05:友達の意味
トルカオの使い魔になって数日が経ち、舞は戸惑っていた。
舞の朝は、トルカオの腕の中から始まる。
トルカオは毎夜舞をベッドに引きずり込み、その体をぎゅうと抱いて眠るのだ。ただしそこに成人指定的な要素はまるで無い。舞の胸元に顔を埋めて眠るトルカオは、例えるならばお気に入りの毛布を手放さない子供、ひいては眠るのが怖くて母親にすがりつく赤子だ。
舞は始めこそ困惑したものの、すぐ傍に見えるトルカオのつむじにふっとそんなことを感じれば次第にそれを受け入れた。
だから舞が戸惑っているというのはこのことではない。
また、ここに来たその日から、舞の制服は脱げなくなった。
就寝時に暑いし邪魔だろうと舞がブレザーを脱ごうとすると、どうしたことかそれが脱げないのだ。はだけることは出来るが、それまでである。まるで磁石のように体に張り付いて離れない。
そういえば暑さも寒さも感じていない、ということに気が付いたのはその時だった。
不思議に思いながら数日が経ち、舞は更なる変化に気付いた。この世界は毎日風呂に入る習慣が無いらしく、だからこそ風呂に入りたいと訴えることも出来ず数日の間舞は湯を浴びていない。しかし体をくんくんと嗅いでみても、特に匂ったりはしないのである。わずかに甘い匂いはするが、それはトルカオから移った香の匂いだ。それに、制服のままでずっといても窮屈な感じは無く、体がきしむような感じも無い。まるで制服が体の一部になったようではないか。
舞は、これはいったいどういうことかと困惑した。困惑したが、やがてひとつの可能性を考え出す。
今の自分は、使い魔と呼ばれる存在だ。それは恐らく思っていたよりもずっと特殊な存在で、もしかすると、人間とは少し違うのかもしれない。例えば妖精とか、それこそ悪魔とか、きっとそういう存在なのかもしれないのでは?
だから舞が戸惑っているというのはこのことでもなかった。
深紅の布張りのソファに座っていた舞は、小さく息をついてゆっくりと横たわる。
すっかりここが舞の定位置になってしまった。仰いだ天井にはぎっしりと敷き詰められた幾何学模様。規則的なそれを眺めていると目がちかちかしてくる。舞はそこから目を逸らすと体勢を変えて、うつ伏せになった。向こうの方に見えるのは、床に座り込んだトルカオの姿だ。
あぐらをかいたその膝の上に乗っているのは、大きく分厚い本。トルカオは首を深く垂らしてそれをじっと見つめているのだ。しばらくそうしていたと思うと次のページをぱらりとめくるのが見えたり、かと思えば前のページに戻るのも見えるのでかなり精読しているらしい。ふっと視線をトルカオの脇に移すと、羽ペンが紙の上で踊っている。トルカオ曰く、自動筆記する魔法だそうだ。あれも初め見たときは驚いたが、見慣れてしまった今は、やっぱりすごいなあ、と小さく感動するのみである。
トルカオは食事や睡眠など一日の半分は舞に構うが、もう半分はひたすらあの本を読んでいるのだ。やけに大きくて分厚い本だ。それらは部屋の隅に積み上げられていて、全部で十冊以上はある。曰く、それらはトルカオが兄から解読を頼まれた資料らしい。――兄がいるのか、という新しい発見はあったもののそれだけである。兄について話題の発展は無かった――
そしてあの本を読んでいる間、トルカオはかなり集中しているらしい。
シシィが食事の用意が出来たと扉を叩く音がしても、トルカオは全く反応しない。だから舞が扉を開けて、トルカオに声をかけるのだ。それほどまでに集中しているトルカオの邪魔を出来るはずも無く、舞はトルカオがああしている間は何もすることが無かった。
集中して疲れただろうトルカオにお茶を淹れようか、と思っても魔法のつかえない舞に湯は沸かせない。トルカオの邪魔にならない範囲で掃除を……と思っても何かそういう魔法でも使われているのか、部屋はいつでも綺麗なままである。
何もすることが無い。これこそが、舞が困惑している理由だった。
舞が再び天井を見つめてその模様の数を数えていると、コンコンと扉を叩く音がした。
「マイ様、シシィです」
「えっ」
舞は驚いたように声をあげて、ソファの上で体を起こした。次いでトルカオに視線をやると、トルカオは本に視線を落としたままである。やはり聞こえていないらしい。いや、そもそも今聞こえたのは、自分の名前だ。いつものようにトルカオの名前を呼んだのではない。つまり自分が呼ばれたのである。こんなことはこの数日で、初めてだ。
なぜ、と思いつつも舞はソファから立ち上がって扉に駆け寄ると、静かに開けた。そこには名乗った通り、シシィがいる。シシィはいつものように一礼をすると、その赤い瞳で舞をじっと見つめた。
「少しよろしいでしょうか、マイ様にお話ししたいことがありまして」
「あ、えっと、はい……」
舞は戸惑いながらも断ることなど出来るはずは無く、そう答えるとシシィを招き入れた。
シシィが食事を持たずに部屋に入ってくるのは、この数日の間で初めての事だ。舞は招き入れたものの、どうしていいかわからなかった。すると、シシィから「どうかお座りください」と促される。そう言われてようやくひとつやるべきことを得た舞は、ソファに戻って座った。
