旧校舎の魔女子さん
今、僕の学校で流行っているものが二つ。いや一つ? 通常の流行の意味からするなら一つか。まあ良いやどっちでも。
さてさて、流行っているものの話だ。
一つはトランプ。休み時間になると、クラスの奴らが集まってなんか色々やっている。それはばば抜きであったり、七並べであったり、大富豪であったり。
あと僕は見たことが無いんだけど、賭けポーカーや、ブラックジャックなんかもやっている奴が居るらしい。まあ、今時トランプが流行るなんていうのも珍しいことですね。よほど娯楽に飢えているんだろう。うんうん。
そしてもう一つ。
それは衰弱死だったりするんだよねぇ。言ってる僕自身がこれにはびっくりしているくらいだ
今年に入ってから、もう三人の人間が衰弱死している。飽食の時代そんなことあるはず無いだろ、と思うわけだけど、どうやら本当に死んでいるらしい。よっぽどエンゲル係数の低い家庭に育ったんだろうなねえ。僕には関係ない話ではあります。
たまに廊下から他のクラスの中を覗くと、花の生けてある花瓶が机の上においてあるのを見たことがあるからきっと死んでいるはず。苛めの一環としてそんな洒落たことをしているのかも知れないけど。 まあ、実際死んでいるんだろう。集会とかあったし。葬式に出たとか会話している奴もいたからなぁ。
まあ、どちらもそれ程興味は無い。
今のところは。などと無駄に意味深な事を言っておく。
「ねえ、トランプやろうよ」
「いや無理」
ごろごろと機嫌の悪そうに音を鳴らす空。厚い雲の感じからしてもどうやら雨が降ってくるようだ。そういや、傘あったかな?
僕はそんな真っ黒に淀んだ空を、教室で見上げていた。僕のほかには教室に誰一人としていない。いやまあ、さっきまでやたらトランプをやりたがる同じクラスの男、確か北原君だっけ? にしつこく絡まれていたがやっと帰ってくれたようだ。冷たく突き放した態度が功を奏したんだろう。心が痛みますね。冗談ですけどね。
それに本当に流行ってんだなぁ。などと無駄に感慨深い気持ちになってしまう。自分から話しかけるタイプでない北原君が話しかけてくるとは。これっぽっちも思わなかった。いまのところ今日一番のサプライズだった。うん。
とぼとぼと歩く北原君を見送る。心なしこれから死ににいくような頼りなさを彼の背中に感じつつも、特に声も掛けずに。まあ、実際に死にに行くご予定でも関係ないし。面倒くさいし。絶対声掛けないけどね。などと一人で胸を張ってみる。当然意味など無い。
さて、これで誰一人居なくなった。ふいー長かったぜ。
六時間目の退屈な国語の授業も終了し、学校の奴隷である生徒たちの義務である掃除の時間もとうに過ぎている。居なくなって当然なのだ。
そんな教室になんで残っているのかというと単純な答えがちゃんとある。
生きるためだ。その為にやらなくちゃいけない事があるのだ。面倒臭いんだけど。
件の合わせ鏡の時、何とか生存することが出来た僕だが、その代償に大体二週に一度かな、僕の形をしたもの(僕は今のところ彼? のことを俺と呼んでいる)、に食べ物を与えなければいけなくなってしまった。
ただ、この食事というのは、当初、人間の魂だけかと思っていたのだが、どうやら違ったようだ。
淀んで溜まった邪気というかそんなものも食べるし、動物霊なんかも食べる。らしい。
要は何がしのよく分からないエネルギーの塊であれば、それが浄であれ不浄であれもう何でもいいと言う事だった。とんでもない雑食だったのだ。と言うかもう雑食を通り越してただの悪食といったほうが正しいだろうかも知れない。
