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人生の氷河期

作者: 倉紀ノウ



 五十で会社を辞めて、それからまともな仕事が無い。

 

 人並みに給料を得ておらない。しかし、今日は運良く仕事が入った。一日八千円の仕事。内容はというと、ビルの倉庫内の荷物を移動させる仕事だという。おそらく重労働だろう。詳しいことは、行ってみないことには分からない。

 

 以前、ワークマンで購入した安い手袋とマスク。それが鞄に入っているか、少し鞄を開けて確かめた。ちゃんと入っている。

 

 時刻は朝七時。いつもより早い。

 

 現場で使うマスク、手袋などは自分で買わなければならない。シャベルまで自分で買えと言われたことがある。コンビニで手袋やマスクを買うと高いので、あらかじめ安いものを用意しておく。以前、菓子焼成機の解体をしたときに、アスベストが大量に出てきたことがある。そのとき私は、マスクなど就業先の会社が用意してくれるものだと思っていたが違った。社員はマスクをしていたが、私だけマスクをせずに一日中作業をした。

 

 私は日雇いだ。冷凍庫の中で八時間働けるか、と聞かれて、そんな仕事はできない、と断ったらもう次が来ない。今日入った仕事が、今月最初の仕事である。もう、十五日なのに、労働日数は一日。

 

 私のように五十過ぎた男というのは、日雇いの中でも過酷な仕事しか回って来ない。なんというか、両手さえあれば誰でもできる仕事しか回って来ない。プライドばかり高いくせに、大して動けない。扱いづらい。そう見られている。

 

 前から日雇いで貧乏して生きていたわけではない。大手の会社役員で、むしろ裕福な方だった。金は湯水のようにあった。外車やクルーザーも好きに買えた。豪邸に住んでいたこともある。しかし、気がつけば金も、買ったものもどこかへ消えていた。金ならいくらでもあった頃は、いくら使ったのか分からないほどだった。全く金の勘定をしなかった。だから、無尽蔵に思えた財産はいつの間にか借金に変わり、カードが使えなくなってからようやく事態に気づいた。豪邸を任意売却し、他の財産を処分しても、まだ借金の方が多く残った。数年も前の話だ。

 

 去年の十一月から派遣切りにあって、とにかく金が無い。工場の長期派遣のはずだったのだが、急に仕事がなくなってあっさり切られた。それからは日雇い。先に述べたように、毎日通う現場が違う。毎日といって、毎日仕事があれば嬉しいのだが、月に八日ほど仕事があれば良いほうだ。月三万のアパート代は滞納している。今の場所を追い出されたらもう、アパートを借りる金などないので、社員寮に住むくらいしかない。だが、それは無理だろう。生活保護という手もあるが、私には弟がいる。弟は家庭を持ってまともな生活をしているので、生活保護は受けられない。私のような尾羽打ち枯らしたむさい中年が、弟夫妻のところに転がりこめば、彼らの家庭を荒らすことになる。それは恥である。

 

 今日の仕事場はビル。会社名はアルファベットを並べただけである。どんなことをしているか分からないビル。私には関係ない。知る必要はない。担当者に自分が日雇い労働者であること、登録している派遣会社の名前を告げて、今日一日だけの仕事場に案内される。担当者は三十代。他のみんなと同じ、私を憐れみの目で見た。

 

 目はこう言っていた。『使えないジジイが来た』

 

 休憩所にも案内された。コーヒーを飲む人がいるのか、給湯ポットが用意されていた。ゴミ箱には『派遣社員の方はゴミを捨てないでください』『派遣社員の方はお湯を使わないでください』と注意書き。トイレは使用可だが、大の場合は紙を持参すること。担当者にはそう言われた。


 ここもか。ブラック企業と言われる会社は、社員と派遣社員を徹底的に区別する。派遣社員が使う、電気やゴミ処分料や水道代など払いたくないのだ。

 

 人間として見られていない。

 

 しかしながら、屈辱は我慢する。屈辱は今日一日だけのことだ。我慢すれば、八千円が手に入る。そうすればまた食料が買える。外食をしたのは、何年前のことだろうか。そういえば、酒もしばらく飲んでいない。

 

 私は、担当者から簡単に仕事内容の説明を受けた。誰にでもできる仕事。私は、担当者から説明された単調な仕事を、これからする。

 

 八時間働いて、今日の労働からは解放された。何が入っているのか知らないが、二十キロ以上ある段ボールを百個ほど運ばされた。腰と、指の第二関節が痛い。


 


