17話「異常発生、夕焼けの海の黄昏」
「――――たぁ!」
誰かの声が聞こえる。
「――すたぁ!」
それは段々とはっきりとしていき……。
「ご主人様!」
目を開くとほとんど俺に抱きつくほど近いところに銀髪の美少女がいた。
「ああよかった、オクトパスがイタズラした時はどうなることかと」
「ネイ、ト? ここは……?」
「海水浴場から少し外れたところの海底都市エリアですー。ご主人様はオクトパスっていうタコ人間のNPCに無理やり引きずり込まれたんですよぉー」
見るとそこにはタコのような見た目に人形の手足が生えたような奇妙な生き物がたくさん泳いでいた。
「あれ? 息ができてる……」
ゲームの中の海であっても酸素を求める息苦しさは感じる。
実際に現実の俺の肉体が息を止めているわけではないと思いたいが、それでも俺はまだ水中にいるはずなのだ。
「ここは水中にある海底都市エリア。普通の広場と同様にクエストなどを受けるための施設があるところなので呼吸も可能なのですー」
水の流れと共に揺らめく銀髪を手で押さえながらネイトが指さした先には確かに他の階層で見たような広場が広がっており、少ないもののプレイヤーらしい人の姿も確認できる。
「ユウー、大丈夫?」
心配して様子を見に来てくれたらしいエルが俺とネイトに近づき、ホッと一息。
「いきなり海水浴場エリアから移動したからどうしたのかと思ったけれど、まさかオクトパスに連れ去られてるとはね」
エルはお腹を押さえながら笑う。
「じゃあ元の場所まで戻るか」
「そうね。EXエリアのクエストは高難易度だって言うし、まだ早いかもしれないわね」
しかし、海面へ上がろうとした俺達の行く手をNPCのオクトパスたちが阻んだ。
その手に三叉の槍を構えて。
「道を開けろー」
ネイトが気の抜けた命令をすると、油断していたネイトの腹部を三叉の槍が一切の加減なく貫いた。
血が出るようなことはないが、顔をしかめたネイトが急いで槍を抜いて下がる。
「普通じゃありませんねー」
やや緊張を含んだ声音に周りを見渡すと、似たように他のプレイヤーもオクトパスに進路を阻まれているようだ。
「エリアルさんー、少しの間ご主人様をお願いしますー」
ネイトはポセイドンの群れを前にゆっくりと息を吐く。
「ドゥアムテフ!」
短い呟きとともに鋼鉄の盾が、弓が、そして大剣がネイトのもとへ現れる。
「はぁっ!」
一気に息を吐く音と共に海が揺らぐ。
まるで海そのものを切り裂かんとした斬撃に妨げる者達が一瞬のうちに泡となって消え失せた。
「これで……え?」
しかし消え去ってたった数秒で再び三叉の槍を持った怪物たちが再出現してしまう。
「なあエル、なんか息苦しくないか?」
「そう? 私は感じないけど」
「このエリアの呼吸可能設定が弱まっているんですー! すぐにご主人様を海から脱出させないと……!」
しかし退路はない。
「何で、エルは……」
もう言葉を発する酸素すら惜しい。
現実の海中ほど酸素が一気に抜けることはないが、もうかなり息苦しい。
「私は自動スキルの『無呼吸』があるのよ。とにかく脱出しましょう」
エルはいつの間にかその手に匕首を構えている。
「とりあえず……」
息苦しさに顔を青くしているだろう俺にネイトが近づく。
「ご主人様、目を瞑ってください」
「へ?」
「だから目を瞑ってください!」
「あ、ああ」
戸惑いながらも目を瞑ると、息苦しさがより意識され、苦しい。
「……失礼します」
短い言葉と柔らかい感触。
唇に触れてきたのが何であるのか、さすがの俺でも分かった。
キス……? このタイミングで?