それはともかくとして、僕が彼に与えるのは決まって不浄のものなのだが。あるのっぴきならない事情により。お陰で大変に面倒臭い事になっている訳で。
「さて、行くか」
僕は呟いて、伸びをしてから立ち上がった。椅子が床をこする鈍い音が誰も居ない教室に響いた。若干耳障り。おっと、鞄も持っていかないと。机においてある鞄を肩に掛けて教室のドアを抜けてお外へ出陣。
時計は五時十分を指していたことは確認済み。
今日、僕が目指すのは学校の怪談のメッカと言っても差し支えない場所だ。
旧校舎。
僕の学校にも古めかしい木造の校舎が今でもどーんと聳え立っている。
そんな古い旧時代的なものが残っている理由と言うのも簡単で、取り壊そうとすると何かしらの不幸が起こるらしかった。
例えば、現場監督が原因不明の病に罹り入院したとか。
取り壊しを提案した当時の教頭が、交通事故にあったりとか。
取り壊しに使う重機器、ショベルやそんなキャタピラで動くようなものだ。それのエンジンが何故かかからないとか。
挙句の果てには、相次いで三人の生徒が旧校舎から飛び降りて自殺。残された遺書には血で書いたらしい真っ赤な文字で『コワサナイデ』と書いあった。……らしい。
そんなこんなで結局取り壊しは中止。
こうして、現在の近代的な鉄筋コンクリートで立てられた校舎に囲まれながら、旧時代的な木造の旧校舎は立っているのであった。長年ご苦労様です。
僕はそんな旧校舎に用事がある。
ここに出るという、女の子の幽霊に用事があるのだ。
この幽霊というのは、かつて旧校舎の理科室で爆発事故が起こったことがある。
実験で失敗したとか、ガス爆発だとか言われているが、理由はともかくその事故で一人の女の子が行方不明になったのだ。
どうやらその子の幽霊というのが通説である。
そしてその子にまつわる噂とは、何のことは無いその爆発事故のあった時間に行くとその子に会えるというもの。ただ真偽のほどは分からない。
なぜならその話には続きがあって、その子に会った人は攫われて帰って来れなくなるらしい。
帰って来ないのになんでそんな事が分かるんだという話にもなりそうだが、火の無いところに煙は立たずとも言うし、とりあえず行っとく? みたいな軽い気持ちで旧校舎の玄関ホールに立っている。まあ、そんな立派なものじゃなくて下駄箱が並んでいて非常に窮屈な空間を形成しているだけなんだけど。
はてさて鬼が出るか蛇が出るか。出来れば前者のほうが好ましい。僕は物理的には弱っちい人間ですから。でも霊的敵意なら何とかできる。かも? それよか行きましょう。っちゃちゃと終わらせましょう。面倒くさい事は。
「……どうやら当たりっぽいなぁ」
旧校舎のぎしぎしと盛大な音を立てて軋む廊下に、黒い糸くずのようなものが漂っているのを発見して僕は呟いた。
理科室はどこだっけと考えながら歩いていたのだが、すぐ右側にある来賓室という看板が掛かった部屋の前にて糸くずを発見した。
それは何かに目印のように、道しるべのように廊下の奥へ奥へと漂いながら僕を導いてくれる。僕はそれに導かれるまま歩み続ける。
切れ切れだった糸くずは徐々に寄り集まり、数を増し、濃くなっていく。まあ、半透明ないとだから、そのせいで視界が無くなるという事は無いんだけどね。
「けひひひ……。いいないいな。美味しそうだ」