 金が欲しい。


 何をしていても金のことが頭に浮かぶ。千円でも百円でもいい。十円でもかき集めたい。ということで、金欠で、私にとっては絶対にやってはいけないことをしようと思い立った。やはり、精神のバランスが崩れているのかもしれない。なにをするかと言うと、それはパチンコ。確かにパチンコなどすれば大抵の場合、金は減るが、この一回に限れば増える可能性もある。

 

 ビルの倉庫内作業を終えた体で、本当は疲れ切っていた。だが、本当になぜなのか分からないが、ふらりとパチンコ店に立ち寄った。足が、そっちに向いてしまった。

 

 全財産を賭けてパチンコを打つほど空しい事は無い。みんな、溜めた金はパチンコになど使わず、きちんと貯金するか、もっと有意義なことに使っている。

 

 しかし、俺はそれをやってしまっているのだ。

 

 なぜかと言うと金が無いから。

 

 金が無いならパチンコなど打てないじゃないか、と思う人もいるだろうが、俺は大して働いてない、大した稼ぎがないけど金が欲しい、よってせいぜいパチンコくらいしか金をつくる道がないのである。

 

 打つ台を適当に選んで着席した。

 

 四円パチンコなら、玉一発の値段は四円。『玉貸』のボタンを押すと、五百円分の玉が次々と流れてくる。こんな玉が五百円もするのか。銀色に輝く玉。変な色の玉も一発混じっている。私の稼いだ金が、さっそくこんなくだらない銀玉に化けた。

 

 そういえば、硬貨の使えるガソリンスタンドを探して、燃料を百円単位で補給したことがあった。五百円分給油すれば、三日分は持つのに。

 

 そんな空しい思い出を思い出しつつ、ハンドルを少し回して玉を弾いた。

 

 使用金額の限度は、今日もらった八千円の半分、四千円と決めている。全額投資してしまうのは、あまりに自殺行為である。

 

 意外と回る。年末も近いから釘を閉めていると思ったが、運よくサービス台に座れたのか、五百円でもスタートチャッカーという始動口にスポスポと入る。しかし、当たらない。回るのだから、台を移動しても勿体ないと思い、二千円使った。さらに当たらないので、もう千円を追加して、それでも当たらない。

 

 九十九分の一という甘い確率の台なのだから、そろそろ当たってもよいのに。結局、自分で決めた投資上限の四千円を使用した。かなり回った。だが、玉は尽きた。金も失った。今日の仕事の半日分が、ほんの十五分で消えた。惜しい。悔しい。だが、釘は開いているし、回ることは回るのだ。と、私は財布を取り出して、さらに千円を追加した。当たらない。しかし、投資した金は回収したい。結局、悪魔の左手が、最後の千円札を投入してしまった。この時点で、激しい後悔が襲ってきた。パチンコなんてやめておけばよかった。この八千で食料を買うべきだった。八千円あれば、どれだけのものが買えただろう。切らしている米も買えた。パンも買えた。のりたまも買えた。ついでに酒も少し買えた。なのに、貴重な金をこんなことに使ってしまった。深く絶望した。胸が苦しくなった。祈った。誰か、助けてください。神様、許してください。ギャンブルの神様、私に優しくしてください。もう五百円使った。しかし、当たらない。貸出のボタンを押して、最後の五百分の玉が出てくる。その、ザーザーという音が、自分の血が噴出するような音に聞こえた。死ぬ。私は死ぬ。目眩がした。しかし、最後の望みをかけて玉を打ち出した。もしかしたら、これで当たるかもしれない。それで、何回か続けて当たれば、八千円などあっという間に回収できる。


 しかし、あれよあれよと言う間に玉は減っていき、ついに最後の一発が排出口に吸い込まれた。

私は、空になった上皿を見つめた。八千円という八枚の札が、ボーンと爆発したような錯覚が来た。


 もう、ここに居ても仕方が無いし、金は返ってこないので、席を立った。


 世界が私を中心に揺れていた。





 アパートの鍵が開かない。噛み合わせが悪くなったのか。ガチャガチャとやっていると、私の背後から大家がやってきて、


「鍵替えといたから」

 

 と、少しへらっとした笑顔で言った。その表情は、挑戦的なものだった。何かを企んでいる顔。何か、私に対して悪しきことをしようとしている顔。


 「え」

 

 と、私が思わず声を出す。


「これまでのアパート代はもう、払わなくてもいいから、今日で出てって」

 

 滅茶苦茶なことを言ったが、私は反論する気力がなかった。当然だと思ったのだ。


「あんた日雇いだから、これから先も家賃払えないでしょ」


 目眩がした。大家の剥げた頭、それが私には地球の表面に見えた。大家の頭上にある安っぽい裸電球の光が、大家の剥げ頭を照らしていた。私の体が一ミクロンくらいに小さくなって、大家の剥げ頭に住めたらいいのに、と訳の分からないことを考えてしまった。もう、錯乱が限界にきていた。

