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ゴブリン帝国の姫王様  作者: 飛狼
第一章 姫王降臨
9/10

◆辺境伯と帰還せし英雄たち(1)

 その部屋は絢爛豪華けんらんごうかとまではいかないが、かなり品の良い部屋ではあった。壁や天井は白モルタルで覆われ、要所要所には精緻な模様の彫刻が施されて見る者の目をひく。床はといえば、薄い黄白色の毛織りの絨毯が敷かれ、歩く者のくるぶしまでふかりと埋める。置かれている家具類もまた、部屋の調度に合わせた磨き抜かれた黒檀の机に黒一色の本革製のソファ。それに、マホガニーの美しい木目が際立つキャビネットやチェスト等々。それら以外にも部屋内に飾られるタペストリーやオブジェ等の美術品も、華美ではないが目の肥えた者が見れば唸るほどには値打ちある年代物の品々が並ぶ。

 静かな部屋の隅に据えられた置時計は、コチコチとリズミカルに時を刻み心地よい音を響かせ、ふわりとほのかに漂うのは家具などから香る本革と木の匂い。更に屋敷の庭先からも、草花の生命力に満ち溢れたふくよかな匂いが漂ってくる。

 それら全て――部屋の雰囲気もしかり、匂いや音までもが部屋の主を癒し落ち着かせ、仕事に集中させるために計算され尽くされたものだった。

 だが、この日ばかりは少々違っていた。


 置時計が刻む音を、トトトンと慌ただしい音がかき乱す。

 黒檀の執務机に座る男――年齢は五十代半ば。着衣は貴族らしく高級な生地がふんだんに使われているが、この男の趣味なのか、部屋の雰囲気とよく似た白と黒を基調としたシックで落ち着いた衣服に身を包む。金髪に彫りが深く整った顔立ちは、若い頃はさぞや美丈夫として浮き名を流しただろうと思われるほど。だが、今は忍び寄る老いには勝てず、かつての輝かんばかりの頭髪もくすんだ金色に変わっている。同じく、品の良い整った容貌もたるんだ皮膚に覆われ、全身も運動不足のためか必要以上の贅肉に包まれていた。

 その貴族らしき男が、指先で机の表面を軽く叩いているのだ。そして、眉根を寄せ表情を歪める男の心情を、無意識に鳴らす性急な音が如実に物語っていた。


 ここはフェンデル王国内でも、唯一ザカース大森林と境を接するカナン州。その州都にあたる辺境都市トロイの中央に建つ城館内に設けられた執務室だった。そして、悩ましげに表情を歪めるのは誰あろう、カナン州とその隣のアミュ州にまたがる広大な領土を治める辺境伯、ウォリック・シグルズ・トロイ・フォン・ノルトシュタインその人であった。

 ミドルネームのシグルズは、フェンデル建国時代の英雄でありノルトシュタイン家の初代シグルズ・ノルトシュタインの名にあやかり、代々の当主が受け継ぐのを慣例としていた。同様にトロイの名も、当時はまだ小さな砦が築かれていただけのこの地に、初代ジグルズが大森林を睨み居を定めて腰を落ち着けたのにちなんで、その志を忘れぬようにと代々の当主が受け継ぐ――――と言えば聞こえも良いが、代々の当主が権勢を拡大させるために、英雄ジグルスの名を利用しているのが実情であった。逆に考えれば、フェンデル王国内ではノルトシュタイン家初代の英雄譚は広く知れ渡り、未だに英雄シグルズは民衆の間でも名高いのである。

 ノルトシュタイン家はその英雄ジグルズ直系の一族であり王家と並ぶ古い家柄だと喧伝し、今も大森林から流出する魔獣を堰き止め防いでいるのだと、王国内に知らしめていたのだ。

 実際そのお陰で他の領主や民からは絶大なる支持をされ、ノルトシュタイン家は王国内に隠然たる勢力を築いていた。それは王家に次ぐ権力、いや凌ぐほどの権勢を誇示していたのである。そのため、王家ですらノルトシュタイン家にははばかり、その領土はなかば独立国のような扱いとなっていた。

 そして、長きに渡る歴史の中では、この状況を面白く思わない王家と裏で暗闘を繰り広げた時代もあったほどである。その最も激しく記憶に新しい時期は、ウォリック辺境伯の祖父の時代だった。

 当時のフェンデルの王は、まだ代替わりしたばかりの年若い王。そのため周囲に王としての権威を、勇猛さを示そうと躍起になっていた。そこで目をつけたのが、ノルトシュタイン家であったのだ。

 ザカース大森林からもたらされる貴重な素材や魔鉱石等の利権を、一手に握り財を成すノルトシュタイン家は、王家にとっては目障りな存在でしかない。さらに言えば、過去には王家から王女がノルトシュタイン家に降嫁したこともあり、いつ何時王家と取って代わるかも知れない危険な存在でもあった。だから少しでもノルトシュタイン家の力をごうと、フェンデル王はことあるごとに要らぬ介入や干渉、挑発を繰り返す。それを受けて立ち、上手くいなし捌いていたのが知勇兼備に優れ『初代シグルズの再来』とまで言われた、ウォリックの祖父にあたる当時の辺境伯だった。しかし、才ある者には有りがちな話だが、祖父は野心もまた高かったのである。

