◆聖骸具と解放者
少し長め……かも。
鬱蒼とした濃い緑に覆われ、不自然なほどまでに生命力が満ち溢れた森の中。辺りは物音ひとつしない静寂に包まれていた……先ほどまでは。
だが、今は――。
その場に漂うのは濃密な血臭――そして、裂帛の気勢。
「どっせぇいぃぃぃ……!」
気合のこもった声が静かだった森に響き渡る。と同時に、横薙ぎに振り抜かれた大剣クレイモアが、白銀の煌めきを残し空間を切り裂く。
「あがが……?」
クレイモアの刃が走り抜けた後には、醜悪な顔に邪悪な笑みを張り付かせたまま、魔獣の首が濃緑色の小さな体躯からゴロリと転がり落ちた。
「けっ、ゴブリンごときに俺らが殺られるかよ……っと」
叩き付けるような言葉と共に、白き刃はその勢いを殺すことなく切り返す。と、すぐ横にいたもう一匹のゴブリンの首をも、あっさりと切り飛ばした。
クレイモアの柄を握るのは、歳は三十代かに見える筋肉質な大柄の男――頭部を防護するためのミスリムヘルムを被り、体を覆うのは耐熱にも優れた火竜のマント。その下では同じくミスリル製の軽鎧が、しゃなりと微かな音を鳴らす。それ以外にも、瞬発力を高める魔法の羽を編み込んだウィングブーツを履き、耳元には聴力を高める防諜のイヤリングがキラリと光る。荒事にも慣れたかのような、ごつい節くれだった指には対魔の指輪が嵌り――等々、身につけている装備のどれもが一級品の魔道具。そして何より、手に持つ大剣クレイモアは『竜殺剣』とも呼ばれる業物の魔剣。世界に現存する数ある魔道具の中でも逸品中の逸品だった。
ゴブリンの首から吹き出す血潮を避けるように、男は大きく後ろへと一歩飛び退く。と、そのままクレイモアを肩に担ぎ上げ、辺りを睥睨するが如く鋭い視線を投げかけた。
男が立つ場所は、樹木が密生する森の中に何故かぽっかりと円形状に拓けた空白地。周囲には未だ五十匹以上のゴブリンが群がり、男の隙を窺っていたのだ。
「イギィィィ……!」
その全てのゴブリンが仲間を殺された事に興奮してか、鋸状に並ぶ尖った歯を剥き出し、鋭く伸びた爪を振りかざして男を威嚇していた。
「ふむ……仲間の死を悼むか。尚且つ此方を警戒して直ぐには襲い掛かってこないとは……さすがは樹海産のゴブリン。多少は知恵が回るようだな」
それら周囲のゴブリンを眺め、男は僅かに首を傾げた。
男が疑問に思ったのも、もっともな事だった。
何故なら、本来のゴブリンとは二足歩行の人に似た形態をとってはいるが、その本質は妖精種に近い。魔素溜まりなど自然界の魔力が澱む場所に、邪気が融合して産み出される生き物。魔獣というよりかは、邪妖精と呼ぶほうがより本質に近いだろう。だから仲間の認識はあるものの、死を嘆くような感情など持ち合わせているはずのない邪悪な存在。それがゴブリン。更にいえば知性の欠片もなく、本能の赴くままに周囲の動物に襲いかかるのが通常のゴブリンだと言われていた。
しかし、男の目の前で群れるゴブリンは仲間が殺された事に怒りの感情を見せ、尚且つ仇を討とうと明確な意思らしきものまで見せているのである。その上で、此方との実力差を正確に判断し、少しでも隙を突こうと前後左右から連携さえ取ろうとしていた。
通常ではあり得ない知性あるゴブリンの存在に、男は驚いていたのだ。
だが――
「ほぅ……面白い。変異種が群れを成すか……」
通常とは違う変異種。
本来のゴブリンを単体で考えると、魔獣のランクでいえばF。この男のように戦いを生業とする者からすれば、その危険度はかなり低い。群れの規模にもよるが、現在囲んでいる数十匹程度の群れでようやくEないしDランクといわれていた。
だが、これが変異種ともなれば、話も大分に変わってくる。
数多い魔獣の中には、ごく稀に大量の魔力を内包した個体が生まれることがある。通常種とは比べるべくもなく身体能力は大きく向上し、その個体特有の技能さえも有する魔獣までいるのだ。
それが変異種の魔獣。当然その魔力量に比例して、危険度を表す魔獣ランクも跳ね上がる。
そんな出会う事自体が珍しい変異種らしき魔獣が、群れとなって男を囲んでいた。例え相手がゴブリンといえど、その全てが変異種であるなら、かなり危険な状況といっても良いだろう。
周囲のゴブリンを睨み、男の目が鋭い光を放ち険を滲ませた。が、逆にその口元の端はにゅうと吊り上がり、嬉しげに不敵な笑みを浮かべる。
クレイモアを握る指に力がこもり、その柄がみしりと音を鳴らす。
男の体貌から漂い出るのは、強烈な暴威。
ヘルムの隙間から額へと垂れた燃えるような真っ赤な髪は、男の性格を如実に表しているかのようだった。
とそこへ、男の後方から声が届いた。
「マックス! 相手がゴブリンでも油断は禁物ですよ」
「そうそう逸る気持ちも分かるが、お前はパーティーのリーダーなんだぞ。ひとりで突出するな。それにここは何といっても魔の樹海、どんな危険が在るかも分からない」
空白地を囲む茂みから飛び出し、駆け寄りながら苦言に満ちた声をかけたのは、クレイモアを持つ男と同じ火竜のマントに身を包む男が三人。
その中の二人は、マックスと呼ばれた男と歳の頃も同じ三十代。片方は短弓を手に持ち、抜け目なさそうに周囲のゴブリンへと視線を送る小柄な男。もう一人は中肉中背の男で、小型の盾を左手に右手には小振りのメイスを構え、口元には常に穏和な笑みを絶さない。
そしてもう一人。二人の間に挟まれるように駆け寄るのは、マックスを含めた他の三人よりも随分と若く見え、明らかに年齢も毛色も違う。
マックスたち三人には、長年に渡って荒事に携わった者特有の厳しさと荒々しさがあった。そう、どちらかといえば纏う雰囲気は荒くれ者に近い。
しかし、この若者はまだ十代かにも見える細面の甘い顔立ち。その風貌も相まって、全体的に優しげな印象を他人に与える事だろう。その立ち姿は――金色の髪を靡かせ右手には少し古ぼけた杖を持つ姿からは、いかにも育ちが良さそうな所作も目立つ――この闘争の場に於いては似つかわしくない、むしろ程遠い者にさえ見えるのである。
そんな三人だが、その駆け寄る足取りは軽やかで滑らかなもの。それだけでも相当な実力者だと窺わせた。そして、三人が身に着ける装備もまた、その実力に相応しく、マックスに負けず劣らずの一級品の魔道具が揃っていた。
小柄な男が持つのは、『バーストボウ』と呼ばれる魔弓。走りながら手練の技で弦を引き絞り、矢継ぎ早に矢が放たれる。驚くことにその矢は、光の尾をひきゴブリンの頭部に命中すると、首から上を弾けさせ跡形もなく粉砕してしまうのだ。それもそのはずで、『バーストボウ』には爆裂の魔法属性が付与されているからなのである。
だが、それでも群がるゴブリンは五十匹を軽く越える数。中には、雨あられと降り注ぐ矢を掻い潜る個体もいた。
「な、ゴブリンが俺の矢を躱すだと……あり得ん」
小柄な男の顔に驚愕の表情が広がり、思わず立ち止まると、他の二人も釣られるようにして足を止めた。それを好機と捉え、ゴブリンの群れは我が牙と爪を突き立てんと、近寄る三人に殺到する。しかも鋭く伸びた爪は、僅かに蒼く輝いていた。
「気を付けて下さい! このゴブリンは普通のゴブリンとは違うようですよ。信じられないかも知れませんが武技を使うようです!」
襲ってくるゴブリンが危険だと、驚きの声と共に皆に注意を促したのは中肉中背の男。近寄るゴブリンに対処するべく、一歩前に出て左手の盾を構える。
武技とは、世界に蔓延る魔獣に対して、人が編み出した戦闘用の技能。その者が就いた職業クラスによるものや、種族固有の物など様々な技能がある。例えば、クラスが戦士職の初級技能である【スラッシュ】などは、発動させれば斬撃の速度と威力を高める事ができるのだ。
それ以外にも回復系から特殊な状態を付与するもの等々、多くの技能があるのだが――盾を構えた男は、ゴブリンの仄かに光る爪に、獣人たちが扱う種族固有の【クロー】系の技能を発動するときの煌めきと似たものを認めたのだ。
