02
談話室には、斎藤が一人、テレビを前にぼんやりと座っていた。
玄関が開く音に、はっとして立ち上がる。
「お疲れ様です。麦茶、冷えてますよ」
見ると、ソファの上に結露に覆われたガラス瓶が置かれている。
「本当に、お気を遣われないでください」
苦笑して、咲耶はソファの一つに座る。紫月も静かに隣に腰かけた。
斎藤は、ガラス瓶の底を拭き、来客用というよりはやや容積の大きなグラスに麦茶を注ぐ。労働後だということを考えてくれたのだろう。
「夏木さんはどうされました?」
幼い少年の姿が見えないことを不審に思い、紫月が問いかける。夕食は共に、と請われて同席したのだが。
「自室へ戻りました。もう遅いですし」
時刻は午後九時に近い。大人びてはいるが、就寝時間は年相応に早いのか、と、心の内で少し和む。
「それで、その、どんな具合ですか……?」
続けておずおずと尋ねてくるのに、咲耶はしっかりした口調で答えた。
「今日、この屋敷にいた死霊は、全て除霊が終わりました。今の時点では、一体たりとも存在しませんよ」
青年は、明らかに安堵した顔になる。
「ああ、よかった……! 流石はプロの方ですね。凄腕だと伺ったのは本当でした」
「ですが、まだ、どうしてここにあれだけの死霊がいたのかは判っていません。このままずっと、出現しないままだとも限らない。原因があるなら、それを何とかしなくては」
しかし、厳しい顔で続けられて、斎藤は少しばかり怯む。
「お二人がこちらに来られたのは、一週間前でしたか」
「はい。夏木を空港まで迎えに行き、そのままこちらへ参りました。着いたのは午後四時頃で、その時は特に何も判らなかったのですが、陽が沈んでしまうと、あんな状態で」
ぶる、と小さく身を震わせる。
「夏木は気にした様子もなかったのですが、お恥ずかしいことに、私が三日ほどで倒れてしまいまして……。それで、本社に連絡して、貴方がたを紹介して頂いたのです」
「夏木さんは、大丈夫だったんですか?」
少しばかり驚いて、紫月が尋ねた。
まあ、あの落ち着き払った様子を見れば、納得できなくもないが。
「はい。幽霊など、何もできないのだから気にすることはないと」
幽霊全体の概念としては、決して何もできないものではないのだが。しかし、結果的には、そういう霊しかここには集まっていなかった。
咲耶が僅かに眉を寄せる。
「凄いですね。お若いのに……」
幼い、とは流石に口にしにくくて、紫月はそう返した。
「夏木は神童と呼ばれていたほどですから。正直、普通の人間とは感性が違うのだと思います」
「神童、ですか」
しかし、五歳の時にアメリカ留学までするような子供のことなど、今まで全く耳にしたことはない。
その疑問に、あっさりと斎藤は答える。
「夏木は、夏木ホールディングスの創始者の直系です。評判を広めるも広めないも、彼らの意思でどうとでもなるものです。そもそも、一般に知られることへのメリットもありませんから」
確かに、国民全般に対する情報統制は簡単だろう。政財界への抑えは、むしろ必要ない。知られていた方が都合がいいとも言える。
だが、斎藤は知らないことだろうが、実は咲耶はそちら方面の情報を手に入れやすい。三年前、というなら尚更だ。
それでも、夏木太一郎、という存在については、彼は一切聞いたことはなかった。
咲耶は、ただ、静かに斎藤と紫月の会話を聞いている。
未だプロらしくはない紫月の言動は、容易に相手の警戒心を解く。
誇らしげな表情で、斎藤は太一郎の話を続けていた。
命令一つでこんな場所へ送りこまれて、いつ逃げ出しても不思議はない状況だ。だが、彼は、未だにここへ留まり、仕事を遂行し続けている。
それを忠義心と判断するには、斎藤は若すぎる。
……全く、どうにもすっきりしない。
夜が更けていく。
斎藤はあれからしばらく談笑してから、流石に疲れた、と部屋に引き取っていった。
拝み屋二人は、今日は寝ずの番だ。
咲耶は状況がそれを必要とすれば、四、五日ぐらいは不眠を保てる。紫月にそこまで期待はしていないが、一晩ぐらいは大丈夫だろう。そもそも彼には人間離れした身体能力がある。やってみたら結構余裕かもしれなかった。
テレビは消し、照明も落としている。大きくとられた窓からの月明かりのみで、二人は談話室に座っていた。
会話はない。ただ、この薄闇の中で、自己とそれ以外との境界をなくし、意識を広げていく。
静かだ。
鳩時計が、午前零時を告げた。
瞬間、空気が引き攣り、ひび割れ、凍りついた!