 そして、フェンデル王の懸念は現実のものとなる。

 度重なる挑発に業を煮やし「ならば期待通りに動くまでよ」と、辺境伯の野心に火が付き燎原の如く広がった。両家の闘争は暗殺団が飛び交う争いにまで発展し、遂には裏での暗闘だけでは治まらず、他家を巻き込んでの王国を二分する大乱へと変移しそうになった。

 しかし、運命とは判らぬものである。

 両家の勢力が直接ぶつかる直前に、時を同じくしてフェンデル王と辺境伯が相次いで亡くなったのである。当時は両家の暗殺団の存在も指摘されたが、フェンデル王は軍事調練も兼ねた狩猟中に事故に合い、それが因となり落命。事故の場では、同行していた高ランクの治療術士たちが一命を取り留めるも、数日後にはその傷が因となり死亡したのである。

 辺境伯の場合は更に酷い。

 浴場にて美妃や寵妃を周りにはべらせ、嬌態を演じていた最中での卒倒。直ぐに治療術士の元に運ばれたが、齢も七十近い事もあって、こちらも数日後には呆気ない最期を迎えたのだ。

 どちらにせよ、優秀な家臣団が周囲で見守る中での死亡である。暗殺団が付け入る隙もなく、紛れもない事故死、或いは病死で亡くなったのは明らかだった。

 両勢力を率いる者の突然の消失。こうなると、大勢の領主や主だった家臣団には不満は残るものの、両家の勢力は自然と消滅する。いや、両家共にそれどころではなくなったのである。王または当主の唐突な死は、後継者問題を呼び寄せた。しかも、国を二分するかと思われた争いの最中でもある。戦いの継続を主張する交戦派に平和を望む穏健派が、或いはこの隙に王家やノルトシュタイン家の利権に、少しでも食い込もうとする他の領主家まで相乱れ、後継争いは混沌とした様相を見せた。

 ノルトシュタイン家では辺境伯が高齢な事もあって、すでにウォリックの父親が後継者としてしっかりと定まっていた。そのため、すぐさま次代の当主へと擁立された父親が、主戦論者の家臣や一族の者を宥め、大した混乱もなく問題は直ぐに治まった。

 だが、王家の場合は王が若い事もあって、かなりの混乱をもたらす事となった。後を継ぐべき子供が、継承権こそ高いもののまだ赤子だったからだ。王族内で次代の王の選出を巡り、幾つもの派閥が生じて内紛が勃発したのである。結局その争いは、現在のウォリックの代まで尾を引く結果となった。

 祖父が王家と争っていた時代には、ウォリック辺境伯もまだ幼かった。城館内に漂う殺伐とした雰囲気、それに祖父や家臣団の荒々しい振る舞いと物腰に、ウォリック辺境伯は恐怖すら覚えた。そして、その後の王国混乱期に、多感な少年期を過ごしたのである。

 幸いなことに、後を継いだウォリックの父親は、穏健派に属する人物であった。ノルトシュタイン家の方針を平和路線へと大きく舵を切り転換させると、王家とも良好な関係を築こうと心を砕く性質の穏やかな人でもあったのだ。

 その平和路線は現在も踏襲され、王家とも良好な関係を保っていた。ウォリック辺境伯の嫡男は王都に滞在し、王家との折衝にあたるほどには密接な関係を構築していたのであった。


 黒檀の執務机には民から嘆願書や、領地内の代官からの報告書、或いは辺境伯の裁可の必要な開発計画案等々が、山と成って積まれている。

 それら書類の山をちらりと眺め、ウォリックは「ふぅ」と盛大なため息を吐き出した。

 辺境伯は、二州にまたがる大領の主でもある。早く目を通し、諾否だくひの判断を下さなければいけない案件も数多い。とどこおればそれだけ領地の経済は混乱し、領土内全体に、ひいてはノルトシュタイン家にも思わぬ被害をもたらすかも知れないのだ。

 それが十二分に判っていても、今は目を通す気にもなれないウォリック辺境伯だった。

 何度目かになるため息をついた後、わしない指先の動きがぴたりと止まり、おもむろに机の隅へと手が伸びる。そこに有るのは、手のひらサイズの呼び鈴だった。それを手に取り何度も左右にうち振ると、チリンチリンと思いのほか鈴の音が屋敷内へと鳴り響く。

 それもそのはずで、この呼び鈴も風系統の魔法回路が組み込まれた魔道具の一種。風を纏わせた鈴の音が、遠くにいる者にまで届くのである。

 だから一、二度振れば十分なのだが、ウォリック辺境伯は何度も何度も鳴らし続ける。そして屋敷に鳴り響くこと十数度目を数える頃、執務室の扉がノックと共に開いた。


「旦那様、お呼びでございましょうか」


 一礼して執務室へと入って来たのは、城館内で働く者の全てを束ねる家令のハインツ。しわひとつない執事服をかっちりと着込み、白くなった頭髪はオールバック状に後方へと綺麗に撫で付け整えている。

 細身の体を、するすると流麗な動きで執務室内へと歩を進めると、これ以上ないほどに綺麗な一礼をした。その動きには一切の隙もなく、滑らかで強靭。すらりと伸びた立ち姿を例えるなら、切れ味の鋭い一本の剣を彷彿ほうふつとさせる。老人特有の深く刻まれたしわに埋もれた表情は穏和な笑みを湛えるも、その瞳は猛禽類の如く鋭い。