因みに、その【クロー】系の技能だが、込められる魔力量によっては鍛えられた鋼鉄さえ切り裂くのである。
しかし男は構わず、伸びてくるゴブリンの爪に盾を合わせた。
「させません!」
五本の蒼い光の筋を描くゴブリンの爪を、構えた盾であっさりと弾き返す。更にバランスを崩すゴブリンに向かって、右手のメイスを突きだした。
それを、さすがは変異種のゴブリンだけあって、素早い動きで体を捻り躱そうとする。が、僅かにメイスの先端部が触れた。しかし、それで十分だった。
「甘いですね、逃がしませんよ……悪しき魔獣よ、その魂の住処たる地の底へと還れ!」
素早く呟かれる言葉に反応し、メイスの先端部から目映いばかりの白光が幾筋も放たれた。途端にぷすぷすと煙りを上げ、数瞬で焦げた消し炭へと変わり果て倒れるゴブリン。
メイスから放出された白光は、強烈な雷だった。
彼の持つメイスは『雷槌ミョニル』、盾は『防魔の盾』と呼ばれる逸品。『防魔の盾』は魔法や武技に対しても高い防御力を誇り、『雷槌ミョニル』は雷属性が付与された武器。一級品としての魔道具の性能を、十二分に発揮したのである。
小柄な男が爆裂の矢を放ち、近寄れば中肉中背の男が盾で攻撃を受け流し雷撃を浴びせる。こうなると変異種のゴブリンといえど抗しきれず、次々と討ち取られていく。
その上――。
「おらおら! 俺の事も忘れるなよ!」
マックスが、二メートル近い刃を持つクレイモアを、暴風のように振り回し暴れるのだからたまらない。たちまち数匹のゴブリンがまとめて薙ぎ倒され、ゴブリンの群れは最早まともに連携もとれず大混乱に陥っていた。
そして更に、金髪の若者も緊張に顔を強張らせ、その手に持つ古びた杖を高く掲げた。
「皆さん、もう少し此方に。僕の範囲魔法で焼き払います!」
その言葉にマックスは、まだ暴れ足りないとばかりに、「ちっ」と舌打ちと共に顔をしかめた。
「いけるのか!」
「あ……」
マックスの問いかけには、言外に「大丈夫だろうか」と心配する響きが含まれていた。それを察した若者は一瞬、言葉を詰まらせ頻りに耳たぶを触る。それは感情が昂ぶった時などに見せる、若者の幼い頃からの癖。しかし、最後には力強く頷く。
「……はい、やれます!」」
そんな若者に、にやりと笑って返すマックス。やれやれといった様子で駆け寄った。
金髪の若者は残りの二人も傍に寄って来るのを確かめつつ、強張った口元で呪文を唱える。
「来たれ穢れなき猛々しき炎よ、火輪となり、我が目前に迫る悪しき存在を焼き滅ぼせ……【炎の円環】!」
途端に杖の先端部に嵌め込まれていた宝玉が赤く輝き、四人の足下を囲う円環状の炎を産み出す。と同時に地を舐めるかの如く、その炎は外側に向かって放射状に波打ち広がっていった。
瞬く間に、周りで襲い掛かろうとしていた、数十匹はまだ残っていたゴブリンを悉く焼き尽くしていく。
そう、若い男の持つ杖も、『神の王笏』と名付けられた魔道具(マジックアイテム。放つ魔法の威力を高めるだけでなく、汲めども尽きぬほどの魔力を持ち主に与えると言われる伝説級の魔道具なのだ。職業クラスが魔法職の者にとっては垂涎の逸品でもあった。
ぷすぷすと音を鳴らし、黒煙を上げ焼け崩れていくゴブリン。すでに半ば以上が灰と変わり果て、もはやその原型をとどめないほど。例えゴブリンといえど、希少な魔獣でもある変異種。魔法耐性も通常種よりは数段階は上のはず。範囲魔法を放ち、僅か数瞬で全てのゴブリンを骨まで灰に変えるには、相当な火力が、魔力が必要なはずなのだ。
実際、放ったはずの金髪の若者ですら、その威力にぽかんと口を開け、唖然とした表情を浮かべ耳たぶを触っていた。
「ほう、やるじゃねえか。魔法の腕は、うちのアリサと遜色がねえようだ。戦闘になった時の事を心配してたが、これならある程度は当てに出来るな」
傍らに立つマックスは感心したように言うも、その口調とは裏腹に言葉の端々に苦々しさがにじみ出ていた。
「しかし全部もっていくかよ。年長者に少しは獲物を残そうって気はおきないのかねぇ……それにしても、魔の樹海のゴブリンといってもこんなもんか……」
周りを囲むように築かれた灰の山を眺め、ため息と共にぼやくように呟くマックス。それに答えるのは若者ではなく、盾とメイスを持つ男だった。
「ですね……連携し武技らしきものを使ったので、思わず目を見張りましたが、所詮はゴブリンに過ぎないですか。もっとも、魔獣のランクとしてはD、或いはCぐらいはあったかのように感じましたから、群れでB……わたしたちでなければ危なかったかも知れませんね」
そう言うと、男は穏和な笑みをまた浮かべ、周囲を警戒するかのように見渡したあと、また言葉を続ける。
「でも、変異種には驚きました。この襲ってきたゴブリンが報告のあった群れでしょうか」
「あぁ……おそらくな。どうやら俺たちのチームが当たりを引いたようだ」
「確か、領軍の偵察隊とギルドからもCランクのパーティーが、各々一チームずつ探索に出てるとの話でしたよね」
「あぁ、よそ者の俺たちだけに任せられないのだろう……しかし、この群れだけなら今回の依頼も楽なんだが……森に入って半日も経たない内に、噂の群れに出くわすとはツキがあるのか、ないのか」
肩をすくめ、少しおどけた様子を見せるマックス。だが、盾とメイスを持つ男は逆に笑みを消し口元を引き締めると、僅かに眉を寄せた。
「変異種の群れ……トロイの街の冒険者たちの話、あながち本当のことかも知れませんね。この群れだけで済めば良いのですが」
「おいおい、『ザカースの悪夢』再びってか……」
片眉をぴくりと上げるマックス。思わず直ぐ横へと眼差しを向けた。
その視線の先では小柄な男が片膝を突き、手のひらを地に当てている。会話する二人の傍らで、【地形探査】の技能を使い周囲の気配を探っていたのだ。
【地形探査】とは、本来は鉱物資源などを探す技能。だが、高レベルの盗賊の職業持ちが扱うと、広範囲の気配察知のスキルへと変わる。通常とは違う裏技的な技能の使用法だが、見通しが悪く生命力が溢れ気配を感じ取るのが困難な森の中では、戦闘職の持つ【気配察知】の技能よりも、盗賊が用いる【地形探査】のスキルの方が優れ重宝されるのである。この事からも、彼らが経験豊かな実力者だと、見るべき者が見ればすぐにも分かることだろう。
「どうだ? 周囲に怪しい気配はもうないか」
マックスの問いに、小柄な男は僅かに視線を上げ、
「どうも、この森に入ってから調子がおかしい。何と言うか……森の中を漂う魔素が捉えきれない」と、眉を寄せ首を振る。
彼ら三人、マックスと盾やメイスを持つ男と魔弓を操る小柄な男は、同じパーティーを組むメンバーだった。
盗賊の上級職である【暗殺者】の職業クラスを持つビリーと、神官の上級職、戦う神官とも言われる【聖戦士】の職業クラスを持つレオン。この二人に、リーダーである【勇者】の職業クラスを持つマックスと、今回は同行していない女性魔導士のアリサを加えた四人が、『悠久の翼』と名付けられた冒険者パーティーを組んでいた。
その四人が四人共、冒険者ランクはA、当然『悠久の翼』のパーティーランクもA。世界に数組しかいないSランクへのランクアップも間近だと言われている高ランクパーティーでもあったのだ。
そもそも彼らがこの森――別名魔の樹海と言われるザカース大森林に訪れたのは、たまたま立ち寄った辺境都市トロイの冒険者ギルドからの、緊急の依頼を受けての事だった。
このザカース大森林、その広さはトロイの街を有するフェンデル王国の国土にも匹敵し、王国以外の幾つもの国々の領土にも跨がる大きさ。また、広大な大森林は膨大な魔力を内包し、多数の凶悪な魔獣が棲息する危険な場所でもあった。そのため、深部には未だ人が到達した事もない未開の地でもあるのだ。二百年も前の過去には、大森林から溢れだした魔獣の群れによって国が滅んだ、『ザカースの悪夢』と呼ばれる天災級の事件を引き起こした事もあったのである。
