◇まずは拠点の確保が優先(1)
神原美恵子の寝起きは、どちらかといえば良い方だ。しかし、今朝の目覚めは最悪だった。
痺れるような頭痛に、やたらに喉が渇いていた。更にいえば、胸の辺りはむかむかと嘔吐しそうな不快感に包まれてもいた。
それは、明らかに二日酔いの症状だった。
「……昨日は少し飲みすぎたようね」
わき上がる吐き気を飲み込み力なく呟くと、左右に首を振る。途端に、またズキズキと頭が痛む。
――痛っ……これも全て、あのはげ親父のせいよ。
常務の脂ぎった禿げ頭を脳裏に思い浮かべ、「あの老害め」と呪詛混じりに愚痴を繰り返す。
そして寝起きの最悪な気分に顔をしかめ、朦朧とした意識の中で自分の不甲斐なさに苦笑いを浮かべる。
若い頃は朝方まで深酒しようと、明くる朝には多少の気だるさを残しつつも元気よく復活していたのだ。
それが今は――
何時もは部下たちの前で、まだまだ若いと気を張っていた。しかし、それはただのやせ我慢でしか過ぎない。身体も心も、もう若い頃とは違う。十年、二十年と疲れや様々なストレスが蓄積され、確実に老いは忍び寄ってきていたのだ。
――私も歳を取った。
それが今の、美恵子の嘘偽らざる正直な気持ちだった。
美恵子も気が付けば四十代後半、辛うじて世間ではアラフォーと呼ばれる年齢。しかも、未だに独身なのである。
大学を卒業した後、美恵子は日本でもトップ3に入る商社に入社する事ができた。当時は日本史上でも類をみない程の好景気。いわゆる、後に言われるバブル期だった。
大企業は海外の不動産を買い漁り、外国の有名企業さえ買収した。果ては世界的にも有名な絵画を史上最高額で落札したりと、他国からはかなりの顰蹙をかったりしていたものだ。それは個人でも同じようなもので、旅行といえば海外が当たり前、テレビでは連日のようにトレンディドラマが流され、世間では“三高”なる言葉がもてはやされていた。うわべの格好良さを追い求める風潮が蔓延っていたのだ。人々は“安いものは悪かろう”と値段の高いものを求め、湯水のごとく金銭をばらまいていた。当時の誰もが“バブル”なんて言葉も知らず、この景気がいつまでも続くと思っていたし、むしろもっと景気は良くなると思っていた。
それは美恵子も同じだった。
某有名大を卒業した才媛。しかも、見た目もそれなりに麗しいともなれば、企業は挙って青田刈りへと動き誘致しようとするのも当然だった。
しかし、入社当初こそ周りからちやほやとされるも、それは長くは続かなかった。
そう、バブル期の終焉である。
いや、美恵子の入社した頃には、すでにその兆候はあった。
株価は徐々に下がり始めていた。だが、すぐに持ち直すだろうと、誰も気にも留めない。しかし景気は急速に下降線をを辿り、回復の兆しさえ見せない。
そして遂にバブルは弾ける。
こうなると、企業が手のひらを返すのも当然のことだった。
美恵子の入社した翌年には、去年までの青田買いが冗談かのように新卒採用者の人数枠は制限された。いわゆる就職氷河期の到来である。
ある意味バブルが弾ける直前に、滑り込むように入社できた美恵子は運が良かったのかも知れない。だが、社内の雰囲気は最悪だった。
当時は、まだまだ男性社員が幅を利かす時代。企業の業績が悪化する中で、バブル期にちやほやされて入社した女性社員は、お茶汲みやコピー取り程度しか出来ない、お荷物社員としか認識されていなかった。
しかも、そんな中で美恵子はまだ、新人レベルの社員でしかない。社内の風当たりが強くなるのも、当然といえば当然の結果だった。
しかし、ろくな仕事しか与えらなかった中で、美恵子は踏ん張った。他の女性社員が、もっと楽な仕事へと転職、或いは結婚へと逃げ出す中で、歯を食いしばり耐え続けた。
それ以来の二十数年――パワハラやセクハラは当たり前、社内は勿論、取引先の男性社員とも、時には上手くいなし対等に渡り合って頑張った。それこそ、馬車馬の如く働いてきたのだ。
厳しかった時代を乗り越え、開発企画部の部長にまで登り詰め、後は日本でも有数の大企業の経営陣に参画する、そんな夢さえ思い描くようにさえなっていた。
しかしそれも、もう――。
二十代の頃は、同期のOLたちが合コンだなんだと異性や遊びに現を抜かしてる間も仕事に打ち込み、若く一番輝いていた時代を仕事に捧げた。
別に、美恵子も恋愛や男性を毛嫌いしていた訳ではない。両親が美しさに恵まれますようにと名付けた名前ほどではないが、そこそこには可愛らしく、顔立ちも平均よりかは少し上だと自分では思っていた。