するとネイトの口が少し開き、さらに柔らかい何かが俺の唇をノックする。
「ん……」
それに唇が押し開かれると、それを覆うように柔らかい唇が接し、直後。
物凄い量の酸素が俺の肺を満たすのがわかった。
ほのかな甘味を残しながら俺から離れたネイトは恥ずかしそうに口を手で拭い、「勘違いしないでくださいね!」などとセリフだけならツンデレのようなことを言って再びオクトパスと向き直った。
息苦しさは消え、恥ずかしさが新しく巻き起こる中で、俺とネイトとエルは広場の中央に向かった。
「異常があるとすれば広場のシステムに違いありませんー」
というネイトの言葉に同意し、広場の中央へとやって来た俺達が見たのは、酸素を失い溺死したことでオンラインからの強制離脱を余儀なくされたプレイヤーたちの亡骸が浮かぶ様だった。
「そうか、溺死すればこの空間からは出られるのか……?」
「確かに、デスペナルティは発生しますけどー、それで出ることはできますねー。ここでは私の転移も作用しないようですしー」
「でもこの原因が分からないんじゃ色々不便だわ。デスペナルティも迷惑だし」
丸一日のオンライン制限は学生や社会人など時間か限られたプレイヤーには大きな損失となる。
「もしまた苦しくなったら言ってくださいねー、多めに酸素を送りましたけどそれも無限ではないのでー」
泳ぎながら広場中央から次に向かったのは管理システムのある建物だ。
普通は入れないそうだが、ネイトのライセンスなら問題なく通れる。
どこかの古代神殿のような大仰な建物に入ると、広い空間の中央にその元凶はいた。
「この前の……黒い人工知能……!」
少し前に別の階層で人工知能や如月さんを襲った正体不明の人工知能。
黒髪のツインテールに黒のゴスロリ服という中二病感満載なビジュアルはまさにミステリアスそのもの。
「お前がシステムを狂わせているのか!」
「待ってくださいご主人様!」
制止するネイトに従うと漆黒の少女は、その手に何かを持った。
水の中でも自在に振り回されるそれは鋸。
本来木材などを切るために存在しているはずのそれを威圧的に振り回し、少女は初めて感情に表情を歪めた。
ただし、極めて歪な感情に。
楽しそうにやや開かれた口元から漏れている笑みは明らかに残虐的なものが見え隠れしているものだ。
「ご主人様、武器を」
ネイトが刀を作り出して渡してくるが、それを拒否して虚空から剣を呼び出す。
管理者の人工知能が俺のために生み出したそれを構えて敵らしいそれを見据える。
「来ますよ!」
立ち向かおう。
そう考えた俺は愚かだったのか。
そう思えてしまう事が一瞬で起こった。
一瞬で、まさしく人の認識を超えた速さで躍動したらしい鋸の刃が俺の首を断ち切ろうと迫ったのだ。
それでも俺の首が今も繋がっているのはその鋸をエルの匕首が受け止めてくれていたからである。
すかさず剣を振るうが、そこには既に少女の姿がない。
すぐに後ろに感じられた嫌な気配。
ほとんど反射的に前に転がった俺がいたその場所を鋸が波を起こしながら通過していた。
エルには相手の動きがある程度見えているようだ。
漆黒の少女はネイトの動きから逃げるようにしながら執拗に俺を狙っているらしい。
「どうして俺を……!」
そんなことを考えてしまったことを後悔した。
身を守ることすら精一杯な頭を余計な雑念で困惑させてしまったことで戦いへの判断が決定的に遅れてしまっていたらしい。
喉元に突きつけられる鋸はわずかな挙動で容易に俺の喉を、もしかしたら首そのものを断ち切ってしまうだろう。
「させない!」
ネイトの大剣が無理やりに少女と俺を引き離す。
しかし、少女が離れたのはネイトの一撃のためではなかった。
「あ、ああ……うあああああああ!!」
響く絶叫にネイトを見やると少女が嗜虐的な笑みを浮かべながらネイトの胴体に鋸の刃が食い込んでいた。
痛みが彼女にあるのかはわからない。
しかし尋常じゃない彼女の様子が決して痛みとかそういう話ではないことを物語っている。
ネイトを助けるために駆け出そうとした俺が、何かに引っ張られて不意に後ろに飛ばされた。
痛みはほとんど無いが驚きと状況の理解で動きを封じられる。
後ろに飛ばされたことに対する驚きではない。
俺を後ろに飛ばした原因は既に俺の前を走ってネイトのもとへ向かっていた。
「お前の力じゃまだ何も守れない」
「どうして……亡霊がここに……?」
今まで散々俺を理不尽に打ち負かしてきた亡霊が今は猛烈な動きでネイトから漆黒の少女を引き離す。
漆黒の亡霊と漆黒の少女は対峙する。
片方は無表情で、もう片方は嗜虐的な笑みで。