「あぁ、ハインツか……それで報告はまだか」

「はぁ、残念ながら未だ……」


 僅かに首を振るハインツに、ウォリック辺境伯は苦虫を噛み潰したかのように顔をしかめてみせた。

 今朝から昼過ぎの現在まで、数十回は繰り返される同じ問答。それでもハインツは嫌な顔ひとつすることなく冷静に対応し、それどころか、


「旦那様、少しご休憩されてはいかがですか。先日、ちょうど良い茶葉が入荷しましたので、紅茶でもお持ちしましょう」


 と、苛立つ主を心配するのである。


「あぁ、今は良い……」


 素っ気ない返事に、「さようですか」と落胆して立ち去ろうとするハインツだったが、


「あ、まて……良い茶葉とはアミ州産のものか」

「はい、さようでございます」


 辺境伯領でもあるアミ州は、茶葉の産地としても有名だった。ウォリック辺境伯は、一ヶ月ほど前に今年の茶葉の作柄がかなり出来が良いと、代官からの報告書に記されていたのを思い出したのだ。


「ふむ、ならば持ってまいれ」

「はい、直ぐにお持ちします」


 と、喜色を浮かべ足早に立ち去るハインツ。その後ろ姿を見送り、ウォリック辺境伯は今度はすぐそばにある窓へと目を向けた。

 執務室のある城館は、都市中央の高台に築かれていた。当然の事ながら、窓の外に広がるのはトロイの街並み。その先には都市を囲む防護壁の姿もおぼろ気に見える。

 しかし、ウォリック辺境伯が険しい眼差しを向けるのは、防護壁よりも更にその先にあるザカース大森林。内情はどうあれ、本来の辺境伯の役目はザカース大森林への抑え。だから常に監視を怠らぬようにと、執務室の窓も南側に設けられていたのだ。

 そして、やるべき仕事が手につかぬほどの苛立ちを見せる心配事、それがザカース大森林なのである。

 トロイの街の冒険者ギルドからもたらされた『ゴブリンキング現る』の報は、真偽のほどはともかく辺境伯の心胆を寒からしめるには十分なものだった。

 最初にその報告に接した時は「なんの冗談のつもりだ」と、治安局や領軍の担当官を叱責したほど。だが、その後も次から次へとゴブリンキング関連の似た報告が上がってくると、さすがにその信憑性も増してくる。

 辺境伯の脳裏によぎるのは、『ザカースの悪夢』が事。大昔に小国ひとつを滅亡させ、近隣諸国を震撼させた大災害。


 ――厄介な……なぜ、我が当主を務める時代に。


 との思いも強く頭を抱える事となった。

 元々が、ノルトシュタイン家の存在理由も、そこにあるのだ。初代がこのトロイの地に居を定めて以来、ザカース大森林を監視警戒するのが歴代当主の勤め、義務でもあった。貴重な素材や魔鉱石によってもたらされる莫大な財を成すのもまた、本来は溢れ出る魔獣に対抗する軍備を整えるため。逆にだからこそ、ノルトシュタイン家だけがザカース大森林関連の利権を握る事に、王国内の臣民も容認するのである。それだけにザカース大森林で何かが起きれば、ノルトシュタイン家が何とかしてくれるだろうとの期待も大きいのだ。


 もう一度、窓の向こうへと目を向け、ため息がこぼれるウォリック辺境伯。ザカース大森林の様子を探るため、領軍の偵察隊や冒険者を送り出したのは一昨日。帝国由来の冒険者に依頼したのは早計であったかと、辺境伯も一抹の不安を覚えぬ訳でもない。二代に渡り派閥争いに忙しかった王家も、近頃は主流派の現フェンデル王を中心とした王党派閥に一本化されつつあると、先日王都の嫡男から報告が届いたばかりなのである。

 また、祖父の時代の頃のように、要らぬちょっかいを掛けてくるとも限らない。が、『ゴブリンキング現る』の真偽の如何によっては、その王家にも援軍を要請することにもなりかねないのだ。

 事は、ノルトシュタイン家の将来さえ左右しかねない最重要な案件。辺境伯としては、悩ましい所なのである。

 だからこそ、大森林からの報せは他の仕事が手に付かないほど待ち遠しくもあり、『ゴブリンキング現る』の報は間違いであって欲しいと、辺境伯は切に願うのであった。


 そして窓の外を眺める辺境伯の耳には、トロイの街の混乱した喧騒も届いてくる。領軍兵士は防備を固めるために都市内を忙しく行き交い、すでに噂も都市内を駆け巡っていた。領民の中には早々に避難を始める者も数多く、都市の出入り口である正門も混雑を極めるほどだった。

 目撃情報は多数有るものの、ゴブリンキングやその共同体コロニーの規模など、はっきりとした事は何も分かっていない。それどころか、存在自体に確たる証拠を得た訳ではないのだ。しかし、ザカース大森林に何らかの異常が起きているのは確か。だから領軍もギルドの冒険者たちも一般の領民でさえもが、ザカース大森林から魔獣の群れが溢れ出す事を想定し備え動き出していたのである。