だから、辺境都市トロイはザカース大森林に対しての防波堤、或いは城塞としての側面も担っていた。
そして、王国や周辺国の建前はこうだった。
『いかなる者も、ザカース大森林への立ち入りを禁ずる』
年に数度は周辺国と合同の調査を行うも、大森林への大規模な攻伐は控えていた。ただ各国が周辺にトロイの街と同じような城塞を築き、大森林の監視を怠らないようにしていたのである。
要は恐れていたのだ。滅んだ小国の二の舞は御免だと。
大森林の中で棲息する凶悪な魔獣に妙な刺激を与え、『ザカースの悪夢』のような大災害が、再び起きるのは避けたいというのが正式な見解だった。
が、とはいっても、大森林から産出される魔力を帯びた鉱石や、珍しい魔獣の素材は各国にとっては魅力的な資源。時を経ると共に、各国の監視は緩やかなものへと変わっていったのは、当然の帰結でもあった。
今では多数の冒険者が依頼を受け、貴重な鉱石や魔獣の素材を求め大森林へと赴いていた。もっともそれは外周部の浅い場所に限られ、各国もそれを黙認していた。中には、更なる貴重な素材を求め深部へと踏み入る冒険者たちもいたが、誰も帰って来た者はいなかったのである。
ザカース大森林はそんないわく付きの場所であったが、ここ数日、主に辺境都市トロイの冒険者ギルドで、ある騒動が持ち上がっていたのだ。
依頼で大森林に向かった冒険者たちから、驚くべき報告がギルドにもたらされたのである。
慌てて戻ってきた冒険者は、興奮しながらこう言った。
「ゴブリンが隊列を組んで行軍していた。ありゃ、誰かが統率しているな」
また違う冒険者はこうも言った。
「俺はゴブリンキングを見た。間違いないぜ」と。
その者たち以外にも大勢の冒険者が、似たような話をギルドに報告したのである。
こうなると冒険者ギルドも放っている訳にもいかず、トロイの街の領主でもある辺境伯と善後策を協議するほどの騒ぎとなったのだ。
何故なら、過去の大災害『ザカースの悪夢』を引き起こした切っ掛けが、ゴブリンキング率いるゴブリンの群れの大侵攻だったからである。
普通であれば、知恵なき魔獣が大規模な共同体を作る事はない。しかし、群れをまとめる統率者がいれば別だ。
夥しい数のゴブリンが森から溢れ出し、当時大森林に接していた小国へとなだれ込んだ。
この時ゴブリンキングの率いるゴブリン――その数、実に約十万。
もはや群れでなく、軍と呼んで良い数。幾ら魔獣ランクがFといえど、これだけの数にもなると生半可な対策では抗しきれない。
しかも、ゴブリンの群れに引きずられるように他の魔獣も溢れだし、瞬く間に小国は蹂躙されてしまったのだ。
最終的には周辺諸国の連合軍がゴブリンキングを討伐し、溢れだした魔獣もどうにか大森林へと押し戻す事には成功した。だが、周辺諸国に与えたその被害は甚大。多大な犠牲を払う事となった。
そのゴブリンキングがまた現れたとの報告。ギルドのマスターや辺境伯の脳裏に過ったのは、二百年経った今も未だ語り草となっている『ザカースの悪夢』の再現。
事の重大さを覚り青くなったギルドと辺境伯は、国に一報を入れる前に、先ずは情報の真偽を確かめねばと考えたのは至極当然のことだった。
しかし、探索を行う場所は危険なザカース大森林。しかも、ゴブリンキングが活動しているかも知れないのだ。それなりの実力者でなければ、まともに調査を行う事もできない。
そこへちょうど現れたのが、マックス率いるAランクパーティー『悠久の翼』だった。
ただし、彼らの活動拠点は王国にはない。それどころか、大森林に接する他の周辺諸国ですらなかった。フェンデル王国の北、大森林からは真反対に聳える山脈の向こう側に位置する大国、ローマン帝国が彼らの出身地であり活動拠点だった。
彼らがトロイの街に訪れたのは、魔の樹海と噂に名高いザカース大森林を一度は眺め、立ち入る許可が下りるなら自分たちの実力も試してみたいとの思いもあったからである。とはいえ、自分たちが他国の冒険者であることから、そう容易く許可も下りないだろうと考え、半分は物見遊山の気持ちの方が強かった。
そこへ、トロイの街のギルドが慌てた様子で依頼の話を持ち込んだのである。
それは急を要する依頼にも関わらず、トロイの街に所属する高ランクの冒険者が、まずいことに全て出払っていたからでもあった。しかも『悠久の翼』はSランク間近と噂されるほどのAランクパーティー。トロイの街に所属する冒険者たちでも、これほど適任の実力者はいない。例え他国の者であっても冒険者に違いはないと、ギルドが大森林の調査依頼を出すのは当然だったのだが、
「帝国由来の冒険者を使う訳にはいかん」
と、難色を示したのが領主である辺境伯だった。
王国にとって、大陸に覇をとなえんとする帝国は、交戦こそないものの潜在的には敵国でもあるからだ。
しかし、時間に余裕がないのも事実。もし本当に、大森林にゴブリンキングが生まれているのであれば、直ちに諸国に危急の報を発し軍を編制しなければいけない。そのためにも、大森林で探索を行い確実な情報を持ち帰るのは急務であるのだが、領軍の偵察隊では魔獣が蔓延る大森林内で行動するには心許ない。やはりここは対魔獣の戦闘にも慣れ、大森林をものともしない冒険者パーティーが必要だった。しかも実力者のだ。
しかしこの時、マックスたち『悠久の翼』にも問題が発生していた。パーティーメンバーでもある魔導士のアリサが、
「ごめん、来ちゃったみたい。ちょっと無理っぽいわ」
と、女性の魔法職にとっては悩みの種、月に一度は訪れる女性特有の体の変調を訴えた。
体の変調には精神も引きずられる。知性と精神に依存する魔法職にとっては致命的だ。
これが普通の依頼であれば無理を押してでも受ける事も可能だが、さすがに行き先がザカース大森林では無理がある。
広域殲滅魔法の技能を多数持つアリサが抜ければ火力の面では半減、『悠久の翼』にとってかなりの痛手だった。
「危険な冒険こそ我が友」と、公言して憚らないマックスにとっては、自分たちの実力を王国内で示す良い機会だと思っただけに、がっくりと項垂れた。
緊急の依頼とはいえ、マックスたちが所属するギルドから出されたものではない。ましてや他国の冒険者ギルドからの依頼である。必ず受けなければいけない謂われもない。
パーティーが万全であれば、マックスも喜び勇んで受けただろう依頼だが、『悠久の翼』のリーダーとしては受けるかどうかを悩むのも仕方のないものだった。
個人的には大森林に興味があり受けたいと考えるも、皆の命を預かるリーダーの立場ではそうもいかない。今回はアリサが復調するまでの時間的な余裕もない。依頼に伴う危険を考えれば、断るのが最善かとマックスの考えが傾きかけた時に、最後まで難色を示していた辺境伯がようやく折れ、自らが出向き依頼をしたである。
その上で、辺境伯はある提案をした。
「抜けたメンバーの穴埋めのため、その実力に見合うだけの臨時のメンバーを此方で用意しよう。連携やその他で不安もあるだろうが、いないよりは増しであろう。これで幾らかは危険も和らぐはず。それに、危険に伴うだけの報酬も上乗せして弾もう」
と、大貴族でもある辺境伯が頭を下げ頼むのだ。
こうなると、他国の貴族とはいえ、マックスも断りづらい。元々が、個人的には是が非でも大森林に行ってみたいと願ってただけに、不承不承といった様子を見せつつも依頼を受けたのである。
そして、『悠久の翼』に臨時のパーティーメンバーとして加わったのが――。
辺りには焼け焦げた跡とゴブリンの灰と化した亡骸が山となり、その向こう側では真逆に瑞々しいまでの緑があふれ生命の躍動を感じさせる。
その中心に立つのは、それを成した金髪の若者。肉の焼ける悪臭が鼻につき、青褪めた顔を歪めていた。そして周囲のアンバランスな光景に、ぶるりと体を震わせる。
この光景を作り出したのは自分なのだとの思いが、若者の心の中に暗い闇を生じさせるのだ。
幾つもの命を一瞬で刈り取った強大な力。何時もの自分であるなら、これ程の殲滅力はなかった。
