07:湯あみ
シシィにその話を切り出されたのは、ある日の午後のことだった。
「トルカオ様の湯あみを、マイ様にお願いしたいのです」
少し声を押さえてシシィが言った言葉に、舞は反射的に「あ、はい」と返した。そして、言ってから思う。湯あみって何だろう。でも聞いたことはある気がする。
「実はトルカオ様は湯あみがお嫌いでして……」
どうやらトルカオはそれが嫌いらしい。舞はどこで聞いたんだっけと考え、そうして間も無く思い出した。それは聞いたと言うよりも、見たという方が正しい。
どこで見たのかといえば、読み始めは紀行文だと思っていたあの本だ。
読み進めていくとただの紀行文では無く、各地を旅してまわりながら悪人をこらしめるというどこかで聞いたような勧善懲悪物だったそれに『湯あみ』は出てきた。風呂に入ることだ。なるほどトルカオはお風呂が嫌いなのか。
舞はちらとトルカオの様子を見る。
相変わらず分厚い本に集中しているらしいトルカオは俯いて、舞とシシィの会話が聞こえていないようである。それでもシシィが声を押さえているのは、トルカオが苦手な湯あみの話をしているからだろう。集中していても、苦手な事ならば耳ざとく聞きつけてしまうかもしれない。幸いトルカオの様子を見る限り、シシィの心配は杞憂のようだった。
「マイ様が提案されたならきっとトルカオ様も湯あみをなさるだろうと思うのです、どうかお願いいたします」
「あ……わかりました、そういうことなら」
舞がそう答えると、シシィはぱっと顔を明るくした。
あ、何か役に立てるらしい、と思うと舞は少し嬉しくなる。
「それでは、時間は夕食後ということで、お願いいたします」
役に立てる、このチャンスを逃してはいけない。
シシィがそう言って出て行った部屋の中で、舞は密かに一人気合いを入れていた。
「えっと、トルカオさん、ゆ、湯あみをしませんか」
舞が意を決して言った言葉に、トルカオは案の定不安そうな顔をした。
その表情に舞はトルカオに湯あみをさせるという決意が揺らぎそうになるが、シシィの明るい笑顔を思い出してなんとか耐える。そうでなくともシシィが用意した入浴の道具を手に必死な視線を送ってくるのだ。トルカオに不安な顔をされたとて、諦めるわけにはいかなかった。
「あの、トルカオさんがお風呂が、湯あみが苦手だってシシィさんから聞きました」
舞は一瞬ためらってから「でも」と言った。
「私の世界では、湯船につかるとリラックス出来るって、そういう話があって、いや、苦手だったら逆にストレスになるかもしれないんですけど、でもそう思って湯船につかれば、何かちょっと違うんじゃないかなって思って」
自分でも要領の得ないことを言っているなとわかっていた。しかし要点をついたことを話せていれば舞は長年人間関係に苦しんだりはしていない。今の舞には、これが精いっぱいだった。ああ、こんな説得では無理かもしれない、と舞は少し俯いてしまう。
ごめんなさいシシィさん、力になれなくて。
心の中でそうつぶやいた舞の手に、冷たいものが重ねられた。顔を上げればトルカオがまだ不安そうな表情でこちらを見ている。重なったトルカオの手のひらがじわりと湿るのがわかった。それがトルカオの手から体温を奪っているのだ。
何か言った方がいいかもしれない。しかし、何を言っていいのかわからず舞はただぽかんと口を開けただけになってしまった。
「……僕は」
そうしている内に、トルカオの方が先に声を出した。
「やっぱりまだ、怖いけど、でもマイと一緒なら、平気だと思う」
たかが風呂に入るだけでなぜそんな滅びゆく地球で愛する人と二人、滅亡を待っているようなことを言うのか……と呆れ気味に口にする人間も、心の中で思う人間もこの場には居ない。シシィは感動したように口に手を当て、そして舞は、もう片方の手をトルカオの冷たい手に重ねた。
舞がトルカオの手を引くと、トルカオはその一歩を踏み出すのだった。
自分が考えも無しにわりととんでもないことを引き受けた、と舞が気が付いたのは、浴室でシシィがトルカオの衣服を脱がし始めた瞬間だった。