しかし、まだまだ女性管理職が希少だった時代、周りの男性社員に舐められないようにと気を張っていたのがいけなかったのか、男勝りの気の強い女性と認識され周囲からは敬遠されていた。当時の付けられた渾名は『氷の女王』。同期の社員からは、「あの女性には人らしい感情がない」と、よく陰口を叩かれたものだった。
そんな周囲の目を気にすることもなく、異性や遊びにも目もくれず仕事へと邁進していた。
そもそもが、嫌悪こそしないものの、異性に興味を持たなかったと言って良いだろう。いや、避けていたのだ。
美恵子も最初からこんな風な女性ではなかった。学生時代は気が強いどころか、どちらかといえば押しに弱い普通に可愛らしい女性だったのだ。しかしある日を境に、彼女は変わってしまったのである。
それは、学生時代の大恋愛の末の大失恋。彼との絶対的な別れとなった日に起因する。その失恋が尾を引き、美恵子自身が男性を、恋愛そのものを忌避しようとする気持ちが大きくなったのである。
その彼とは高校時代からの付き合いだった。二つ上の先輩で陸上部の選手、そして美恵子はマネージャー。高校生にはよくある話で、彼が卒業するとその恋も終わってしまうような淡く切ないものだったりする。しかし美恵子とその彼の付き合いは途切れることなく七年近くも続き、美恵子が大学を卒業する半年前に唐突に終わった。
彼は何を思ったのか、大学に入学すると打ち込んでいた陸上をあっさりと捨て、登山部へと入部した。それもかなり本格的な。
美恵子も、最初はあまり気にもとめなかった。陸上に限界を感じていた彼が、高校卒業後は陸上に見切りを付け、他のものへ興味を移すのを応援すらしていた。が、徐々に登山へのめり込んでいく彼に不安を覚えるようになった。
彼が本格的な山岳登山にのめり込む度に、美恵子の心配も増大する。
そして美恵子が大学四年の時に、彼は日本山岳協会主導の海外登山遠征に参加する事になった。
これには、美恵子もさすがに心配のあまり「危ないから止めて」と大反対をしたのだが。
「そんなに、心配しなくても大丈夫だよ。僕は登頂アタックする隊じゃなく、そのサポート役の方だからね」
と、彼は笑って言ったのだ。それでも心配する美恵子に、彼は少し顔を強張らせ耳たぶを摘まむと、最後にこう言った。
「それに……ミエちゃんが卒業したら……僕とそのう……結婚して欲しい」
それは、行く行かせないと口喧嘩の最中での、ロマンチックからはほど遠い突然のプロポーズだった。
「だから、これが最後。結婚したらもう登山も止めて、家族のために真面目に働くからさ」
真っ赤になった彼が目を逸らし、まるで子供のように照れた笑いを浮かべる。
怒りと不安、そして嬉しさと愛おしさに、思わず抱きつく美恵子だった。
しかし――この姿が、美恵子の見た彼の最後の姿となった。
美恵子の元へ、彼は帰って来なかったのだ。
彼の参加した登山隊は大規模な雪崩に巻き込まれたのである。
それ以来、彼は行方不明となった。
彼はそれほどイケメンだった訳でもない。それでも、パズルのピースがぴたりと嵌るように相性は抜群だと、美恵子は思っていた。運命の人、そんなご大層に考えていた訳ではないが、この人と一緒に老いていくのだろうなと、漠然と思ってはいた。それは、後にも先にもこの男性以上の男性はもう現れないだろうなと想うほどには。
だからこそ、行方不明の報に接した時には、衝撃のあまり美恵子は半狂乱となった。
これが或いは亡骸と対面できていたなら、時間は掛かろうとも、ある程度の気持ちの折り合いはつけれたのかも知れない。しかし、行方不明と聞かされただけでは美恵子も納得できないし、それに信じられなかったのだ。あり得ないと思いつつも、何時かは彼が「ごめん、心配かけちゃったね」と照れ笑いを浮かべ、目の前に現れるのではと考えてしまう。
だから、いつまで経っても気持ちの整理がつかない。これほど辛いことはなかった。
それからだった。美恵子が異性に、恋愛に臆病になったのは。気の強い女性を装っていても、その内情は怖がっていたのである。
そして働き出してからは顕著に、更に酷くなっていったのだ。彼の面影を忘れるために、全てを振り捨て仕事にのみ生きる女性へと変貌した。それはやがて上昇志向へと変わり、課長へ部長へ、更に重役へと、胸の中にぽっかりとと空いた穴を埋めるかのように、企業内のトップを望む妄執へと変わっていったのである。
だが、美恵子の心の最後の拠り所としていた、その妄執も絶たれる時が来た。
長い時間を掛け育てた新商品の開発と企画。それはアニメ映画とタイアップさせ、若者向けの受けを狙ったものだった。