だが今は――手元の杖へと視線を落とすと、今もまだ微かに振動していた。それが悦びに打ち震えているようにも感じられ、若者の気分を粟立たせる。と同時に、また少し心が闇に侵食され茫然と立ち尽くす。
――居間の正面の壁に、これ見よがしに飾られていた杖。
――数々の逸話と共に、初代から連綿と一族に伝わっていた杖。
「今回の探索行に随伴するように」と、父親から命じられた時に、若者はその杖を黙って家から持ち出したのだ。
そして魔道具は、自らが我が主を、使い手を選ぶ。それは魔道具の等級が上がれば上がるほど顕著になる。
「……僕が……選ばれた。ノルトシュタイン家の初代様以来、誰ひとりとして選ばれなかった使い手に……」
それが冗談や夢ではない証拠に、杖を持つ右手の甲には使い手の証でもある聖痕――白く星形に浮かび上がった痣がしっかりと刻まれていた。
聖痕、それは世界に僅かな数しか存在しないと言われる、伝説級の魔道具と絆を結んだ者にだけ現れる徴。一族に伝わる話とも符合する徴なのである。
――選ばれた、伝説級の魔道具に、この僕が。
若者も、元よりその積もりで持ち出してはいた。自分が、使い手に選ばれるために――後で父親に烈火の如く叱責されようともだ。若者にとって、これは最後の賭けでもあったのだ。しかもその勝率は、限り無く低いものであっただけに、いざ本当に自分が使い手に選ばれると、「信じられない」との思いが勝り半信半疑の驚きの方が強かった。
だから今は、帰還した後の父親の事など欠片ほども思い浮かばない。それ程に興奮していた。『神の王錫』に内包された魔力の一端に触れ、その強大な力を恐れ恐怖し、同時に歓喜する。
無意識に強く摘まんだ耳たぶは真っ赤に充血し、それほどまでに若者は、感情の昂ぶりを抑えることが出来ないでいた。
その力は――古の英雄の力。
小指でそっと押すが如き僅かな魔力の放出で周囲を焼き払う。今はまだ、全ての力を扱いきれていない。だが、もし全力で放てるほどの扱いに熟達すれば、このザカース大森林の全てを焼き払えるかも知れない。
そう思えるほどの、強大な魔力のうねりを感じるのである。
――この力さえ有れば……覆すことも出来る、全てを。この僕が……全てを手に入れることも、いや、手に入れるのだ。
若者の中にぽつりと小さく生じた暗い想念が、瞬く間に精神を蝕み心を覆い尽くしていく。が、その時、陽気な力強い声がその心の闇を振り払い切り裂いた。
「ほら、若様どうした。まだ仕事は終わってねえぞ。変異種の核となる魔石を集めたら場所を移動するぞって……ん?」
少々ぞんざいな口調で若者に話しかけたのは、マックスだった。相手に敬意を払うような話し方は苦手。これでも十分に、気を使っている積りなのである。
何時もは、他のパーティー或いは他の冒険者との合同依頼の際には、今回は参加していないアリサが間に立つことが多い。しかし、今はいないのであるから仕方がない。依頼を円滑に進めるためにも、リーダーのマックスが時おり話しかけたりしていたのだが――言葉の途中で、若者の様子に不審を覚え表情が怪訝なものへと変わる。
「本当にどうした若様? 魔の森に入るのは初めてらしいって話だったが……もしかして、魔獣との戦闘も初めてじゃねぇだろうな」
その声にびくりと体が反応する若者。そこでようやくハッと我に返り、
「あ、はい……いえ、大丈夫です……よ」
と的外れな返事をするのを、マックスは探るような眼差しを向け見つめた。
若者はその視線から逃れるように、
「あ、それと、若様は止めて下さい。アルフと呼び捨てにしてもらって結構ですから……今回の探索の間は、いち冒険者として扱って欲しいと、最初の顔合わせの時に言ったはずですよ」
と、少し困ったような表情を浮かべた。
「そう言うわけにもいかんだろう。さすがに、辺境伯の子息を呼び捨てにするのはまずいだろうしな」
「いえ……子息といっても、末っ子の八男ですから……何の権利も権限もありませんし……僕なんて、ただの使い捨ての駒ぐらいにしか思われていませんよ」
吐き捨てるように言う若者の表情が、僅かに歪み少しだけ陰を落とした。
そう、若者の正式な名前はアルフレッド・フォン・ノルトシュタイン。フェンデル王国内でも、辺境の街トロイを含むザカース大森林と境を接する広大な領地を持つ辺境伯、ノルトシュタイン家の八男だったのである。ただし、確かに父親は辺境伯ではあるのだが、母親は身分の賤しい者だった。辺境伯が酒に酔い、屋敷で働く婢女に手を出し産まれたのがアルフレッドだった。
本来であれば、直ぐにも外に出されるべき赤子。だが、幸か不幸か、神官の見立てではあるが、産まれた赤子には魔法の才が備わっている事が分かったのである。その瞬間に、赤子の将来は決まったといっても良いだろう。
その赤子がアルフレッドだった。
しかし、ノルトシュタイン家の屋敷内でアルフレッドは育てられたものの、兄たちからは「下賤な者め」と、嘲笑と共に冷顔を向けられ相手にもされない。父親の辺境伯に至っては、「多少は魔法の才があるなら、将来ノルトシュタイン家にとって何かの役に立つ時もあるだろう」と、その程度の認識でしかなかった。
血の繋がった身内でさえこれなのである。長年ノルトシュタイン家に仕えてきた家臣たちにしても似たようなものだった。さすがに面と向かってアルフレッドを辱しめ中傷するような者はいなかったが、いつかはノルトシュタイン家に使い捨てにされる存在としか思われず、常に冷たい眼差しを向けられていた。
はっきりといえば血縁者からは存在しない者とされ、屋敷内で働く者たちからも面倒で邪魔な存在としか思われていなかったのだ。
ノルトシュタイン家では微妙な立場。アルフレッドにとって屋敷内は、生まれ育った場所とはいえ、とても居心地のよい場所とはいえなかった。しかし、ノルトシュタイン家の体面もあり、自分勝手に飛び出す事も許されず、閉塞感に包まれる中で将来にも暗い展望しか描けなかったのである。
そんな不遇の十数年間を耐えるアルフレッドの日常。しかし、それが最近になって崩れたのである。
それが今回のザカース大森林の探索だった。
『ゴブリンキング現わる』との噂は、すぐさま辺境伯の知れるところとなり、怠惰な生活を暮らしていたノルトシュタイン家を大いに慌てさせることとなった。
報告をもたらしたトロイの街のギルドとも協議を重ね、ザカース大森林に調査隊を送り出す事になったのだが。
――さすがに、帝国の冒険者だけで調査させるのは問題がある。
そう考えた辺境伯は、ノルトシュタイン家では厄介者扱いされるアルフレッドに、
「ようやくお前も役に立つ時がきたぞ」
と、『悠久の翼』への同行を命じたのであった。
ノルトシュタイン家としては帝国の冒険者に調査を頼み自らは何もしないでは、領民ひいては王国に対しても聞こえが悪い。更にいえば、冒険者とはいえ領地から遠く離れた帝国の人間を使うのは、日頃から頻繁に出入りしているのかと、王家から痛くもない腹を探られることにもなりかねない。
とはいえ、ゴブリンキングの話は、辺境伯も見過ごしに出来ない程の最重要な案件。下手をすると領地すら消し飛ぶ事になるかも知れないのだ。噂が真実であるなら、とても領軍だけでは対処できず、早急に国軍の出動を要請しなければならない。かといって、真偽を十分に確かめもせずに早計な判断を下して要請すれば、後にただの噂話に過ぎないと分かった場合に、王国や周辺国に対して辺境伯の体面は丸つぶれとなる。その上、膨大な戦費の大半を、辺境伯が支払うように迫られるのは目に見えていた。そうなると、辺境伯領の経済が大きく傾く事にもなりかねない。
そこで辺境伯が熟考の末に思いついたのが――領軍からとトロイの街のギルドからも一応は探索隊を出し、これらのチームにはザカース大森林の周辺や外縁部の浅い部分のみ調査させる。こうしておけば、あまり期待は出来ないものの、対外的にも聞こえは良い。更に探索の主となる『悠久の翼』に一族の者を随伴させておけば、あくまでもノルトシュタイン家が先頭に立ち調査にあたっているとのポーズも取れる。帝国冒険者についても、たまたま立ち寄った高ランクの冒険者に助力を仰いだだけと、王家に対しても言い訳できる。