 それは全てが明らかになってから防備に動き出しても、遅いかも知れないからなのだが――今も眼下の城館中庭の訓練場では、指揮官の気合いのこもった掛け声のもと、領軍兵士たちが物々しい音と共に隊伍を組み駆け出して行く姿が見える。

 彼らは、ザカース大森林の入り口付近に設けられた、魔獣対策用の臨時の前線基地へと赴く。そんな兵士たちの事を思うと、辺境伯の両肩もずしりと重くなった。

 事と場合によっては、彼らは先遣隊として都市の防備を固めるまでの時間稼ぎのため、あたら命を落とすこととなるかも知れないのだ。いや、それどころか、下手をすればこのトロイの街やカナン州やアミ州の全ての領民と家臣の命までもが――それら大勢の者たちに対しての責任が、重しとなって辺境伯の肩にのし掛かってくるのであった。

 心ない者は――王家に連なる者や他の領主、ノルトシュタイン家の領民の中ですらウォリック辺境伯を評して、人を人と思わない冷酷非情な人物、又は大領の上に胡座あぐらをかき安穏とした怠惰な暮らしをしていると、揶揄やゆする者もいる。

 だが、決してそうではないのだと、辺境伯は言いたい。

 二州を支配する大領の主は、合わせて数十万近い臣民の暮らしを背負う。それこそ、他人には窺い知れぬほどの重圧と責任が伴うのだと。

 時には厳しく、ノルトシュタイン家や領地やそこで暮らす民のために私心を捨て、親しい者ですら冷酷に切り捨てなければいけない。それこそが、広大な領地を持つ大貴族の務めであり責任でもあるのだ。甘い考えだけで、広大な領地を維持し管理できるものではない。

 辺境伯はこれまで目立った功績もないが、これといった失政もなく大過なく過ごしてきた。自分自身の事を執政者として評価するのであれば、中の上ぐらいは有るだろうと考えていた。英雄と言われた初代は勿論、二百年前の『ザカースの悪夢』の時に、領軍を率いてゴブリンキング討伐に赴いた当時の辺境伯や、王家と暗闘を繰り広げていた祖父たち歴代の当主と比べれば、それこそ見劣りするかも知れないが、それほど暗愚でもなくそこそこには優秀であろうとも思っていた。

 怠惰な暮らしに見えるとよく揶揄され陰口も叩かれるが、それも、すぐそばには『魔の樹海』とも呼ばれるザカース大森林があるのだ。領地の最上層、首脳トップに立つものが慌てふためき不安な様子を見せれば、臣民もまた不安を覚える事だろう。逆に言えば、首脳トップが安穏とした生活をしているからこそ、領民も安心して暮らしていけるのである。

 幼い頃、少年期、青年期と、王家との争いに血道を上げる祖父や、その後の後継問題での王家やノルトシュタイン家の混乱ぶりをつぶさに眺め、それらを反面教師として辺境伯は己をいましめた。いや、幼い頃に見た祖父の荒々しい姿がトラウマとなり、ある種、偏執的に平穏を求めるようになってしまったのだ。

 それは家族に対しても同じような感情を抱いてしまうのである。

 辺境伯も、妻や子供たちに対して情愛がない訳ではない。しかし、冷酷だと言われようとも後の後継者問題の事を考えれば、嫡男とその下の次男以下の息子や娘たちには歴然とした差をもって接するしかない。

 末っ子のアルフレッドに至っては、幼い頃より冷たい顔を向け続けてきた。それもまた、仕方のないものだと考えていた。母親の身分は低く、アルフレッドに情愛を示せば、それだけで一族内に要らぬ波乱を巻き起こすことにも成りかねないのだ。

 大領の主として、それだけは避けて通らねばならない問題でもあった。

 だから今回の件でも、ノルトシュタイン家のため、ひいては領地やそこで暮らす臣民のためにと、アルフレッドを真っ先に切り捨てたのだが、


 ――あの馬鹿め、わしへの当て付けの積もりか!


 と、さすがの辺境伯も激怒していた。

 何故なら事もあろうに、アルフレッドはノルトシュタイン家の象徴、『神の王錫』を持ち出していたからである。これには辺境伯もまた頭を抱えるしかないのだ。

 魔道具マジックアイテムとして使える使えないは関係なく、領民の中には危機的な状況に陥っても、初代の英雄シグルズのように魔獣の群れを薙ぎ払うノルトシュタイン家の姿を思い浮かべ、楽観し期待する者も多いのである。

 それなのに、アルフレッドはそのノルトシュタイン家の象徴であり、領民の最後の心の拠り所でもある『神の王錫』を黙って持ち出した。もし今回の探索行で、アルフレッドが倒れ紛失しようものなら、ノルトシュタイン家の権威が失墜する事にもなりかねないのだ。


 ――阿呆め、あやつが帰って来たならば、どのような厳罰を与えてやろうか。


 などと考えるが、元より無事に帰って来ない事も想定して送り出したのである。辺境伯には、これもまた悩ましい問題のひとつでもあった。だからこそ、その事も含めてザカース大森林からの報告を苛立ちと共に待っていたのだ。

