを一つ失うことになってしまったのだ。

 とは言え、そんなことで、こういった連絡網が消えるわけもなかった。

 ここに連絡してくるものはみんな同じ、他にわかりあえる場所も人もいないから集まっているのだ。

 ラインが切れたとたんに取った行動もお定まり、別口のラインを見つけだして、またいつの間にかこうして集まったというわけだ。

 もっとも、それ以来、僕達は『よそもの』に関して、かなり疑い深くなっていた。

 当然だろう。

『悪かったよ』

 相手は意外にあっさり謝った。

『からかうつもりはなかったんだ。まあ、昔は、なんでこんなことをやっているのか、よくわからなかったがね。最近、しみじみとわかるような状況に追い込まれてね。……どうしても誰かと話したくなったんだ……私をまるっきり知らない誰かとね……それで、電話してみる気になったんだ。気を悪くしたなら、謝るよ』

『いいわよ』

 みやがはきはきと応じた。

『メンバーを選んだり選ばれたりするのには、みんなうんざりしているの。それより、どうして、最近、こんなふうに集まる気持ちがわかったの、おじさん?』

 いつもの思いやりのある声で、『よそもの』の話を促した。

 そうなっては、このラインの仮にも『リーダー』と呼ばれている僕が黙っているわけにもいかない。

 僕はゆっくりと言った。

「その前に、名前を聞いておこう。まあ、あんたさえいいなら、おっさんでも、おじさんでも構わないけど」

『おっさん、はあんまりだよ。そうだな…』

 相手は少し口をつぐんだ。予想以上に長い沈黙で、こちらが不安になりかけたときに、妙に皮肉な口調で、

『ボックス、というのは、だめかな』

『どういうボックスですか?』

 桜子が控えめに尋ねた。

 自称、箱入り娘だから、気になったのかもしれない。

『ボックスはボックスだよ。「箱」だ。私のいるところだ』

『いいぜ、話しなよ。どうして、ここに電話する気になった? 女に振られて、部屋にでも閉じこもっているのか?』

 カタミチのことばに、くすくす笑いが起こった。

 カタミチは、星の数ほど女を泣かしている遊び人、ラインへの参加もデートの合い間だとか言うことで、あんまり頻回にはかけてきていない。

『実はね……私は監禁状態にあるんだよ』

 ボックスのことばに、一瞬意味を計り兼ねて、みんなが口を閉ざした。

 監禁。

 大げさなのか、それとも、本当にそのことば通りに、どこかに閉じ込められているのか。

 犯罪がらみは嫌だな。

 そんな雰囲気が広がった。


 疑問を口に出したのは、やはりみやだった。

『どういうこと?』

『話してもいいかな……話さないほうがいいかもしれない。君達に迷惑がかかるかもしれないし』

 言いかけたくせに、ボックスはそんなことを言った。そのくせ、電話の向こうで、にんまりとほくそえんでいるような奇妙な沈黙が続く。

 破ったのはカタミチだった。

『迷惑っても、どうやって迷惑をかけるんだ? 俺達はお互いまったく知らない他人同士だぜ。ここでのことをしゃべらない限り、俺達の間には何の関係もない。年齢も仕事も……住処も名前も……本当のことは、誰も知らない。俺が明日あんたとぶつかっても、あんたには俺だとはわからないぜ』

 みんなが無言で頷いた気配がした。

 それはそうだ。いや、むしろ、僕達はそれを求めて、このラインに参加していると言ってもいい。

 ラインに参加している僕と現実の僕は別物だ。

 ラインの中では、僕は冷静沈着なリーダーを演じているが、現実の僕は……ただの二浪している予備校生、ラインの参加費を稼ぐためにアルバイトに振り回されて、受験勉強もままならない男に過ぎない。