 

 急に口の中が乾燥してきた。

「じゃあ、荷物をください」


 私の声は、緊張したときに出る声だった。


 大家は、黙ってアパートの鍵を開け、私の荷物を持って来て玄関に置いた。

 

 追い出された。パチンコにも負け、無一文にも等しいのに。なんだか、釣り堀の、病気で隅っこのほうにじっとしている、皮膚がボロボロに剥げた病気の魚を思い出した。もうすぐ死ぬし、誰も助けてくれない。あれが今の私の姿と重なったのだ。

 

 もう、口座にも金は入っていないし、一体どうしようか。もう一度、財布を見た。実はあるのを忘れているだけで、千円札が残っているかも、と思ったが、やっぱりなかった。あるのは小銭。五円とか一円が何枚かある。百円が四枚。


 この歳になって、全財産が五百円に満たないとは。コンビニのクリームパン一個しか買えない。数人の女子高生が歩いている。たぶん、この子たちは俺より金を持っているだろうな。こんな十代の子たちより貯金が少ないなんて。


 こんなに落ちぶれるとは、贅沢の限りを尽くしていた頃の私は、夢に思っていないだろう。しかし、落ちてしまったものは仕方ない。まるで崖から垂直に落ちるように、すとんと底辺まで落ちたことに驚いている。人の転落人生とは、一体どういう原理が働くのか。

 

 ああ。ステーキハウスで薄切りレモンをのせたガーリック・ステーキが食べたい。




 もうアパートには帰れなくなってしまったし、行くところはない。金も失ったので、どこかに泊まることもできない。結局、朝まで街をうろつくことにした。


 薄着で、ろくな防寒着を着ていない。さすがに寒さに耐えかねた。それに、朝まで街をうろつく体力もない。やはり、どこかで眠りたい。なんとはなしに、夜の公園まで歩いて来た。せめて、ベンチで少し横になれればよいのだが。

 

 見ると、私と同じ年ほどの男がベンチに座っている。夜中の散歩なのか。それとも近所の人だろうか。

 

 近づいていくと、その男がこちらを向いた。


「こんばんは。散歩ですか」

 

 私が話しかけると、


「いや、そうじゃない」

 

と言う。隠しても無駄だと思ったので、率直に、


「帰るところがなくなってしまって、このへんで少し寝かせてもらっては迷惑でしょうか」


 事情を話すと、男は、


「いや、俺もホームレスなんだよ。実はこのへん仕切ってるボスが先週死んでね。いいよ、これもなんかの縁だろ」

 

 ということはこの人が現在のボスなのだろうか。人の良さそうな感じだった。

 

 室井という人だった。少し話すうちに、私がここで住むかのような向きの話になっていて、室井さんは私をどこかへ案内するという。


「ボスはほんとにできた、面倒見のいい人でねえ。そんな人でも世間から外されちまうんだから、世の中つめてえよな」

 

 と歩きながら言った。私は室井さんの斜め後ろにいて、室井さんの顔を見ながら歩いた。

 

 そうして着いた先が、段ボールでできた家。家というより、段ボールで囲って屋根にブルーシートを被せた工作品だ。私の身長より少し低いが幅はある。


「ボスはさ、『俺が死んだら、誰かにここを貸してやってくれ』っていつも口癖みたいに言ってた」

 

 室井さんは、段ボールの家を眺めながら、そう言った。


「天涯孤独だって言ってたけど、実は妹がいたんだな。妹って言っても、もう婆さんだけどな。ボスはその人に引き取られていったよ」


「そうなんですか」

 

 と、私が答えると、


「誰だか知らねえ人の家に住むのはあんまり気持ちのいいもんじゃねえと思うけどさ、なんかの縁だと思ってよ。ボスも喜ぶと思うから」

 

 室井さんはつまり、私にここに住むように勧めてくれているのだ。

 

 たしかに気持ちは良くない。ここで人が死んでいるのだから。しかし、一から段ボールで家を作ることを考えると、ここに住んだ方がいい。


「どう、住む?」

 

 室井さんに聞かれて、


「はい。そうさせてもらいます」

 

もっといい場所がいいとか、そんな贅沢など言っていられない。仲間として認めてくれた室井さんに感謝しなければいけない。


「ありがとうございます。私は、久江野蝶治郎と申します」


「ああ。よろしく。んじゃ、なんか困ったことあったらさ、言ってよ。そいから近いうちに顔合わせすっからさ。だいじょうぶ、悪い奴はいねえから」

 

 そう言い残して、室井さんは公園の階段のほうへ行った。

 

