01
扉の前で、一呼吸置く。
軽く扉を叩き、声をかけた。
「咲耶?」
「おぅ」
咲耶は奥のベッドに座っていた。考えこむような視線を向けてくる。
「終わったか」
紫月に割り当てられた部屋の除霊を終わらせてから、ここへ来たのだ。静かに頷く。
「どうも、色々判らないことが多すぎるよな。後で庭も巡回するか」
座れよ、と、向かい側のベッドを示す。
無言で、紫月はそれに従った。
「で。先刻のは、ありゃ何だ?」
単刀直入に問われる。
「……別に、何も」
「何も? つまり、お前は、何もない状態で卒倒しちまうような実力しかないんだな? しかもそれを依頼人に把握されているんだぞ」
露骨な表現に、流石に紫月もむっとする。
「咲耶。僕は」
だが、言葉はそのまま途切れた。不審そうに、咲耶が睨めつける。
「言いたいことがあるなら、言ってしまえよ」
咲耶の言葉は、公正で厳格だ。
小さく、吐息を漏らす。
「……食事室に、おかしな、霊がいたんだ。いや、霊としてはおかしくないのかもしれないけど、ここで見たものとは違ってて」
言葉は未だ纏まらない。紫月としては、珍しいことだった。
「女の人だった。僕たちよりもちょっと歳上の。明らかに僕のことを認識して、近づいてきて。……その身体が、どんどん切り裂かれていったんだ」
咲耶が僅かに眉を寄せる。
確かに、この屋敷に出現した死霊の中では、異質なものだ。とはいえ、その程度で卒倒するなど、素人もいいところである。
だが、口は挟まない。説明し始めていることを、評価しているのだ。
ああ、全く、彼は正しい。
「血が溢れ出て、無残に刻まれた手を差し延べてきて。……あれは」
膝の上で組み合わせた手を、強く握った。視線を落とし、靴の爪先を睨みつける。食いしばりそうになる歯を、無理矢理引き剥がした。
「あれは、僕の母親だ」
「母親? お前の?」
流石に驚いたのか、目を見開き、繰り返す。
紫月は沈痛な表情で頷いた。
「僕は、母親のことを覚えていない。だから、あの人が本当に僕の母親なのかどうか、証拠はない」
紫月は、幼い頃に母親と死別している。
後々推測された、おそらくはとてつもなく凄惨な事態に、彼はそれから数ヶ月後までの記憶を失っていた。
紫月が咲耶と出会った一ヶ月前に、断片的に思い出してはいるが、それだけだ。
「ただ、判ったんだ。あの手で、僕に触ってきた時に」
「触られた?」
今度は訝しげに、咲耶は問いかける。
何が不思議なのかが判らず、内心首を傾げつつ、紫月はあっさりと返す。
「ああ。触られた……と、思う。頬に、冷たさと、ぬるりとした血の感触があった」
思わず、指先で頬に触れる。勿論、そこに血の痕などはない。
低い唸り声を漏らして、咲耶は胸の前で腕を組んだ。
「その後すぐ、意識がなくなったんだろう。気がついたら、君に殴られてた」
やや非難するような口調になるが、咲耶は気が咎めた素振りもない。
紫月は、肉体的外傷を受けても短時間で治癒してしまう体質だ。あの程度、痛みを覚えていたのは数分もなかった。
勿論、咲耶から日常的に無闇やたらと暴力を振るわれている訳ではない。先ほどのものだって、必要だったからだ、ということは判っている。
だが、もう少し、常識的なレベルで遠慮して欲しいのが、紫月の本音だ。
「その、母親だと思った死霊を、お前は祓ったのか?」
更に問われた言葉に、少しばかり怯みながらも、記憶を攫う。
「いや。正直、そこまで覚えていないんだ。触られてすぐ、気を失ったらしい。君が来た時に、誰かいたか?」
「斎藤さんぐらいだよ」
肩を竦めて、少し茶化す。
僅かに笑みを浮かべた紫月を確認して、再び質問を投げた。
「その霊が、本当にお前の母親だったと仮定しよう。どうして、ここへやってくる? 確か、彼女が亡くなったのは、ここからかなり離れた土地だっただろう」
それには、紫月は首を振る。彼は、今まで母親のことを知ろうとしてこなかった。
彼女と親しかった筈の養父は、殆ど何も話してくれなかったのだ。
そもそも、紫月にとって、今までの人生における優先順位としては、母親の存在はさほど高くなかった。
「ああ、くそ。なんだこれ。しっくりこねぇ」
しかめ面で、咲耶がぶつぶつと零している。
「咲耶?」
不審に思い、声をかける。
「お前、今日祓った、母親以外の霊をどう思った」
が、すぐに訊き返された。
「呆気ない、かな。僕は今まで除霊なんてやったことなかったし、もう少し手こずるかと思っていたんだけど」
恐怖心はない。彼は、もっと無残でもっと凄惨でもっと醜悪なものは山ほど見てきている。
咲耶は、その答えに満足げに頷いた。
