おかわり
「アカネさんなら構いませんよ」
朝から晩は店の手伝いを、深夜は呪術師の仕事を、そんな生活を続けて早一ヶ月。アカネさんとはかなり打ち解けてきた。
年を重ね臆病になったのか、本命だからなのか。怯えられないラインを見計らいつつ触れるだけでまだキスの一つもしてないんですけどね。
アカネさんの気持ちは聞けていないが満更では無いと思う。じゃなきゃ彼女から耳を触らせてほしいなど願ってくるとは考えにくい。
「あ、ありがとうございます!」
私の方が頭一つ以上大きいので近くにあった椅子に腰掛ける。そして、どうぞと彼女の方へ頭を傾けた。アカネさんの小さな手が耳に触れる。
年齢の割には毛の質には自信がある。それは自惚れでは無かったようだ。この手触りを彼女は気に入ってくれたようだから。
初めは遠慮がちだった手つきがどんどん容赦なく撫で回すように。なんとも大胆だと一瞬頭を過ぎったが、しばし考えてある結論へと至った。
この触れ方は幼子が動物を可愛がるそれだ。おそらくアカネさん知らないんでしょう。わかってやってるならそれはそれでいいんですけど。
「ダンナさん、ごめんなさいっ! つい夢中になってしまって……」
相当楽しんで頂けたようだ、うっすら頬が上気している。その色艶めいた表情を心のファインダーに焼き付けつつ、彼女の手首を掴んだ。
乱した毛並みを整えようとしてくれていたアカネさんは私の制止するような行動に眉を曇らせる。そして更に謝罪を口にしてきた。
彼女は思うに私が好き勝手されて怒ってると考えているのでしょう、ただそうじゃないんですよね。彼女の体を引き寄せ、耳元で囁く。
「獣人の耳や尾に触るのは『交尾しましょう』って意味なんですよ」
「……へっ?」
「ちなみにそれに抵抗しないのは了承の合図です」
本島では常識というか……タブー扱いなんですけどね。離島では違うのか、同じでもこの近辺は獣人を見かけないので知る機会がなかったのでしょう。
幸い今回は未遂で済みましたけど獣人ってほぼ短絡的ですからね。若い獣人は特にその傾向が強いので即座にお持ち帰りされてます。
これ急所且つ性感帯なんです。信頼が無ければ触らせない部分であり、触れられる事で発情を促される。だからそういう意味を持ってるんです。
前述の件の他にも乱暴に扱えば殺し合いの申し出になる、など獣人に関しての注意点を教えてみれば、アカネさんは青ざめた。
やっぱり知らなかったようだ。そんなつもりじゃないと必死になってアカネさんは弁解する。わかってましたけど何となく傷付きますねえ。
傷心中の私としては拗ねてみたい所だけれど、さすがにそんな大人げの無い姿を見せるのはみっともないので我慢しましょう。
無自覚とはいえ、はしたない行いをしてしまった事をアカネさんは悔いていた。そんな彼女に私はわかってると安心させて笑みを作る。
ただこれだけはどうしても伝えておきたかった。彼女はかなり私の毛並みを楽しんでいたようだから。私なら何の心配無く触れて良いのだと。
「私以外にしないでくださいね」
その一言を放った途端、真っ赤な顔で逃げられました。しかも数日間、口を利いてもらえなかったです。何が悪かったんでしょうか。
◇◇◇◇◇◇
「ああ、いらっしゃいませ。イサジさん、おすすめはぶぶ漬けです」
「何だその悪意を感じる厳選は。そして目の前で逆さ箒すんじゃねえよ!」
どうせなら売り上げ貢献しつつ人目のある昼間にこれば良いものを、またもや営業時間外の来襲なのだ。多少のいけずは大目に見て頂きたい。
ちょっとしたジョークじゃないですか、と営業スマイル。それに彼は訝しげな表情を。冗談ったら冗談なんです、ただ十割ぐらい本気入ってますけど。
私とて良識のある方ならここまで刺々しくしません。ただ今まで三回来られて三回とも不躾でしたんで、もう容赦しなくていいなと。
「出口はそちらです」
「早々に帰らせようとすんじゃねー! 用があるのは茜だ、呼んでこい」
「そうですか、たいしたご用では無いでしょうからさっさとお帰りください」
「話聞けや! もういい、これ茜に渡しとけ、絶対だからな!」
「燃えるゴミですかね?」
「せめて中身確認してから言えよ!」