 段ボールの家は、一応手製の閂がついていて、中から閉められるようになっている。もし誰かが本気で開けようと思ったら、すぐに壊れてしまうだろうけど。ホームレス狩りの若者がやってきても、逃げるまでの時間稼ぎにはなるかもしれない。


 中に入ると、広くはないが意外と綺麗だった。


 嫌な臭いはしない。布団がそのまま敷いてある。前のボスは、この布団の上で死んだんだろうか。


 棚にはエロ本。袋に入った飴が枕元にあった。

 

 使わせてもらいます。心の中で祈った。





 下校途中の小学生たちが、奇声を発している。

 

 公園のやや狭い脇道は通学路になっているようで、次から次へとランドセルの群れが同じ方向へ行く。


 私も、妻に逃げられなければ、あのくらいの年の子がいたのかもしれない。ベンチに座っているぶんには、付近の住民と変わらないので冷やかしの声が飛んでくるということはない。だが、やっぱり段ボールハウスのことは放っておかないようで、「お前あそこに住めば?」「やだよ汚い」「じゃ、じゃんけん負けた奴罰ゲームであそこ住めよ」「臭そ。ホームレスの子供になっちゃうー」と屈辱的で安直な誹り。私がその段ボールハウスに住んでいると知れば、子供たちは侮蔑の目で私を見る。

 

 住むところは得て、それはよかったのだが、やはり金がないことには変わりない。一日なにもしなくとも腹は減る。以前は、近くのファーストフード店が残飯をホームレスの為に裏口に置いておいてくれたそうだが、店主が変わって残飯の配給は無くなったそうだ。現在は、付近にある二つのホテルの残飯を漁るしかない。しかし、残飯の出ない日もある。我々ホームレスたちの残飯の回収できる時間帯は決まっていて、それは夜の十二過ぎ。私は、痛んだ魚介類には手を出さないことにしていたが、他の人は結構構わず食う人もいた。下痢をするけど、何度も構わず食う人もいた。気がおかしくなっているのかもしれない。

 

 羽振りのよかったころによく行った料亭のことを思い出した。そこで食った一枚数万のステーキが旨かった。あのころは値段など見ずにものを買っていた。もう、私には一生ステーキなど口にできないかもしれない。肉。安い肉でいいから、焼いて食べたい。

 

 そんなことを考えながらベンチに座り、公園の外を眺めていた。すると、遠くで私の方を見ている男がいた。その男は、両手に荷物を持っていて、しばらく私を観察するように立っていたが、近寄ってきて、


「あ。ちょっと取材したいんですけど」

 

 と言った。


 挙動不審な若者である。人に話しかけることに慣れていないのか、引き攣った笑みを浮かべながら、やたらと頷いている。若者、といったけど身なりが若いからそう思っただけで、なんというか、顔が老けている。


「取材?」

 

 見た感じでは、記者という感じでもない。


「あ。自分、漫画家の卵なんすけど、あなたみたいな年齢の人の考え方が知りたくて」

 

 白髪混じりの坊主。メガネをかけたニキビ面で、毛深い男。鼻は団子鼻。身長は百五十センチほど。石鹸の腐ったみたいな臭いがする。その男は、年は二十二だと言った。自らをブサキモまーくんと名乗り、そのブサキモまーくんは、私と同じ日雇い派遣だそうだ。家は無く、小金ができればネットカフェに寝泊まりしているのだそうだ。




 怪しい表情のまーくんと名乗る小男は、私の人生の、これまでどういう経緯でここまで堕落したか、その経緯を知りたがった。それがまーくんの言う取材なのだそうだ。一体、そんなことを聞きだしてなんの役に立つのか。

 

 風俗で化け物みたいな女が出てきた話や、人に騙されて金を奪われた話、私自身が屈強な外国人に強姦された話、仕事で失敗した話などをした。まーくんは、だんだんと気易くなってきたといえばいいのか、敬語も使わず、友達とでも話しているかのような態度に変わってきていた。私がそんな情けない話ばかりするものだから、駄目な人間だと思ったのか。

 

 私が人生の失敗話をする度に、


「え、てか、普通に考えて頭悪すぎでしょ」

 

 とけなしてくる。

 

 もう、人生の失敗話をするのは嫌だと私は言った。だが、まーくんは私の失敗話を聞きだすのを止めようとしなかった。


「てかさあ、日雇いって禁止になったんじゃねえの?」

 

 だしぬけに、まーくんが言った。

 

 もう、友達と話すよりもぞんざいな口の利き方になっている。私はまあ、ここまで落ちてしまった人間であるし、残飯漁りもするようになって大したプライドも残っていないので気にしないことにした。