要は一族の者が同行しているとの事実が大事なのである。
いわば名と実の両方を兼ねる苦肉の策。噂の真偽はどうあれ、ノルトシュタイン家が率先して事にあたっているとアピールすると共に、帝国冒険者への監視及び牽制も忘れていないと、後に王国に対しても申し開きが出来るように、一族の者を随伴させる必要があったのである。
しかし、調査を行う地は別名魔の樹海とも呼ばれるザカース大森林。命を落とすかも知れない危険な探索行になるのは必然。その上で、高ランクパーティーの『悠久の翼』とも遅れず行動を共にできる実力者ともなれば、一族の中でも限られてくる。
そこで辺境伯の脳裏に真っ先に浮かんだ名前が、アルフレッドだった。
近頃は領軍の訓練にも率先して参加し、めきめきと腕をあげ頭角を現しているとの報告を受けていたからでもあった。それは少しでも認めてもらいたいとの、アルフレッドの健気な努力でもあるのだが、辺境伯はその事を知らない。いや、知っていたとしても、気にも止めなかったであろう。
辺境伯の脳裏にあったのは――例え探索途中でアルフレッドが倒れようとも、ノルトシュタイン家としては痛くも痒くもない、という事実。確かに魔法の才はあるにはあるのだが、魔法を扱える者はそこまで希少という訳でもない。実際、領軍内にはアルフレッドよりも魔法の才能にあふれた者が幾人もいる上、辺境伯の懐刀として辣腕を振るう側近は、この地方随一の魔導師とも言われていたからだ。
だからこの時、辺境伯が考えていたのは、
「これで命を落とす事になろうとも、それはそれでノルトシュタイン家のためになる」と。
もし、アルフレッドが死亡するような事があれば、王国や領地を守るために犠牲となった英雄として祭り上げ、ノルトシュタイン家を喧伝する良い材料になると思い描いたのだ。
こうして、父親でもある辺境伯からの非情とも取れる命令を受け、アルフレッドは否と答えるすべもなく『悠久の翼』に同行し、ザカース大森林の調査へと赴く事になったのである。
マックスからの問いかけに答える間も、アルフレッドの視線はちらちらと手元の杖へと行き交う。それほどまでに気になるのだ。
一方のマックスは豪快なようで、意外と細かい所まで見逃さない精緻な観察眼の持ち主。だからこそ、パーティーリーダーを任されるほどのAランク冒険者なのだが――その眼が、アルフレッドの泳ぐように揺れ動く視線と、その先にある杖や手の甲に刻まれた徴に気付いた。そして、アルフレッドの瞳の中奥深くに、暗く澱んだ闇が埋没していくのを見逃さなかった。
「ほぅ……その杖、名のある魔道具だと思ってはいたが、『聖骸具』だったのか。そして……若様が選ばれたと」
「あ……」
慌てて手の甲をマントの下へと隠し、アルフレッドは視線を逸らそうとする。それは屋敷から家宝である『神の王錫』を、黙って持ち出した罪の自覚からくる無意識下での動きだった。
しかし、今頃は屋敷では杖が無くなったことに気付き大騒ぎになっているかも知れないが、この場にいる誰も、アルフレッド以外は知らないはずなのだ。
それなのに、マックスはさっきまでの陽気な様子とは打って変わり、鋭い眼差しで、じろりとアルフレッドを眺める。その視線は、アルフレッドの瞳をひたりと捉えて離さない。
まるで蛇に睨まれた蛙のように、アルフレッドの全身は痺れ硬直する。完全に位負けし、射竦められていた。
「ぼ、僕は……何も……」
のど仏がごくりと音を鳴らす。息が詰まり、うまく言葉にならない。
――何故!?
との思いが強い。
アルフレッドには分からない。何故、マックスが突然に腹を立てたのかを。いや、怒っているのかどうかも分からない。実際には、それほどの付き合いがある訳でもないからだ。
昨日の夜に初めての顔合わせを済ませ、今日の朝早くからこれまでの半日、このザカース大森林で行動を共にしてきた。最初は相手が帝国出身の冒険者と聞いて、警戒感と緊張からどこかよそよそしい対応しかできなかった。それも、僅か半日ではあるが一緒に過ごす間に、マックスに対してある程度の信頼らしきものを覚えるほどになっていた。
冒険者を生業にするだけあって、マックスは言葉遣いも態度も荒々しい。しかも、王国と違って帝国の冒険者である。対してアルフレッドは甘やかされた記憶はないものの、一応は大貴族の屋敷育ち。両者は、あまりにも生まれも育ちも違いすぎた。だから、最初はマックスとの間に越えられない垣根のような物を感じていた。しかし、探索の合間に幾度か話を交わす内に徐々にではあるが、ある程度の親近感のようなものまで覚えていた。
特に、マックスたち『悠久の翼』が過去に行った危険な冒険譚――コラル渓谷での赤竜退治や、帝都で起きたバンパイア騒動で活躍した顛末等々――数多くの冒険の話を聞いて、尊敬の念さえ抱くようになっていたのである。
それに比べて屋敷内で働く者たちは、アルフレッドに対して礼節をもって接するものの、その内側には敬意の欠片もなく見下した冷たいものを感じさせる。だから、マックスの少々乱暴ではあるが飾らない陽気な口調や態度も、アルフレッドには寧ろ新鮮であり、逆に心地良い印象として心に残ったのである。
生まれて今まで、本当の意味で家族の情愛を味わったことのなかったアルフレッドは、陽気で頼もしいマックスの姿に、自分にとっての父親、或いは兄の理想像を重ねて見ていたのかも知れない。
だからこそ、厳しさを伴ったマックスの突然の豹変ぶりに、アルフレッドは驚き戸惑うのだった。
「勘違いするな。別に怒っている訳じゃねえよ。若様が何を考えているか知らないが……ま、はっきりと言えば、俺たちは部外者。王国と違って帝国の人間だから関係ないって言うか、関わりになりたくねえってのが本音だ」
「……な、何を」
「まぁまぁ、黙って最後まで聞いてくれ。なぁに、別に取って喰おうって訳じゃないしな。ただ……」
そこで一旦、言葉を途切らせたマックスは手首をくるりと返し、クレイモアを胸の前で立てた。そして、視線の先をクレイモア――『竜殺剣』へと移す。
途端に、マックスからの刺すような視線が外れ、全身から力が抜け落ち膝から崩れそうになるアルフレッド。それは、あたかも、呪縛が解けたかのようであった。
そんなアルフレッドを気にするでもなく、マックスは深く眉間にしわを刻み、幅広な刃を眺め呟くように言う。
「この『竜殺剣』も、その杖と同じように『聖骸具』のひとつ。そして俺も……王国では、どう呼ばれてるか知らないが――」
呟きながらマックスは、マントの下に着込んでいた軽鎧の胸元を開いた。
「あ、それは……」
「――俺たちの帝国では『解放者』と呼ばれている」
マックスの胸の上、そこには白い肌より更に白く、星形の痣が淡く輝いていた。それは紛れもなく、アルフレッドの手の甲に刻まれた聖痕と同じものだった。
「……『解放者』?」
「あぁ、正式には『星の解放者』とか言われてるらしいが、俺は面倒なんで単に『解放者』と呼んでいるけどな」
アルフレッドには『聖骸具』と『星の解放者』の二つの言葉は、どちらも初めて耳にするものだった。元々、屋敷内では部外者のように扱われていたアルフレッドは、居間の壁に飾られていた杖についても、それほど詳しい訳ではない。
しかし――アルフレッドがまだ幼かった頃、一度だけ父親である辺境伯に優しくされた事があったのだ。それは辺境伯の、ただの気紛れであったのだが――酒に酔った辺境伯は居間の椅子に座ると、幼いアルフレッドを膝の上に乗せ、壁に飾られていた杖の来歴を優しく語ったのである。
――曰く、その魔法力は天を焦がし、大地を穿つ。
それはフェンデル王国建国にも繋がる物語。
大陸に小国が乱立し、群雄が割拠した時代。フェンデルの建国王もまた、遅れじにと名乗りを上げ王国を築いた。その時に建国王の片腕として常に傍にいたのが、ノルトシュタイン家の初代様と呼ばれる人物だった。