『じゃあ、話そう……あ、ちょっと待ってくれ……急に用事が入った……また、電話するよ』

 ボックスはいきなり慌てたように吐き、僕達が引き留める間もなく、ラインから離れる微かなチッという音が響いた。

『何だ、あいつ』

 すかされてあっけにとられたらしいカタミチの声が、不愉快そうに呟く。

『まあ、次の参加を待ってみようよ。なかなか、面白そうじゃないか』

『どうして、ボックスなのかしら』

 オオトモのことばに重ねるように、桜子が尋ねた。

『箱にいる、って言ってたな』

「箱、っていうのは何だろうな。建物か? コンテナ、とか」

 カタミチに応じた僕に、オオトモが笑いを含んだ声で、

『普通、コンテナにはすまないよねー、どこの港にいるんだろ?』

 むっとした僕が黙ると、みやが、

『ケータイよね、たぶん。何のために電話してきたのか…』

「犯罪がらみは困るな」

 僕はほっとして応じた。

「まあ、とりあえず、次の参加に注意しよう。かけてくるとは限らないし」

『わかった、じゃ、俺、デートだから』

 カタミチが同意した。

『じゃ、ね』

『またな』

『さよなら』

 次々切れていく声を名残惜しく聞いて、僕もケータイを切った。

 時計を見ると、もう夜中の三時を回っている。今ごろ、ほかの受験生は夢中になって参考書を見ているんだろう。

 焦りがじんわりとにじんでくるのを振り切るように、僕はベッドに転がり込んだ。


 数日後、僕は、バイトから帰るなりケータイを取り出していた。

 ここのところバタバタと忙しくて、なかなかラインに参加できなかった。

 ボックスの話が終わってしまっていたらどうしよう。みんなの話題から、僕一人が取り残されてしまう。

 いらつきながら番号を押し、二度も掛け間違えて、ようやくラインに参加する。

『ケン君? ひさしぶり』

「桜子か……ほかは?」

『まだよ……ああ、入って来たみたい』

『ちわ』

『……よっす、あいつは?』

『ボックス、加わってる?』

 ラインに参加してきたみんなが、あれからまだ誰もボックスの話の続きを聞いていないようで、僕はほっとした。

 待つこと数分、微かな接続音とともにボックスが加わり、間があいたことの詫びを言って話し始めた。

『私の仕事はいろいろだ。あるものの販売ルートを設定することもあるし、それらの開発にも取り組んでいる。また、他所から出た製品の性能を検証することもある。もちろん、新製品の開発にも努力している。まあ、一種の企画開発、といったところだ』

 企業戦士か、と僕は心の中で呟いた。

 バブルが弾けてからこっち、いろんな価値観が交じり合って、それでも成功こそが人生の究極の目的だという神話は消えていない。むしろ、バブルが弾けたからこそ一層、絶対に崩れない成功は、なんてことが大真面目に追及されている気がする。

 けれど、そんなものが、本当にあるんだろうか。

 いずれは僕も遅かれ早かれ、そういう渦の中に飲み込まれ溺れていくに違いない。他のどんな可能性も考えることもなく、死ぬ前に成功することだけを夢見て。

 もっとも、今はそんなセイカツさえなじめないけど。

『集められた部下は優秀、開発した製品は順調な売れ行きを見せている。家族は残念ながらないが、私は十分幸せだった』

 ボックスは淡々と話を続けた。

『そんな私のところへ、ある日、一つの古びた箱が持ち込まれてきた。縦十センチメートル、横二十センチメートル、高さ十センチメートル。ちょうどオルゴールのような、留め金を外すと跳ね上がる蓋がついている木の箱だ。なんでも、海底の古代遺跡から発見されたものだという。よくある話だが、その古びた箱の中にはとてつもないものが眠っている、という。それが明らかにされれば、人類の歴史が変わるかもしれない。私達は興奮して研究にとりかかった』

 ボックスは吐息をついて、すぐにことばを継いだ。

『箱には鍵穴が一つあるだけだった。それも穴の周囲の金属が腐食し始めているような代物だ。簡単な仕事のように思えた。だが、箱の分析結果は予想を越えていた。粗末な木箱に見えているのは見かけだけのこと、内側によくわからない金属の層があることが確認された。ただし、その金属の層も、外側についている鍵穴となんらかの方法で連動しているらしく、鍵を開けるか、もしくは鍵を破壊してしまうかしなければ開かないこともわかった。依頼主に確認すると、方法はどうでもいいが、できるだけ中身を傷つけないようにしてほしいという。鍵穴は金属の腐食が激しくて使えそうにない。残ったのは鍵穴を壊すことだけだ。ところが、このぼろぼろの鍵穴はとんでもない代物だった。穴の形さえ定かでなくなりつつあるのに、壊すとなると何も歯がたたない』