「詳しい事は私もよく知らないけどね、雇用を三十一日以上にすれば、日雇いじゃなくなるみたい。契約期間は三十一日だけど、出勤日は一日とか。でも、それ以外の単発バイトって、ネットで調べればまだ普通にあるよね。どうなってるんだろう」

 

 すると、まーくんは、


「え、不正確な情報とかいらんけど。これだから情報弱者は困るよね。政府とかさ、マジ死んでくれよ。まあ自分、これ仮の姿だから関係ないけど」

 

 まーくんは、今では私をこんなにけなしてくるようになった。




 まーくん。白髪混じりの青年。青年というと若々しいイメージがあるが、まーくんからは若々しい感じはない。若年寄りというのか。それに、目上の人間には少しくらい敬意を払ってもいいのに、まるでそれがない。というよりも、貴いのは自分一人であり、他の人間はゴミだとでもいうかのような傍若無人。

 

 プライドを捨てたとはいえ、まだ私にも感情はある。たまに角材で殴りたくなる衝動に駆られる。

 

 まーくんはホームレス。よって家がない。年齢的には若いのに、どうしてホームレスになったのか。それは分からないが、やはり人の子。何かいたしかたない理由があったのかもしれない。家庭や生い立ちに問題があったのかもしれない。可哀そうな子なのかもしれないと思った。しかも、同じ日雇いということで、やはり同情の念が浮かんだ。

 

 まーくんは、今夜泊まるところがないようだ。日雇いで小銭ができればネットカフェに泊まり、数百円しか無くなれば階段の踊り場や駅のベンチで寝たりする。

 

 なんと哀れなことか。

 

 私は考えた結句、まーくんをホームレス仲間に入れてほしいと頼むことにした。すると、若いホームレスはマナーが悪いから入れない、とホームレス仲間が反対をした。若い奴らはエサ場を荒らしたり、窃盗するからだという。


「でもどうか、お願いします。一人くらい、なんとかならないでしょうか。私たちと同じように住む場所や食い扶持に困ってるんです。同じ仲間だと思って」

 

 私は、それでも頭を下げて頼み込んだ。

 

 結局、現在のボスである室井さんが首を縦に振ってくれた。


「仕方ない。じゃ、もしだめだったら、一緒に出てってもらうよ」

 

 と、そういうことで、ブサキモまーくんがここに住むことが許されたのだった。

 

 まーくんに、公園での生活が許されたことを告げに言った。まーくんは、ベンチに座って、スケッチブックを手に何か書いていた。


「まーくん、さっきボスにお願いしてきたんだけどね、公園で暮らして良いって言われたよ」


「あ、ふーん。公園は別にあいつらの所有物じゃないけどね。まあ、普通に住むけど。ゴミみたいな人間でも続けて観察しろって、クリエーターの森田ピチャは言ってるしね」


「ゴミって?」


「おっさん無能すぎでしょ。てか頭悪すぎ。普通に考えてあいつらのことでしょ。無能な年上は見下していいって、アニメーターの鬼胡桃ガムが言ってるし」

 

 スケッチブックには、通行人の絵が描かれていた。全て女子高生の絵だった。率直な感想で、あんまりうまくないと思った。まーくんは、ボタンの付いていない携帯電話を指でシャシャっと操って、変なアニメを見始めた。やることもないので一緒に見ていた。内容はなんだか分からないが、変な髪の色をした女の子がたくさん出てきて、殺し合いをしたり性行為をしたりするだけの話だった。見ていて気持ちが悪くなった。

 

 携帯電話は、自分で払っていないという。では、誰が払っているのか。私はまーくんに問うたが、


「え、そんなん知らんけど。普通に親じゃない?」

 

 と言った。

 

 まーくんの親は、息子であるまーくんを案じて、連絡手段が途絶えてしまわぬように、携帯電話の料金を払ってくれているのだ。




 ブサキモまーくん、性格が湿気っている。


 なんというか、我々の世代には無い、じめじめとした感触。今の若者はみんなこうなのか。金に対して潔さがない。

 

 なぜ、喋り出すときに『あ、』とか『え、』とか言うのだろうか。

 

 漫画家を志す人間は、普段なにを考えて生きているのか。私には漫画家の知り合いがいないので、少しも見当がつかない。

 

 まーくんは、人間のくせに夜行性というわけでもあるまいに、夜中に騒ぐ癖があるようだった。

 

 それは辺りが静まりかえった夜中のこと。なにか大声で騒ぐ声が聞こえたのでダンボールハウスから出てみると、ブサキモまーくんはパンツ一枚で地面に横たわり、ゴキブリのように腹の脇で手をぐにゃぐにゃと動かして、


