文学としてのライトノベル
どうも、ライトノベルは『日本文学』に入らないと思っている方が多いなぁと印象を受けます。
『日本文学』や『純文学』に引け目を感じたり、ああいう堅苦しいのとは違う、ということでしょうか。
私は、ライトノベル文学も、日本文学に入るのだから堂々とすればええんじゃ、という思想の持ち主です。
文学というのは、心の衝動、感動でもいいです。その感受性を機能させる作品であれば、『文学作品』の資格は得る。その程度のものです。その程度が難しくもあるのですが、ここでは問題にしません。
ライトノベルの作品群は、
文章表現がおかしい
こんなので感動する奴はおかしい
と、攻撃を受けてます。
実際、確かに、その評価に値するものがあります。しかし、その評価が正しい場合、余計にライトノベルは文学になります。
カウンターカルチャー
対抗文化、というやつです。
この言葉に馴染みの無い人は、音楽で言うところの『ロック』みたいなやつ、と思えば大体合ってます。もっとも、これらも、主流が生まれるとその対抗文化が生まれるという細分化を起こします。
これが一つの独立した文化になるのは、
『若者の反抗精神』と合致する
という現象が起きるからです。
どこぞのカードゲームでいうと、
「場の『若者の反抗精神』と『ライトノベル』で融合召喚!
現れろ、『現代のカウンターカルチャー』!!」
ド☆ン!
余計にわかりにくいですね、申し訳ない。
要するに、
ライトノベルが攻撃される(基本的に大人から)
若者はそれを自分の社会的疎外感として、受ける
双方での共感、共鳴現象が起きる
ライトノベルが、一つの反抗文化として成立する
という、手順になります。
作品そのものの魅力よりも、作品群が受ける疎外感や圧力、あるいは同世代の共感を持って成り立っているのです。
日本文学史では、プロレタリア文学がまさにそういったものでした。
それ故に、現代では読めたものではありません。
せいぜい、当時の日本はこういったものが流行する事情があった。それを理解する程度になる。
文学というのは、とりわけ『流行』と縁が深いものです。
近代日本文学も、自然主義だとかありました。今だと、読むのが厳しいです。無論、それらが読めたからといって何の自慢にもなりません。
余談ですが、『教養』の話になります。
教養というのは何か。
私の考えを述べます。
自分の見識という泉を、より広く、より深くするもの
感受性という波を、その泉におこすこと
この二つになります。
それらは、他人に自慢することでは断じてない。また、他人を攻撃する材料にもならないでしょう。
ライトノベル文学が永続性をもつには、カウンターカルチャーからカルチャーへの転身が必要だと思います。カウンターカルチャーとして一時期を共にした者たちが、普遍性を与えることでその変化は起きるでしょう。
普遍性とは何か。
それを宿すには、
人間とは何か
生きるとは何か
自分とは何か
他人とは何か
というものを思考し、どの国の、どの人種、どの世代人にも通じる答えを見つけることです。
難しい思想を並べなくても良いのです。
ごく単純な答えこそ、案外通じるものです。
例えば、
美味しいものを食べたい
友人を大切にしたい
時には、自分という命を捨ててでもやることがある
ちょっと考えるだけで、たくさん出てくるでしょう。
文学というのは、そういった当たり前の、親近感のあるもの。
だから、現状のライトベルがどうであろうと、それを『友人』として扱えるならば、何らやましいことはありません。
むしろ、他人にとやかく言われて『友人』を蹴飛ばす方が格好悪いものです。交友関係を蹴るなら、最初から持つな、と言いたい。
まあ、『友人』がちっとも成長しないなら、仕方ない面も出てきます。
交友関係を選んでいくことも、人生でありますから。
……
別にシンクロやエクシーズでも良かったか。
すまねぇ、『融合』世代なんだ。