フェンデルの大将軍として、王国に降りかかる数々の危難を振り払い、時には万の敵勢の中を単騎で駆け抜け、時には王都に迫る凶悪な魔獣を討伐したりと、建国時の王国黎明期に大活躍した稀代の英雄。それがノルトシュタイン家の初代様だった。
辺境伯は、一族の礎を築いた初代様にまつわる幾つもの物語を、アルフレッドに語って聞かせたのである。
その初代様がいつも携えていたのが、居間に飾られていた古ぼけた杖だったのだ。まだ建国王と出会う前の若き日、大陸を彷徨っていた時期に、とある古代の遺跡で見付けた伝説級の魔道具。
しかし、『神の王笏』と大層な名を付けられているものの、初代様以来、誰も徴を刻まれた者もいない。それどころか、杖を使ってまともに魔法を発動させた者もいないのである。
アルフレッドは知らなかったが、一族の中でも、
「初代様を権威付けするための、かなり誇張された家伝なのだろう」
と、伝説級を疑問視する者が大半だった。しかも上手く発動しない事から、もはや壊れた、或いは魔道具としても寿命が尽きているのではと考えてる者も多かった。
当代の辺境伯自身も、ノルトシュタイン家は建国当初から続く由緒正しき家柄、それを位置付ける象徴としか考えておらず、だからこそ、一族の者や屋敷に訪れた者が、もっとも目につく居間の正面の壁に飾っていたのである。
このように『神の王錫』の来歴については、大半の者から眉に唾を付けて聞くようなものだと認識されてはいた――だが、アルフレッドは初代様の逸話を信じた。
いや、というよりも、最初で最後となった父親からの優しげな言葉が、深く心に刻まれたのである。
それ以来、朝と夕に欠かさず『神の王笏』の前で頭を垂れ願掛けを行うのが、アルフレッドの日課となっていた。
――いつかは僕も初代様のような英雄に。
と、幼い頃は子供らしい誓いを心中で唱えていた。しかしそれも、誰からも相手にされず閉塞感の漂う日常が続く間に、
――父上に、兄上たちに、それに皆からも認められたい。
と、いつしか様変わりしていった。
そして現在は――。
「『聖骸具』ですか……」
ぼんやりと杖を見つめるアルフレッドの様子に、マックスは僅かに口元を緩め笑みをもらす。
「どうやら、あまり分かっていないようだな。王国は帝国ほど歴史が古くないから、詳しい話が伝わっていないのか、それとも――」
あまり良い思い出もないものの、アルフレッドも一応は王国の臣民。帝国よりも歴史が浅いと言われると、王国が貶めらたような気にもなる。
だから不快さを隠さず、
「国の優劣は、歴史の長さで決まる訳ではありません」
と、語気も鋭くマックスの言葉の間に割って入った。
そのお陰なのか、先ほどマックスから放たれた威圧によって萎縮していたはずの活力が、全身に漲っていく。
アルフレッドは気付いていなかったが、その活力は『神の王錫』からもたらされたものであった。
「――おいおい、そんなにいきり立つなよ。別に、馬鹿にしている訳じゃないぞ。ただ事実を言っただけなんだが……それにしても、解放したばかりだってのに、もうあっさりと力を引き出せるとはな」
「力を?」
「あぁ、気付いてないのか……なら、感じてみろ。今、全身を駆け巡っている生命力の息吹をな」
マックスに指摘され、ようやくアルフレッドも気が付いた。手に持つ杖から身体へと流れてくる活力の波動というべきものを。
「こ、これは……」
「そいつも、『聖骸具』と絆を結んだ者だけが引き出せる能力の一端だ」
「能力……」
「あぁ、生命力を活性化させ、持ち主の身体能力を向上させてくれる」
確かに、魔道具の中には身体能力を向上させる物もある。代表的なものではアルフレッドの指にもはまる、『疾風の指輪』などが有名だ。辺境伯指揮下の騎士団の正式装備でもあり、僅かではあるが持ち主の素早さを上げてくれる。
マックスが今履いているウィングブーツなども、その類いの魔道具。しかし此方は、爆発的に瞬発力を上げる一級品。このように、魔道具といってもピンキリなのだが、全ての魔道具について言えるのは、二つの能力付与は組み込めない、だ。二つの魔法属性が干渉し合ってお互いの付与を打ち消す、又は魔道具自体を破壊してしまうからである。が、アルフレッドの持つ『神の王錫』には魔力の増大だけではなく、まだはっきりとした効能までは分からないが、身体能力の向上まで付与されると言う。
「……さすがは伝説級の魔道具」
囁くように呟くと、アルフレッドは感心したように杖を見つめる。
そんなアルフレッドを眺め、マックスはにやりと笑った。
「どうやら勘違いしてるようだな。ビリーの持つ『バーストボウ』や、レオンの『雷槌ミョニル』は伝説級だが――」
「えっ……」
驚いたアルフレッドが、傍らにいる二人へ視線を向けると、ビリーは屈んだ姿勢のまま顔を顰め、今も周囲の気配を探っている。レオンはといえば、静かにマックスとアルフレッドのやり取りを眺めていたのだろう、視線に気付くと黙ったまま穏やかに微笑み返した。
アルフレッドも、彼らが扱う武器を最初に見たときから、かなりの等級の魔道具だとは思っていた。しかしまさか、三人が三人とも伝説級の魔道具を持っていたとは思ってもいなかった。
考えてみれば、この場には世界に僅かしか存在しないと言われる伝説級の魔道具と、その使い手が四人も集まっている。その事に気付き、アルフレッドは驚愕していたのだ。
だが、マックスが続けて口にする言葉に、アルフレッドは更に驚く事となった。
「――俺のこの『竜殺剣』や、若様の持つその杖は『聖骸具』と呼ばれ、伝説級以上の力を発揮する」
「……」
口を大きく開け、もはや言葉にもならないアルフレッドだった。
「さっき言った身体能力の向上も、体力、力、素早さから器用さや運まで、個人のあらゆる能力を大幅に底上げする。まぁ、向上以外にも色々と有るんだが……」
――伝説級以上の魔道具。
そんな物が有るのかと、アルフレッドには信じられない思いで一杯だった。しかし、妙に納得できる事もあった。
それが、ノルトシュタイン家に語り継がれる初代様の様々な逸話。
単眼の巨人族との力比べで捩じ伏せ服従させたとか、軍馬よりも速く千里を駆けたとか、それこそ突拍子もない話が数多くあるのだ。
それらの逸話の全てが、胸にストンと落ちるのである。
「……それが『聖骸具』」
「そういうこった。神話にも語られる、本物の英雄の力ってやつだ! ……といっても、完全に使いこなせるようになれば、だけどな」
そこでひと呼吸おいたマックスが、またじろりとアルフレッドを眺める。しかし今度は、『神の王錫』からもたらされる活力によってアルフレッドも萎縮する事はなく、それどころか「本当に」と半信半疑のまま、漲る活力を、英雄の力を確かめるかのように体を動かしていた。
それを見つめるマックスが、これまで以上に表情を引き締め言葉を続ける。
「しかし、感情に流されてるようじゃ、まだまだ力の制御も甘いと言うしかないな。危なっかしくて見てられないぜ。まぁそんな訳で、新米『解放者』への先輩からの忠告だから、よく聞けよ」
「……忠告ですか。でも、どうして僕なんかに……」
困惑した様子で顔を上げたアルフレッド。視線の先にあるマックスの険しさの増した表情に、ぎょっとするも直ぐに背筋を伸ばす。
アルフレッドにとってマックスは、自分の想像する父親や兄といった家族の理想像に近い。それに、己自身の力のみで世の中を渡って行く冒険者の姿に憧憬すら覚え、家というしがらみさえ無ければ、将来の自分が辿るべき道ではと思えてくるのである。
そんな人生の先輩とも思えるマックスが、今までに無いほど真剣な様子で忠告をと言う。そしてそこには、心の底から心配している様子が満ち溢れていた。だからこそアルフレッドも、しっかりとその忠告を受け止めようと姿勢を正したのだ。
「なぜ忠告するかって……そいつは『解放者』が、国の枠組みを越えた……そうだな、世界の守護者のような存在だからだ――」