『ガス・バーナーは?』

 カタミチが割って入った。力を得たように、じっと静かに聞き入っていた他の連中も、夢から醒めたように口を開く。

『レーザーとか』

 みやの声。

 その口調の妙にきっぱりしたものに、いつものように僕は違和感を感じた。


 みやは普通の女子高校生だと言っている。

 けれども、ときどきどきりとするほど容赦のないところがあって(それは、保護され庇われている学生が身につけられるほど甘いものではなく)、僕はそのたびに、みやの本当の姿を感じ取ってこわくなる。

 ひょっとして、このグループの中で現実にこれという拠り所を持っていないのは僕だけなんじゃないのか、と。

 まるで、それを裏付けるように、オオトモの声が響いた。

『酸、あるいは塩基性の腐食剤』

 いつもへらへらとして軟派ぶっている奴にしては、ひどく現実的な声だった。

 それを感じたのは僕だけではなかったらしく、カタミチがどこかからむような口調で、

『へえ、オオトモ、まともなことも言えるんだな』

『ばかにするなよ、これでもT大の大学院……おっと』

『へえ、オオトモ君って、T大だったの。知らなかった』

 桜子が心底感心したような声をあげて、僕は落ち込んだ。

 そんなに順調に人生やっている男が、こんなところへ電話してんじゃねえよ。

 心の中でぼやいてみせる。

『どうして、ここへ電話する気になったの?』

 みやの声がした。

 みやもオオトモに興味を持ったのか、結局この世の中は力のある奴に有利にできているのか、と僕はますますがっかりした。

『教授にこきつかわれ、学生にからかわれ……院生なんていいもんじゃないさ』

 オオトモは苦々しい口調で吐き捨てるようにつぶやいた後、

『それより、さあ、今話してるのはボックスのことだろ? 続きを聞こうよ』

「もちろんだ」

 僕は我に返って急いで割り込んだ。

「ボックス、すまない、話を続けてくれないか」

 だが、ボックスの返事はない。

「ボックス?」

『切ったんじゃねえのか、別の話が始まったんで』

 カタミチが言った。

「ああ、そうかもしれない」

『だけど、今の話。何か変よね』

 みやがゆっくりと言った。

『海底から引き上げられた小箱か。中に何が入ってると思う?』

 オオトモが尋ねる。

『お金』

 打てば響くように答えた声に、瞬間みんなが口をつぐんだ。

「え? 今の、桜子?」

 ややあって、みやが尋ねた。

 それほど、その声はいつもの桜子らしくなく、切羽詰まって聞こえたのだ。

『金って、おまえんところにゃ、腐るほどあるんだろうが』

 カタミチがあきれたようにまぜっ返す。

『え……うん……そう、そうよね……ごめん、あたし、もう切る。じゃ、ね』

『何だよ…感じ悪いな……俺ももう切るぜ』

『じゃ、ぼくも』

 急にばたばたあわてたように三人がラインから離れ、僕はみやと二人で残された。


『ケン君、聞いてる?』

「うん」

『桜子、本当は、お嬢さんなんかじゃないのかもしれないね』

 僕は答えなかった。

『ひょっとして、本当は、お金に困っているのかもしれない』

「いいじゃないか、そんなこと」

 我慢できなくなって、僕は言った。

「実際の桜子がどうだって、ここではそんなこと、関係ないはずだろ? オオトモがいけないんだ、変なところで我に返ってしまうから、おかしなことになったんだ」

 僕の剣幕に驚いたのか、みやは黙り込んだ。

 やがて、

『うん……そうだよね。そんなこと、関係ないもんね。……でも、ケン君』

「何?」

『ケン君でも、そんなふうに怒ることがあるんだね』

「え?」

『いつも冷静で、何が怒っても僕は動じません、って雰囲気だったでしょ? それが何か得体が知れなくて……正直、気味が悪かったの』

 みやの声がどこか自分を嗤うものになった。

『おかしいわよね。相手の身元がどうだとか、家族がどうだとかいうのが嫌で、ここへ電話してきているのに、いざ何もわからない人と話そうとすると、どこか構えちゃう……』

「みんな……そうだろ」

 僕はオオトモのことばを思い出していた。

「ここへ電話してきたって……自分は捨て切れないんだ……ふとしたはずみで、『ぼろ』が出る…」

 そうだ、僕はわかっている。

 いくらラインに参加してても、みんなと騒いでいても、ふと我に返ったとき、僕は嫌でも僕に戻る。

 どうしようもない、人生の失敗者になりかけている僕に。

 それが嫌さにまた電話をかけて………。

 つまりは、永遠に自分の好み通りの夢を追っているだけ、誰に言われなくても、そんなことは自分が一番よく知っている。

 現実は、僕の努力なんかこれっぽっちも振り返りはしない。

 だからといって、ここに電話しても、何が解決するわけでもない、ってことさえも。

『でもね……私、ここに参加して、少し救われた気がしてるのよね』

 みやがためらいためらい言った。

『ここへ電話するまでは、私、自分だけが社会から落ちこぼれているから、こんなことをするんだ、と思ってたの。自分だけ、この社会に適応できていない欠陥人間だって……』

 それは、僕もおんなじだ。

『私だけじゃない。寂しく放っておかれてるのは、私だけじゃないんだ、そう思えるようになったから……でも、今は少しそれも卑怯かなって、思うけど』

「何が卑怯なんだ?」

 考える前に僕は問い返していた。

「どこが?」

『それって、赤信号、みんなで渡れば怖くないってことでしょう? 落ちこぼれてるのは自分だけじゃないんだ、ああ、よかったね、みんな一緒だから、って。結局ね、みんなの中に居たいのは変わらないの。そのうち、きっと気になるわ。このラインからこぼれるんじゃないか、って』

 僕はどきりとした。

 ほかでもないこの僕が、ボックスの話に関して抱いていた不安が、まさにその通りだったからだ。

『でも、そうやって、どこまでいけばいいのかな、って思うの、最近。落ちこぼれる、落ちこぼれるって、いつまで考えてなくちゃいけないのかな、って……死ぬまで?』

「死?」

 おうむ返しに応じながら、僕は返答に困っていた。

 そんなことを言われたって……そんな先のことを言われたって……それまでに、長い長い人生という奴が横たわっているのだ。

 大学へ入って、卒業して、就職して、そこそこの給料をもらって、結婚して、子どもができて、その子どもを学校へやって、結婚させて、孫が生まれて……まだまだ僕らは死なないだろう。