ぎゃんぎゃん騒ぎ立てるだけ騒いでいたが、用件を終えたならば思いの外あっさりイサジさんは姿を消した。塩を撒くのは後で良いか。
渡された袋の中を覗く、入っていたのは蓋付きの木箱だった。匂いからして甘味か?見た限り怪しい物では無さそうなので彼に言われた通りにしよう。
呼びに行こうとしたちょうどその時、アカネさんが厨房から出てきた。これはありがたい。彼女の名を呼んでそちらへと近づいた。
「アカネさん、イサジさんからこれを預かりました」
「あっ、ありがとうございます。そっか、もうそんな時期かあ……」
呟いたアカネさんの目はどことなく寂しそうで気になってしまった。そんな私に気付いた彼女は木箱を机の上に置く。そして後で一緒に食べてほしいと。
私が頷いたのを確認してアカネさんは蓋を開ける。中に入っていたのは黄色と白の饅頭だった。確かこの色の取り合わせは……弔事の。
そこから彼女の言葉と瞳の意味を察した。そうだった、私がこの島へ遠征する事になったのもこの頃である。ならばこれは法要の品なのだろう。
「伊佐治のおばさまの実家がお菓子の店で……家族の命日になると届けてくれるんです」
「一瞬でも捨てようなどと愚かな事を考えて申し訳ありません」
「えっ?! えっと……法要のお菓子ですけど、ちゃんと美味しいですよ! この薯蕷饅頭!」
もしかして山芋苦手でしたか?とアカネさんが尋ねてくる。違うんです、ただイサジさんが持ってきたからロクでもない品かと疑ってました。
……とは言えませんよね。ただそんな大事な物を勝手な判断で処分しようとしていたのは事実なので、ちゃんと謝罪しなければ。
危うくアカネさんだけでなく、彼女のご家族にも迷惑かける所でした。否定する私にアカネさんは笑顔を見せてくれる。
「では後ほどありがたく頂きます。いやーでも嬉しいですね。饅頭、子供の時からの好物なんですよ」
「……本島にもおまんじゅうってあるんですか?」
「祖母の故郷が離島だったので、それで昔よく作ってもらったんです」
「そうだったんですか、優しいお婆様ですね」
アカネさんの言葉に様々な事を思い出す。優しかった周囲の人々を、故郷の山々を駆け回り楽しんだ日々を、永遠たる幸福を信じていたあの頃を。
血の繋がらない自分を可愛がってくれてその挙げ句。つい暗い顔をしてしまったのかもしれない。ダンナさん?と労るような声で尋ねられた。
張り付いていたはずの笑顔がこうも簡単に剥がれるとは自分でも驚きです。そして気付けば私は彼女に問いかけておりました。
「……あまり明るい話ではありません。いえ、とても嫌な話です。
それでもアカネさんに聞いて頂きたい話があるのです。かまいませんか?」
もったいぶった切り出しだと思う。でもこれは脅しなどでは無い。本当に聞かされた方は迷惑するだろう、だから今まで誰にも話さなかった。
それでもアカネさんは私の目をまっすぐ見ながら「お願いします」と。そんな彼女が愛おしい、場違いながらもそう思った。
◇◇◇◇◇◇
自分は本島の山奥にある老いた獣人達の隠れ里で生まれました。私の母は夫亡き後、迫害の末に身重の体でそこへたどり着いた旅人でした。
母は私を産み落としてすぐ亡くなってしまったそうです。たった一人の身寄りを失った私を引き取ってくれたのは取り上げた産婆でした。
彼女には夫がいましたが子はおらず、二人とも自分を孫のように育ててくれました。他の方々も唯一の子供である私をいたく可愛がってくれました。
祖母からは料理を学び、祖父からは呪術師の仕事を習いました。どちらも人を幸せにできる術だからと。後者は私の未来を考えての事だったのでしょう。
もし山を下りたならば差別が待っています。ロクな職も付けず死に絶える獣人は少なくないですが、その点、呪術師は待遇さえ耐えれば食べていけます。
私としては里を出る気などなかったんですけどね。でもそうせざるを得ない状況となり、祖父の目論見のおかげでこうして生き抜く事ができたのです。
山を下りたきっかけは今から二十年以上前にあった飢饉です。まみえたのは本島だけでしたが離島にも知られる程、大規模なものでした。
獣人達に食料は回されず、街では多くの獣人が死に絶えたと聞いています。ただ隠れ里は蓄えがあったのでどうにか食べていけました。