剣と鋸をそれぞれ構え、互いに一瞬の隙を待つ。
「春」
亡霊の呟きに一瞬で管理者の人工知能、春が眩い光とともに現出すした。
「ネイトの回復は任せる」
「はい、幸人様」
頷き、ネイトに近づくとその傷口にそっと手を触れる。
その間にも亡霊からは圧倒的な威圧感が溢れ出し、しかし少女は楽しそうに笑いながら鋸を軽く振った。
刹那、隙など少しもわからないタイミングで2人の漆黒が衝突する。
もはやゲームのシステムなど関係ない別次元の戦いは目で追うことすら困難だ。
鋸が、剣が舞い、互いの体を掠め、甲高い金属音を響かせる。
「ご主人様はここで待っていてくださいー」
回復したらしいネイトが大剣を抱えながら俺の横をすり抜けて黒の戦場へと飛び込んだ。
剣と鋸の戦いに大剣が加わり、目に見えて黒の少女が不利になっていくのがわかる。
ネイトの横薙ぎの一閃を後ろ飛びで躱した少女の左胸を瞬間移動した亡霊が背後から貫き、黒の少女は跡形もなく消え失せ霧散していった。
俺は……なにもできなかった。
戦闘を終え、場に何とも言えない空気が満ちる中、沈黙を最初に破ったのはやはりネイトだった。
「副主任ー、どうしてここにー?」
「……外敵がここに現れていたからな。他に理由はない」
「もう、幸人様はまたそうやってカッコつけるんですから」
その時、俺は管理者の少女と何度か会った中で最高の笑顔を見た。
見た目通りの可愛らしさをそのまま笑顔にしたようなそれはとても人間らしい感情に満ち溢れたものに感じられたのだ。
「とにかく、ここのエリアはもう大丈夫だろう。春、行こう」
「はい、幸人様」
2人はシステムをさっさと修復してその姿を溶かすように消え、場には再び沈黙が訪れる。
そういえばさっきから呼吸が……息苦し…………。
意識が揺らいだ直後、完全に感覚の外から誰かが唇を重ねた。
五感が戻ってくると同時に口内に満ちる甘い香りと、視界一面を覆う可愛い顔。
「ん……」
肺が酸素に喜び、心が口付けに戸惑うのがわかる。
いや、口付けなどではない。少なくとも、彼女にとっては。
ゆっくり離れたネイトは誤魔化すように笑い、俺とエルの手を取ると、元の砂浜へと一気に泳いだ。
「おう、ネイトたちじゃないか。どこ行ってたのかと思ったよ」
陸に上がってすぐ、凛華さんが豪快に笑いながらそう言って歩いてきた。
「ちょっと色々ありましてー」
誤魔化しながら何事もなかったように遊びに戻っていくエルとネイト。
俺はなんだか落ち着かず、砂浜から少し離れたさっきとは別の岩場に腰掛けて海を眺める。
「元気ないですねー」
どれくらい集中し、どれくらいの時間海を眺めていたのかわからない。
沈みそうだった太陽はすでにその一部を海の向こう側に沈めている。
そんな俺の隣にいつの間にか、とても頼りになる人工知能の銀髪美少女が腰掛けていた。
「皆はいいのか?」
「ご主人様こそー。こんなところで黄昏たりしてー」
するとネイトは決して俺のほうに顔を向けることなく静かに「何かあったんですか?」とだけ問われた。
本当のことを話すつもりはない。
俺は「何でもないよ」とだけ答えて、意識を半分海へと戻す。
「その、マスターって呼び方、変えないか?」
「嫌……ですか?」
「お前にとってはあの主任さんが本当のマスターなんだろ? だったらほかの呼び方しても別にいいよ」
「気を遣ってくれてるんですねー。……でもいいんですよー、私にとっては皆が「ますたぁ」ですからー」
やや眠そうに目を細め、控えめに欠伸を一度。
彼女は銀色の髪を夕日色に染めながら何かに想いを馳せているようだ。
そっとネイトのほうを見てみると、彼女は夕日を眺めながら何やら手を彷徨わせていた。
「ネイト?」
「はい?」
「……いや、何でもないよ。ごめん」
なぜかこのタイミングで水着姿を褒めようとしてしまった口と心を閉ざし、間一髪。
こんなそれっぽいシチュエーションでそんなことを言ったらまるで口説こうとしているようだ。
「……ふふ」
「ん?」
「なんでもありませんよー」
柔らかい笑みを浮かべた彼女の心はわからない。
人のように笑い、人のように怒り、人のように悲しむ。
それははっきりとした感情を表し、もはや『人のように』などではない。生まれや環境、肉体が異なるだけで、彼女は内面的には人間と相違ないと思う。
喧嘩もしたし長い付き合いなどでは決してない。単純なゲームのキャラクターと違って感情も読みづらい。
だからこそ、彼女は魅力的に見えるのだ。少なくとも、綺麗なはずの夕景から、俺の意識のほとんどを奪ってしまうくらいには。