 何十年もの間、落ちこぼれて生きるのは苦痛以外のなにものでもないに違いないじゃないか。

「そう、すぐには…死なないから……平均寿命はどんどん伸びてるし……臓器移植やクローンだって、もっと進めば…」

 僕らの人生は、もっととても長くなる。

 歯切れの悪い僕の答えに、みやは失望したようだった。

『……そうよね……でも……』

「でも…何?」

 みやがいいたいことがなんだかわかってきたような気がした。

『私達が落ちこぼれてしまうのを気にするのは……人生が長いせいかも知れないわね』

 夢を見ているように虚ろな声でみやは言った。

『どこかで一歩間違うと、やり直せないまま、長い時間をすごさなきゃいけないような気がするの……長すぎて、手に負えない、みたいな』

「みやちゃん、僕、もう、切るよ」

 僕はぽつりと言った。

 みやの話を聞いていると、自分がますます努力もしない情けない人間になっていく、と指摘されているような気もしてきた。

『ああ、ごめん。私も、もう切るわ。おかしなこと言って、ごめんね』

 みやがいつもの口調に戻って明るく笑い、僕は深く溜め息をついて電話を切った。


「おーい,健一!」

「はい!」

 僕は整理の手を止めて、倉庫から顔を出した。

 売り場主任が手招きをしている。妙ににやにやと機嫌がいい。

 その横に、見慣れないおっさんが一人いる。

「何ですか?」

「ああ、この方はね、このチェーンの店のオーナー、酒田さん」

 おっさんが心持ち頭を下げるのに、僕も慌ててお辞儀をした。

「君に話があるそうだ」

 いつもは、おまえ、とか、健一としか呼ばないのに、主任は君などと呼んで、僕とおっさんを奥の部屋に案内した。

「実はね…ここの店を持ってみないか、とオーナーはおっしゃってるんだよ」

「ええ?」

 僕は驚いておっさんの顔を見た。

 おっさんは穏やかに笑って見せて、

「ここ数日、仕事ぶりを見せてもらった。熱心だったね。どうだね、一度、店を持ってみないか?」

 冗談ではないとすぐにわかる生真面目な口調だった。

 熱心、というのは、電話代のためなのだが、もちろん、そんなことは誰にも言っていない。

 大学をどうする、という戸惑い、認められたんだという嬉しさがごっちゃになって、僕はようようことばを絞り出した。

「考え、させて下さい」

「わかった…いい返事を期待しているよ」

 オーナーはそう答えて腰を上げた。

 確かに、この店は働きやすかった。仕事も嫌いじゃなかった。いや、むしろ、少しずつ興味が出てきた、と言ったほうがいい。

 でも、だ。

 この社会で、大学も受からない男がやっていけるのか。今はいいとして、歳を取ったら? 店がつぶれたら?

 僕の頭は、急に飛び込んできた話でいっぱいになっていた。

 ふらふらと家に帰って、気分転換のつもりでかけたラインで、いきなり話が始まっていて、ちょっとびっくりした。

『…つまり、その箱には、何にも歯がたたなかったってわけだな?』

『ちょっと待って……今、入ってきたの、ケン君?』

 カタミチの声に続いて、みやが確認してくれた。

「うん。話を中断させてすまない。続けてくれ」

 僕は頼んだ。

『ああ、わかった』

 ボックスのしわがれた声が応じた。

『けれども、どうやら、昔の人間は鍵穴に合わせた鍵を造ろうとしていたらしくてね、途中まで鍵穴を分析したらしい図が見つかったが、今では意味がない。そこで、我々は鍵穴を壊す機械から開発して、やっとのことで鍵を壊し、ふたを開けることに成功したんだ』

『中には何が入ってたの?』

 この間から、どうも様子がおかしい桜子が、やっぱりせき込んだように尋ねた。

『……何も』

 一瞬の緊張の後、あざ笑うようなボックスの声が響いて、僕は力を抜いた。

『何も?』

『空っぽ?』

 カタミチと桜子の声が同時に応じる。と、それに重なるように別の声が飛び込んできて、僕達はぎょっとした。

「さくらチャン! また、お店の電話使ってんの。いいかげんになさいよ。あんたの稼ぎでもばかにならない額でしょ、それにね、いくら売れてない店だからってね、男がいる限り、ご指名がいつ来るかわかんないのよ!』

『あ…あ…ごめんなさい、また今度!』

 桜子のうろたえた声を遮るように、歌うようなキンキン声といきなりボリュームを上げた派手な音楽が鳴り響く。

『いらっしゃいませ、いらっしゃいませ、どなたさまでも明るくお遊びいただける、楽しいお店、サロンピンク…』

 ガシャッ!

