01
朝の日差しが、アスファルトの上に更に黒く街路樹の影を落としている。
九月に入ったというのに、気温は未だ夏のものだ。
横断歩道の手前で、弥栄紫月は足を止め、大きく息をついた。白い無地のTシャツにはじんわりと汗が滲んでいる。やや茶色がかった短い髪が、不快な湿気に包まれていた。すらりと伸びた手足は、十七という年齢の男子としては華奢とも言える。
足元に寄り添うように立つ、小さな茶色の仔犬が視線をじっと主へと向けていた。
ほんの数秒待った程度で、信号は青に変わった。くたびれた足を叱咤して、熱せられた街路を蹴る。
九階のフロアに到達して、少年は背を丸めた。こめかみから流れた汗が、顎からぽたぽたと落ちる。
この季節に、早朝とはいえ一時間以上のジョギングをして、九階まで階段を駆け登るのは流石に堪えた。
十数秒経って、ようやくのろのろと動き出す。共用廊下の突き当たりの扉に手をかけた。鍵を外す素振りも見せずに、それを開く。
玄関は大人二人が並んで立てそうなぐらいの幅がある。紫月がジョギングシューズを脱いでいる間に、子犬は素早く室内に上がりこんだ。
その身体は、みるみるうちに見上げるほどに大きくなる。そして、茶色だった毛色は、銀色の鎧とその合間から覗く藍色の肌へと変化した。
「お帰りなさいませ」
廊下を足早に奥へと進む銀の鎧が通り過ぎた辺りに、一人の老人が姿を現した。身長は三十センチほど。僅かにベージュがかった灰色のローブを纏い、フードを目深に被っている。
「ただいま、トゥキ」
紫月は全く動じることもなく、挨拶を返す。
「守島様よりご伝言を承っております。本日、午前中に所用が生じたために、朝食の準備はできないとの仰せでございました」
友人は、体力づくりのためと毎朝のジョギングを課してきたが、その労いなのか、帰宅した後にはいつも朝食を提供してくれていた。
しかし、元々食が細い上にこの暑さで、食欲はさほどない。一食ぐらい抜くか、と思いながら頷く。
そこに銀色の鎧の戦士が戻ってくる。両手にタオルと着替えを乗せた青年は、目元に僅かに険を滲ませて、二度ほど首を振って見せた。
苦笑して差し出されたものを受け取る。
「判ったよ、カルミア。軽く食べられるものを頼む」
そして、少年はそのまま横手の浴室へと足を向けた。
その背後で、トゥキ・ウルの姿が空気に溶けるように消える。
聖エイストロム教団の地下礼拝堂で、弥栄紫月の人生が決定的に変わってしまってから、一ヶ月近くが経っていた。
あの後、共に住居を焼け出されていた紫月と守島咲耶は、しばらくの間ホテル暮らしをしていた。
だが、勿論そんなことが長く続けられる訳もない。
咲耶が色々な伝手を辿り、見つけてきたのがこのマンションだった。
居室は、メゾネットタイプ。上下階の部屋がリビングの階段で繋がっている。各階の居室それぞれに、一通りの設備は設えられていた。主に二世帯住宅の用途として作られたものだ。
このような特殊な住居を選んだのは、端的に言えば、二人が互いの術を信用していなかったからである。
紫月は西洋魔術を使うし、咲耶は生粋の陰陽師である。二人は、自分が暮らす部屋の防御を、他の術に任せたくはなかったのだ。
咲耶に言わせれば、その思いは至極当然のことらしいのだが。
この家でも、階段室の防御をどちらに任せるかで少々揉めたが、上の階の床の高さで切り替えることで合意した。
譲れないところは出てくる。生まれてからの殆どの期間を、他人と共に暮らしていた紫月にはそれはよく判っていた。
それをさて置いても、紫月は咲耶に感謝している。
彼は、あの一件が解決した後で、紫月を放り出してもよかったのだ。