廊下のくすんだ窓に僕の姿が映っている。顔には口の端が歪に釣り上がった笑顔を浮かべて。僕は一旦足を止めて、その歪な笑顔を浮かべた僕を無表情で見る。いちいち表情を作るのは面倒なのだ。
「……そりゃ良かった」
「本当に本当だ。ジューシーだろう。素敵だろう」
幽霊のジューシーさってなんだよ。
もんにゃりとしたなんとも言えない思いが僕の頭の中に生まれたので、即座にそれにつっこみを入れておく。というか、何? もんにゃりって。なんか柔らかそう。
当然特に何も反応はないのだけれど。
ただ自分の精神衛生上必要なことなのだ。
廊下の軋む音が僕の耳に届いた。突然したその音に反射的に顔の向きをそちらに向けていた。其処には一人の女性が佇んでいた。
僕が廊下から眼を離していた隙にこっそりやってきたらしい。
彼女は、黒髪の女だった。雪のような白い肌がより幽霊っぽさを醸しだしている。その女は僕の学校の制服を着ていた。紺色のセーラー服だ。襟の部分が特徴的な形状をしている。間違いない。ただ、そのデザインは妙だった。
襟こそ僕の学校と同じデザインなのだが、それ以外が違う。今は女の子の制服はブレザーなのだ。セーラー服だったのは一昔前。僕が入学する二年前までのこと。
間違いなく、あのセーラー服の子が例の、理科室の幽霊だろう。
僕と目が合った女の子は、妖艶な笑みを浮かべて手招きをしている。
「来いって事か」
足元に漂う黒い糸くずも、女の子へと真っ直ぐに伸びている。はあと、小さくため息をついた。何で僕はこういう悪運って言うのが強いんだろうか。まあ、強いことは良いことだよね。まあ、悪いことに巻き込まれている時点で疑いたくなる運勢なんだけど。
僕は手招きされるがまま、止めていた足を踏み出した。
暫く停止したままの姿勢で、僕を見つめていた女の子はくるりと方向転換。舞い上がった髪が完全におりきる前に走り出した。
「あっ」
僕もその後を追う。待て待てあははな状況ですね。顔は問題なし、相手が生きてるともっと良かった。
追いかけている様を描写するのも退屈そうなので、僕の経験則でも話してみようかな。
今までの経験からするに、幽霊には活動する範囲というものがある。
病院の内部だけであったり、駐車場であったり、墓地であったりする。しかし、その活動範囲と、その幽霊がもっとも力を発揮できる場はその範囲が違うのだ。病院であれば、幽霊が生前に最後に過ごした部屋。すなわちその個人が死んだ部屋がもっとも発揮できるようだった。
一概にそう言える訳ではないようだが、七割程度の確立でそうだった。まあ、まだ二桁も実例を見たわけではないし本当はもっと低いかもしれないけど。
だけど今回の場合は、そのケースに当てはまるみたいだ。多分。あの女は僕のことを何処かへ連れて行こうとしている。
きっとそれは自分が一番力を発揮できる場所だ。
僕は女の子の事を追い続ける。
足元の糸も、着々と密度を増していった。
女の子はとある一室に姿を消した。ばんと大きな音を立てて引き戸が閉じられた。まるで私はここに居るのよって主張しているみたいに。そんなに誘わなくても会いに行くさ。行かないと行けない理由が僕にはある。
入り口の上にかかっている木製の札には理科室の文字が。女の子が姿を消したのは、どうやら理科室のようだ。はい。噂の真偽が確定いたしました。真なり。以上。実証完了。
「なんだ珍しいな、噂がそのまま当たるなんて」
僕は小走りになっていた足を緩める。
そのまま入るのも何だか捻りが無いので観察してみる。理科室に付いているのは曇りガラスで、中をうかがい知ることは出来ない。
曇りガラス?