 電話が壊れたんじゃないかと思うほどの音を立てて、桜子は電話を切った。

 気まずい沈黙の後、みんなの頭にあったのは、もう桜子はこのラインに参加してこないだろうな、という予感と一つの事実、だっただろう。


 それを口にしたのは、ボックスだった。

『お嬢様、じゃなかったみたいですな』

「いいだろ、そんなこと」

 そのまま黙ってしまうと、自分まで正体を晒してしまいそうな気がして、慌てて口を挟んだ。

「そんなことはどうでもいいんだ。誰であろうと構わないんだ。どこの誰でも、どういう事情でも…』

 言いながら、あっさりうろたえてしまった自分が情けなく、恥ずかしかった。

 そうとも、僕らは…いや、僕はただの浪人生にしか過ぎない。

 このラインの一時だけ、能力のある信頼のおけるリーダーになる、逆に言えば、このラインの中でしかリーダーになれない、夢の中の男でしかない。

 桜子もまた、そうだったのだ。

 彼女もラインという夢の中で密やかな呼吸をするしか、自分を生かせない人間だったのだ。

『うろたえるなよ、ケン』

 珍しく、慰めるようにカタミチが言って、僕の恥ずかしさは頂点に達した。

 みやもこれを聞いている。

 リーダーなんかじゃない、弱々しい僕の姿を想像してしまっているだろう。

『俺だって、本当は岬予備校の…』

 なおもことばを続けるカタミチの声に、叫んで電話を切る。

「やめろ!」

 突然の沈黙。

 どうしてみんな、正体を見せたがるんだ。

 どうせ遊びの仲間じゃないか。本当に理解されたいなんて思ってやしない。

 それなのに、どうして自分から、ぼろぼろ『本当の姿』の告白ごっこなんか始めてしまうんだ。

 それは、結局、あいつらがそれなりに現実の中で足場を持っているということじゃないのか、僕みたいに宙ぶらりんじゃなく。

 店を持ったら、少しは僕にも足場ができるのだろうか、この世界の中で。

 それとも、より一層ひどい状態に追い込まれて、今度こそ、自分の無力さを思い知らされて、完全に社会から落ちこぼれていくんじゃないのか。

 これって、どこか卑怯よね、とみやが呟いた気がした。

 しなきゃならないことに怯えて、目を背けてるだけ、だものね…。

 でも、世の中は失敗を恐れている。

 父も母も、僕が失敗することを恐れていた。

 失敗するのは最悪だ、と、育てられてきたんだ。

 できるだけ失敗しないように、注意深く、成功者の道だけを選んで生きること。

 じゃあ、店を持つのは、失敗につながるんだろうか、成功につながるんだろうか。

 どちらへ道は続いているんだ?

「あ」

 そのときになってようやく、僕は、あのまま仲間と話し続けているよりもみっともない失態を演じてしまったことに気が付いた。あの切り方じゃ、かえって変な奴だと思われたに違いない。

