02:悪魔を呼び出す方法
玄関の扉を開けた舞は急いで靴からかかとを抜くと、足を後ろに蹴って放り出した。そうしてばたばたと狭い廊下を駆けていき、自分の部屋に飛び込む。カバンを放り出すと、真っ直ぐベッドに向った。舞の腕の中には先ほどの黒い本が大事そうに抱えられている。
舞はベッドの縁に腰掛けると、膝の上で黒い本を開いた。
赤茶けたページにつづられているのは、知らない字だ。日本語でも無ければ、たぶん英語でも無い。それでも不思議なことに、舞は見たことのないその字がところどころ読める気がした。細かいその字をゆっくりと指でなぞっていく。
「よびだす……ええっと、なんとか、ま、を? ま? よびだす……悪魔のことかな?」
ところどころは読めるが、やはりその大部分は読めないのでそうやって補完して読み進めた。そうして導き出した文章は
「悪魔を、呼び出す、方法」
というものだ。
当然、まさかと思う。しかし舞が続きをなぞる手を止めることは無かった。
「ま、悪魔、は、あなたの」
一瞬、その先を声に出すのをためらう。だがそれを求める気持ちがそうさせたのか、その言葉をなぞりながら声が出た。
「あなたの、友達……」
自分の声が耳に入ると、頭がかんと冴えていくようだった。何かを考えるよりも先に、文字を読んだ。
レモンバームの葉、生き物の心臓……白い、皿に乗せて。ページをめくると、不思議な模様が描かれていた。魔法陣である、と書かれている。これを地面に、白い塗料で描くらしい。
そこまで読むとようやく舞の頭は回転しはじめた。
レモンバーム、それはたしか、台所で母親が栽培しているものがあった。生き物の心臓……それはさすがに無い。心臓……ハツ? いや、あれは切り刻まれているしたった一部分だ、何か心もとない感じがする。ああそうだ、魚の心臓ならまるごと手に入るではないか。そして白い塗料……、修正ペンでは頼り無いだろうか、だったら白いマジックも用意しないと……。
そう考えが至るやいなや、舞はベッドから立ち上がる。そうすることに迷いは無かった。黒い本を丁寧にベッドに置くと、先ほど放り投げたカバンに向かう。そうしてその中から財布を取り出して、舞は慌ただしく部屋を出て行くのだった。
「えー……魔法陣……うん、間違ってるとこは無い、中心にレモンバームの葉と、生き物の心臓……アジの心臓で、まあ、いいよね、うん、生き物の心臓には間違いないし……」
舞は手に持った黒い本と床に書かれた模様を見比べながらぶつぶつとつぶやく。最終確認である。
床に白いペンで描かれた魔法陣の中心には、極々小さなアジの心臓が乗った白い皿。緑鮮やかなレモンバームの葉が添えられたそれは、これから呼び寄せる悪魔への捧げものだ。真っ白な皿の中心に黒ずんだ赤と緑がちょんと乗った様はまるで新進気鋭のフレンチかのようである。
ちなみに心臓を抜いたアジは血まみれの包丁と共にキッチンに放置してきた。母親がそれを見つけたら怒るだろうが、今はそんなことはどうでもいい。
最終確認を終えた舞は、よし、とつぶやくと続きを読もうと黒い本のページをめくった。
「呼び出す……触れて、それから、呪文、唱えろ……願って、強く……」
一行開いて、呪文が記されている。不思議とその部分だけは、全てがわかった。
舞は魔法陣の縁に膝をつくと、自分の横に黒い本を置いた。両手でぺたりと魔法陣に触れる。首だけを黒い本の方へ向けると、舞はそこに記された呪文を読んだ。願って、強く。
「……オリタテ、ウナヅキ、……ライダササ、キヅナウ……」
呪文を読み終えたその瞬間、突然閃光が走った。
舞は思わず「わっ!」と声を上げて目を閉じる。すぐに薄目を開くが、視界はまだ眩しいままだ。それでも何とか状況を確認しようと、舞は眩しさに耐えながら必死で目の前を見た。どうやら光を放っているのは、床に描いた魔法陣らしい。
あれ、呪文を唱えて、それからどうしたらいいんだっけ。
そう考えて、舞はその続きを読んでいないことに気が付いた。少し目が慣れてきた。これならなんとか本を読めそうだ。とにかく黒い本を手に取らなくては。
舞は手探りですぐ傍にある黒い本を見つけ出すと、それを手に取った。そうして片手で本を抱えてページをめくろうとした、その時。
「あっ!」
焦りのせいか本の重心を捕らえられていなかったらしく、本がひっくり返って前に落ちてしまった。舞はそれを拾おうと慌てて光の中に手を伸ばす。
その手はすぐに何かに触れた。
「へっ?」
そう思うと次の瞬間、触れた何かに腕をがっしと掴まれ思わず声が出た。舞が慌てて手を引くよりも早く、強い力でぐいと引かれてしまう。
「だ、うわ!」
抵抗する間も無かった舞の体は、そのまま光の海の中へ引きずり込まれてしまった。
はっと気が付いたその時、舞は自分がどこか温かいところにいるのだと思った。
それが具体的にどこなのかはわからないが、この温かさはなんだか心地がいいなと目を閉じようとして……とどまる。
違う、目を閉じている場合じゃない、なにがあったんだっけ。たしか、悪魔召喚の儀式をして、本を落として、魔法陣に手を伸ばして、そうだ、それで腕を掴まれて引きずり込まれたんだ。
そう思い出した瞬間、舞は反射的に両手を前に突き出していた。どんと押したそれは弾力があって、しっかりしている。温かさがふっと消えて、視界が開けた。見えたのは黒い布、服だろうか。顔を上げると、目が合った。
空色の透き通った目。形の良い薄い唇に、雪のように白い肌。整った顔を彩るオレンジがかった黄金色の髪は伸びっぱなしで、あまり手入れされているとは言えない印象だ。それでもぼさぼさのそれは、その顔の美しさを邪魔するものではまったくない。
人間だ。しかも、イケメン。
そのイケメンの腕の中で、ほんの数十センチという距離からじっと見つめられているということを自覚すると、妙な緊張が舞を襲った。
恥ずかしい、怖い、わけがわからない。頭の中はそんなことばかりがぐるぐるとしている。
「……やっと会えた、僕の使い魔」
舞は一瞬、塚井舞という自分の名前が呼ばれたのかと思った。しかし聞こえた言葉を頭の中で繰り返してみると、すぐに違うことに気付く。たしか、ツカイマと聞こえたはずだ。
それからようやく、舞はそれが目の前のイケメンが発した言葉だと気が付いた。イケメンはいつの間にかその形の良い唇に笑みを浮かべている。
それは、心が浮き上がるような綺麗な笑み。
でも、どこか、よくわからないけれど、ぞっとするような……。
「ん」
舞がその気持ちの正体を掴む前に、柔らかい衝撃が襲って視界が無くなった。
あ、また、温かい。
「僕の、僕だけの使い魔……」
か細い声が上から降ってくる。イケメンに抱きしめられた、とわかった。心臓のあたりがぎゅっと苦しくなって、じわりと体が熱くなる。舞は慌ててその体を押しのけようと、両手に力を入れた。
「僕の使い魔、僕の、友達」
しかしそれが聞こえた瞬間、ふっと手の力が抜けた。突然よくわからないイケメンに抱きしめられて、恥ずかしい。わけがわからなくて、少し怖い。出来るなら離してほしい。
けれど舞の手にはもう、一切の力は入りそうになかった。