03
扉を開いた先は、応接室のようだった。
暖色で纏められたゴブラン織りのソファは歴史を感じさせつつも、布地が擦り切れた箇所は全く見当たらない。木製部分はライトブラウンで、窓から入る淡い光に照らされていた。ソファと卓を収める程度の広さの絨毯は、赤を基調にしたペルシャ絨毯だ。壁には飾り棚があり、陶製の小さな置物が幾つか並べられている。
そして、手にした本を卓に置き、こちらを向いて立ち上がり、手を差し延べた人間が、一人。
「遠いところをよくおいでくださいました。夏木太一郎です」
唖然としてしまったのは、紫月だけではない。
来客が二人とも一切反応を見せないことに小さく首を傾げ、夏木太一郎は視線を戸口に立つ社員へと向けた。
「斎藤。やはり、僕の日本語は少々錆びついているんじゃないか?」
「いいえ、太一郎様。申し分ありません」
ぴしり、と背筋を伸ばし、斎藤が答える。
「しかしビジネス敬語とやらには、流石に慣れていないからな……」
呟いた辺りで、ようやく咲耶が気を取り直す。
「失礼しました。守島です。こちらは弥栄」
差し延べられた手を握ると、ほっとした表情で握り返してきた。
その手は、ただ小さい。
失礼か、とは思いながらも、まじまじと相手を見つめる。
明るめの茶色の髪は短い。その肌は日に当たっていないように白かった。生真面目な表情は、実に自然だ。避暑地にふさわしく、飾り気のないTシャツに半ズボン。素足にスニーカーを履いている。
彼の身長は、咲耶の腰ほどまでしかない。
どうぞ、と促されて、ソファに座る。
「ええと……。アメリカの大学に留学されていた、とお伺いしましたが」
珍しく、咲耶が会話の糸口に迷う。
「はい。先週戻って参りました。向こうに渡ったのは三年前です。その頃は五歳でしたか」
懐かしげな笑みを浮かべる少年は、この状況に何一つ動じていない。
「話は斎藤からお聞きになられましたか」
するりと本題に入る。咲耶は難しい顔で頷いた。
「はい。随分と酷い状況ですね。理由はご存知ではないとのことでしたが」
「ええ。伯父も、これを知っていてこの家を僕にあてがってきたのだとは思いたくはありませんが」
薄い笑みを浮かべて答える少年は、妙に大人びている。
「太一郎様」
たしなめるような声がかけられた。
いつの間にか、斎藤が三客のコーヒーカップを乗せた盆を手にして立っていた。静かに卓の上に並べ、小脇に抱えたクリアファイルを太一郎の前に置く。そして、主の背後に静かに立った。
「条件に関して、交渉されますか?」
小さな手が、慣れたように書類を捲る。
先だって、ホテルで会った時に、斎藤から一通りの説明は受けている。契約書も見せられていた。成功報酬の他に、滞在中の一日毎の報酬や衣食住の対処、経費の精算等についても明記されている。その金額は充分すぎるほどだった。
むしろ、そのことに不審すら覚えていたりもしたが。
しかし、この屋敷に着いたことで、その疑念も消滅している。
この、凄まじい数の死霊の存在を感じた以上は。
ずっと、背中に重苦しい圧迫感がある。咲耶や紫月ほどではないが、気配に敏感な人間ならば、見えていなくても充分感じ取れるだろう。
「いいえ、何も」
「では、サインしてしまいましょう。流石に、早く片づけてしまいたいので」
「同感です」
この状況の中に長くいる、というのは、咲耶としてもあまり落ち着かない。
太一郎は慣れた手つきで、万年筆で自分の名前を書いていく。そして書き終えたものを咲耶へ向けた。
若き拝み屋がサインをしている間に、ソファの横に置いてあった紙の筒を取り上げる。
「こちらが、この屋敷の図面です。今までに幾度か改装などはしているようですが、部屋数を変えたりはしていませんからまだ使えると思いますよ」
ひょい、とこちらへ向けてくる。手の空いている紫月がそれを受け取った。
こと、と咲耶は万年筆を置く。
「今はまだ太陽が出ていますから、さほどのことはありません。もう一、二時間もすれば夕暮れです。そのあとは、かなりの数の幽霊が見えるようになります。今、この屋敷にいるのは我々のみです。この後、斎藤に家の中を案内させましょう。できるなら、まずは個人の部屋を優先してください。続いての手順はそちらにお任せします。何かありましたら、僕でも斎藤でもいつでも呼んで頂いて結構です」
他に何か、と問われ、咲耶は首を振る。
「よろしくお願いします」
礼儀正しく頭を下げると、太一郎は小さく吐息をついてコーヒーカップを手に取った。
部屋を出たところで、斎藤は足を止めた。
「今の応接室の隣に、主寝室があります。私が寝泊りしているのはこちらの部屋で」
立っている傍、左側の扉を示す。
「お二人は階段に近い二部屋をお使いください」
左右に、二つずつ扉が並んでいる。客間が四部屋あるのだろう。
「今、お荷物をお持ちしますから。お部屋でお待ち頂けますか」
「それぐらい、俺たちが取ってきますよ」
