13:静かな襲来
翌日も、舞とトルカオは部屋の外に居た。
大きな天窓から柔らかな光が狭い室内にふりそそぐ。それに照らされて現れたのは、どれも中身のぎっしり詰まった本棚の壁だった。
「すごいですね」
見上げたそれの壮観さに、舞はそうトルカオに伝えた。
「すごい?」
「なんかこう、想像してた書庫そのもので、本の世界に入ったみたいです」
舞が室内を眺めながらやや興奮気味にそう言うと、トルカオは「喜んでもらえてよかった」と言って笑った。
この場所は、トルカオ曰く先生の使っていた書庫だそうだ。書庫は城の中に数部屋あって、ここはその内のひとつらしい。
「あれはどの辺にあるんだったかな……」
トルカオは壁の本棚を見回しながら、そうつぶやく。
トルカオが舞を連れてこの場所に来たのは、舞を喜ばせるためだけではない。転移ゲートを作るための資料を探しに来たのだった。
書庫は狭いとはいえ、天井まで続く本棚の壁にぎっしりと本が詰め込まれている。その数は膨大に違いない。ここから目当ての一冊を探し当てるのは大変そうだ。
「あの、私も探すの手伝いましょうか?」
「ううん、大丈夫。舞は好きな本を見てていいよ」
舞がそう提案するが、にっこりほほ笑んだトルカオにそう言われてしまう。舞は食い下がろうかと思ったが、いやと思い直して「じゃあ、そうします」と返して本棚に向かっていくトルカオの背中を見送った。
それから改めて、本棚の壁を見上げる。そして、そうだ、と思った。
(この世界のこととか、使い魔のこととかわかる本もあるかも)
これだけの本があるのだ。それに、先生の書庫である。そういう本の一冊や二冊あるに違いない。そう考えて、舞は本棚へ向かって歩いて行った。
シシィから貸してもらった本を読むうちにこの世界の文字も”なんとなく読める”から”だいぶ読める”ものになってきた。それでも見える背表紙につづられた文字は読めてもよく意味が分からないものが多い。なんとかの理論やら、なんとかの法則やらといったタイトルが続いていく。
「……無いなあ」
「何か探してるの?」
「うわっ」
突然耳元で声がして、舞は声を上げた。
見ると、トルカオの顔がすぐ近くにある。
「ご、ごめんなさい、びっくりして」
一歩後ろに下がって距離を取りつつ謝罪すると、トルカオは特に気にした様子も無くにこと笑った。トルカオの方には、近すぎた、という反省は無いようである。
(こういうのパーソナルスペースとか言うんだっけ?)
なんとなく感じていたが、どうやらトルカオはそれがだいぶ狭いらしい。改めてその距離の近さを認識すると、急に恥ずかしくなってくる。舞はもう一歩後ろに下がって距離を取った。幸い、トルカオが離れた距離を詰めてくることはなかった。
「何か探してるの?」
トルカオが問いを繰り返すと、舞は先ほどそう聞かれたことを思いだす。
「あの、これだけ本があったら、この世界の事とか、使い魔の事とかがわかる本があるかなって思って、探してたんです」
「この世界の事と、使い魔の事?」
舞がそう答えると、トルカオは不思議そうな顔をした。舞はその顔をじっと見つめ返す。
「知りたいんです、トルカオさんの世界の事、私が、使い魔としてトルカオさんに何ができるのかって事」
それは昨日、シロツメクサの花園で花冠を編むトルカオを見ながら思ったことだ。
どういう世界か知りたいのは、トルカオがどういう世界で生きてきたのか知りたいから。使い魔が何なのか知りたいのは、自分は、使い魔として何ができるのか知りたいから。
トルカオのために。
舞はトルカオの青い目をじっと見つめて言う。その青い目は初め驚いたように見開かれて、それから、ゆっくりと細められた。
「うん、僕も舞の世界の事を知りたいと思う」
笑みを浮かべたその顔を見つめて、舞はただ嬉しいと思っていた。
結局書庫にはこの世界の事を知るための本も、使い魔の事を知るための本も無いようだった。しかしトルカオの部屋にそれがあるので、帰ったらそれを借りるという約束を交わして舞とトルカオは帰途についていた。トルカオの脇には、きちんと目当ての本が抱えられている。
部屋の扉が見える廊下に差し掛かった時だった。
扉の前に立つ人物が見えると、トルカオはぴたと足を止めてしまう。隣で同じ景色を見ていた舞は、トルカオが足を止めた理由をわかっていた。
トルカオの腕を引いて引き返すべきか、と舞が判断に迷っているうちに、シシィと話をしていたその人物が舞とトルカオに気付いてしまう。
「トルカオ様、よかった、丁度お帰りになったところでしたか」