「…くそ…」

 僕は部屋の真ん中に座り込んだ。

 いつもこうだ。

 いつも肝心なところで、取り返しのつかない失敗をするのだ。

 受験前日に神社へお参りにいったときもそうだった。

 雨が降っていて、なんだか体が疲れてたけど、明日だからと無理をして、当日の朝、熱を出した。

 それをしているときは、最善の方法のように思っていて、何もかも終わってから間違いに気づき、その馬鹿さ加減に二重に落ち込む。

 そうして、ますます、失敗したくない自分と失敗しかできない自分のギャップが開いていくのだ。

「一生……こんな人生かな…」

 僕はどさりと後ろに倒れた。


 次にラインに参加するのは、さすがにちょっと間を空けた。

 みんなが僕のことを忘れ切ってはほしくない、けれども、僕のしたことは忘れていてほしい、そんな微妙な頃合い。

 ラインにいたのは、みやだけだった。

「ほかのみんなは?」

『ケン君? みんな、参加してないわ、ずっとよ』

「ずっと?」

 僕は眉をしかめた。

 僕が参加しにくかったのはわかるとしても、カタミチやオオトモまでが参加していないのはわからない。

 そう言うと、みやは少し黙り込んだ後、何かが奥歯に挟まったような口調で言った。

『…笑わないでね。あたし達、とんでもないことに首を突っ込んだのかもしれないの』

「なんでさ」

 みやの口調の固さに不安になって聞き直す。

『あのね、あたし…あたしね……ある調査機関にいるの』

「うん」

『で……あのボックスの話が気になってね、調べてみたの。ボックス、政府管轄のある研究所からかけているのを確かめたの』

「おい! それって……ルール違反だぞ!」

 じゃあ、みやは調べようと思えば、僕のことだって何だって、お見通しだったわけじゃないか。それも知らないで、僕は一生懸命演技を続けていたっていうのか。

 ところが、僕のぼやきは、次のみやのことばに吹っ飛んだ。

『その研究所っていうのが……表向きは違うけど…本当に、危ないところなのよ。細菌兵器とか……そういうのを専門にしているところで……』

「細菌……兵器……?」

『も一つ、気になったのよね。…ケン君、今朝の新聞、見た?』

 まぎれもなく、大人の女の声になったみやが尋ねた。

「う、ううん」

 僕は押されるように首を振った。

『三面記事にね、ちっちゃくだけど載ってるわ。T大学院生、事故死、って』

 どくん、と胸が打った。

『大橋智久…オオトモ、だと思う』

「待てよ」

『彼は酩酊状態にあった、って書いてあったけど……覚えてない? オオトモって、呑めないのよね。付き合いが悪くなるから、回りには隠してるって言ってたでしょ』

「ああ……だけど……それじゃあ……待てよ…待ってくれよ…」

 自分の声がか細くなるのがわかった。

「そんな…そんなことって…」

『とにかく、あたし、ここから手を引くからね。さっき、あたし、カタミチにも電話したんだけど、連絡がつかなかった。桜子も、よ。よくわからないわ、よくわからないけど、あたしは手を引く。ケン君も手を引いたほうがいいわよ、できれば番号変えて、引っ越せればいいかもしれない。じゃ、ね』

 みやは話を切ってラインから離れた。

 そんなばかな。

 何だって? オオトモが殺されたっていうのか? …ボックスの話を聞いたせい、で?

 僕は急いでケータイを切った。そのまま逃げるように部屋を出て、バイトへ向かった。