ですが山へ迷い込んだ人間に偶然見つかり、食料を渡せと。少数でしたのでどうにか倒す事には成功しましたが……火を放たれ食料庫が燃えました。
焼け残った食料は雀の涙程、次の食料ができるまで皆が生きていく事は到底無理な量でした。だからといって山を下りる事もできなかったのです。
下りた所で私達獣人に食料は与えられません。それに無闇に動けば、また人間に里の存在を知られてしまう危険性がありました。
そこで里の人々は殆どの食料を私へ与えたのです。結果、私は飢饉を乗り越える事ができました。皆餓えて死んだ中、私だけが生き延びたんです。
恨んでほしかった。憎んでほしかった。のうのうと里が滅びるのを嘆く事しかできなかった自分を。なのに皆口を揃えて言うんです、幸せになれと。
良いお嫁さん貰って子供作って幸せになって、たくさん人を幸せにできる男になるんだよ。と最後に残った祖母すらも約束させたら笑って。
飢饉の原因は人間達の戦争です。私の里を燃やしたのも軍人でした。家族も故郷も理想も、大事なものは全部本島の人間が奪っていきました。
私の夢は料理人だったんです、美味しい料理で皆を喜ばせるのが夢でした。でも私は呪術師の道を選びました、国の重鎮に近づく為に。
ありとあらゆる手段を使い、さも国に忠実な獣人であるかのように振る舞って、どうにか王宮呪術師の座に納まり、信頼を勝ち得ました。
幸い私は『国が求める意味で』才能ある呪術師だったのですよ。つまり人を呪う事、強いては殺す事に長けた呪術師だったんです。
憎悪の対象である本島の人間専用でしたけど、それでも充分使えたんです。だから命令のまま、私は……そうしてでも復讐したかったんです。
戦争を引き起こした輩を全て殺してやりたかった。最後の一瞬まで苦しめてやりたかった。里のみんなが味わった絶望を味わわせてやりたかった。
里のみんなはそんな事望んでない事ぐらいわかってたんです。けれど約束を忘れる程、私は復讐心から目が曇ってしまっていました。
目が覚めたきっかけはとても些細な事なんです。申し訳ありません、先に謝らせてください。嫌な事を思い出させてしまうので。
八年前、アカネさんのご家族が亡くなった病の時に私は離島に来ました。離島は祖母の故郷だったので遠征の候補に名乗り上げたのです。
そこで私は多くの人に感謝されました。病気を治す度に、皆が告げてくれたのです。私の中では当たり前の事になっていたのに。
それからたまたま料理を振る舞う機会があって。食べたその子が笑って「ありがとう」と。その言葉にようやく思い出したんです。
自分がどうして料理や呪術を教えられたのか。この力は誰かの幸せの為に使う力である事と、人を幸せにしたかったかつての自分を。
離島から帰ってきた後、私は前ほど使える呪術師ではなくなりました。強力な呪術は使えますが望まれる早さで処理できなくなったんですよね。
恨みが晴れたわけじゃないんです。ただ復讐にこだわるのを止めたせいなんでしょうね、きっと。おかげで散々嫌味言われましたが。
トップの座から滑り落ちたら惨めなものです。ここぞとばかりに周囲はあざ笑う、でも最早私にとってそんな事どうでも良かったんです。
美味しいご飯を食べて、たまには作って、病気や呪いを払って、たまには人を恨めど呪わずに済む生活は幸せでしたから。
私は餓えた事があります。飢餓で大事なものを亡くした経験があります。美味しい物で幸せになれます。料理で人を幸せにしたいと今でも思います。
そんな私にとって食は根源、妥協できません。美味しい物が何よりも好物で、アカネさんに惚れたきっかけは正直美味しい手料理のおかげです。
胃袋で釣られたなどと聞いて良い思いはしないとわかってます。けどアカネさんの料理を食べた瞬間にもうダメだったんです。
とても優しい味でした。一口含んだ瞬間、幸せな気持ちで満たされたんです。私がずっと作りたかった理想の味そのものだったから。
最初は一口惚れです。でも一緒に過ごすうちにもっと好きになってしまいました。貴方の笑顔も、優しい所も、全て愛おしく思っています。
「……だから、ダンナさんは」
「え?」
「い、いえ、何でも無いんです!