湯あみは入浴のこと。それはつまり、服を脱ぐという事に決まっているではないか。気が付いたその衝撃に、舞は思わず息をのんだ。しかしトルカオにもシシィにも、恥じらいというものはまったく見えない。まるで当然のことのようにシシィはトルカオの服をどんどんと脱がせていくし、トルカオもされるがままだ。
あれ、もしかしてこれが普通の事なんだろうか。
あまりに淡々と進む状況に、舞はそんな錯覚すら覚えていた。だとしたら自分も恥じらいなく脱ぐべきか、と考え、舞は今自分の服は脱げないのだったということを思いだす。ひとまずほっとした。
「マイ」
そんな葛藤をしているところに、トルカオに呼びかけられた。
見ると、トルカオはすっかり服を脱いだ状態である。真っ先にトルカオの下半身に目が行ってしまったのは本能的な何かのせいだったのかもしれない。タオルが巻いてある。舞はまたひとまずほっとした。
それからようやくトルカオの表情に視線を移すと、トルカオは不安げな表情だ。その表情に舞は途端に困惑を忘れて、トルカオに駆け寄っていく。するとすぐにすがるように手を取られた。その手はやはり冷たい。
「えっと、それじゃあお風呂入りましょう」
舞はそう言って、ゆっくりと湯船の方へ歩き出した。舞の手を掴んだままのトルカオがゆっくりとついてくる。
そうして湯船の前に立つが、トルカオはやはりすぐには入ろうとしない。どうしたらいいのかと舞が思っていると、握られた手にぎゅっと力が入ったのがわかった。
「あのねマイ、一緒に、入ってほしい」
トルカオが不安げな瞳をマイに向けて、そう言う。舞は戸惑うが、そんな瞳で見られて断れるはずは無かった。トルカオに「えっと、はい」と返すと、舞は少し考えて、湯船のへりをまたいだ。先に入って見せれば、トルカオもついてくるかと考えたのだ。
脱げないままの靴下に水が染みる感覚は無く、温かく、そして柔らかなお湯が舞の足を包み込む。舞はそのまま両足を入れると、トルカオの方を向いて空いているもう片方の手を取った。そうして両手を少しだけ引く。すると、トルカオの足が動いた。
ゆっくりと、慎重に湯船のへりをまたぐ。足がお湯に触れるとトルカオの体がびくりとした。それでもトルカオはゆっくりと足を湯に沈めていく。そしてもう片方の足も入れると、湯船の中で舞とトルカオが向かい合う形になった。
トルカオの表情は硬い。何か言った方がいいかな、と舞は思う。
「あの、お湯、あったかいですね」
舞はひとまずそんなことを言ってみた。トルカオが「お湯……」とつぶやくと、その表情がわずかに緩んだような気がした。
「お湯、そっか、これはお湯だった……うん、あったかいね」
トルカオはそう言うと、舞に覆いかぶさるように抱きついてきた。いつもと同じ行為。しかしいつもとは違う肌の感触に、舞の心臓がどくんと跳ねる。
そのままトルカオは脱力するように湯船の中に座っていく。
ちゃぷ、と胸元まで湯につかった。やはり衣服のまま濡れる不快感は無いのだが、舞は裸のトルカオに抱きしめられていることで頭がいっぱいでそのことには気が付かない。
「トルカオ様、髪を洗いますね」
シシィの声が聞こえると、湯と肌色しか見えなかった舞の視界が開けた。トルカオが舞を抱きしめていた腕を離したらしい。それでも舞の目の前は圧倒的肌色である。透明な湯がいっそ恨めしいほどだ。
舞は恥ずかしげに視線をさまよわせ、やっと下を見ていてはダメなんだと気が付いて視線を上げた。トルカオと目が合って、にこりと微笑まれた。舞はぎこちなく微笑み返すが、それは恥ずかしさをごまかすためだ。視線を上げ過ぎた、と思って舞は少し視線を下げる。
すると、トルカオの肩のあたりに何かを見つけた。
痛々しく見えるあれは、傷跡だろうか。
その舞は瞬間恥ずかしさも忘れて、心臓のあたりがぎゅんと痛んだ。あれは、明らかに軽い傷で出来たような跡ではない。そこだけ色が変わってしまうほどの、深い傷。
どうしたんだろうあれは。聞いていいのかな。いや、多分、聞かない方がいいと思う。すごく気になるけど、あれだけ深い傷なんだから、きっと苦しい理由のはずだし。
痛々しいそれに目を奪われたものの、舞はそれについてトルカオに何かを聞くことは出来なかった。