「ざーじるざーじる。ザージリンティー。でる。でるでる、でるでるでるでる、でえええっ。デリートまさひろおおおおっ。まさひろしねええええええ」

 

 と絶叫していた。

 

 気が触れているし、気持ち悪いし、恥ずかしいのでやめてほしいと思った。

 

 元から変態的な面はあったのだが、ここまでとは思っていなかった。まーくんの姿に言葉を失ってしまった。


「ああああーん」

 

 と汚い声で叫んだ後、白目を向いて痙攣しはじめた。

 

 何かの病気なのか。


 これはいけないと思い、


「おい、まーくん。大丈夫か?」

 

 と白目を剥いて痙攣する彼に聞くと、


「え、なにが?」

 

 と、言う。一体なんなんだ。


「今、痙攣してたじゃないか」


「え、そんなん知らんけど」


 といって平然とした顔になった。そして、何事も無かったかのように立ちあがった。


「今、デリートまさひろとか言ってたでしょ」


「え、普通にネタ考えてただけだけど」


 気持ちが悪い。


 漫画家の卵というのは、みんなこうしてネタを考えるものなのか。


「ちょっと、なに騒いでるんだ」


 室井さんがテントから出てきた。


「夜中に騒ぐと警察が来ちゃうから。あの人たち、俺たちがここに住んでること知ってるんだからね」


 と、室井さんに怒られた。


 無理もない。常識のある人間なら、注意して当然だ。


「他の人たちも、ここ追い出されたら他に行くとこないんだからね」


 と、室井さんは本当に困ったような顔で言った。


「すみません、すみません」


 私はなぜか、自分が悪いのではないのに謝った。


 まーくんは横で腕を組んで私を見ていただけだった。


 せっかく人が頼み込んでここに住む許しを得てやったのに、ブサキモまーくんは一言の感謝の言葉もない。自分で謝らないし。事情を知らない人ではなく、その場にいたのに。




 まーくんの深夜騒音問題は収まらなかった。あれからまーくんと話し合って、というか私が一方的に話をして、夜中に騒ぐことは非常識なことだと説得し、理解をしてくれたはずだった。


 しかし、再び夜中にまーくんが騒いだのは三日後のことだった。

 

 その夜は、時計を持っていないのでよく分からないが、おそらく一時か二時くらいだろう。そのくらいに騒ぎだした。


 まーくんは、なにか病気でもあるわけでもあるまいに、発作的に騒ぎだすのだ。

 

 たぶん、なにかのアニメソングだろう。そういう曲を、ボタンの付いていない今流行りの携帯電話で大音量で流しながら、それに合わせてブサキモまーくんが歌ったり踊ったりしていた。

 

 一体なにがしたいのかよく分からないが、とにかく騒いでいる。

 

 ひどく汚い声だ。そうやって汚い声を張り上げるだけでなく、なぜか女子高生の制服を着ている。スカートが短くて、見苦しいほどに剛毛なすね毛が見えている。

 

 まーくんが何か得体の知れない生物のような気がして、近寄れなかった。

 

 まーくんは、その見苦しいダンスが終わると、


「木下オナファルツ危険度十二! 木下オナファルツ危険度十二! あああああん。中学生さいこー、ブサキモまーくん、ブサキモまーくん。強姦まさひろの聖なる強姦! 自らを強姦していく! 小汚いハゲが納得のいく返答を求めます。情報弱者は生きてる価値ないけど。米食わせろ米。ああん? カス、マジ死ねよ薄毛治療。このニコ中の黒ブタが!」

 

 などと意味不明なことを喚いた。日頃の鬱憤を吐き出しているのだろうか。

 

 若者の脅威を感じた私は、何もできずそこに立っていた。するとすぐに室井さんが飛んで来て、


「ちょっと! なにやってるのよ。騒がないでって言ったでしょ」


 室井さんが怒鳴った。するとまーくんは、


「あ。さーせんさーせん」


 と体を、くねくねさせながら頭を斜めに傾けるような仕草をした。


 室井さんは、


「やめろよ、みっともねえ。坊主頭の不細工な男がアイドルみたいな制服着て踊り狂ってるなんて気持ち悪いよ」


 室井さんはそう言うと、テントへ戻って行った。


 まーくんは小走りでベンチに置いた携帯電話の元へ走り、音楽を止めた。


 まーくんのこれはアイドルの衣装だったのか。


 後には、私とまーくんが残された。


「きみは、女装が趣味なの?」


 私はまーくんに聞いてみた。するとまーくんは、


「え、自分女装とかしてないけど」


 と、しらばっくれた。




 まーくんが夜中に大声で喚くのは止まず、結局は私も一緒に寝床を追いだされることになった。


 私は必死に黙らせようとしたが、まーくんは『自由な権利を主張します。あなたは自分の声を出す、という権利を剥奪するのですか。納得のいく返答を求めます』などと言って抵抗した。もっと力づくでもやめさせるべきだった。