あのダンナさん、どうして私にそんな大切な事を告げてくれたのですか……?」
静かに私の話を聞いてくれた後、アカネさんは質問を投げかけてきた。問いに私は少し考え込んだ。抱えていた物を知ってほしかったのもあると思う。
最大の引き金はアカネさんのご家族の話だ。でももう一つ要因があって、それはイサジさんの私に対する攻撃的な態度だったりする。
彼はまるで私を雇っていた本島の人間のように警戒している。その件で忘れかけていたが自分が危険人物である事実を引き出されたのだ。
そんな訳をもう少しわかりやすく整理して説明した所、アカネさんの頬が膨れる。怒ってらっしゃるようだ。これはこれで栗鼠みたいで可愛いです。
「伊佐治ったら、もう!」
「水を差して申し訳ありませんが、用心されて当然ですよ。
私は人殺しです。あの戒め具合からして彼は私が危険だと何となく感じてるんでしょう。
追い出してくださればもう近づきません。なんならイサジさんに告げてください」
本当なら彼女の厚意を受ける前に明かしておかなければならなかった事だ。隠すつもりは無かったとはいえ、話さなかった時点で同じ。
アカネさんをお嫁さんにしたい気持ちはある。でも不誠実だった自分が悪いのだ。どんな決断を受けても当然の報いと言える。
私の言葉にアカネさんは目を丸くして、それからゆっくり微笑んだ。私のものとは全く違う、見ていて胸が温かくなるような笑みだった。
「ダンナさんの怖い所を見ていないからなのかもしれません。
でもダンナさんのお話を聞いても嫌になったりできなかったんです。
ただ……話していただけた事を嬉しく思います」
だから二人だけの秘密ですと彼女は人差し指を唇に当てる。その姿を見た瞬間、つい衝動にかられて彼女の首筋へと噛みついていた。
ぴゃっ?!と何だか可愛らしい悲鳴が聞こえたがお構いなしに。痛くない程度に歯を立てて、肩をすぼめられた所でわざと音を立てて舐める。
人間の女性に手を出すのは初めてだが急所を責め立てられるとくるのは同じらしい。ここはまずいと少し襟を捲って思いっきり吸い上げた。
口を離したら自分が付けたそれを確認して、崩した襟を正す。唐突な愛撫にアカネさんは紅葉を散らしていた。再び燻り始める前に口にする。
「すみません、アカネさんの可愛らしさについムラッときました」
「えっ」
「ぶっちゃけそのまま床へなだれ込みたいです」
「ひぇっ?!」
「こんな獣ですが、本当にこれからもお側に居てもいいんですか?」
またこんな風に前触れも無く捕食者の血が騒ぐ可能性は高い。というか予想するまでもない。必ず何かしらやらかす気がする。否、絶対にする。
自分が信用できない事を確信しているからこそ予防線を張ったのだ。対するアカネさんの反応は、かつてのように私の服を小さく摘まんで。
「よろしくお願いします」
ふにゃと三日月に緩むアカネさんの唇。自分で言うのも何ですけど押し倒さなかった私は偉いのではないでしょうか。
◇◇◇◇◇◇
「……おにぎり」
深夜に女性の部屋に伺うのはどうかと思ったのですが、あんまりにも遅くまで頑張っていらっしゃるので夜食を運ぶ事に。
おかゆはあまりにも味気ないので、せめてこれくらいと作った結び飯。時間帯を考え、海苔無しで味付けや具は消化の良い物を。
それをアカネさんに見せた所、さっきの一言を呟いたっきり、食べるわけでも無く、ただじっと眺めていました。
「お嫌いな物が入ってましたか?」
「い、いえ! 違うんです……ただ懐かしくて」
おにぎりと言えば、こちらでは親御さんが拵える代表的な食べ物でしたね。きっと義母様との思い出が過ぎっていたんでしょう。
一口含んで美味しいと彼女が笑んだ。こんなに嬉しそうに召し上がって頂けたなら作りがいがあります、アカネさんの食事光景で今日も飯がうまい!
