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小さな恋の話

作者: 橘セロリ

 男は自宅で酒を飲んでいた。


 酒を飲んでも彼を咎める者はいない。なぜなら、家族がいないからだ。勤務先の生身の家族がいる人間たちは酒は不健康になると止められているのだ。


 そんな不自由を羨ましく思うこともあったが、男は遺伝子疾患や疾患リスクのある家系出身なので進んで家庭を持ちたいとも考えていない。


 デザイナーズベビーなんかは富裕層のもので、男は社会でも特別高い賃金をもらっているわけでもなかったので、諦めざるを得なかった。


 自室のPC机の前に座り、電源をつけた。前の彼女には「今時ノートパソコンなんて」と笑われたが、男はスペックの高いPCを持つ理由があった。


 頭を覆うヘルメットのような機械をかぶり、側面にある米粒ほどのスイッチを押した。デスクトップ画面にあるハートのアイコンをクリックするとたちまち男はインターネットの疑似空間へトリップすることができた。


 元々は身体障害者や植物人間状態の人々の為の技術だったのだが、安価で記憶データーベース機を購入可能となった今日では一般の人間でもインターネット上に記憶や意識を移すことが可能となった。


 それぞれ好きな容貌のアバターを利用し、ゲームや疑似旅行や疑似恋愛などが可能となった。ただ、この現状に異を唱えるものも存在する。


 この技術が可能となったのはここ十年の話である。だから将来を通して人間の脳にどれほどの影響を及ぼすかも定かではない。


 近年の研究ではそれを利用するものとそうでないものでは記憶力や知能の衰えが見られるなどと言われてはいる。


 男はインターネット空間で家庭を築いている。


 子供はいないが、妻と一緒に暮らしている。ネット空間でも痛覚や快感は得ることが可能だ。二人は大きな一軒家に暮らしている。彼はこの家に住んでいるかのような顔で、帰宅し、妻にただいまのキスをした。妻は黒髪ストレートのアバターの女性だ。


「今日はお仕事どうだった?」


 触感は完全に人間である。柔らかで温かく、表情にも違和感はない。


「そうだね、いつも通りだったよ。なにも変わらない、機械にもできる仕事だったさ」

「お疲れさま」


 リビングのソファに二人で座って、男は女の髪を撫でた。この時間がリアルより劣っているはずはないと、男は言い聞かせる。古い考えの人間はVRによる人間関係を嫌悪したり見下すものが多いのだ。男の親もそうだった。ここ最近では連絡していないが。


「ねえ、現実であなたと会ってみたいの」


 また始まった、と男はうつむいた。


「どうして」

「そりゃあ、決まってるわ。あなたのことが好きだから会ってみたいの」

「会っても今こうやっていることと変わらないことをするんだよ。現実で会うことに意味はあるのかい」


 すると妻は目に涙を浮かべた。赤く染まった頬にほろほろと涙が流れていく。


「現実では酒を飲むような男だよ」


 女は「そんなあなたでも受け入れるつもりよ」

 と自信がなさそうに言った。


「君は、現実では酒もたばこも大麻もしないんだろう。ジャンクフードも食べないんだっけ」


 ええ、と頷く。その顔を男はのぞき込んだ。


「僕はしがない賃金労働者だ。デザイナーズベビーすらもてない低賃金労働者だ。それでも会いたいのか」


 女はゆっくりと首を縦に振った。


「もうこの話はやめよう」


 男は女にキスをした。女はあたりまえに受け入れた。



 男は薄々感づいていた。女は自分と違って育ちのよい女だということを。現実では絶対に出会うことすらできないであろう相手であることを。


 だからこそ、会うことを拒否したし、現実にVRを持ち込む奴は信用に値しないと常日頃考えていた。けれど、男自身、VR上だといえど五年もの歳月を共にした相手のリアルに興味がないわけではなかった。会えるものなら会ってみたいという好奇心はもちろんあった。