「それだ。幽霊、って奴は、この世に留まる立場ってのがざっくりと幾つかに分けられる。まず、単純に、自分が死んだってことが判っていない霊だ。さほどの未練もなくて、ふらふらしてる間に自我が少しずつ消えていく。ただ、そこにいるだけの霊だな。ここの屋敷にいるのは、そういう奴らだ。他には、未練がはっきり残っている霊とか、未練どころかこの世に怒りを残してる霊がある。そういうのは厄介だ。祟るからな」
まあ、今回はそれはいい、と、興味深そうに聞く紫月をあしらった。
「だが、それにしても、数が多い。あんな浮遊霊、通常、そうそう見るもんじゃない。大抵はすぐにどこかに行っちまうし、消えるまでの期間も割と短いからな。どうしてこの屋敷に、あれだけの数の、しかも見えるほどに濃い奴らが密集してるのか、が一つの疑問だ」
「一つの?」
幾つもあるのか、と、紫月は問い返した。
「お前の母親だよ。未練はあるだろう。怒りもあるかもしれない。だが、霊ってのは、大方が死んだ場所からあまり離れない。少なくとも、県を幾つも跨ぐような距離は動かない。それでも、移動するだけの理由があれば別だ。母親が、お前に未練を残してついてくる、というのは確かにあり得る話だよ。だけど、先月お前に会ってから今日まで、俺はお前にそういう存在があることを知覚できなかった」
「……君がそう言うんだったら、そうなんだろうね」
力なく、呟く。
「一体何で、今、ここにいるんだ? 何かきっかけがあるんだろう。時期なり、場所なり。それがはっきりしねぇのが気にいらねぇ」
そういう状況には慣れているが、好んで陥りたい訳でもない。
「あれは、僕の母親じゃないかもしれないけどね」
自信がなくなって、そう言ってみる。
「最初に見たときにお前が母親だと思ったなら、可能性は高いだろ。否定するな。出てこなくなるぞ」
咎めるように、陰陽師の少年は返してきた。
「出てきた方がいいのか?」
「俺が遭遇したら、何か判るかもしれないしな。今度見たら、すぐに俺を呼べよ」
その言葉に、ほんの少し、怯む。
「……君は」
言葉を続けたくない。咲耶の答えを、聞きたくはない。
だけど、促すような視線を、裏切れない。
「君は、彼女が出現したら、祓うつもりでいるのか?」
答えは、予測できていた。
彼はいつだって、正しいのだから。
咲耶がひょい、と肩を竦める。
「判らねぇよ。その時にならないとな」
きょとん、とした顔で見返してくる紫月に、不敵に笑む。
「またコツを教えてやるよ。現場じゃ、臨機応変に対処するのが一番なんだ」
「……そういえば、先月も君はかなり行き当たりばったりだったな……」
得心したような呟きに、少年は露骨に視線を逸らせた。
庭園は暗かった。
人工の灯りは、屋敷の窓から漏れ出てくるものだけだ。夜空には月は出ているが、雲が薄くかかっている。
周囲の建物や門扉の灯りは、さほど多くない。避暑というには時期が終わりかけているのか。
「さっぱりだな」
確認するまでもない、というように、咲耶は呟く。
先ほど屋敷の中で、最後の一体を祓ったところで、彼は死霊の臭いを全く感じなくなっていたのだ。
玄関から出た二人は、右手へと向かう。
建物の南西角に立つと、咲耶はジャケットの内ポケットから、一枚の呪符を取り出した。
「それは?」
「念のためだ。見栄えはよくないかもしれないが、上手くいけば一晩だけだから我慢して貰おう」
紫月の質問に、説明にならない言葉を発する。わざとだ。
咲耶はそれを、外壁に慎重に貼りつける。
そのまま、なんとなく西側の庭へと足を向けた。
背の低い潅木が、建物から一メートル半ほど離れて奥へと続いている。
その更に西側は車庫だ。軽量鉄骨で造られている。四台は停められそうな広さだが、一番手前に斎藤が運転していた車があるだけだった。
潅木の建物側は、一番奥、おそらく厨房からの裏口の辺りでネットフェンスで区切られていた。歩いて行ってみたが、フェンスの向こう側には整然と刈りこまれた木々が伺える。
一旦玄関に戻り、東の庭へと進む。
こちらはかなりの広さだ。テラコッタが敷かれた遊歩道が、柔らかな曲線を描いて奥に向かっている。薔薇の茂みや、背の高い木が点在していた。東屋などもある。
屋敷の北側に回りこんでも、似たようなものだ。一番奥は、ネットフェンスで仕切られた車庫の横に出た。
敷地の境界は、道路側は低いコンクリートブロックの上に鉄の棒を組み合わせた柵で仕切られている。その他の隣地との境界線は、二メートル程度の高さの板塀で囲われていた。
「なるほど」
軽く呟いて、戻るか、と紫月を促す。
玄関へと向かう途中、建物の北東の角に、咲耶はもう一枚、呪符を貼りつけた。