 それから数日、バイトをしながら、心の中には、ボックスの途切れた話とみやの緊迫した口調、バイト先の朝刊で確かめたオオトモかもしれない事故死の記事で一杯だった。

 もし、あれが本当にオオトモだったら。ボックスの話を聞いたせいだとしたら。

 その先を考えまいとして、僕はバイトに打ち込んだ。体をひたすら動かして疲れ切って帰ってくる。主任は「店の話が励みになったか」と笑っている。

 けれども、一人になると、あの疑問が心にどす黒く広がってくる。

 もし、みやの言っていることが本当だったとしたら……僕は……どうなる?

 目に見えない壁に少しずつ閉じ込められていくようなある日、僕は再びラインにつないでいた。

 かたわらには、二枚の新聞記事がある。

 一枚は、やくざに殺された『サロンピンク』のさくらと呼ばれていた娘の記事。もう一枚は受験ノイローゼで自殺したと思われる学生の記事。

 学生の口癖は『片道切符しかもたされなかった人生だ』だったそうだ。

 誰もそれが桜子とカタミチのことだとは証明できない。みやのほうもあれから何の連絡もない。

 けれど、いや、だからこそ、というのか、罠と知っていて引き寄せられる小動物のように、僕は電話をかけていた。

『……もしもし……やあ、久しぶりだね……えーと、ケン君』

「そうですね」

『他人行儀だな……いつぞやの元気はどこへいった?』

 どこか疲れたようなボックスの声が、まるで待ち構えていたかのように、見えない暗がりのそこから響いてくる。

「…話を……聞きたくて」

 乾いてくる喉に唾を飲み込んで、僕は言った。

「いつかの……あの話です」

『ああ……どこまで話したかな』

「鍵穴を壊したところ…」

『よかろう……だが、君も何か知っているんだろう……みや、とかに聞いて』

「……確かめたいんです…」

 僕は答えて、それが心の底に隠れていた真実のことだとふいに気が付いた。

 この数日間、僕は怯え続けていた。

 みやから、オオトモらしい男の死を聞かされてから、いや、本当は、それよりずっと前から、いろんな時に、いろんなものに対して。

 そして、僕の不安はもう限界だった。

 これ以上、わけがわからないままいられない。

 そんな奇妙な強迫観念が、夜となく昼となく、僕の心を圧迫し始めていた。

『……君は強いな…』

「強くなんかない」

 僕は否定した。

「ただの、二浪した、アルバイト代も親からの仕送りも、こんなことにつぎ込んでいる情けない奴だ……落ちこぼれないようにとばかり考えて、うまくいかないんじゃないかと怯え続けて……でも、もう、これ以上、わけがわからないまま怯えられないんです……もう、たくさんだ」

 そう。

 あるかないかわからない将来の展望とか、持つかどうかわからない家庭とか、そういうもののために、人の波の中で不安だけを握り締めているのは、もう、たくさんだ。

『……鍵は開いたよ。だが、中には何も入っていなかった』

「それは聞いた」

『ところが、中には確かに入っていたのだよ、とんでもないもの……ある細菌が』

 僕は凍りついた。

『空気感染する。新しい種で、感染すると一定の潜伏期間を経て発病する。幻覚、幻聴、嘔吐にめまいが続き、ものが食べられなくなる。抵抗力が落ち、感染症に簡単にかかる。発病後、数日で原因不明の呼吸停止を起こし、死亡する。死亡率は今のところ、百パーセントだ』