 好奇心なんて迷いだと思い知るのは、いつも現実に戻ってからだ。浴槽すらない狭いアパートを見渡して、やはり無理だと頭を抱えるのだ。


 

 いつだか、機械が人の仕事を奪うと言われていた時代があるらしい。男は工場に勤めている。


 コミュニケーションが苦手な人間は否応なく低賃金の仕事に就くことになってしまった。


 機械に仕事を奪われることはなかった。人の仕事をこなす機械は存在するが、それを導入するコストがもったいないと判断する会社が多く、機械よりも低賃金で人間を雇うほうが低コストですむ。


 男もその機械代わりの人間の一人であり、そのような人間は子供をもうけることは難しい。このような現状は現代の奴隷制度なのではと懸念されており、社会問題になっている。


 男は業務会話のみをこなし、会社から帰宅したのは夜の一時だった。単純作業は退屈だが、人と関わって恥をかいたり怒鳴られたりするよりはずっとましだと思っていた。


 狭いアパートの浴室でシャワーを浴び、いつものようにPC画面をつけた。いつものように妻の元へ行き、いつものようにただいまのキスをした。


「俺はずっとこっちにいたいよ」


 妻の膝の上で、男は愚痴をこぼした。いつもは強がって我慢をしていた言葉だが、これが彼の本音であった。


「そんなに現実は辛いの?」

「毎日同じことの繰り返しだからね。こんなの終身刑のようなものだよ」


 女は男のくせっ毛の強い髪の毛を撫でながら


「病院へ行ったら? あなたはコミュニケーションも苦手なんでしょう」と静かな声で言った。


「何度も行ったさ。だけど改善なんてしなかったよ。偏った思考を変えるための治療や薬も試したけど全く効果はなかった」


「死にたい?」


「こんな世界で死にたいと考えたって不毛だろ」


 そうね、と彼女はくすくすと笑った。


「死んだところで記憶や意識はこっちに存在し続けるんだものね」


 第三者がバックアップを消去しない限り、人間の情報はネットの海を浮遊し続ける。


 それを素晴らしいとたたえる者もいれば、最悪の未来だと肩を落とす者もいる。男は完全なる後者なのだが、このネット世界のような幸福な世界に、死んだ後もとどまれるのだとしたら、ひょっとしたら幸福なのかもしれない、とも思っていた。


「もし、私が現実で死んでしまったら、悲しい?」

「悲しいかもしれないな。でも、消去はしないなら今まで通りだしなんとも思わないのかもしれない。確認方法だってないんだし」


 女は顔を逸らした。


「やっぱり、あなたは現実では会ってくれないの?」

「また、その話か。いい加減しつこいよ」


 そうね、と消え入りそうな声だ。


「私がもう少しで現実で死んでしまうとしても、会ってはくれないの?」


 男は起きあがって、女の肩を揺すった。それは本当なのか? といつもより大きめの声で聞いたら、女はゆっくりと頷いた。「嘘なんてつくわけないじゃない。あなたに」


 どこにすんでいるんだ。どこにいるんだ。容貌は? そこまで聞こうと口を開いて、男はなにもいえずに口を閉ざした。本当に聞いて良いのか、自信がなかった。


「市民病院のエントランスに私はいるわ」


「名前は?」


「結城愛」


 わかった。と男は彼女を抱いた。わかった。会いに行くよ、と言ったが、互いにそれが口だけだと言うことはわかった。でも、その言葉だけで二人は勇気づけられてもいた。



 別の日の晩に男は友人と話すことにした。ネット上の関係だが、かれこれ十年は続いている。VRが流行る前からの関係で、もちろんリアルで会うことはない。


 疑似居酒屋には人は一人もいなかった。ここ最近の若者は現実でドラッグを摂取しなくなった代わりにネットで同様の成分を摂取するようになった。厳密には脳の快楽を司る部位に微量の電気を流し込んで快楽物質を分泌させているだけなので、実際のドラッグに比べると快感は劣るが、そのぶん依存も少ないと言われている。


