10:外へ
その日は朝からトルカオの様子が少しおかしいと、舞は気付いていた。
そわそわしているような、何かをためらっているような様子。
それは、舞がここに来てから初めて見るトルカオの姿だった。すがるような姿も、何か不安げな姿も見た。しかしそのどちらも今目の前に見える姿には当てはまらないのだ。これはどういう姿なのだろう。舞は考えながら今日も今日とてトルカオが『あーん』してくる朝食を食べていた。しかしいくらトルカオを観察しても、それをもとに考えても、舞は答えを出すことが出来なかった。
ああそうか、トルカオに聞けばいいんだ、と舞がようやく気が付いたのは、朝食後にいつものように深紅の布張りのソファにうつぶせになって寝ながら本を読むトルカオの様子を観察していた時だ。
「あのトルカオさん、えっと、大丈夫ですか?」
「え?」
舞が意を決してそう言ったのは、いざ迎えた昼食の時だった。トルカオには、驚いた顔をされてしまう。また舞は気づいていないが、扉の傍に控えるシシィも少し驚いたような顔をしていた。
「あの、朝から、ちょっと様子がおかしいなって思ってたんです、そわそわしてるような、落ち着かない感じで。それでその、心配で、気になって」
舞がそう言葉を続けても、トルカオは目をぱちぱちとさせるだけだ。その様子に舞は気持ちがしぼみ、ああダメだと諦め……ようとは、しなかった。
唇をぎゅっと結んで気合いを入れると、トルカオの青い瞳をじっと見つめる。次の言葉はすぐに思いつくことは出来なかったが、舞はその代わりに出来ることを思いついてそれを実行に移した。
手を伸ばして、トルカオの手を握る。冷たい。手が冷たいときって、どういうときだっけ。舞は考えて、そして答えを出した。
「トルカオさん、緊張してるんですか?」
そう口にした瞬間、舞はああと納得した気になった。そうか、そわそわして落ち着かない様子は、そういうことか。トルカオは、緊張している。しかしいったい何に?と思ったところで、ふわふわしたものが舞の頬をくすぐった。
トルカオが舞にもたれかかってきたのだ。
「トルカオさん」
「マイの言うとおりだよ、多分、緊張してるんだと思う」
弱弱しいその声は、舞の耳元で聞こえた。その声色も頼りなければ、言葉の内容も頼りないものである。自分の気持ちであるはずなのに『多分』とは、随分と頼り無いではないか。舞がその背中に手をやれば、トルカオは舞の肩に顔をすり寄せるようにもぞもぞと動いた。
「……部屋の外は、怖い場所で」
舞は、あ、と思う。これはきっと、トルカオの弱音。それを話してくれる。そう思うとどきどきした。
「部屋の外は、皆が僕を可哀そうな目で見るから、怖い場所で、でも、今までは出ようとは思わなかったから、平気だったのかなって思うんだ」
トルカオはやはり頼りない言葉で、自分の気持ちを語った。
「今、多分、緊張してるのは、部屋の外に出ようと思ってるから……だと思う」
部屋の外。そういえばそれは知らない世界だ、と舞はトルカオの弱音を聞きながら思う。ここに来てからあの扉の外に出たことは一度も無いのだ。
「部屋の外は怖い場所だけど、でも、ひとつだけ、怖くない場所があるんだ。そこはキレイで、色鮮やかで、それから、いい匂いもする。そこに、マイを連れて行きたくて、だから部屋の外へ出ようと思ったんだけど……」
言葉はそこで途切れる。それから、舞の背中に手が回されたと思うとぎゅうと抱き寄せられた。はあ、と深く息をついたのが聞こえる。
「緊張、してる……どうしよう、情けないって、こういう気持ちなのかな……知らなかった、今まで」
トルカオの言葉を聞いて、舞はトルカオの背中に添えていた手に少しだけ力をこめた。
「大丈夫です」
勝手に出てきた言葉じゃない。そう言おう、と思って出した言葉だ。そう伝えたかった。
「怖くても、緊張してても、大丈夫ですよ、だって私がいますから、トルカオさんの隣にいます」
そう言って、トルカオの背中をさするように撫でる。すると、トルカオの体から少しずつ力が抜けていくような気がした。小さく「そっか」と言う声が聞こえる。それから、トルカオの体がゆっくりと離れていく。
そうして見えたトルカオの顔には、笑みがあった。
「そうだよね、マイがいれば、怯えてても、緊張してても、平気だ」
それでもまた少し緊張の残る笑みで、トルカオがそう言う。
舞は心臓のあたりが少し苦しくなったのがわかった。そう言われて、嬉しいのかもしれない。自分の気持ちだというのにはっきりと判断のつかないそれに胸を締め付けられる舞は、気が付かない。