ふと、僕の頭に疑問がよぎる。
爆発事故があったんなら、窓ガラスなんか無いようなもんだと思うんだけど。まあ、常識が通用しない世界だからなあ。良いんじゃないかな。考えるの面倒。
と言う訳ですので、それ程深く考えることも無く女の子が姿を消したドアの前へと僕は立つ。ああもう早く会いたいなっ。そんで凶暴ならなお良いなっ。わくわくしています。
理科室の入り口の前にて、姿勢を正す。後、念のため。小脇に抱えるようにして持っていた鞄のお口をオープン。中から楕円形の手鏡を取り出しておく。
「一応な」
こうして僕は理科室の引き戸に手を掛けた。力を込める。
ぎしっ、ぎしっ……がん。
重い。でも男の子ですからっ。気合を入れてもう一度。なんだか妙に重い引き戸を力任せに一気に引き開ける。
「うん……良いんじゃない?」
目に飛び込んできた映像に、意味の無い感想を述べておく。
理科室の中にはたしかに爆発が起こったかのように、色々な物がめちゃくちゃになっていた。丈夫そうな木製の机も、かなりの範囲が真っ黒に煤けている。窓を覆うべき遮光カーテンも焼け焦げ半分の長さになっていたり、カーテン自体がカーテンレールに掛かっていなかったりで、大きな窓がむき出しの状態になっている。しっかりガラスがはまっているのが気になるが、ま、そういう仕様なんだろう。
僕は中をしっかりと見回してから、黒い糸くずがうぞうぞと渦巻く理科室に一歩踏み入れた。と同時に、ひとりでに引き戸が閉じる。
「うおっ!?」
がたんと言う大きな音に、僕は体を硬直させた。たまにある事だけどやっぱり慣れない。どうしてくれるのか。この胸の高まりは。
しかし、すぐに立て直し僕はゆっくりと奥へと進んでいく。机の上に手を這わせながら、確認するように一歩一歩足を進めていく。
ぎい、ぎい、ぎい。
ぎい、ぎしっ。
ここの床も廊下と同じく半分腐っているような、不快な音が一歩ごとに響く。指にある、ぼこぼことした、焼けた木の感触を感じながら、きょろきょろと辺りを見回す。
「本当に荒れてんな……たっく片付けようよ」
僕はそうヘンテコナ愚痴を言いながら、確かな到達地点を目指して歩き続ける。
一歩、また一歩。
ぎしぎしとまとわり付くような音が脳に染み込む。
不快だなぁ。この上なく。
まったくなんでこんな事をしなくてはいけないんだ。うん。生きたいから。この上なく明確な理由がありました。
ぐるる……。
ぎしぎしという僕の不快な足音に混じって、憎悪のこもったうなり声が聞こえた。
僕は思わず足を止め周りを見回す。何も無い。何もいない。
きしっきしっきしっきしっ……。
僕は周りを見回す。
何も居ない。
ただ、
ただ聞こえる。
きしっ、きしきしきし……。
無数の小さな音。
子気味良く、リズミカルに。
その音は僕を取り囲むように。
姿は見えない。だが居る。一頭ではない。複数だ。重なる足音。混ざるうなり声。明らかに僕に対して敵意を持った、足音。そして唸り声。
きしきしきしきし……。
きしきしきしきし……。
……きしっ。
終わった。
止まった。
見えないが、確実に居る。
確実に僕は無数のハンターに囲まれている。
どうやら、ここは狩場だったらしい。僕は無力な小鹿のように見られているに違いないだろう。ま あ、僕自身は実際その程度だ。間違いのない認識だ。
僕はね。
僕は窓を横目でちらりと見る。映っている僕の口元には薄く笑みが。
かちり。
割れたビーカーの破片同士がぶつかる音。とっさに振り向いた僕の目に入ってきたのは小さな犬。机の影からするりと姿を現したのだ。
犬の黒くよどんだ目には一切の光が無い。理性も知性も感じない。ただの穴のようだ。
犬の体は闇からそのまま這い出してきたような黒。
対照的に赤い、ひたすら赤い口。