 居酒屋の四人掛けの席に二人で向かい合って座り、生ビールを飲む。友人のAは現実でよいことがあったようで、にやにやと顔がほころんでいた。


「今日さ、昇給したんだよね」

「おう、おめでとう」


 Aは男とは違う大企業に勤めている。そこの人事をしている。男は嫉妬や妬みを抱くことをできる限り避けてはいたが、それにも限界があった。


「俺も現実で彼女作ろうかな」

「おまえなら、できるだろ」


 そうかな、と下品な笑みを浮かべた。男は気が気でいられずに、生ビールを追加で注文した。注文すると机に生ビールが現れる。この居酒屋には店員なんて存在しないのだ。


「おまえの奥さんは元気か」


 Bは生ビールを飲み干して、男に聞いた。男は複雑な表情を浮かべて「まあ」としか言えない。


「どうしたんだ。浮かない顔をして」

「最近、リアルで会いたいと言ってくるんだ」


 ああ、と全てを察したと言いたげな声を出す。


「そんなに言うなら会えばいいじゃないか。長い付き合いだろ」


 いくらヴァーチャル世界が栄えて現実に近い状態になっても、やはりリアルが何よりも重視されているのは変わらなかった。だから付き合いが長ければリアルでも交流を深めるのが自然だと言われているし、男とBのような関係は珍しかった。


「怖いんだよ。拒絶されるのが」


 はははと、乾いた笑いを浮かべた。


「今更、奥さんも拒絶しないだろ。リアルを知って拒絶するような人が何年もおまえとつきあってないって」


 そうかな? と確認を取るとBは大きく頷いてそうだよ、といった。

「だから、会ってやりな」


 男はその友人の言葉を聞いて、会いに行くことを決めた。今年一度も取ったことのない有休を取ろう、そう考えていた。



 男は朝一番に家を出た。市民病院は男の自宅から電車で二〇分の場所にあり、すぐに到着することはできるが、そわそわしていても経ってもいられなかったのだ。十年間は着ていないスーツを羽織り、体型が一切変化していないことに気がついて苦笑した。


 市民病院は市の中央に堂々と建っているが、周囲にはタクシーが数台あるだけでほかに人はいなかった。時刻は八時だから当然である。エントランスホールは円型の掃除ロボットが徘徊しているおかげかゴミ一つない。男は日頃工場つとめなので病院のような整った環境には慣れていない。


 祖父が癌になったときに来たきりで、結城愛という名前の女性を捜すためにはどうするべきかもわからなかった。ナースに聞くべきだろうか? いや、エントランスホールにいると言っていたし、そんな考えを巡らせながら、窓際にある茶色のソファに座り込んだ。


 向かい側の一人掛けソファには中学生ほどのお下げの女の子がパジャマ姿のままでタブレットを触っていた。男はそわそわとやはり落ち着かず、エントランスの周辺を見渡してそれらしき女性はいないかと目配せした。しかし、らしき女性は一切見つからず、いつもエントランスにいるわけじゃないのだろうか、と考えた。はやり、受付で聞かなければならないのだろうか。


「どうしたの?」


 少女は男をじっと見て聞いた。突然だったので、男はうまく受け答えできずに口ごもる。


「面会?」


 首をかしげた少女に、首を三度ほど縦に振った。


「家族ではないんだけど、会いたい女性がいるんだ」

「へえ」

「結城愛って知ってるか?」


 うん、と即答した。


「私だよ」


 まっすぐな焦げ茶色の瞳にあっ関された。男の額には汗がにじんでいて、ハンカチで拭おうとポケットを探るがうまく手が動かない。


「本当に?」

「うん。嘘なんてつかないよ」

「じゃあ俺が誰かわかる?」

「もちろん、"あなた"」


 ああ、これは本当に妻だと直視しがたい現実だと目を伏せた。男はこんな少女が自分の妻だなんて想像もしていなかった。当たり前だ。いくらネットでのヴァーチャル結婚だといえど、こんな成人すらしていない女性だなんて誰が想像できただろうか。