扉の傍に控えたシシィが全てを聞いていて、震える手で口を押さえると「た、大変……」とつぶやいたことを。
扉の前に、舞とトルカオが並んで立つ。
舞がトルカオをちらと見上げてみれば、トルカオは少し硬い表情で目の前の扉をじっと見つめている。心配そうに眉根を寄せると、トルカオがこちらを見た。
トルカオは硬い表情を崩して、にこ、と笑う。
それから舞の腕がトルカオのそれにするりと絡め取られて、体を寄せられる。その行動に、舞はトルカオがやっぱり緊張しているんだと思った。それからすぐに、いや、と思う。
緊張していても、いいのだ。だって、だから自分が居る。緊張しないように、じゃない。緊張していても平気なように、自分が居るのだ。
舞は自らのそれに絡んでいるトルカオの腕を、ぐいと引き寄せた。
「行きましょう、トルカオさん。……って、あれ、私が連れてってもらうんでしたっけ、あ、あはは……」
そう言って意気込みを表すつもりだったが、なんともしまらないものになってしまった。思わず笑ってごまかすと、トルカオはふふと笑ってくれた。
「そうだね、いい場所に連れて行くから、楽しみにしていて」
ようやく踏み出した扉の外は、まさに未知の世界であった。
石造りの壁はおよそ日本的とも民家的とも言えず、トルカオの部屋のあらゆる調度品と同じように異国情緒を放っている。重厚感あふれるそれにひやりとした印象を感じないのは、その白い肌がクリーム色がかっているためだろうか。むしろ暖かな印象だ。加えていくつもあるステンドグラスのあしらわれた窓は広く、どこまでも続くような長い廊下にたっぷりの太陽光を取り込んでいる。
「窓、キレイですね」
その光景は、舞がそう口にしてしまいたくなるほどの美しさだった。トルカオが「そうだね」と言う声が聞こえると胸のあたりがきゅんとする。嬉しいのかもしれない。きっと、窓がキレイだと共有できたことが、だ。
「そういえば、小さい頃はキレイなことが不思議でぺたぺた触ってたなあ、その後兄さんに注意されたっけ」
歩きながら、トルカオはそんなことを語った。舞は小さな頃のトルカオを想像してみるが、うまく想像できない。ただトルカオの表情から、小さなころのその思い出はトルカオにとって良いものであることはわかる。だからこそ舞の腕を引き寄せるトルカオの腕の力がほんの少し緩んだのだろう。
たったそれだけの会話で両者は多少緊張をほぐすと、長い廊下をトルカオが導く方へと歩き出した。
時々、シシィと同じ格好をした女性とすれ違う。彼女たちは舞とトルカオを見ると総じてはっと驚いたような顔で足を止め、それからすぐにしまったというように表情を引き締めて一礼をした。慣れないどころか初めてのそんな経験に舞は不安にも似た緊張を覚えるが、絡めたトルカオの腕が強張ったのを感じてその顔を見上げると不思議と気分が落ち着いた。
緊張していてもいいのだ。だって、トルカオが居る。たぶん、きっとそういうことだ。
舞はそう納得をして、メイドとすれ違うたびにトルカオの腕をきゅっと引き寄せながら廊下を歩いていくのだった。
やがて、石造りの壁は終わりを迎えた。
「わあ……」
その景色が広がった時、舞の口から感嘆の声がもれた。
トルカオの言った通り、キレイで、色鮮やかで、それからいい匂いもする。
「キレイですね」
「うん、よかった、キレイだと思ってもらえて」
一度立ち止まってそう会話を交わすと、トルカオは舞の手を引いて色とりどりの花壇が並ぶ広い中庭へと歩き出していくのだった。
眩しさに目を細め、舞は久々に太陽の下に出たことを実感する。戸惑いは無い。むしろ暖かな日差しが身を包み込むのは気持ちがいい。
トルカオはどうだろう、と隣を見ると、トルカオも眩しさに目を細めているようだった。いや、細めているのではない。眩しさに目を開けられずぎゅっと閉じているのだと、舞は気づく。
「トルカオさん、大丈夫ですか」
「うん……ちょっと、眩しい」
「あ、じゃあ、慣れるまでちょっと、じっとしてましょう」
舞がそう言うと、トルカオは「うん」と言って舞の方へ少し体を傾けた。舞は少しの重みを感じる。それは辛いものでは無くて、むしろ心地よい重みだ。例えばそう、天日に干した羽毛の布団のような重み。
「あったかいですね」
「うん、そうだね、あったかい」
こだまのように返ってくるトルカオの声が聞こえると、頬が緩みそうになる。きゅっと唇をかみしめながら、舞は確かに、嬉しい、ということをを感じていた。