爛れた傷口のようで、割れたざくろのような気持ちの悪い赤だ。
その口からはとめどなく赤い粘着質の液体があふれ出している。血液のようであり、スライムのようであり。
「気持ち悪ぅ」
犬を見て、僕は反射的にそう言って眉間にしわを寄せる。
と、その様子にご立腹したのかその小さな黒い犬は、赤い液体が無限に吐き出され続け
る口を大きく開く。本当にすごく大きく開いていく。
それは、犬の顎を通り抜け、首の中ほどまで引き裂くまでに。
そして前足で二・三回木製の床を引っかくように動かしたかと思うと走り出した。一気に最高速まで加速し踏み切る。
大きく引き裂かれた口にひどく適当に並べられた凶悪な牙。凶器が僕の喉元を目掛けて飛んでくる。
僕は反射的に一歩、後ろへ下がる。
「うお?」
僕の下がった後ろ足に何かがぶつかった。
床へと落下運動を始めながら足元へと視線を向ける。そこには真っ赤な花が咲いていた。ああ、犬か。 口を大きく開けた犬の胴体に躓ていた。
僕は、そのままつるりとした犬の体表をすべり落ち、尻餅をついた。飛び掛ってきた犬は、僕の頭上を素通りし木製の机の上に着地した。
そして集まる、ちっちゃい犬ども。直ぐに追い討ちがこないのは、僕を嬲る為なのか。逃さない為なのか。まあ、どっちでもいいけどさ。
周りを囲む犬達。口から赤い液体を垂れ流し、溢れさせる。
乾燥した木の床は、ワンちゃん達の流す唾液でみるみるどろどろになっていく。
重なる鳴き声。響く重低音。
びりびりと振動する窓ガラス。
どうやら、女の子に会ったら帰って来れないと言うのも正しいようだ。
だってこいつらに、殺されるのだからね。怖いものですよ。
「ははっ」
僕の笑い声が気に障ったのか、一匹が飛び出した。
真っ赤な口を大きく裂いて。開いた花のように。
大きく裂いて。
ただし。
「食人花? みたいなぁ!」
あっという間に縮んだ、犬の口と僕の顔は、
「ぎゃうん」
「ひゃはひゃひゃは」
犬の悲鳴と共に、またあっという間に遠ざかった。
ぎゃ、ぐ、ぎゃ……う。
どごんと言う音の後、何かを食う水っぽいと言うか生々しい音が聞こえてくる。吹っ飛んだ犬は、断末魔の悲鳴と共に文字通り食われていた。手足を痙攣させて、口からは唾液とは別の赤い粘液を吐き出している。
その哀れな犬に覆いかぶさるように人影がうごめく。
「うまい、うまいうまい。きひひひひ」
僕だ。形は。
あれは僕の形をした別なモノ。『俺』だ。
ぐぎゃう、ぎゃいいい。
悲鳴の様な甲高い声が犬の口から溢れる。血が飛び散る。肉が散らかる。
ぐちゃ、くちゃ、ぺきぱき。みちみちみち。ぼくっ。
犬だったものは三秒と持たず、その形を失った。
三秒か。遅いな。食い方も汚いし。挑発でもしてるのかな。
それは良いとしても、胃のほうから酸っぱいものがこみ上げていた。それを無理やり胃までお帰り願う。あ、分かった俺への当て付けだ。
あー、何回見ても慣れない。
僕の形をしたモノが、まだ動いている者を貪るところを見るのは。
「うまかった。うまかった。俺はちょっと満足したぞ」
僕の形をしたものが、口の周りを真っ赤に染めて、口を歪な形にして。
僕が『俺』と呼ぶそれはゆらりと立ち上がる。
真っ赤な口の犬たちは、その様子に少し後退しながらも低い体勢を維持し、口に並ぶ牙をぎしぎしと噛み合わせて、交戦の意志は少しも薄れていないように見える。
にたにたと笑う『俺』は口の周りに舌を這わせて血液を舐め取る。。
がちがちと歯を鳴らす犬たち。警戒が伝わってくる。
緊張した空気がびりびりと僕にも伝わってきた。
しかしながら僕の存在は蚊帳の外になっているらしかった。全員が全員僕を無視。いやはや。人間関係だったら非常に虚しい事態ですよこれは。
犬たちが飛びかかろうとした刹那。