「そんなにショックだった?」


 いや、と言葉が先に出た。が、男は次の台詞を喋ることができない。元々人見知りで人と会話することは得意ではないのだ。


「本当に、コミュニケーション苦手なんだね」


 少女は立ち上がって、男の手を握ってエントランスを出た。ぱくぱくと口を動かして手を離せと言おうとするがうまく言葉が出てこない。


 病院の中庭は青々とした芝生が地面を覆ってゆらゆらと自由に揺れていた。様々な種類の木々も植え付けられている。その中でも特に大きな木の下に、少女は座り込んだ。男もしぶしぶと隣に座る。


「本当に君は死んでしまうのか」


 そんなに元気そうなのに、と続けた声は震えている。少女はそうだよ、とにこやかに言った。


「ずっと病気で直る見込みもないから、安楽死が決まったの」


 彼女くらいの歳では安楽死は珍しい。治る見込みがないと判断されにくいし、様々な治療を施された後の判断となる。男は、少女の人生を想像した。おそらく、長い間病院で暮らし続けたのだろう。


「でも、あなたに会えたから後悔はないよ。会いに来てくれてありがとう」


 男は少女が輝く笑顔を向けられていることに対して罪悪感があった。こんなことならば、もっと早く会ったほうがよかったのではないか、と思ったが、今更どうにもできない。


「そんな顔しないでよ。私だって、こんなんだからあなたに会うことを躊躇していたのは事実だよ。あなたみたいな人なら私でも拒絶しないと思ったから結婚したのだし」


「君は魅力的じゃないか、わざわざ俺みたいな男を選ぶ必要なんてなかっただろう」


 ううん、と上を向いて首を振る。


「私はあなたがよかったんだよ。惚れたもの負けなのかもしれないけど、恋愛なんてそんなものじゃない?」


 男は異性にそんな言葉をかけられたことが、生涯一度もなかった。だからだろうか、男は情けないほどの大粒の涙を流すしかなかった。その様子を見て、驚いた少女は笑いながら「泣かないでよ」と慰めた。二人は抱擁すらできないでいた。いくらネットで結婚しているといえど、少女は未成年で男は成人しているからだ。


「あなたに救われてたんだからね。これをはじめるまで恋愛なんて一生できないと思ってたんだから」


 うん、うんと無様に頷いた。「だから自信持ってよ」と少女は男の涙を拭った。



 二人は互いの溝を埋めるかのように、様々な会話を交わした。「好きな食べ物は」「嫌いな食べ物は」

「初恋は」「どこにすんでいるか」「嫌なことはなにか」そんな些細なことを二人は知らなかった。だから、新鮮であり、かつ親友のような気持ちでいた。男も次第に饒舌になり、少女も笑顔が耐えない。目の前に人間がいる感覚を忘れていた男は、非常に心地の良い気分になっていた。忘れていたのだ。だけど、すぐにまた失ってしまう。男はまた失ってもいいと思えていた。なぜなら、男はすでに自分の人生を諦めていたからだ。


 何者かに必要とされた事実だけで、これからの人生を生きていけるような気がしていた。



「なあ、奥さんどうだった?」


 昨日と同じ飲み屋で、Bは男に聞いた。今日は互いにウイスキーを飲んでいる。


「いい女だったよ」


 少女の顔を思い出して、今頃なにをしてるのだろうか、と考えた。明日にはこの世から消え去ってるであろう小さな命を想った。


「リアルでは付き合わないのか?」

「うん。こっちでだけ」

「不思議だな」

「だろ? でもいいんだ。俺とあいつはそれが一番だから」


 男は大口を開けて泣きながら笑った。 


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