 少ない荷物をまとめて、その日うちに追い出された。


 まーくんは荷物を持って、しかし行くところがないので室井さんを遠巻きに睨んでいた。


「なんだよあのジジイ、マジ死ねよ。これだから社会のゴミは」


 まーくんは恨み言を延々と繰り返している。その言葉があまりに度を超えているので、


「あれだけ夜中に騒いでいたら、当然でしょ」


 室井さんを庇うつもりで私は少し強めに言ったが、


「え、自分別に悪くないけど」


 と言っただけだった。彼は自分のしたことが正当で、正しいと本気で考えているようだった。よって全

く反省の色はなかった。


 追い出されたら次に寝泊まりする場所を探さなければならない。そうしないと今の季節は冬。毛布もなにも持っていない私たちが外で寝るということは、死を意味する。しかし、行くあてがない。公園を何箇所か回ってみたが、古参のホームレスたちが首を縦に振ってくれない。どうやら、私だけがそこに住むなら許すが、まーくんのような若者を入れるのは抵抗があるようだった。ホームレスというのは、若者が嫌いなのだろうか。


 結局、どこへいってもホームレスたちに拒否されるので、街をぶらぶらと歩き、人目につかずに寝られそうな場所もちょっと確認したりして、そうやってなんとなく時間が過ぎ、夕方になった。


 急に寒くなった。


 まーくんの腹が鳴った。


 なんだか可哀そうな気がして、私は近くのファーストフード店に入って、残っていたわずかな金で一個だけハンバーガーを買った。まーくんにハンバーガーを渡すと、まーくんは例によって感謝の言葉など一切なく、それが当然のような顔をして、


「え、米のほうがいいけど。栄養が偏るでマジ。盲腸になるで」


 と言ってからベンチに座って食べ始めた。しかし、まーくんは異様に食べるのが遅い。まーくんは一口食べてから腕を組み、下を向いて目を瞑った。その状態で、延々と噛み続けた。食べながら寝ているんじゃないかと思うほどによく噛んでいた。なんでそんな儀式のような食べ方をするのだろう。気持ち悪いと思った。


 ようやく食べ終わったまーくんは、包み紙を植込みの中に隠した。


「まーくん、これからどこ行くの?」


「え、知らんけど」


 まーくんは、かなり不貞腐れている。


「君、若いんだから家に帰ったら? ご両親、まだ生きてるんでしょ?」


「え、知らんけど」


「一旦家に帰ってさ、やり直せばいいんだよ。まだ先があるんだから、わざわざホームレスやることないでしょ」


「え、別に自分の勝手だし。親とか、そんなん知らんけど」


 この態度にさすがの私も怒った。思わず言ってしまった。


「年上に向かってなんなんだその舐めた物言いは。話すときは、ちゃんと人の目を見なさい。君がいじってるその携帯電話とか、変なアニメばかり見てるから、きちんと人と接することができないんじゃないのか。君はどうやって育ったんだ。親が一生懸命育ててくれたんじゃないのか! 自分一人で生きてきたみたいな顔をするなというんだ!」


 最後の方は、思いっきり怒鳴ってしまった。少し申し訳ないかな、と思った。


 まーくんは、私が怒鳴るとは思っていなかったのか、それともそういうことに慣れていないのか、


「え……だから、それは、普通にあの……」


 と、どもってしまった。


 怒鳴った勢いと、まだ腹にむかむかしたものがあったので、


「大体、君は考え方がおかしいんだよ。人が親切にしてやればそれが当然みたいな態度で、お礼も言わないし。自分が親切にされて当然の人間とでも思っているのか。甘ったれるなよ。まだ若いくせに人生を悟ったような面しやがって。君はアニメとかゲームとか、そんなもので人生を知ったかのように思い込んでるだけなんだよ。現実を見てみろよ。君は誰からも相手にされていないし、ただの気持ち悪い人だ。ホームレスの中にさえ入っていけない。君はよく、他人をクズとかカスとか、ひどいことを言っているけど、それは全部君のことじゃないのか。そういう言葉を口にする前に、よく考えてみろよ。私はもう、君みたいな恩知らずと関わりたくないよ」