ベタですけど口周りに付いたご飯粒を取って咥えた所、慌ててらっしゃいました。もうアレです、一番アカネさんが美味しそうです。
「ごちそうさまでした、とても美味しかったです」
「お口に合って何よりです」
少し大きいかと悩んでものの、二つとも完食。女性に言うのは失礼なので口にはしませんが、見ているこっちが気持ちよくなるような食べっぷりでした。
邪魔にならないうちに出て行こうとお盆を持ち上げる。ただアカネさんが少しお話し頂けませんかと願ってきた。もちろん断るはずが無い。
新しいメニューについて相談を受け、他にも内装やら値段設定についても話し合う。元々料理人志望だ、多少ならば知識はある。
長年務めてきた彼女にとっては大した情報では無いかと心配だったが役立てたようだ。語り終えたアカネさんの表情は穏やかだった。
「……ダンナさんにとって私のご飯は幸せになれる料理なんですよね」
「はい! もう一口食べた瞬間から笑みが溢れますからね! 毎日アカネさんの作った味噌汁飲みたいです!」
「ダンナさんにそう言っていただけて良かったです。
私、昔は今みたいに料理好きじゃなくて……そもそもあまり食に興味がありませんでした」
「そうなんですか?」
「はい。だから本格的に料理を学び始めたのはお父さん達が亡くなった後なんです」
「ああ、店を継いだのがきっかけだったんですね」
「……いえ、その私は……私が料理人になろうと決めたのは、っげほ」
突然アカネさんが咳き込んだ、丸まった背中をさする。その間に額に手を当ててみたが熱は無いようだ。ただ風邪をひきかけているのかもしれない。
ここ最近、ずっと夜遅くまで頑張っていらっしゃったから、その疲れが出てきたんだろう。今日はもう寝た方が良いと説得する。
アカネさん自身も体調不良の自覚はあったらしく、すぐに納得してくれた。私もそろそろ休むとしよう、おやすみなさいと告げて部屋を出た。
◇◇◇◇◇◇
「……しまった」
さんさんと差し込む朝日に飛び起きて第一声。恐る恐る確認した時計はとうに開店準備を始める時間を指している、ずばり寝坊しました。
大急ぎで寝間着を脱ぎ捨て制服に着替える。布団の上に投げ捨て畳まないなどだらしないにも程があるが、今の私にそんな余裕は無い。
残念だが店の前の掃除は朝のお客さんが一段落してからにしよう。その分、店内に時間を丁寧に。確か食器は昨夜全部磨いて……。
遅れを取り戻す為の段取りを考えているうちに食堂へ着く。だが何かがいつもと違う、何か物足りない。こういう時だからこそ冷静に考える。
そうだ、いつもなら漂っているはずのアカネさんのご飯の匂いが無いのか。厨房を覗いてみたが彼女はおらず、調理していた気配すら無かった。
揃って寝坊しただけなら笑えないがまだ良い、ただそれだけで収まっている気がしなかった。迷わずアカネさんの部屋へと向かう。
「アカネさん、起きてらっしゃいますか?」
アカネさんの部屋の前、そこのドアをノックし声をかける。だが返事は無い。その静寂に胸騒ぎが止まらず、すみませんと強引に扉を押し開ける。
中に入って真っ先に見えた光景に息を呑んだ。ぐったりとアカネさんが壁にもたれかかっていた。顔は青白く荒い息を零す姿は尋常では無い。
首筋に触れ、酷い熱だと驚かされる。呼びかけにアカネさんは薄く瞼を開いた。だけれど意識が朦朧としているのだろう、虚ろな目をしていた。
「……少しだけ待っててくださいね、すぐ楽にしますから」
優しく語りかけた私は熱い体を抱えて布団に寝かしつける。ただの風邪である事を願いながら、急いで道具を取りに向かった。