 しかし、ザカース大森林にアルフレッドたちが赴いたの一昨日。例えAランク冒険者が同行していたとしても、昨日の今日で直ぐに報告が届く訳もない。それが分かっていても、辺境伯は報せはまだかと今朝から何度も尋ねずにはいられないのである。

 だが、『神の王錫』の件に関しては、腹心でもあるラオス老師は異なる意見も述べていた。

 ラオス老師とはノルトシュタイン家が誇る魔法兵団のトップであり、辺境最強との呼び名も高い魔導師。辺境といえど、すぐそばにはザカース大森林もある。それすなわち王国最強、いや近隣諸国まで名を轟かせる魔導師でもあるのだ。

 この年齢不詳のラオス老、ウォリック辺境伯がまだ幼少の頃に、ふらりとトロイの街に現れ、いつの間にやらウォリック辺境伯の家庭教師に収まった。そして今では、魔法兵団のトップにまで登り詰め、辺境伯の懐刀とも言われる異色の人物でもあった。

 その老師の異なる意見とは――。


 窓の外を眺めながら、そんな事をつらつらと考えていた辺境伯の元に、扉をノックする音がまた届く。


 ――茶を入れてくるにしては少し早いが。


 と、不審を覚えつつ返事をすると、若干の慌ただしさと共に扉が開いた。

 一礼して執務室の中に入って来たのは、先ほど退出したはずのハインツであった。しかし傍らには、ティーセットを載せたワゴンは見当たらない。ただし、その手には一通の書簡が捧げるように持たれていた。


「む、それは?」

「はい、旦那様。ザカース大森林より、ラオス老師の使い魔が第一報を持って参りましてございます」

「おぉ……それはまことか」


 えらく早い報告に戸惑いつつも、待ちに待った報告でもある。奪い取るように受け取ると、辺境伯は早速とばかりに中身を開く。

 そして、そこには、


『ゴブリンキング率いる群れ発見。なれど、直ちにこれをゴブリンキング諸共に討伐。此方の負傷者は一名。詳細は後ほどとし、取り急ぎお知らせ致す』


 とだけ、短い文が書かれていた。

 今現在、くだんのラオス老師は昨日の内に前線へと赴いていた。防衛のかなめともなる魔法兵団のトップが、視察もかね前線に姿を見せているのは、この使い魔の存在も大きかった。老師の使い魔は、三本足の霊獣『八咫烏やたがらす』。誰よりも速く、前線から報告をもたらすことが出来るからだ。が、そこは体長が三十センチほどの霊獣である。足首にわえられた書簡も小さく、文章も短く簡潔なものと成らざるを得ない。

 最初の『ゴブリンキング率いる群れ発見』との文に「やはりか」と、今後の事を考え、辺境伯は悲愴感が漂う表情と共に項垂れる。しかし、次の『なれど、直ちにこれをゴブリンキング諸共に討伐』との文に、今度は反対に驚き戸惑いを隠せない。

 仮にも、過去には大災害を引き起こしたゴブリンキングである。当時はゴブリンキング単体を討伐するにも、完全武装の騎士たちが数百は犠牲になったと聞く。幾らAランクの冒険者とはいえ、数人で討伐できるとは思えない。ましてや相手は群れとの話である。

 辺境伯には、とても信じられない思いなのだ。そもそもが、そのゴブリンキングは本物なのかと、帝国の冒険者が嘘を言って騙そうとしているのではと邪推してしまう。しかし、前線基地で確認し報告を送って来ているのは、辺境伯が最も信頼するラオス老師でもある。


「むむむ……」


 と、辺境伯は唸るしかないのであった。

 それに、最後には負傷者が一名とあった。名は書かれていないが、これはアルフレッドの事ではないかと、辺境伯は考えた。そうなると、アルフレッドの怪我の程度よりも、脳裏に真っ先に浮かぶのはノルトシュタイン家の象徴たる『神の王錫』である。

 無事に戻ったのどうか、その事に関しても何も書かれていない。辺境伯が最も気にしていたのは、ラオス老師も知っていたはずなのに、『神の王錫』に関しては何も言及されていない。その事に付いても怪しいのだ。


「これは、本当に老師の使い魔が持って来たのか」

「はい、さようで。確かに老師がいつもお使い為されています八咫烏やたがらすで間違いございませんが」


 何か不審な点があるのかと、ハインツは当惑した表情でもの問いたげに答えた。それに気付いた辺境伯は、顔をしかめてみせる。


「どうやら、ゴブリンキングの存在が確認されたようだ」

「え、やはりギルドからの情報は本当の話でございましたか」


 辺境伯の言葉に、こうしている場合ではないと慌てるハインツ。ノルトシュタイン家の家令として、情報が真実であるのであれば糧食の確保から城館の防衛にと、館内で働く者にあれこれ指図をしなければいけない。ある意味、目の前に立つ主の辺境伯以上に忙しくなるのだ。