「止めなさい」
凛とした声が理科室に響いた。
その声に熱を奪われてしまったのか、犬達の殺気が霧散して消え去る。そして、爪の音を立てながら一気に解散してしまったのでした。バイバイさよなら。
俺の姿も、気がつくと消えてなくなっている。食事にありつけないと踏んで早々に、鏡の中に帰還したんだろう。
僕はすっくと立ち上がり、その声の方へと視線をやる。
「こんばんは。ご機嫌いかが?」
セーラー服の女がさわやかな笑みをその顔に浮かべて立っていた。
僕はそんな笑顔に答えるようにさわやかな笑みを浮かべて挨拶をした。自分なりに精一杯。
「こんばんは。最悪な気分だよ」
「正直なのね」
女はそう言って笑った。口元に手を添えて笑うその姿は深窓の令嬢のように気品を感じる。
「当たり前だ。まったくあんたは何なんだ? 一体何を僕にしたかったんだ?」
襲わせたり、止めさせたり。訳が分からん。と言うかそもそもお前はなんだ。面倒な事態になりそうだなぁ、とうすうす感じる。面倒臭いことは面倒だから嫌いなのに。
「そうね……強いて言うなら実験かしら?」
女は涼しい顔をしてさらりと言った。
「実験?」
彼女は何のことだよという顔をしている僕に、妖艶な笑みを向けてからくるりと方向を変えた。
「付いてきて」
「変なところに連れて行くんじゃねえだろうな」
「いいから。それに変なところというなら、もう変なところにいるでしょう? あなた」
確かにその通りだった。
僕は何かを言い返そうとしたものの、女はすたすたと理科室から出て行ってしまった。特に何も言えなかった。と言うか結局何も思いつかなかったのだけれど。脳みその職業怠慢を叱責するのも面倒だし。行きますか。
とりあえず、僕も慌てて後を追って理科室を後にする。
「ねえ、死ぬってどういう事だと思う?」
女は真顔で僕に聞いてきた。
「心臓が止まるとかそういうことなんじゃねえの?」
そう投げやりに答えて、僕は白いマグカップに注がれているコーヒーを口に運んだ。乳白色に染まったこの汁はおいしゅうございます。
女は名を水霧と言うらしかった。
偽名かもしれないが僕にそれを調べるすべなど無い。いや、昔の名簿でも何でも見りゃあいいんだろうけど、面倒臭いのでやらない。
ああ、何て怠惰なんだろう。そんな自分が大好きです。
僕と水霧は向かい合って、大して座り心地の良くない木製の椅子に座り、水霧の入れてくれたコーヒーを飲んでいた。
そんな二人が居るのは理科室である。もちろん旧校舎にある理科室。犬に僕が襲われた部屋だ。ただ、その内装はセンスが古めかしいものの、新品そのもので、焦げ痕も、割れたビーカーも、融けたように半分になった遮光カーテンも有りはしない。
清潔で、きちんと整えられたそんな印象を受けるそんな部屋になっていた。理科室だけど。
僕は女を追って、ぼろぼろの理科室を後にした。
「どうしたのかしら? そんなに慌てて」
水霧は理科室の入り口のドアのすぐ脇に居たのだ。……てっきり遠くへ行ったと思ったのに。だからこそ若干早足で歩いていたのに。
そんな僕の気持ちをまったく知らないであろう水霧は理科室の開かれたドアを閉めた。
「何をするんだ?」
「見ていれば分かるわ」
呟くようにそう言って、閉めた引き戸と互い違いになっているもう一つの、戸へと指を掛けた。
その様子を不信に思いながら見つめる僕。
だって、普通そっちを開けて入らない様な所なのだ。だって、開けたら目の前にカーテンがぶら下がっているんだから。
そんな事お構いなし。私の勝手でしょう? と言う様な捻くれ者の変わり者なんだろうか? この女は。
水霧はがらりと平然な顔をして引き戸を開けて、カーテンを手で脇へとずらして中へ入っていってしまった。