言いながら、デクテットが歩いてくる。あのタヌキのような使い魔は肩には乗っていない。その後ろではシシィが心配そうな顔をしているのが見えた。シシィもトルカオがデクテットを怖がっていることを知っているのだろう。追い返そうとしてくれていたのかもしれない。
なんてタイミングが悪い。
そう思うと、舞は心臓がきりと痛んだ。
「どうしてもお話したいことがありまして、よろしいですかな」
「……うん」
あっという間に目の前まで来てそう言ったデクテットに、トルカオは断ることも出来ず承諾の返事を返すのだった。
ソファに並んで座るトルカオに、舞は出来るだけ体を寄せた。今はパーソナルスペースうんぬんを言っている場合では無い。舞は探るような目つきを向かいのソファに座るデクテットに向けた。
デクテットは配膳された紅茶に手も付けず、じっとトルカオに視線を向けている。
「単刀直入に申し上げますが、トルカオ様はその使い魔の中に、先生の魔力が存在していることに気付いていらっしゃいますな?」
デクテットの言葉に、トルカオの体に緊張が走ったのが舞に伝わった。
「私が気づいたのです、トルカオ様が気づかぬというのはあり得ないでしょう」
「……うん」
トルカオが弱弱しい声で肯定する。舞は会話の内容はよく分からなかった。
その使い魔の中に、先生の魔力が存在している。デクテットはこう言っただろうか。その使い魔というのはつまり自分の事で。自分の中に、先生の魔力? そもそも魔力って何だ?
「その魔力を使えば、先生の研究室の扉を開くことができるかもしれません」
ただ分かるのは、デクテットの言葉にトルカオの体が一層強張ったことだけだ。
「いえ、きっと開くはずです。トルカオ様、今我が国には先生の研究が必要なのです、あの部屋にあるあの研究が。先生の魔力が鍵になっている以上今まであの扉を開く手がありませんでしたが、これも今がその時という先生の思惑なのでしょう」
デクテットはそんなトルカオの様子に気付いていないのか、あるいは気づいていても構うものかと思っているのかそうまくし立てた。少々興奮気味に話すせいか、怖い顔が更に怖く見えるようだ。
しかしトルカオが怖がっているのはその顔では無い事を、舞はわかっていた。ただそれは分かるが、だったら何が怖いのかというのはまだわからない。
トルカオが膝の上で、ぎゅうと拳を握るのが見えた。
「ですからトルカオ様……」
「嫌だ!」
デクテットの言葉を遮って、トルカオが叫んだ。舞の肩がびくりと跳ねて、デクテットが目を見開く。
それは、初めて聞くトルカオの大きな声だった。
「あの部屋は開けたくない、開けたらだめだ、嫌だ……!」
恐怖。トルカオの叫びに感じるのは、ただただその感情だ。だからこそそれを聞いた舞の胸はきりきりと締め付けられる。
舞がトルカオの拳に手を触れたのは、純粋にトルカオを思う気持ちからだけではなかったかもしれない。トルカオの恐怖を感じ取って、舞も怖くなったのだ。触れたトルカオの拳は冷たい。
「しかし、トルカオ様、あれは今の我が国にどうしても必要なものです、あれさえあれば我々は竜族に勝てるのですよ」
デクテットの声が聞こえて、舞ははっとした。
トルカオを怖がらせたのは、この男だ。そして今、更にトルカオを怖がらせる言葉を続けている。トルカオはこの男は悪くない、自分が勝手に怖がっているだけだと言ったけれど。しかし舞にとっては今デクテットは、トルカオを怖がらせる、悪い人間だった。
舞はトルカオをデクテットの視線から守るように抱きしめると、デクテットを睨み付けた。
「……帰ってください」
デクテットが怖い顔をしたが、舞は怯まずにその顔を睨み続けた。
「トルカオさんはあなたは悪くないって言いましたけど、私は、トルカオさんの使い魔です。トルカオさんが怖がっていれば、怖いものからトルカオさんを守ります、だから、……すみません、帰ってください」
正直、舞は怖かった。デクテットの顔が怖いのもそうだし、その怖い顔に向ってこんなことを言うのも怖い。トルカオが怖がっているのも、怖い。
でも、自分は使い魔だ。友達だ。トルカオが怖がっていても平気なように、自分が居る。
それから、自分が怖くても平気なように、トルカオが居る。
そう思い直せば、舞はデクテットの怖い顔から目を逸らさずにいられた。
「……そうですな、今日は帰った方がいいようです」
じっと睨み付ける目から先に視線を逸らしたのは、デクテットの方だった。
「しかし、国のためにあれはどうしても必要なのです、そのことだけはどうか、心にお留め置きください」
デクテットはソファから立ち上がると、最後にそう言って部屋を出て行くのだった。