 まーくんは、自分を保護するかのように腕組みをして、私の話を聞いていた。怯えた動物のような目だった。


 まーくんは、しばらくして蚊の鳴くような声で、しかし棒読みで言った。


「今の話は、たしかにそういうこともあるかもしれないと、少し思いました。これからは改善していきたいと思います、はい。ですから、寝るところを探すのを手伝ってはもらえないでしょうか」


 私はため息をついた。


「君は、結局一人で寝るところを探せないから、私をまだ利用しようと思って、そうやって急に敬語になって言うんでしょ? 君にはほんとに愛想が尽きたよ。君は意地汚いし、生き方が姑息だよ」


「いえ、別に利用ということでは」


「君、社会に出て働いたことはあるのか?」


 私が尋ねると、まーくんはか細い震えた声で、


「あ。ホテルのフロント係をしたことは、あります」


「それで、ものになったのか?」


「え。いえ、一週間でやめました」


「勤まってないじゃないか。人をけなす前に自分のことをきちんとしろというんだよ。口ではそうやって丁寧な言葉になってるけどね、君のその目は、人を見下している目だ。態度に出てるんだよ。君の言葉は誠実さが無いんだ。君と喋っていると、ビルの壁と話しているような気持ちになってくるよ。人としての体温が無いんだよ。もう終わりだ。もうどこかへ行ってくれ、さようなら」


 まーくんは腕組みをして、しばらく私を見ていたが、


「ふーん。はい」


 そう言って、自分を保護するかのように腕を組んだまま背を向けて、歩き去って行った。今まで結構世話をしてきたのに、一言の挨拶もなかった。こいつは結局、何も分かっていないんだということが分かった。結局、現実を自分の都合の良いように解釈して、都合の悪い部分は完全に無視する。そうやって現実を歪めて生きていくのだろう、これからも。





 まーくんと決別してから、住む場所に困った私は、またあの場所へ戻る決断をした。


 あの公園に行くと、室井さんがいつものベンチに座っていた。


「あ、室井さん……」


 私は頭を下げた。


 室井さんが、以前と変わらない目で私を見ていた。


「私、もう行くところがないんです。本当に情けないことですが、もう一度ここに住まわせてもらえませんか?」


 室井さんは、スポーツ新聞を読んでいるところだった。少し間をおいて、私に言った。


「あの若いヤツはどうしたの?」


「途中で別れました」


 すると室井さんは、


「あ、ならいいよ」


 意外にあっさりと許してくれた。


 あの私が住んでいた、前のボスの段ボールハウスはまだ空いているとこのことだったので、一緒にそっちへ歩きながら話した。


「あいつ、このへんのホームレスの間じゃお尋ね者だったんだよ。ホームレスの金とか酒とか盗んだりするからさ」


 それで合点がいった。つまり、断られ続けたのは、まーくんの情報が界隈のホームレスに伝わっていたからなのだった。


「あいつさ、人のもんを盗むようになる前は、ホームレスに米を売って金稼いでたらしいよ。なんか一キロ千円とかでさ。その米、あいつの母親の実家から盗んできたらしくてさ。それが実家にばれて、米泥棒しなくなったらしいけど、その代わりに俺たちホームレスのもんを盗むようになってさ。噂によると、あいつ奨学金でパチンコして、全部その金つかっちまったらしいよ。そいでブラックリストに載って、車とかもろくに買えなくなったらしい。それにしても、クエちゃんは人がいいよな。あんなヤツの面倒見てやるなんてさ。まあ、お人好しもほどほどにしないと、なんて言ったりして」


 室井さんは、上機嫌だった。


 私が前に使用していた段ボールハウスに着くと、


「実はね、またクエちゃんが戻ってきたらと思って、誰にも使わせずに開けといたんだ。今日はみんなでちゃんこ鍋御馳走すっからさ。歓迎会だよ。酒もちゃんとあるでよ。女はいねえけど。そいじゃあ、行こうか」


 荷物を置いてから、室井さんについていった。


室井さんは歩きながら、


「若いやつらって、何考えてるか分からないから気持ちわりィよな」


「本当ですね」


 全く同感だった。彼らには私たちにはない気持ち悪さというか、精神の不気味さがある。


「これからも、若い奴らは入れねえようにしような」


 その晩は、室井さんのホームレス仲間八人が用意してくれたちゃんこ鍋をいただいた。どれも拾ってきたものばかりだったが、ちゃんと鍋の味がした。


 私は人生の失敗話をした。みんな、まーくんのように罵倒はせず、同情してくれた。


 記念に、と室井さんからもらった、一個八十八円のカップラーメンを、歓迎会の締めにすすった。


 気持ち良く酔ってから段ボールハウスに戻った。


 他にすることもないので、とりあえず寝てしまうことにした。

 

 段ボールの家は、普通の家と同じくらい暖かかった。



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