本当に何がしたいんだろう。
僕は思ったが、とりあえず僕も水霧の真似をして、遮光カーテンをずらして中に入った所、前述したような新品同然、いや新品そのものの、ぴかぴかの理科室へと僕は立っていたのだった。
僕と水霧はお互いに簡単な自己紹介などを済まして、少しお話がしたいという水霧の希望に答えて、僕は木製の椅子に腰を下ろした。きっと退屈なんだろう。何年も一人でこんな所に居るんだし。
水霧はそんな僕にコーヒーを入れてくれ、ことりと乾いた音を鳴らして木製の机にマグカップを置き、そして自らも椅子に腰掛け一息ついたところで、水霧の口から紡ぎだされた文字の羅列が、『ねえ、死ぬってどういう事だと思う?』だったのだ。
知らねえ。興味ないし。
僕はそんな事聞かれても分からないので、生物学的な答えを返した。
水霧はその答えが気に入ったのか、それとも馬鹿にしているのかは分からないが、とても綺麗で、誰もが見とれそうな笑顔を浮かべた。
かく言う僕も危うく見とれそうになった一人である。
水霧はそんな顔のまま、口を開いた。
「そうね。それも一種の死の形よね」
「そんな事を僕に聞いてどうするんだ?」
「如何する訳でもないわよ。ただ、初めての相手に私がいつもしている質問が死に付いてだからかしらね」
どうやら、僕は機械的にその質問をされただけらしかった。
「ところで聞きたいんだが」
「何かしら?」
「お前がここの理科室の爆発事故で死んだ女子生徒なのか?」
確認作業的なノリで聞いたんですけれども、水霧は間髪入れずにこれを否定してきた。
「違うわ」
「えっそうなの?」
あら? じゃあ貴方は何? どこの誰子なの。などと思って首を傾げてみる。
「だって死んだんじゃなくて確か行方不明になっていたはずよ」
揚げ足を取られた。ああ、そう言えばそうだった気もするなぁ。ずるずるとコーヒーをすする。ほっと一息。僕はきちんと訂正して質問しなおした。
「……そう。じゃあお前が行方不明になった女子生徒か?」
「そうよ」
「そうか。じゃあもう一つ質問」
「……どうぞ」
「お前はなんだ幽霊? 悪魔? というかそもそも生きてるのか? 死んでるのか?」
「ふふっ、面白い事を聞くのね」
水霧は顔に笑顔を浮かべたまましばらく沈黙した。
理科室には水を打ったような静けさに包まれる。
「……『魔女』よ」
「はっ?」
考えていた返答とはかけ離れたその答えに、僕の思考は沈黙するしかなかった。
「私は魔女。死んでるし、生きてる」
何を言い出すんだこの女は。そう思った。
だけど目の前に居るこの女が魔女であると言うならそうなんだろう。だって僕にとって未知のものがそう名のっているのだから、否定も出来ない。しても良いけど面倒だし。本人が言うならいいや。それで。
僕は魔女が入れてくれたコーヒーを口に運んだ。というかコーヒーなんだろうか? 怪しい薬のような気もしてきた。急に目眩がして卒倒したりして。
何てことは当然のごとく口にはせずに、僕は淡々と会話を繋いでいく。
「魔女ねぇ」
「そう」
「で、その魔女は僕に何のようなんですかね? さっき実験とか言ってたけど」
「そうそう、それが大事だったのよ。実は私『強い思いが篭った物』とか『死んだ物』とか『呪われた一品』とかを集めているんだけど」
「それはまた、ご大層なご趣味でごじゃいますねぇ」
「やたら『ご』で強調するのね。いいけど」
「ところで『死んだ物』って何? 聞きなれない響きだけど。故障したラジオとかそんなの?」
「うん。大体そんな感じかしら。私が集めているのは誰も使わなくなった物。特に強い思いが残っているものや、呪術の道具なんかを集めているの。具体的に上げてみるとね」
「なんで誰も使わない物が死んだ物なんだ?」
