04
斎藤の部屋に入って、紫月は僅かに目を見開いた。
部屋の広さは、図面にあった通り、他の客室と同じだ。しかしベッドは一つになっている。その空いた空間に、小ぶりの食器棚、冷蔵庫、テーブルが置かれている。テーブルの上には電気ポットなどが整然と並んでいた。
「夏木が、自室にいるときに飲み物を欲しがりますので」
少しばかり困ったように笑んで、斎藤が説明する。
なるほど、先ほど太一郎と会った時に、やけに早くコーヒーが供されたのはこのためか。
「弥栄さんたちも、二階にいらっしゃる時に何か欲しければ、お申しつけください」
にこやかに申し出られるが、流石にそれに甘える訳にはいかない。
曖昧に流して、紫月は一歩部屋の中に踏みこんだ。
西に面した窓からは、夕暮れ時の光が差しこんできている。
視界の隅、濃さを増していく薄闇の中で、ふわりと何かが揺れる。
びく、と、斎藤が身体を強張らせた。
紫月は、右手を胸の前まで上げた。握り締めていた掌をそっと開く。
現れたのは、銀の十字架だった。頂部から続く、小さな丸い水晶が数珠繋ぎになった輪を、手首に数回巻いている。
弥栄紫月は、西洋魔術師だ。術理論が拠って立つところこそキリスト教ではあるが、しかし、それに対決するものでもある。
西洋魔術で、死霊を祓う、という術はなくもない。だが、実際のところは威力が低い。
このロザリオは、高校の入学祝に、世話になっていた教団の教主が贈ってくれたものだ。彼は、紫月が西洋魔術を扱う身であることを知らない。だが、実は使い魔を持つ立場でそうそう聖別された品を幾つも手にする訳にもいかず、普段は封印してしまっておいたのだ。
しかし、今回はこれが役に立つ。
小さく唇を開く。
「……私は、彼らを陰府の力より贖うことがあろうか。彼らを、死より贖うことがあろうか……」
口にしたのは、聖句の一節だ。
普段、攻撃的な意図で魔術を使う場合は、呪を他者に聞こえないように唱える、というのが咲耶の流儀で、彼は、紫月にもそれを勧めていた。
しかし今回は、死霊を祓うために、彼らに聞こえるように唱えなくてはならない。
斎藤がやや不安そうな顔で控えている。
自分の祈りが、自信に満ちて聞こえればいいが、と、紫月はふと思った。
「では失礼します」
一言声をかけて、扉を閉める。
そのまま、咲耶は廊下に立って少々考えこんだ。
夏木太一郎の私室は、質素の一言だった。
勿論、上質で品のいい家具が揃っている。贅沢と言ってもいいものだろう。
だが、人の生活する上での最低限のものしかない。
テレビがないことは、まあ、談話室とやらに大型液晶テレビが鎮座していたから、そこで見ればいいのかもしれない。だが、パソコンやゲーム機器といった、娯楽に関するものが、太一郎の私室からはすっぽりと抜けていた。
とはいえ、咲耶の自宅にはテレビすらない。彼が、年相応の子供の娯楽、というものに詳しいわけもなかった。
それに、太一郎は控えめに言っても、普通の子供とは違うのだろう。
紫月の言葉にひっかかりすぎているか、と自重する。今優先すべきはそこではない。
踵を返し、数歩進んだところで、背後の扉が開いた。
「咲耶」
斎藤の私室から、その部屋の主と紫月が姿を見せる。
「終わったか?」
「ああ」
頷いて、咲耶は足を進めた。
「よし。他の客室は後回しだ。まず、一階の水回りから潰していこう。お前は厨房と風呂場回り、どっちがいい?」
「違いがあるのか?」
純粋な疑問、という風に、紫月は尋ねてきた。
「やっぱり、水回りとかって幽霊が寄って来やすいんですか?」
斎藤が、横から興味深げに問いかける。紫月と何があったのか、初対面の時よりはやや気安い口調だ。
その方がこちらもありがたい。咲耶は、軽く視線を向ける。
「家の中に出る以上、どこでも一緒だと思いますよ。ただ、風呂に入っている間に、変なものと顔を合わせたくはないでしょう?」
目の前をふわふわと横切る薄白いものを、片手で払い除ける。斎藤は僅かに怯んだようだった。
「まあ、俺が風呂場と談話室をやるよ。紫月、お前は厨房から食事室にかけて頼む」
部屋ごとに担当を分けているのは、単純に彼ら二人の扱う術の種類が違うからだ。このような除霊の場合、空間全体に呪を行き渡らせなくてはならないのに、二人が一緒に行っては術が混じってしまう。
相棒が真面目な表情で頷くのを確認して、咲耶は軽く階段を下りた。
厨房は、全面的に改装されていた。システムキッチンは、そこそこ新しいものだ。