「世界って……」
元々が、閉塞した環境でしか育った事のないアルフレッドである。アルフレッドにとって世界とは、トロイの街、いやもっと小さな世界。ノルトシュタイン家の屋敷と、その周辺でしかない。
しかしマックスの言う世界とは、王国どころか帝国や他の国などアルフレッドが聞いた事もないような国までも含めた、本当の意味でのこの世界そのもの。そこまで話が大きくなると、さすがにアルフレッドの頭では付いていけず呆気に取られるしかなかった。
そんなアルフレッドに構わず、マックスは話を続ける。
「――と同時に、危険な存在でもある。だからな、ほっとく訳にもいかんだろ」
そう言うと、マックスは険しかった表情を崩し、にやりと白い歯をこぼす。
そこにあるのは粗野で男臭く、少し照れた笑み。同性であろうとも、魅了せずにはいられない程の陽気な笑顔だった。これにはアルフレッドも、思わず惹き付けられてしまう。
だから「やはりこの人は凄い」と、武力だけでなくその人柄に触れ、アルフレッドは更に敬愛の念を深めるのである。
「ま、いきなり世界云々なんて話をされても分からないだろうから……まずは『聖骸具』あたりの話をするかな」
「『聖骸具』……僕は今まで、そんな言葉を聞いた事すら有りませんでした」
「だろうな。こいつは一部の、世界でも一握りの権力者や魔法にも精通した勇者とか賢者とか呼ばれてる連中にしか知られていない話だからな」
世界に隠された秘密の一端。そんなものに触れるのだろうかと、アルフレッドの心も高ぶる。
いつの間にか無意識にまた、指先で耳たぶを摘まんでいた。
「『聖骸具』ってのは、『星の塔』の星読みたちが言うには……って、『星の塔』と言ってもわかんねぇか。ま、帝国の偉い学者の集まりみたいもんだ。この大地は丸い球体だとか、夜空に浮かぶ星々と同じようなものだとか、馬鹿みたいな話をしてる連中なんだが。ま、その学者先生たちが言うには、数ある魔道具の中でも『聖骸具』は特別だって話だ。なんでも伝説級の更に上、それこそ神器級と言っても良いほどのものらしい」
「神器級?」
それもまた、アルフレッドには聞き慣れない言葉。新たな疑問符が、また脳裏に浮かぶ。
「あぁ、何でも、大昔に失われた力ってやつらしいな。俺はあんまり信じていないが、かつて地上を闊歩していた神々が、この世界を人間の手に任せ天界に去ろうとした際に、地上に遺していった神具。或いは、神々の欠片や神気を宿した魔道具とか言ってたな」
「神具……」
「その力は天を焦がし大地を穿つ、世界を変容させる力とも言われている」
「あっ!」
アルフレッドは、幼い頃に父親から聞かされた、杖に纏わる来歴の一説を思い出していた。
――曰く、その魔法力は天を焦がし、大地を穿つ。
「ぼくの家に伝わる話と同じです」
「そうなのか……俺もそこまで力を引き出せる訳でもないが、若様の家にも同じような言い伝えがあるなら――」
一瞬、マックスの表情が微かに曇る。それは本当に僅かな時間であり微妙な変化だったから、アルフレッドも気付かなかった。
「――とまぁ、神さま云々の話は別にして、俺に言わせりゃ英雄の力ってのは善も悪もない巨大で純粋な力そのもの。その力に選ばれたのが、俺や若様って訳だ。そして『聖骸具』と絆を結んだ『解放者』の証がこの徴。どういった基準で選ばれるか、今もよく分かっていないがな」
「これが……」
マックスが胸に刻まれた星形の痣を指差し、それに釣られてアルフレッドも自分の手の甲に刻まれた痣へと目を向けた。
そもそもが、アルフレッドは勘違いをしていたのだ。伝説級の魔道具と絆を結んだ者に、聖痕は刻まれると思っていた。そこからが違うのだ。それは、ノルトシュタイン家の言い伝えとのずれ。
聖痕とは、『聖骸具』と絆を結んだ『星の解放者』にのみ与えられる、いわば世界の守護者となった証なのであった。
「しかし、限界を超越した力を扱うには、人間の心は脆弱過ぎるんだよ。それが逆に恐ろしい」
「人の分に過ぎ足る力は、身を滅ぼすですか」
「おぉ、分かってるじゃねぇか」
アルフレッドも家族から愛情を注がれなかったといっても、将来はノルトシュタイン家の役に立たせるためにと、外部から招かれた識者によってそれなりの教育を受けていた。
中でも魔法学は熱心に習わされていたのだ。
その時の言葉が、アルフレッドの脳裏にふと浮かんだのである。
その魔法学の初歩で最初に教えられるのが、「人の分を超えた力は身を滅ぼす」との言葉だった。これは、自分に内包する以上に魔力を引き出そうとすれば、命を落とす事にもなるといった魔法士への戒め――当然ながらマックスは、別の解釈の意味で言っていたのだが。
「何を考えているか知らないが……どうにも危なっかしくて見てられない。このままだと、手に入れた力に飲み込まれちまうような……若様を見てると、そんな気がしてならないんだよ」
「ぼくでは扱いきれなくて、いずれ命を落とす事になると」
「いや……ま、そういう意味じゃないが。この力、『聖骸具』からもたらされる英雄の力ってのは……神から授けられた神聖な力だとか言うやつらもいるが、俺はさっきも言ったように純粋な力そのもの、場合によっては善にも悪にも変わるものだと思っている」
「使い方次第では、聖なる力にも邪悪な力にもなるという訳ですね」
「そういうこった」
「でもそれって、ぼくが危険な人物、又は将来、世界に何らかの障害をもたらしかねないと考えているのでしょうか」
そう答えたアルフレッドの表情が僅かに歪む。
それは、とりもなおさずマックスがお前は信用できないといっているのと同義だからだ。マックスに対して尊敬の念を抱いていただけに、アルフレッドの心に少なからずの動揺を与える事となった。
「ば、馬鹿、そこまで危険視してる訳じゃない……若様と顔を合わせてまだ間もないが、貴族家の若様にしては偉ぶるでもなく、性根もしっかりしていると思っている。だがな……」
歯切れ悪く言葉を連ねていたマックスだったが、何を思ったか突然にまぶたを閉じた。
「……マックスさん」
不審に思ったアルフレッドが声をかけると、暫くしてマックスはゆっくりと目を開ける。そして、
「なぁ……若様は大陸に広く伝わるおとぎ話、邪眼のバラーの話は知っているか」
と、しんみりとした声でこう言う。
しかし、その瞳はどこか遠くを見詰め、アルフレッドに焦点が合わさっていない。
「え、……知っていますけど……聞き分けのない子供に言い聞かせる時に用いられる話ですよね」
突然に話が飛び、何が言いたいのか分からないアルフレッドは、困惑の度合いを深めるしかない。
邪眼のバラーの話とは、大昔から庶民の間で語られる、いわゆる魔王の話。邪眼を使って世界のバランスを崩そうとするが、最後には神様から遣わされた使徒によって滅ぼされる勧善懲悪の物語。
親がまだ幼い子供に、「そんな事ばかりしてると、邪眼のバラーがやって来るわよ」と、叱るときによく使われていた。アルフレッドの場合は、幼かった頃に屋敷の侍女から脅し混じりにからかわれたので良く覚えていた。
「あの話は……俺は現実に起きた話だと思っている」
「え、でも……邪眼のバラーって、実際にはいない想像上の存在ですよね」
「いや、細かい所は脚色されてるだろうが、あれは堕ちた英雄、過去の『解放者』が邪悪な考えにとらわれた姿が元になっていると思う」
「そんな馬鹿な、あれは単なるおとぎ話にすぎないはずです」
「だがなぁ……俺は見たことがある。もっとも、邪眼のバラーって訳でなく、堕ちた『解放者』の姿をだがな……」
「え、……そんな事は、人が魔王になるなど……」
アルフレッドは続けて出る言葉「ありえない」を、思わず飲み込んでいた。
それほど、マックスの表情が悲痛に満ちたものへと変わっていたからだ。そこにあるのは、過去に何か悲しい出来事があったと思わせるには十分なものだった。
が、それは数瞬。
直ぐに、マックスの表情は何時もの陽気なものへと変わった。