ここはホテルではないし、二人は客ではない。何もかも斎藤に任せるのは申し訳なくて、そう告げる。
「ではお願いします。車を車庫に入れておきたいので」
にこやかに笑んで、斎藤は先に立って歩き出す。
玄関前で、車のトランクから小さな鞄を二つ取りだした。
「戻りましたら、お部屋に参りますね」
そう告げて、車を発進させる。屋敷の左側の庭へと向かっていった。
顔を見合わせ、無言で二階に戻る。
とりあえず、右手の部屋の扉を開けた。
十畳程度の広さか。正面の壁には中央に窓が設けられていた。ベッドは二台。その間にはサイドテーブルがあり、ずんぐりとした品のいいランプが置かれていた。床にはベッドの間だけに敷物があるが、これは木綿の色鮮やかな布を細く切り、縦横に配置して織ったようなものだった。夏向けなのだろう。
他の家具は、箪笥とライティングデスク。家具はどれも年代物の木製だ。
「二人部屋なのに、二部屋使えってか」
「気を遣われてるのかな」
窓は閉められているが、室内の空気には埃っぽさなどはない。斎藤が準備をしてくれていたのだろう。
咲耶は片方のベッドの横に鞄を置き、腰を下ろした。快適ではあるが、ちょっと畳の部屋が恋しかったりもする。
「とりあえず、最初は夏木さんと斎藤さんの部屋だよな。俺が夏木さんの方をやろう。どうも、この屋敷はただごとじゃない。一晩、気は抜けないぞ」
彼は最初に話を聞いてから、殆どずっと難しい顔を崩していない。
「ああ。……咲耶」
「ん?」
声をかけてはみたものの、少し躊躇う。咲耶は真っ直ぐに、扉を入ったところに立つ相棒を見上げた。
「気になることがあるんなら、早めに言え。わだかまりはさっさと解決するのが一番いい」
「それほどのことでもないんだけど。……夏木、さんの、年齢を、君は知っていたのか?」
「ああ、それか。知っている訳ないだろ。大学に留学してたって言ってたから、若くても二十歳そこそこだと思ってたさ」
「うん。僕もそうだ。だから、最初に話を聞いた時には、不思議には思わなかったんだけど……」
再度口ごもる。今度は促すことはなく、咲耶は続きを待った。
「……彼があれほど幼いなら、どうしてこんなところで家族と離れて一人で暮らしているんだ? もしも実の家族はいなかったにしても、専務の甥、ということなら、親族はいる筈だ。ここで、夏木さんと、仕事として来ている斎藤さんだけで生活するなんて、不自然だろう」
「それもそう……か。普通はそうなのかな」
なんとなく、腑に落ちないように咲耶は呟く。
「いや、普通って言われると、僕もそう普通に育った訳じゃないし、この考えが間違ってるかもしれないんだけど」
思わず弱気になって返す。だが、咲耶の反応は思っていたものとは違った。
「それを言うなら、俺の家だって普通じゃないさ」
「君の家?」
つい、繰り返す。そういえば、彼の家のことなど聞いたことがなかった。家出していると聞いていたから、尋ねたこともなかったのだ。僅かに好奇心を刺激される。しかし、軽く片手を振っていなされた。
「また今度な。とりあえず、夏木さんのことは覚えておこう。それより、図面を見ようぜ」
明らかに適当にごまかされる。まあ、ここには仕事で来ているのだ。小脇に抱えていた筒を、紫月は軽く捻って開いた。
図面は青焼きだった。紙の縁がよれているし、線の青い色がかなり薄れている。折れ目周辺は、灰色の紙が露出している。図面中央に書かれていた屋敷の内部はまだ判別できるが、その周囲の庭園であるだろう辺りは殆ど読み取れない。うっすらと、遊歩道の石組みや木々の配置が描かれているように見えた。とにかく、古い図面であることは間違いない。
屋敷は、玄関を南向きにして作られていた。入ってすぐの広間には談話室。その奥、北東側に食事室と書かれた部屋がある。北西側には厨房や浴室、便所などが配置されていた。
二階には、中央の廊下の左右に、二部屋ずつ。大きさはこの部屋と変わらないようだ。突き当たり、北側は廊下から続く部屋が応接室。先ほど、太一郎と会ったところだろう。その東側が主寝室。西側が書斎、と書かれていた。
「お待たせしました」
見入っていると、斎藤が礼儀正しいノックの後に入ってきた。
「こちらを拝見していました。改装されている、ということでしたが」
少年たちはベッドの上に図面を広げ、覗きこんでいた。咲耶の言葉に斎藤は頷く。
「改装、と言っても、屋根や壁を修理したり、内装でも壁紙を貼り換えたり程度だそうです。部屋の配置はこのままですよ」
「随分と古いお屋敷なんですね」
紫月が感心している。彼は何であっても、歴史あるものに惹かれるきらいがあった。
「ええ。確かこの辺に……ああ、ここです」
斎藤がすっと示した先に、日付があった。
「……昭和二十五年」
ずしん、と重いものを感じて、呟く。
「それでも戦後なんですね」
こちらは軽く、咲耶が口を開いた。
「そうですね。確か、戦後に売りにだされていた土地を買って、この家を建てた、と聞いています」