 そんな慌てるハインツを「まぁ待て、まだ書簡には続きがある」と、辺境伯は僅かに手を上げ制止する。


「それが、どうやらすでに討伐されたらしい」

「はっ……」


 続けて発する辺境伯の言葉に、唖然とするハインツ。


「やはり、ハインツも驚くであろう」

「いや、しかし旦那様……」


 と、絶句していたハインツだったが、直ぐに姿勢を正し「申し訳ありません」と一礼して、主の前で我を忘れて驚いた態度を見せた非礼を詫びた。


「格式が服を着て歩いているようなお前が礼を忘れるぐらいだからな。どうにも信憑性の薄い内容だ」

「ですが、ラオス老師からの第一報です。真実には間違いないかと」

「そうよのぉ……」


 と、悩ましげに表情を歪める辺境伯であった。


「それに、あの馬鹿に関しても一言も触れておらん。もっとも、負傷者が一名おるとは書かれているがな」

「それはまた……アルフレッド様の事でしょうか」

「多分な。あのメンバーの中で怪我をするのは、あやつぐらいしかおらんだろう」

「ですが、そうなりますと……」


 言葉を選び答えるハインツの視線がさまよい、ある方向へと向く。それは城館内の居間の方角。そこには何時もなら、正面の壁にノルトシュタイン家の象徴でもある『神の王錫』が飾られているのである。

 その視線に気付き、辺境伯は「ふん」と鼻を鳴らす。


「アレの事も一切触れておらん。老師が赴く際には、なんとしてもアレだけは取り戻してくれと頼んでいたのにな」


 アレとは当然の事ながら、『神の王錫』のことである。が、持ち去られたことは城館内で公然とされながらも、対外的には秘密とされていた。


「となりますと、何か文書では簡単に記せないような重要な事が、向こうで起きたのでしょうか」

「ふーむ……」


 唸り声を上げる辺境伯が想像したのは、『神の王杓』の紛失、或いは損壊した姿である。


「あの馬鹿め……」


 と、思わず呟く辺境伯だったが、家令のハインツは少し違っていた。思案気な表情を浮かべた後、「……これも運命ですか」と、ぽつりともらした。


「む、ハインツ、お前はいつから運命論者に趣旨変えしたのだ」


 ハインツの呟きを聞き咎めた辺境伯が、苦々しく吐き捨てた。


「あ、これは申し訳ありません」


 と慌てて頭を下げるハインツだった。が、この『運命』との言葉、昨日、辺境伯が腹心の三人と膝を交えて相談していた席で、ラオス老師の発した言葉でもあったのだ。その時の事を思い出し、ハインツはふと呟いたのだが、辺境伯は苦々しく顔を歪めるのであった。


 広大な領地を治めるのにあたって、ウォリック辺境伯を支える家臣や一族の者の数は多い。内政のトップでもある大叔父の政務長官などは、その代表だろう。

 しかし、辺境伯が心の底から気を許せる者となると、その数は極めて少なくなる。大叔父など一族の中でも地位ある者ならば、尚更で信用できない面もある。いつ何時、辺境伯の地位を取って代わろうと、寝首を掻きに来るとも限らないからだ。だから例え正妃や側妃や、その血を分けた息子たちであろうと、気をゆるして隙をみせる訳にもいかない。それもまた、大領主には必ず付いてまわる悩ましい厄介事でもあるのだ。

 だが、そんな辺境伯にも、悩み苦しい胸のうちを吐露できる腹心の者が三人いた。三人が三人とも、ウォリックの幼い頃から良い面も悪い面も見てきた深い繋がりを持つ者たち。

 ひとりは、目の前に立つ家令のハインツ。ウォリックがまだ幼い頃より、身の周りの一切を取り仕切り、今ではノルトシュタイン家の家令となっていた。

 もうひとりは、ノルトシュタイン家の近衛の団長でもあるメイザー・ラッカム。

 ラッカム家は、初代の頃よりノルトシュタイン家に仕える家柄で、メイザーはウォリックの乳兄弟として育てられた側近中の側近。今は『ゴブリンキング現る』の報に、都市防衛のためにとトロイの街を駆けずり回っていた。

 そして最後のひとりが魔法兵団のトップであり、ウォリックが幼い頃より家庭教師として教え導いてくれたラオス老師なのであった。

 何事にも動じず達観した様子さえ見せていたその老師が、昨日、アルフレッドが『神の王錫』を持ち出したと聞くと、顔色を変えたのである。そして一言、「これも運命かと」ともらしたのだ。

 訳を尋ねると、老師曰く、本来は『神の王錫』を居間から持ち出せるはずがないとの事だった。手に取り確かめることは出来るが、あの場から動かすことは『神の王錫』そのものが拒否するのだと。

 辺境伯は「馬鹿な」と首を振るも、思い当たる節がないでもなかった。

 確かに一族の中には、魔道具として扱えぬものかと手に取った者も大勢いた。辺境伯自身も何度も手にし、試したこともあった。だが、不思議な事に辺境伯が思い出す限り、居間から持ち出した覚えがないのだ。

 その事を伝えると、老師は「もあろうよ」と笑って答えた。老師は『神の王錫』がそう仕向けているのだと、さもそれ自体に意志があるかのように言うのである。

 そして、その事を一笑に付そうとするも、辺境伯はある事を思い出し笑えなかったのである。

 それは代々の当主だけに申し送られる言葉があったからだ。


『世界に変革をもたらす力が振るわれし時、世界と繋がる『神の王錫』も自然と目覚めるであろう』


 なんとも不明瞭で、時期も変革も何かの災害なのか、あげくに魔道具に意志があるかのような、はっきりとした意味も分からない言葉の羅列。父親から告げられた時には、ウォリックも首を傾げたものだった。