 ことさら淡々と話すボックスの声に、僕は唾を飲んだ。

『研究所はあっと言う間に死の家になった。それでも、国家というものは化け物だな、外部から人を送り込んで、何とかその細菌を支配しようとした。ワクチンや解毒剤か……そういったものがわかれば、その細菌は最高の武器になる。…ところが、わかったのは、通常考えられる破壊……熱や酸や塩基、低温、真空、他の細菌による生物的破壊、放射能……そういったものでは効果がないということだけだ……人がバタバタ死んでいく。それでも研究は続けられた。ようやく、ある化合物が、この細菌の働きを低下させるということがわかった。その構

成を分析していると、何かに似ている、と一人が言い出した。……何だと思う?』

 暗い笑いが満ちた。

『鍵……さ。言っただろう、鍵を造ろうとしたらしい図があった、と。鍵なんかじゃなかったんだ。細菌を閉じ込めて、その働きを支配する化合物の構造を、鍵穴に残していたというわけだ。……悪魔のユーモアじゃないか。……鍵穴を壊すことでしか、中のものを手に入れる方法を思いつかないようなものは滅ぶしかない。……それを正しい方法で扱えるものにしか、神の力は与えられない……昔から人類が何度も教えられてきたことだったのだが、ね…』

 僕は息を殺してボックスの声を聞いていた。

 ボックスの声はしだいに低くかすれていった。

『もう……話は長くない……巻き込むつもりじゃなかったが……いや、巻き込むつもりだったのかな……』

 くっくっく、と押し殺したように笑うボックスの声に混じった、ボタボタと言う水の滴るような重い音に、僕は身動きさえできなかった。

『……研究所は封印された。この細菌を封じ込めるためには、もうそれしか手がない、、と判断されたのだ……我々を閉じ込めたまま…ね……』

 死の家。

 死が閉じ込められた、巨大な箱。

『……私が……電話したのは……そういう…わけだ…』

 声は途切れた。

 そしてどれほど待っても、もう二度と聞こえてこなかった。


 僕はケータイを切った。

 そして、人が開けてしまったとんでもない箱と、それもろとも山ほどの死体を封じ込めた、もう一つの大きな箱のことを思った。

 現代科学の粋を集めて、封印は施されたことだろう。

 けれども、それが絶対開かないと、誰が保証できるのか。

 現に、ボックスは、遠い昔に、おそらくは細心の注意を払って封印されていた小箱を、何の考えもなく開けてしまったのだ。

 ただ、中身を見たいがために。

 いつか、誰かが、真実を知っている僕達が考えもつかないような気安さで、死ばかりが詰まっている箱を、何の覚悟もなしに開けてしまうに違いない。そして、僕達は理由を考える暇もなく、ばたばたと死んでいくのだろう、あの大きな箱に詰められた人々のように、この地球という閉ざされた巨大な箱の中で。

 なぜか少しずつ、不思議に落ち着いた気持ちになっていくのに気がついた。

 僕は秘密を知っている

 それを知っているがために、この先見えない敵に狙われ殺されていくのかもしれない。

 けれど、それはみんな同じじゃないか、と。


 あの箱は、明日にも誰かに開けられてしまうかもしれない。そして、人類は一カ月もたたずに滅んでしまうのかもしれない。

 だがそれは、もともと、みんなが持っていたものなのだ。

 本当は、みんな死という箱を抱えて歩いていて、それはある日突然、偶然のように開けられてしまうのだ。

 きっとそれは、あるかないかわからない、どうしようもない失敗や悲惨な人生とかいうよりも、よっぽど確かなものに違いない。

 もう、何にも怯えることはないのだ。


 僕は立ち上がり、バイトにでかけた。

 店を持ってみるのもいいかもしれない、と思いながら。

 もう二度と、このラインを使うことはないだろう。


                         おわり

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― 新着の感想 ―
[良い点] 理想と現実のギャップが激しい彼らの姿を描いているからこそ、劇的な変化があるわけではなく健一自身がしてきたことが活かされた結末だったのが、地に足がついていてよかったと思います。 ネットの世界…
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