最初は重役連中も、鼻で笑って馬鹿にしていた企画。それでも美恵子は強引に推し進めた。そして、それが大ヒット。会社に莫大な利益をもたらすはずだった。
これを踏み台に、更に上へと駆け登ろうと考えていた美恵子だったが、突然にその全てが奪われた。あろう事か、自分が勤める会社によって。
美恵子の部署はあくまで開発企画まで。プロジェクトチームは解散、その後は営業部が受け継ぐと言うのである。
苦労は此方、旨味はよその部署へ。
これには美恵子も怒り心頭となり、指示を出した常務へ直談判に及ぶも、へらへらと笑い相手にもされない。しかも、挙げ句に出された内示は、子会社への出向だった。
重役待遇での出向ではあるが、本社勤務からは外されるのだ。はっきりといえば、体のいい左遷である。
結局は、美恵子が目障りだったのだ。
へらへらと笑う常務を前にして、
「女ごときが偉そうに」
と、その心の声が聞こえて来そうな美恵子だった。
いくら男女均等法や男女共同参画社会基本法が施行され、多くの女性が社会に進出しようとも、やはり未だに日本は根っこの部分で男性が中心の社会なのだ。それは、大企業になればなるほど顕著になる。
それを嫌というほど痛感させられたのだった。
美恵子が勤める企業は、日本でも有数の総合商社。表の顔は男女平等を謳ってはいるが、その実、上層部は古い価値観に未だ支配されている。バブル期を経験し、その頃の感覚が未だ抜けきれず派閥争いに忙しいのだ。美恵子のことなど、目障りで邪魔な存在としか思われていなかったのである。
美恵子はその日の夜、行き付けのBAR『バッカス』の駆け込むと、馴染みのイケメンマスターに愚痴を吐き出し、浴びるように飲んだ。
「――あろ老害どもらめ! 見てらさい、こうらったら独立よ! 私は私らけの……王国を作ってられるから!」
酔っ払い、もはや呂律も怪しくなる美恵子。それでも、嫌な顔もせずにこやかに笑って相手をする『バッカス』のマスター。金髪で外国人顔、年齢不詳のマスターは、この飲み屋街でもイケメンで有名だった。
「王国って、本気ですか」
「本気も本気らろ!」
「そうですか。では…………」
イケメンマスターがにこやかに何か言っているようだが、久し振りに前後不覚になるほど酔っ払う美恵子には、もはや何も聞こえていなかった。
それが昨夜の出来事だった。
ようやく意識もはっきりと覚醒し、美恵子は周りへと目を向ける。
が、そこは暗闇の中。そして微妙に違和感を覚える。
――ん、まだ夜中……それにここは。
一筋の光も差さない、本当の意味での真っ暗闇。普通なら夜中であろうと、なにがしかの光におぼろ気にも周囲の様子は分かるものだ。それが、何一つ見えないのだ。明らかに、自分の部屋ですらない。
まだ痛む頭を振り絞り、昨晩の事を思い出そうとするも、頭の中で霞がかかったように何も思い出せない。
――あれ、私は何をしてたんだっけ。
美恵子は急に怖くなり、真っ暗闇の中でジタバタと足掻いてみる。が、すぐそばに、壁や天井があって殆ど体を動かせない。
「うっそ……」と、思わず呟く。
まるで、美恵子の身体にぴったりと合わせた、箱の中に押し込められたかのような感覚。それは例えるなら、
――棺!
つい先日、取引先関係の葬儀に参列したばかり。その時の木棺が脳裏に浮かんだ。
――まさか……ね。
と、その時、美恵子の身体ごと箱がゆらりと揺れた。そして、ゆっさゆっさと揺れながら箱がどこかに移動していく。
――まさか、火葬場って事は……。
「ちょ、ちょっと、私、入ってますから、生きてますから!」
思わず叫び声をあげると、突然に箱の動きが止まり、ゆっくりと下ろされていくのが分かった。そして、ガリガリと音を鳴らして蓋が開いていく。
しかし、ホッと安堵したのも束の間、
「うそ……何、これ。どうなってるのよぉ!」
と、美恵子はまたしても叫び声をあげることになった。
何故なら――箱の縁から身を乗り出して中を覗き込む、三つの人のような影。美恵子を見詰める三つの対となった瞳は、真っ赤に輝き妖しげな光を放つ。明らかに人ではない異形の姿。一見、大きさや姿かたちは猿にも似ているが、その全身には体毛と呼べるものは一切なく、ぬめりとした光沢のある濃い緑の肌に覆われる。しかもさらに最も驚くのは、三匹とも額からにょきりと一本の角が伸び、それぞれが青、黄、緑と微かに脈動していたのだ。
その三匹は、箱の中にいる美恵子を見つけると、
「グギャギャギャ!」
と、奇妙な鳴き声をあげるのだった。