 その事を思い出し、辺境伯はたまらず当主だけに伝えられるはずの言葉を、その場にいた三人の前で披露してしまった。

 その時も、ハインツとメイザーは訳が分からず怪訝な表情を浮かべたが、ラオス老師は妙に納得した表情を浮かべたのである。

 そしてまた、「起きるべくして起きた、これも運命かと」と諦観とした表情で呟くと、その後は黙して何も語ろうとはしなかったのだ。

 その後、ラオス老師が突然に前線へ赴くと言い出した。強力な範囲魔法も扱えるラオス老は、都市防衛の要でもある。辺境伯も含めた三人が、慌てて止めるも、


「なぁに、少し確認したい事が有るだけじゃ。直ぐにも戻って来るし、それほど心配せんでよい。それに、わしには使い魔もおる。向こうでの状況が判れば、真っ先に報せも送れるはずじゃ」


 と、はっきりとした訳も言わず、半ば強引に出掛けて行ったのである。

 辺境伯にとってはラオス老は師であり、一度言い出したら聞かない頑固な面があるのもよく知っていた。だから、複雑な感情を抱きながらも、黙って見送るしかなかったのである。


 辺境伯には、初代の英雄譚も、ラオス老がもらした『神の王杓』の事も、歴代当主が伝える世界云々の文言も全て、ただのおとぎ話でしか過ぎない。ある意味での現実主義者リアリスト。その感覚は、どこぞの場所に転生を果たした姫王に近い。ただし、自分の埒外の事象や話を、現実として受け入れられる器量が有るかどうかの違いはあるのだが。


 窓の外へと目を向ける辺境伯。その視線の先は、遥か彼方のザカース大森林を睨む。

 そしてまた呟くのだ。


「あの馬鹿め」と。


      ◇


 それは、ウォリック辺境伯へと第一報が届く少し前の出来事だった。


 ザカース大森林――別名『魔の樹海』とも呼ばれ、近隣諸国の民から恐れられる広大な地域。しかしその反面、命知らずの多くの冒険者たちにとっては宝の山であり、大金を稼げる職場でもあったのだ。

 しかしそれも『ゴブリンキング現る』の報を受け、現在は立入禁止の措置が取られていた。そのため、冒険者たちからは不満の声がもれ始めていたのである。

 そんなザカース大森林の入り口付近――といっても、広大な森林を壁や塀で囲っている訳もなく、ましてや『ここが入り口です』と看板が掲げられるはずもない。だから当然の事ながら、明確な出入り口などあるはずもないのだ。また、はっきりとした線引きも成されておらず、まばらに樹木が生え始める辺りから曖昧に大森林だと、近隣の民から認識されているだけであった。

 ただし、辺境都市トロイから大森林に向かって真っ直ぐと延びる道らしきものはあった。長年に渡り冒険者たちが踏みかため、多くの貴重な素材や魔石を持ち帰るための荷馬車などがわだちを刻み、自然と形成された直線道。馬車等の移動手段であれば、トロイの街から二時間ほどで大森林へと辿り着ける距離である。

 そして、その直線道がザカース大森林へと到達する境目辺りに、現在は色とりどりの仮設テントが、ところ狭しと並べられていた。周囲には馬防柵も設置され、簡易ではあるが塹壕さえ掘られている。そしてそれらを、今尚拡張するための作業に、領軍兵士や冒険者たちが汗を流していた。

 ちょっとした防衛拠点。対ゴブリンキング用の陣地が構築されていたのだ。今回はギルドの協力があったとしても、これだけの陣地を素早く築いたのである。辺りを警戒する歩哨(ほしょう)の隙のない立ち姿や、陣地構築の作業に従事する兵士たちの無駄のない動きからも、ノルトシュタイン家領軍の練度や質の高さが窺えた。さすがはザカース大森林を睨み、初代シグルズから連綿と受け継ぐ古い家柄ノルトシュタイン家だけの事はあった。

 そんな陣地内の一角に、ゴブリンキング対策前線基地司令部と大仰な名前が付けられた、一際大きな天幕がある。先ほどまでは、周囲にぴりぴりとした厳粛な雰囲気を漂わせていた。が、今はその中から驚きと困惑、それに悲鳴がい交ぜとなったどよめきが辺りに響く。

 天幕の中――この拠点の責任者でもある領軍の大隊長や、トロイの街のギルド長を始めとするお歴々が居並ぶ。ある者は目を丸くして呆気にとられ、またある者は驚きと戸惑いに表情を歪める。


「あ……こほん」


 軽い咳払いで弛緩した雰囲気を引き締めたのは、トロイの街の冒険者ギルドをまとめるケネスである。荒くれ揃いの冒険者たちを束ねるだけあって、がっしりとした体格の強面。短く刈り込まれた茶髪に、角張った顎の線は意思の強さを示すかのようだった。見た目は鬼軍曹、あるいは国を荒らすような大規模な盗賊団の頭目のようでもある。


