12:デクテット
「トルカオ様」
背後からそう声をかけられたのは、舞とトルカオが部屋へ帰るために廊下を歩いている途中だった。
振り返ると、そこにいたのは口髭を蓄えた細身の男性。中年といった年頃だろうか。かっちりとした服に身を包んでいる。そして何より目を引くのは、その肩に乗せた……タヌキ?
「デクテット……」
トルカオがやや緊張気味にその名を呼ぶ。握られた手に力が入ったのがわかると、舞はトルカオの手をぎゅっと握り返した。
「ああよかった、口髭を生やしたものでわかっていただけるかどうか少し不安だったのですよ」
「……うん、口髭が、生えたね」
「先生のようでしょう?」
「……うん」
先生。
舞の耳は、デクテットと呼ばれた男性がそう言ったのを聞き逃さなかった。口髭を撫でつけながら先生のようでしょうと言ったから、どうやら先生は口髭を蓄えた男性であるらしい。
そして先生のように口髭を蓄えたこの男性は、トルカオにとって目の前にすると緊張してしまう人物のようだ。男性の言葉に対するトルカオの返事は必ず間を置いてから返されているし、言い方もとてもぎこちない。
舞はトルカオに体を寄せた。体がぴたとくっつくと、握られた手の力が少しだけ緩んだ気がした。しかし横目に見上げた先にあるその表情は変わらない。目を伏せて、時々不安げに唇を噛んでいる。
「少し、このままお話をしてもよろしいですかな」
「……うん」
トルカオがぎこちなく返事をして、デクテットと共に廊下の端へ寄る。
「それで、そちらがトルカオ様の使い魔ですか。いや……おめでとうございます、私も我が事のように嬉しく思います」
「……うん、ありがとうデクテット」
「トルカオ様の使い魔に挨拶をしてもよろしいですかな」
「あ、……うん」
デクテットの細い目が舞に向けられると、今度は舞が緊張をする番だった。心臓がどきとしたのがわかる。
なにせデクテットは細い眉がつりあがっていて、中年という年頃ながらも厳しい教頭といった風体だ。厳しい教頭に叱られた記憶は舞には無いが、なんとなく身構えてしまう。例え口髭に隠されたその口元が笑みを浮かべていても、だ。
「初めまして、私はデクテットと申します。こちらは私の使い魔です」
「キュウ」
デクテットの肩でタヌキが一声鳴いた。それは可愛らしいが、可愛らしいだけに似合わないなという感想が先に出てきてしまう。もちろんそんなことは口に出して言えないが。
舞が小さく頭を下げると、デクテットはトルカオに視線を戻した。
「先生がいらしたら、さぞ喜んだことでしょうな」
デクテットがまた先生と言ったのを、舞はやはり聞き逃さない。
(先生が、いらしたら)
いらしたら、ということは、今は居ないという事だ。いや、そんなことはこれまでトルカオが『先生』と言ったときの様子から、舞はなんとなく察していた。だからデクテットのそれは、”なんとなく”を”たしかに”にするだけのものだった。
(でも、さぞ喜んだことでしょうなって、その言い方はまるで)
先生が、なぜ、今ここに居ないのか。頭に最悪の可能性が浮かんだ瞬間、ぎゅうと強く手を握られる感覚にはっとした。
横目にトルカオの顔を見上げると、唇を固く結んでいる。その表情だけでなく、繋いだ手から、触れた体からトルカオの緊張が伝わった。これ以上、話を続けるのは嫌だというように。
「あの、トルカオさん」
声をあげた途端に視線が自分に集まったのを感じて舞は怯むが、何とかもう一度声を出した。
「は、早く部屋に帰りたいです、帰りましょうよ」
舞はトルカオの腕を引いて、そう言う。
何か言ってこの場を去らなければ、というはやる気持ちだけで声を出したので言葉まで気が回らず、変にわがままな言い方になってしまった。しかしこちらを見たトルカオがの表情がほっとしているように見えたので、舞はこれで良かったのだろうと思う。
デクテットの視線も感じるが、そちらは見ないようにした。どんな顔をしているか見るのは怖い。