大人数の調理をすることもあったのだろう。一般家庭の設備よりはやや広い。
だが、今はここを使うのは、太一郎と斎藤の二人だけのためである。
ややしんみりしつつも、紫月は再びロザリオを掲げた。
少年が聖句を唱え始めると、闇を濃くしつつある室内にふわふわと漂っていた白い影が揺れ始める。
そのうちに、周囲の闇に溶け出してしまうように、すぅ、と姿が消えていくのだ。
死霊の生前の姿がはっきりして見えるのは、ほぼ半分。その中でも、やはり、外国人の容貌を持つ霊には聖句の効果は高いようだ。
尤も、日本人でも信仰は様々なのだし、一概には言えないが。
ゆっくりと室内を何周か歩いて、ようやく最後の一体が消える。
「……かくあれかし」
最後に一言唱え、紫月は周囲を見回した。隠れているものはいないようだ。
「こちらはもう大丈夫ですよ」
戸口に遠慮がちに立っていた斎藤に声をかける。明らかにほっとして、斎藤は厨房へ足を踏み入れた。
「ありがとうございます」
「いえ、お待たせしました。では、次は食事室の方に行ってきますね」
もう夜の七時を過ぎている。斎藤は夕食の準備に取り掛からなくてはならなかった。今日は事情が事情なだけに、遅れても太一郎も怒りはしないと思うのだが、この青年は気を逸らせているようだ。
家庭的な音を立て始めた厨房との間の扉を閉める。
この部屋も、広い。
部屋の中央に、長い木製のテーブルを配し、その左右に椅子が置かれている。全部で十脚。
扉は二つ。厨房に通じるものと、談話室に通じるものと。
庭に向かって大きな窓が取られているが、外はもう殆ど陽が落ちている。東向きでもあり、庭は殆ど真っ暗だ。
敢えて、照明は点けていない。視認できるのならば、暗い方が見つけやすい。
しかし、くっきりと見える死霊の数に、流石にうんざりしかけてくる。
気を取り直して、ロザリオを握り、聖句を口にする。
彼が気を緩めていた訳ではない。慢心というのは、紫月の性格上あまりないことだった。彼は常に生真面目に物事に臨んでいた。この時も、確かに。
揺らめき、暗闇に溶けるように消えていく儚い霊たちを注意深く見つめていた紫月は、ある一点に目を止めた。
それは、かなりはっきりと見える部類の死霊だった。
二十歳を幾らか過ぎたほどの年齢の女性。長い髪がふわふわと揺れている。あまり着飾っている風ではない。
聖句が途切れる。
彼女が、ゆっくりと近づいてくる。
目を離せない。
両手を、こちらへ差し延べて。
息が詰まる。
悲しげな瞳は、ただじっとこちらを見つめてきて。
耳の後ろが、ざわり、とした感覚と共に冷える。
彼女は。
空間が大きいということは、単純にそこに詰めこめる分量も多くなる、ということだ。
うんざりと、暗い談話室の中央に立って、咲耶は天井を見上げた。
吹き抜けによる二階分の容積は、数多くの死霊を内包している。
まあ、数こそ多いものの、彼らは実に素直に除霊されていっている。怒れる霊という部類は全くいなかった。
考えることは後にして、陰陽師は口を開く。
順調に、粗方の死霊が消えていったところで。
壁の向こう側から、何かが倒れる音がした。
「紫月?」
「弥栄さん?」
二つの扉を、咲耶と斎藤が同時に開く。
二人の視線の先で、椅子が幾つか倒れ、その間に紫月が横たわっていた。
近寄ろうとする斎藤を、片手で制止する。
慎重に近づき、傍らに膝をついた。
呼吸はしっかりしている。顔色は少々悪いが。
咲耶は軽く拳を握ると、ためらいもせずにそれを少年の鳩尾に叩きこんだ。
「……ッ!」
一瞬で、紫月の目が開く。
「報告は?」
短く、咲耶が告げた。反射的に溢れ出そうだった罵詈雑言を押し留め、紫月は周囲を探る。
「……除霊は、終わった。取りこぼしはない」
「よし。気分はどうだ」
「ある意味、中身を全部吐き出しそうだよ」
上体を起こしながら、やや目を眇めて呟く。
「大丈夫ですか、弥栄さん。頭を打っていたりとかは?」
心配そうに、斎藤が声をかけてきた。
「お騒がせして、申し訳ありません。こいつは頑丈なのが取り得ですから、大丈夫ですよ」
にこやかに咲耶が答える。問いかけるような視線を向けられて、弱い笑みを浮かべて頷いた。
まあ、確かに先ほど受けたダメージはもう殆ど消えてしまっている。だからと言って、一切手加減なしというのは勘弁して欲しいところではあるが。
「じゃあ、仕上げをしてくれ。それが終わったら二階に戻ろう」
咲耶が腰を上げる。ちらりと、意味ありげな視線を向けてきた。