凍えた指先を握りこんで、立ち上がる。
暗がりの室内には、ぼんやりと白く浮かび、揺らめくものたちがいた。
しかも、それは夕方にいた霊たちよりも、かなり濃い密度だ。
数が多いのか。
ほんの一瞬で、これほどの数が出現したことに、驚愕する。
「……くそ!」
小さく毒づいて、周囲を見回す。
「やっぱり簡単にはいかないな」
指示を待つように、紫月は咲耶を見つめていた。
二階は静かだ。二人とも眠っているのだろう。
「とりあえずは、朝までに全部を祓ってしまえばいい。まだ四、五時間ある。俺が二階を片づけるから、お前は一階の、奥の方からやっていってくれ。もしも何かあったら、すぐに呼べよ」
「一人で大丈夫なのか?」
おそらく、談話室のこの大空間もまた咲耶に任せることになる。なら、個室が多い二階は自分がした方がいいか、と思ったのだが。
「今、依頼人を起こすのは忍びないからな。巻きこんで一気に片づけてくるさ」
軽く言って、黒髪の少年は階段へと向かった。得心して、紫月も死霊を掻き分けながら厨房へと歩き出す。
斎藤は着替えを済ませ、静かに部屋を出た。階段に通じる廊下から、下階を覗きこむ。二人の少年はソファに座り、顔を寄せ合って小声で話し合っていた。
「おはようございます」
長い黒髪の少年が顔を上げ、挨拶してくる。隣の少年も、それに続いた。
「おはようございます。結局徹夜だったんですか?」
階段を降りながら、言葉を返した。
「おかげさまで、私は久しぶりにぐっすり眠れましたよ。ありがとうございます」
感謝の言葉を投げかけるが、しかし、二人の拝み屋は微妙な顔になった。
「……どうかしましたか?」
「また、出た?」
眉を寄せ、太一郎が呟く。
食事室の大テーブルでの朝食が終わった直後だ。食後のコーヒーを配った斎藤が席につくのを見計らって、咲耶は口を開いていた。
「はい。昨夜、午前零時を回った辺りに」
一通りの報告を、太一郎と斎藤は黙って聞いていた。二人とも、やや難しい顔をしている。
最後に、咲耶は一枚の袱紗を取り出す。開いた中には、焼け焦げた紙片が納められていた。
「念のために、事前に建物の角に貼っておいた呪符です。これが燃えているということは、外部からの干渉によって、ダメージを受けています。おそらく、こちらの建物内に死霊が出現するのは、何らかの外的要因によるものであったのではないか、と推測できます」
十数秒、沈黙が満ちた。
太一郎は、まっすぐに咲耶を見つめた。
「どうして、その時にすぐ我々に知らせなかったのですか?」
その、生真面目な表情に、咲耶がきょとん、と瞬く。
「それは……、深夜でしたし、お二人ともお疲れだろうと」
「この件は、こちらが依頼したことです。状況が変わったら、いつであろうと知らせて頂きたい。実際、夜間にまた幽霊が出て、朝までに除霊しておきました、と言われても、僕たちにとっては、屋敷の中は昨夜の時点と全く変わっていない。本当に幽霊が出てきたのか、貴方の言葉以外に何も証拠はないのですよ」
子供らしからぬ、静かに連なる言葉を聞くうちに、咲耶の表情も変化する。
「……俺が、虚偽の報告をしていると?」
僅かに苛立ちが混じった声で問いかけた。
それに、太一郎はひらりと片手を振る。
「決めつけている訳ではありません。昨日の夕方に行って頂いた除霊は、充分賞賛に値するものでした。ですが、その時には僕の部屋へ入って除霊をされていたのに、深夜には部屋に入られませんでしたね?」
「必ずしも、同じ部屋の中にいなくては、除霊ができない訳ではありません。俺は、プロです。手段は幾つもある」
淡々と告げる太一郎に、硬い声で返す。
「一つ疑念がある状況では、他の全てを疑ってしまうというものですよ。守島さん」
その仄めかしに、少年はぐしゃ、と、手を置いていた袱紗を握りこんだ。灰が、ふわり、と周囲に散る。
「……判りました。今夜、また、死霊が出没したら、その時は遠慮なく叩き起こさせて頂きますよ」
「それには及びません。零時ぐらいなら、僕もまだ起きていられますから。一緒に待たせて貰いましょう」
澄まし顔で、太一郎は応える。
はらはらと二人の応酬を見守る斎藤が、何やら助けを求めるような視線を向けてくるが、紫月はただ小さく肩を竦めた。
「甘く見た」
割り当てられた部屋に入り、扉を閉めたところで、苦々しく咲耶は漏らした。
「何をだ?」
扉を背に立ったまま、紫月が問いかける。廊下に人の気配があればすぐに判る場所だ。それに、今、ベッドに腰を下ろしたら睡魔の誘惑を受けそうだった。まだ眠気に負けるほどではないが、無駄な葛藤は避けたい。
一方、そんなことは気にもしてないように、無造作にベッドにどすん、と腰かけると、咲耶は膝の上に頬杖をついた。
「夏木さんだよ。何だかんだで、まだ若いから、情をかけちまった。あっちはしっかりビジネスとして扱ってるってのに。これからはがっちり行くぞ。二度と子供扱いなんぞしねぇ」
「君も大概大人げないな……」
呆れて小さく呟いた。
それを、咲耶がまっすぐに見上げてくる。
「紫月。お前、ここに筆記用具とか持ってきたか?」
「え? うん」
そんな余裕などないとは思っていたが、念のために参考書とノートを持参していた。
「よし。取って来い。ちょっと出るぞ」
※ 第一章03に、屋敷の見取り図を追加いたしました。