「ま、とにかくだ、大きすぎる力は時に『解放者』の精神すら歪め、扱いきれなくなれば邪悪な存在へと変える。だからな、『解放者』に最も必要なのは、何物にも何者にも負けない確かな強き心なのだ。しかし、人の心は自分が思っているよりも弱い。若様も、今は自信をもって大丈夫と思えるかも知れないが、時が経てば季節が移ろうように気持ちも変わるかも知れない」
「僕は――」
「まぁ最後まで話を聞いてくれ。俺たちもこの依頼が終わったら、いずれは帝国へと帰る」
「え、行ってしまうのですか」
「あぁ、俺たちは帝国の人間だからな。いつまでもこの国にいるわけにもいかんだろ。だから、若様にあれこれと指図をする積もりもない。だけどな、これだけは覚えていてもらいたい」
そこで言葉を途切らせ真剣な眼差しで見詰めるマックス。それを確りと受け止めるアルフレッド。
「この先、力の事を知った者たちが若様を恐れて避ける、或いは敵にまわる事もあるかも知れない。又は利用しようと甘い言葉でもって近付いて来るかも知れない。だがな、どのような状況になろうとも、確りとした信念をもって力を振るって欲しい。できれば世界の……いや、これはまだ早いか……」
「ぼくなら大丈夫です。悪しき考えにとらわれる事も――」
「そうかな。若様は力を手に入れた時、最初に何か、やりたい事を考えなかったかな」
「――ぼくが」
――『神の王錫』を手に入れ、やりたいと思ったこと、それは。
アルフレッドの心の奥底で、熾火のように燻る闇がまた広がっていく。
「若様が――」
マックスがまた、アルフレッドに忠告を与えようとした時だった。
「マックス! 南だ、南の方角から来るぞ!」
それは、ビリーの警戒を促す声。今まで【地形探査】の技能を使って周囲の気配を探っていたのだが、急速に此方へと近付く数個の魔力の塊を探知したのだ。
「新たな魔獣、それともまた……」
緊張した声で囁くように呟いたのはレオン。南の茂みに向かって盾を構えるも、視線はマックスへと向けたままだ。
「また魔獣のようですよ、マックス。若い人への説教臭い話はまた後にして、今は新たな敵に備えるべきです」
「説教臭いってお前……大体、若いやつを教え導くってのは、昔から神官の仕事だろうが」
「はは、わたしには英雄クラスの力は有りませんからね。この場合はマックスがあたるのが適任でしょう。それに、何時もは乱暴が取り柄のマックスが、若者を教導する姿は珍しく興味深かったです。帰ったら、さっそくアリサにも教えてあげなくてはいけませんね」
「なっ……けっ、言ってろ!」
穏やかな笑みを通り越し、もはやにやにやとした笑いを浮かべるレオンに、肩を竦めて睨むマックス。が、直ぐにその視線は、ビリーへと向けられた。
「で、相手は?」
「……この魔素の感じだと……さっきのゴブリンと同じか? 数は五匹」
「はぁ、何だそれは」
樹海産の変異種のゴブリンといっても、さっきと同じであるなら、たった五匹では驚異にもならない。
拍子抜けする思いで、力なく肩を落とすマックスだったが、
「でも、他の群れの先遣隊かも知れませんよ」
と、レオンは気を抜くなとマックスを咎める。
「……あ、そうだったな。すまん」
気を取り直したマックスは、南の方角へと鋭い視線を走らせる。
「それで、どうします」
「あん、決まってるだろ。迎え撃つに」
「どうやら、愚問でしたね」
レオンが今度は苦笑い浮かべ、「やれやれ」と首を左右に振る。それを眺めながら、マックスが皆に指示を出す。
「何時ものようにビリーは弓で牽制を、レオンは皆の護りを、そして俺が斬り込む」
「えっと、ぼくはどうしたら……」
「あぁ……若様か。そうだな、俺たちの後ろで魔法の援護でもしてもらおうか。また、さっきみたいに根こそぎ獲物を持っていかれたら堪らんからな。今度は俺も楽しませてもらう」
にやりと笑って、そんな事を言っていると、そこへ、ビリーの新たな声が届く。
「一匹だけ魔力がでかい。倍、いやそれ以上!」
「おぉ、そいつは良かった、その獲物は俺がもらうぞ!」
マックスが、『竜殺剣』の柄をみしりと音が鳴るほど握り締めるとほぼ同時に、ビリーが叫んだ。
「来るぞ!」
その声に呼応するかのように、南の繁みから五匹のゴブリンが飛び出した。しかも、その中の一匹は明らかに他のゴブリンとは違う。さきほどマックスたちを襲ってきたゴブリンの群れは、変異種といっても見た目は通常種と何ら変わらない。人の子供のような小さな体躯だった。が、五匹の内の先頭で飛び出して来た一匹だけは、大柄なマックスよりも更に一回りは大きいのだ。
その姿はもはやゴブリンとは言えないもの――体毛のない濃緑色の体皮は硬く、四肢の先には刃より切れ味鋭い鉤爪が備わる。爛々と輝かす真っ赤な瞳は怒りに満ち溢れ、額から伸びる歪な一本の角も血のように真っ赤に輝き脈打っていた――姿形は似ていても、全く別の凶悪な魔獣に見えたのだ。
先頭のゴブリンは飛び出した場所で立ち止まると、少し前屈みになり、
「ガアァァァ……!」
と、雄叫びを轟かせ周囲の空気を切り裂きびりびりと震わせた。
背後に残りの四匹を従えた姿はまさしく――。
「こいつがぁ……」
「ですね」
「俺もそう思う」
「ぼくも……」
皆の意見が一致する。
「噂のゴブリンキングだな」
と、マックスが判断すると皆も大きく頷く。
「どうします、相手の実力も未知数。どう見てもAランク以上はありそうに見えますが、ここは危険をさけて一旦、退避……って、する気もなさそうですね」
「当たり前だ。こいつを討ち取れば、依頼はほぼ完了するんだからな」
そう言うとマックスは「だろう」と、傍らで片膝を突き弓を構えるビリーや、背後にいたアルフレッドにも声をかけた。
「まだ大規模な共同体を作る前かも知れんな」
と、今が千載一遇の討ち取る機会かもしれないとビリーが言う。そしてアルフレッドも、
「領民のためにも、大きな群れになる前に討伐しましょう」
と賛成の意を示すと、マックスはにやりと笑った。
「なら決まりだな。皆、気合いを――」
だが、マックスたちが動き出す前に、ゴブリンキングが走り出した。
しかも――。
「な、速い!」
それは、マックスたちが予想していたよりも速い動き。
まさに瞬足。更地の中央に立つマックスたちまで二十メートルほど。その距離を一気に詰める。
マックスたちも、歴戦の冒険者。会話をしながらも、一時もゴブリンキングから目を離さず、何時でも動けるように油断なく身構えてはいた。
「【爪牙連弓撃】!」
それは、舌打ちと共に素早く放たれた四本の矢。
爆裂の魔法属性を持つ四本の矢が左右からほぼ同時に襲い掛かる、ビリーの必中の個人技能だった。
が、ゴブリンキングは、その矢を全てあっさりと躱す。
一瞬、身体が左右にぶれ残像を残し、そこを矢が通り過ぎていくのだ。
「うそだろ、俺の必中の矢を……」
驚き呆然とするビリーに、駆け寄るゴブリンキングの豪腕が迫る。
「甘いですよ。相手は一人では――な、馬鹿な」
ビリーを護ろうと、盾を構えたレオンが間に入るも、構わず振り抜いたゴブリンキングの豪腕が、盾をものともせず二人をまとめて吹き飛ばす。
そして尚も二人に追撃しようとするゴブリンキングだったが――。
「おいおい、もうひとりこっちにもいるんだぜ」
ゴブリンキングの前に立ち塞がるのは、マックスだ。大剣クレイモア『竜殺剣』の切っ先を頭上高く天へと伸ばし上段に構えると、背後にいるアルフレッドに向かって叫ぶ。
「若様、そこでしっかりと見てろよ! これが『解放者』の戦い方だあ! ぬおぉぉぉ……!」
叫びと共に、『竜殺剣』の刀身に纏わり付く白光が、強烈な眩いばかりの光の刃となり巨大化していく。瞬く間に森の樹木より高く伸びる光の剣。
「そおりゃあぁぁ……【極光絶空斬】!」
「グガアァァァ……!」
更地を白光が埋め尽くし、ザカース大森林――別名魔の樹海に、マックス気勢とゴブリンキングの怒りに満ちた雄叫びが激突し、こだまとなって響き渡るのだった。