むしろそれが当然だっただろう。彼が、同年齢の少年の面倒を見る必要など、微塵もない。彼が一人で生活できている以上、紫月ができない訳もないのだ。
それなのに、彼は何くれと世話を焼いてくれている。……多少、スパルタなきらいはあったが。
シャワーを浴び、さっぱりした気分でダイニングに足を踏み入れる。
その間にカルミアは、トーストと目玉焼き、焼いたベーコン、簡単なサラダを用意していた。
咲耶は料理が得意ではあるが、どちらかと言えば和食派だった。ちょっと懐かしい気持ちで、紫月は椅子にかける。
カルミアとトゥキ・ウルは勿論人間ではない。悪魔である。
元々は、紫月の養父に召喚されたものたちだった。
カルミアは以前より紫月の護衛兼お目付け役としてつけられている。トゥキ・ウルは、養父が蒐集した資料庫の管理人であった。
ひと月前に養父は死亡し、紫月はその遺産を受け継いだ、という訳である。
紫月は、養父の生活能力が低かった分、それなりに家事はできる方だ。だが、料理に関してはずっと世話になっていた宗教施設の食堂で取っていたこともあり、あまり経験はない。
そして養父の支配を離れたカルミアは、何故かこの家での一切の家事を取り仕切るつもりであるようだった。
まあ、ありがたいことではあるので、主人は鷹揚にそれを任せている。
トーストを齧りながら、洋室の一つに詰めこんだ大量の書籍に思いを馳せる。
咲耶が午後まで戻ってこないのなら、それまで何か読んでいようか、と思いながら。
その頃、守島咲耶は行きつけの喫茶店でモーニングセットを前にしていた。
一人ではない。テーブルを挟んで座っているのは、一人の女性である。
咲耶の格好に変化はない。無地の白いTシャツに、デニム。スニーカー。黒い革のジャケットを羽織り、手には同じ素材の指なし手袋を嵌めている。長い艶やかな黒髪は、白い組紐で一つに結い上げられていた。
対する女性は、二十代後半ほどか。髪の色は、漆黒と言うよりはやや明るく染められ、短く整えられていた。縁なしの眼鏡は幅が細めだ。口紅は、暗めの赤。スーツは僅かに青みがかった明るいグレイ。白の細いストライプが入っていた。オフホワイトのブラウスは胸元が少し開いていて、鎖骨の窪みの辺りに小さなダイヤモンドのネックレスが光を放っている。
二人の間の空気は、少しばかりぴりぴりしていた。
「俺が信用できないって言うんですか。龍野さん」
ほんの僅か眉を寄せ、咲耶が問いかける。
食後のコーヒーを手にしていた女性はそれを受け皿に戻し、目の前の少年を真っ直ぐに見据えた。
「信用、というものには二種類あるわ。積み上げてきたものと、看板と。結局のところ、君に最初に仕事をお願いしたのだって、マスターの紹介と、君の出自があったからよ」
無言で、少年は最後の言葉を流す。
「君が由緒ある陰陽師の血筋を引いていて、子供の頃から修行を積んでいる。それで初めて、君を顧客に紹介できた。だけど、君の新しいパートナーを信用できるかどうか、というのはそれとは全く違う話になるわ」
彼女の言うことは、正論だ。しかし。
「あいつのことは、俺が全て責任を負います」
きっぱりと言い切った咲耶の言葉に、龍野はやや驚いたように目を見開いた。そして、柔らかく苦笑する。
「君は、今までずっと一人で仕事をしていたものね……。あのね」
しかし、すぐにその表情は厳しいものになった。
「他人を部下として使う以上、君が全ての責任を負うようになるのは当然よ。その上で、君たちには決して失敗は許されない。仕事とはそういうものだし、まして君が選んだ職種であるなら、尚更。君たちには、顧客の安全を確実に手に入れなくてはならない責務がある。人と一緒に仕事をする、というのは、そういうことなの。人を使うのなら、その覚悟を決めてからにしなさい」