シシィはそれを見届けると、机の傍に立ったままでその口を開いた。
「お話ししたいこととは言いましたが、正確に言いなおすならばマイ様にお聞きしたいことがあるのです」
そう言ったシシィの表情は、この数日の間で初めてみるものだった。先ほどまでは笑みを浮かべていたはずだが、今その顔に笑みは無い。かといって不機嫌そうなのかといえば、多分そうでは無いと舞は思っていた。たった数日の付き合いだが、シシィは多分、そういう人ではない。
「マイ様はもしかして、何か思い悩んでいらっしゃるのではないでしょうか」
言われた言葉に、舞は思わずえっと驚く。
「食事が終わった後やふとした時に、マイ様が何か沈んだような表情をされるので、気になっていました」
舞は思わず自分の頬に手を当てた。そんな顔をしてしまっていたのだろうか。そういうことを顔に出さないのは、得意だと思っていたのに。
「たった数日ですがマイ様のお世話をして、マイ様は自分の気持ちをあまり口にされない方だと感じています。ですからきっと、悩みを打ち明けるというのはマイ様にとって、苦しいことだと、承知はしております」
舞はどきとした。自覚をしていなかった事実を言い当てられた気になったのだ。
「ですが思い悩んで苦しむというのは、それ以上に苦しいことではないでしょうか。悩みというのは口に出すことで、解決までには至らなくとも、気持ちが楽になるものだといいます。人前で悩みを打ち明けるのが苦しいならば、トルカオ様は集中していらっしゃって何も聞いていません。そして私はメイドです、人ではなく、壁や鏡のように思ってください」
ああ、シシィはこんなに言ってくれてるのに。それなのにやっぱり、自分は何も出来ない。
「……こんなに、いろいろ、してもらってるのに、私は何も出来ない」
舞の口から、苦しげな声が漏れた。
「トルカオさんもシシィさんも、いろいろしてくれるのに、私は何も出来なくて、何かしなくちゃいけないのに、私、何も出来ない」
言葉を漏らしながら、舞は両手をぎゅっと握り合わせた。心の内を表すというのは、思ったよりも辛い。苦しい、と言った方がいいのか。しかしシシィの言うとおり秘める苦しさの方が勝ってしまったから、この苦しさは止められないのだった。
戸惑っていたのは、何もすることが無くて暇だという事ではなかった。
こんなにも何かをしてもらっている。だから何かをしないといけない。だってそうしなければ。
「何かしないと、ちゃんと気を遣ったり、大事にしないと、愛想尽かされて、仲間外れにされるから」
「マイ様」
すぐ近くで、名前が呼ばれるのが聞こえた。シシィの声だ。見ると、シシィが舞の足元で膝をついてこちらを見上げている。舞の握り合わせた手に、シシィの白い手がそっと添えられた。そうしてその赤い瞳でじっと見つめられる。
「マイ様が、トルカオ様のために何かをしたいと思ってくださっているのなら、とても嬉しく思います。けれど、マイ様が何かをしなければいけないと思ってらっしゃるのだとしたら、とても心苦しく思います」
言われた言葉に、舞は思わずえっと声を出した。
「トルカオ様は、マイ様に甘えていらっしゃいます。けれど、だからといって、マイ様に何かをしてほしいと思うとか、愛想を尽かすとか、そんなことはありません」
シシィはきっぱりと言い切った。舞は思わず「なんで」とつぶやく。
「トルカオ様にとって、マイ様は何よりも大切な、友達ですから」
友達。
ああそっか、自分は、トルカオの使い魔で、友達。
あれ、でも、友達だからこそ何かしないといけないんじゃ。いや、でも、シシィはこう言ってくれて。あれ、わからない。だって友達なんて、本当は、一人もいなかったから。
そう考えた途端に、舞は目の奥がむずっとした。それにあっと思った舞の耳には、シシィが小さく「あっ」と言った声は聞こえない。
「マイ」
シシィの声ではないそれに名前を呼ばれたかと思うと、ふっと視界が無くなった。舞は瞬間的に理解が出来た、トルカオに抱きしめられていると。
「泣かないで、マイが泣くと、苦しい」
トルカオがそう言うのが聞こえて、舞は自分が泣いているのかと思った。しかし涙はまだ目じりに留まって、落ちてはいない。それなのにトルカオにこうされていると、ひとしきり泣いた後のような心地になってしまう。
「マイは僕の友達で、僕は、マイの友達だから」
トルカオの、優しく現実を知らしめる声がする。
あれ、友達って、どういう意味だっけ。もう、わからなくなってしまった。そういえば、トルカオに触れられている間は何もわからなくなる。じゃあ今は何を考えたって、無駄なのかもしれない。
そう思うと、舞は苦しかった胸が楽になっていく心地だった。不思議なその心地とトルカオの体温に包まれながら、舞はトルカオのローブをぎゅっと握る。
(私はトルカオさんの、友達。大事なのはそれだけで、ああそうだ、意味なんか必要無い)
そんな言葉が舞の頭をよぎったのは、まったく無意識のことだった。