「……ああ、部屋にお帰りになるところでしたか。引き留めてしまって失礼をいたしました、それでは」
デクテットがそう言うのが聞こえると、次いで去って行く足音が聞こえる。舞はようやくほっと息をついた。肩の力が抜けたのがわかる。
「……ありがとう、舞」
トルカオが小さくそうつぶやいたのが聞こえて、舞は顔を上げる。見上げたその顔にはまだ笑みは戻っていなかった。
「いえ、トルカオさんが緊張してたから、ああしたほうがいいと思って」
「……うん」
舞は努めて笑顔でそう言うが、やはりトルカオの表情は浮かない。
「デクテットは悪くないんだ、僕が、勝手に怖がってるだけで」
そんな表情のままでトルカオが切り出したのは、デクテットを擁護する言葉だった。舞は何と返せばいいのか、としばし考え込む。
わかります、あの顔怖いですよね。いや、トルカオの様子からして怖がっているのはそんな単純な理由ではないはずだ。いやでも、冗談めかしてそう言えばトルカオは笑うだろうか。いや違う、きっと今必要なのは、話題を逸らすことかもしれない。
「トルカオさん、早く部屋に帰りましょう、きっとシシィさんがおやつ用意して待ってくれてますよ」
舞はトルカオの腕を両手で引っ張りそう言った。努めて笑顔だ。
するとトルカオはようやく表情を変えた。少し驚いたような顔で舞を見つめ、そして、笑った。
「うん、部屋に帰ろう」
それはまだ少し、いつもとは違ってぎこちない笑顔だった。その笑顔に、舞は数時間前の事を思い出す。
緊張していてもいい。怯えていてもいい。だってそのために、自分がいる。そう思ってトルカオの腕をぐいと引き寄せたことを。
舞はトルカオの腕を引き寄せると、引っ張るように歩き出した。自分がいる。そうトルカオに伝えるように。
部屋に帰ると、シシィとビスケットと共に意外な人物が待っていた。
「お帰り、二人とも」
ソファに座ったままでそう言ったのは、ソルだ。相変わらず笑うとえくぼができる。
「はは、お揃いの冠だな、よく似合ってるよ」
言われて、舞は思わず頭に手をやった。瑞々しいシロツメクサの花が手に当たる。触覚でその存在を再確認すると、舞は気分が高揚するのがわかった。トルカオを見ると、すっかりいつものような笑顔を浮かべている。
そんなトルカオの手を舞が引いて、二人は深紅の布張りのソファに座った。すかさずシシィが紅茶の入ったカップを二人の前に置く。シシィに礼を言って二人がぬるいそれをすすると、ソルが話を切り出した。
「トルカオに用事があって来たんだけど外出中だっていうから、待たせてもらったんだ」
「用事?」
「ああ、頼みごとと言った方がいいかな」
「頼みごと……」
トルカオが不思議そうに兄の言葉を繰り返す。ソルはそんな弟をじっと見据えて、表情を引き締めた。
「転移ゲートを作って欲しいんだ」
それは、舞の耳にはまったく耳慣れない言葉だった。どうやら作るものらしいが、いったい何だろう。
一方でトルカオは「転移ゲート」とまた兄の言葉を繰り返した。
「出口側のゲートはもうあるんだ、だからトルカオに作ってもらいたいのは入口側の方。向こうのゲートを作った人間との魔力の調整が難しいかもしれないが、トルカオにならできるだろう」
「でも……」
まっすぐ弟を見るソルに対して、トルカオは自信無げに目を伏せてしまう。
「先生と一緒に一回作ったことがあるだけで、うまく作れるかわからない……」
「できるさ、トルカオなら。それに、今は使い魔がいるだろう?」
ソルが諭すようにそう言えば、トルカオは目を上げて舞に視線を移した。不安げなその目と目が合うと、舞はにこと笑ってみせる。
トルカオはしばし舞をじっと見つめ、やがて何か決心したように口元を引き締めるとソルへと視線を戻した。
「……わかった、うん、やってみる」
まだ少し自信無げな表情ながらもそう言ったトルカオの言葉を聞いて、ソルは満足そうに笑った。