諭すように言われて、唇を噛む。
家を飛び出して、二年。彼は、拝み屋としてようやく仕事が軌道に乗ってきたところだ。人を使えるほど思い上がれる立場ではない。
自分の実力には疑問を持ったことなどない。
だが、他人に対して、と問われると、絶対的な確信は持てずにいる。
黙りこんだ咲耶に、龍野は小さく肩を竦めた。
「まあ、本当はちょっと断りたいところなのだけどね。でも、相手がどうしても君に、と要望してくるものだから。九時を回ってから、もう一度その辺りをちゃんと説明してみるわ。それでもいい、って仰ったら、君に話が行きます。十時ぐらいまでなら、まだ、ここにいる?」
龍野は、咲耶が携帯電話の類を持っていないことを知っている。彼女は事あるごとにその悪癖を正そうとしていたが、しかし成功したことはない。
頷いた咲耶を前に、龍野はコーヒーを飲み干した。
「じゃあ、また後で。お急ぎだそうだから、今日中には最初の話が来るつもりでいて」
言い終わる前に、既に腰を浮かせている。
弁護士事務所に勤めている龍野は、朝が早い。急ぎ足で出て行く後姿を見送る。
長々と溜息をついて、咲耶は椅子にもたれかかった。
食器を下げにきたマスターが、宥めるような視線を向ける。
「揉め事なのかい?」
「そうじゃない。大丈夫だよ」
ある意味兄のような男に、咲耶は軽く返した。
話に上っていたのは、最近咲耶と一緒に行動し始めた少年のことだろう。何度か会ったこともあり、マスターも顔見知りと言っていい。
確か、彼は高校を退学してしまっていたが、高卒認定試験を受けて、来年に大学を受験するつもりだと聞いている。殊更、咲耶の仕事を手伝わせる理由はないように思えるが。
しかし、その疑問を口にすると、咲耶は溜息をついて答えた。
「そりゃ、あいつがただの学生だってんなら、俺もこんなやくざな仕事に引き入れようとかしないさ。幸い、しばらくは生活に苦労しないようだし。自分から始めたって、続くかどうか怪しい仕事なんだしな。……けど、あいつは、もう普通じゃないからなぁ」
弥栄紫月。彼は、咲耶と出会う以前から、既に西洋魔術にその指先を浸していた。
しかし、養父から盗み取ったその技は、養父自身が自己流で身につけた、というだけあって、かなり危なっかしい。
「既に手に入れていた力は、自然に消えることなんてない。あいつも、手放す気はさらさらないって言うしな。結局、衝動で世界を滅亡させないために、制御することを覚えないといけないんだよ。……けど、あいつと俺とは使う術が全然違うから」
少年は、眉間に深く皺を刻んでぼやく。
咲耶は陰陽師だ。陰陽術と西洋魔術の間には、術を構成する理論に、根源的な差異がある。
そして、必要以上に他の術に触れることは、自らの存在自体を脅かしかねない。
咲耶はそこに踏みこむような危険を冒すつもりは全くなかった。勿論、西洋魔術に関する知識など、欠片もない。
結局、体力づくりと基本的な心構え程度しか、紫月に教えてやれていない。
この状況を打破するために、別方面からアプローチをするとすれば。
「あとは、現場に叩きこんで身体に覚えさせるしかないんだよなぁ」
「……それはちょっと無茶が過ぎるんじゃないか?」
あの穏やかな少年を思い出して、マスターはやんわりと止める。
「俺がやってきた修行に比べたら、ぬるいぐらいだ。知ってるだろ?」
だが、さらりとそう告げられて、男は押し黙った。咲耶はその心情も知らず、長く溜息をつく。
「あーあ……。あいつにぴったりな師匠でも見つけて押しつけられたら、こんな苦労はしなくて済むんだが」
ぼやいた言葉は、しかし実現できないだろうことをよく判っていた。