「……で、悪いが、よく聞き取れなかった。もう一度、言ってもらえるかな」


 と、太い眉の間に深いしわを刻み、目の前の四人に刺すような視線を送る。


「あぁ、だから言ってるだろう。ゴブリンキングは発見したし――」


 殺気混じりの視線を軽く受け流し答えるのは、帝国の冒険者パーティー『悠久の翼』リーダーであるマックスだった。

 そう、お歴々の前に立つのは『悠久の翼』のメンバーであるマックス、レオン、ビリーの三人に、ノルトシュタイン家の八男のアルフレッド加えた四人。一昨日、ザカース大森林に探索に赴き、先ほど帰還したばかりなのであった。

 戻って早々の第一声が、「ゴブリンキングなら確認ついでに討伐してきたぜ」なのだから、天幕内にいた者は驚愕し呆気に取られ、今は「ふざけるな!」と目を怒らせる。

 それもそうだろう。

 現在、対ゴブリンキング用に莫大な人員と労力を使って陣地を構築し、辺境都市トロイも防衛のためにと大騒ぎになっているのだから。その最中に、一昨日に探索に行った者たちが早々と戻って来た上に、もう倒しましたから安心ですよと言われても、納得できるはずなどない。

 途端に、天幕内は怒号が飛び交う場へと変わった。

 しかし、そんな騒ぎの最中に、ひとりの女性がスッと席を立つと、つかつかとマックスに歩み寄る。その表情は無表情。顎の線は細く鼻筋が通った綺麗な顔立ちをしているだけに、感情の抜け落ちたような顔は怖いぐらいである。


「お、アリサ。お前もこっちまで来てたのかって、それよりもう体調の方は――」


 マックスの言葉を遮るように、“ビターン”と小気味よい音が鳴り響く。

 アリサと呼ばれた女性が、マックスの頬を張ったのだ。しかも、左右の頬を、往復びんたである。

 一気にシンと静まる天幕内。その中で、今度はアリサの怒りに満ちた声が鳴り響く。


「これは、何よ!」


 アリサが、マックスの左腕を持ち上げ叫んだのだ。

 マックスの左腕――ぐるぐると包帯が巻かれ、ちょうど手首と肘の真ん中辺りから先が消失していたのだ。


「あ、いや、傷の方は、レオンが治療してくれたから、もう大丈夫だ」

「馬っ鹿! 大丈夫じゃないでしょう! 左手が無くなってるじゃないの!」

「いや、それだけ強敵で……」

「まったあんたが油断してただけでしょう! この馬鹿ぁ!」


 怒りの声でし立てるアリサに、お歴々を前にしても傍若無人(ぼうじゃくぶじん)な態度を崩さなかったマックスが、圧倒されてたじたじと後ずさっていた。


 そんな二人を眺めながら、アルフレッドが隣のレオンに小声で尋ねる。


「レオンさん、あの女性は?」

「あぁ、アリサのことかい」

「えぇ」

「あのアリサも、『悠久の翼』のメンバーのひとりさ」


 穏やかに話すレオンだったが、その表情には苦笑いが浮かんでいる。

 とそこへ、ビリーの声も加わる。


「帝国では『狂乱の炎術士』とも呼ばれてる魔導師だからな」

「『狂乱の炎術士』ですか」

「そっ、帝国でもおっかないので有名な女傑だから、若様も気を付けた方が良いぞ」


 にやにやと笑って答えるビリーだったが、


「とそこぉ! あんたたちが付いてて、何故この馬鹿の暴走を止められなかったのよ!」


 と、目を怒らせたアリサの矛先が、ビリーとレオンにも向く。


「うへぇ、今度はこっちにもとばっちりかよ」


 と、嘆くビリーだったが、その横に立つアルフレッドは気付いた。

 此方を指差すアリサの瞳から大粒の涙がこぼれ落ちるのを。


「私さえ体調が万全で同行できてたら……」


 責任を感じたかのように、アリサはがっくりと項垂れる。それを焦ったマックスが慌てて宥めようとしていた。


「あ、もしかして二人の関係って……」


 また小声で尋ねるアルフレッドに、


「ま、そういうこと。何時もの痴話喧嘩みたいなものさ。だから若様も心配するだけ損するよ」


 とレオンが、やれやれといった様子で肩を竦めて答えた。


 天幕内に、そんな何とも微妙な雰囲気が漂う。

 ギルド長は呆れたようにマックスとアリサを眺め、領軍の指揮官たちは苦々しく見つめる。

 そんなお歴々の中で、二人だけは違う意味の眼差しを、アルフレッドに向けていた。

 ひとりは、セルゲイ・フォン・ノルトシュタイン。

 ノルトシュタイン家の次男である。今回、ラオス老師が前線に赴くと聞き付け、拠点の視察の名目で同行して来たのだ。

 セルゲイは表情を歪め、粘りつくような視線をアルフレッド送っていた。その瞳の奥に、ゆらゆらと憎悪の炎を揺らめかせて。


 そしてもうひとりは辺境伯の師でもあり、魔法兵団のトップでもあるラオス老師だった。

 ゆったりとしたローブに身を包み、真っ白な顎鬚あごひげを腰の辺りまで垂らす。顔一面に刻まれた深いしわは、しわの中に顔があると言っても良いほど。好好爺(こうこうや)とした笑みを浮かべるも、その瞳は炯々(けいけい)とした光を放ち、アルフレッドの腰のベルトに差された『神の王錫』、そして手の甲に刻まれた星形の痣に向けられていた。


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