僕のそんな質問に、水霧は優しく怪しく微笑む。そして素っ頓狂なことを言い始める。
「……物の死の定義って考えた事あるかしら?」
「ないな」
「そう。私はある。それで今のところの結論なんだけれど、物って言うのはそれを必要とする人が居な
くなればそこで死ぬと思うの。だってそうでしょう? 使われない物なんて、無いのと同じ。ただ空間を占有しているに過ぎないんだもの」
「なるほどね。じゃあ、この旧校舎も死んだ校舎になる訳だ」
「ふふっ、そうなるわね」
「そんで、お前は死んだ理科室の魔女になる訳だ」
とは言ってみたものの、こいつが使ってるって事はこいつの『死』の定義からは外れるんじゃないの
だろうか? 言ったらおこりそう。面倒くさい事になりそうだからやめておこう。心の金庫にぽいっちょとしまいこむ。
「そうね。それで本筋に戻るけど、私は貴方に協力して欲しいの」
「協力?」
水霧はコクリと小さくうなずいた。
「私ね、今とっても欲しい物があるんだけどね。それをとってきて欲しいの」
「自分でとってくればいいじゃん」
水霧は心底困ったような顔をして答える。
「それがね、無理なのよ。まだ持ち主が居るから」
「は? じゃあ僕に盗ませるつもりなのか?」
「違うわよ。だから『実験』したの」
「そうだ。何の実験なんだ?」
水霧は僕に顔を近づけて妖艶に微笑んだ。
「……貴方。とっても強い悪魔を飼っているじゃない」
飼ってるといえばそうかもしれない。
だって餌やってるし。
「まあ、飼っていといえばそうかもしれないけど、それが……どうしたんだ」
「その持ち主なんだけど、貴方の悪魔に食わせてくれない」
「は? 僕に人を殺せって言うのか?」
この歳で人殺しにはなりたくない。
まあいくつになってもなるつもりは無いけれども。
「あ、ごめんなさいね。言葉が悪かったわ。正確には持ち主に付いている悪いものを食べて欲しいの。
そして残ったものを、トランプを私に頂戴」
「いや、でも食うのはいいけど……」
「大丈夫。その悪いものは貴方を襲うわ。条件を満たせばね」
「襲うって……お前」
水霧は笑う。無機質に。
そしてすべてを見透かしたような目で僕に言うのだ。
「ふふっ知ってるわよ? 貴方が『俺』って呼んでるモノを召喚する方法はね。だって見ていたもの」
なるほど、だから実験。
俺が使える奴かどうか、あの犬どもを使って確かめたって訳ですか。わざわざご苦労と、ねぎらいの言葉でも掛けてやりたくなりますよ。
「それで、やってくれるかしら?」
「襲ってくるって? 何が襲ってくるだよ? トランプだろ」
「そんなの分からないわよ」
「は? 分からないって」
「自分で調べて頂戴」
なにこれ? 無責任ー。いまどきの労働者はそんな理不尽に屈しませんよー。
ギブアンドテイク。
これ労働の基本ね。
「いや、そもそも僕はやりたくないんだけど……」
「そんな事言わないで」
「いやだ」
「お願い」
「いやだ」
水霧は、ふうとため息をついて腕組みをした。
そうして暫く思案した後、頭を上げて僕のことをしっかりと見据えて言うのだ。
「しょうがない。取ってきてくれたらご褒美をあげるわ」
僕の心がちょっと揺らいだ。ってご褒美って言葉だけで揺らぐなよ僕の心。せめてご褒美の内容が明らかになってから揺れようよ。
「なに? ご褒美って」
「一つは、貴方の悪魔に与える餌が居る場所の情報」
うわぁ。現在の僕の状況を的確に捉えてないと出来ない提案なんですけどそれ。
水霧は微笑む。
「貴方、もうこの辺りの目ぼしい所はほとんど行きつくしてしまって、困っていたんでしょう?」
その通り。正解です。商品は僕の驚きで勘弁してください。
はてさて、僕が自力でいける範囲は行きつくしてしまった感があり、きっと後一ヶ月は持たないかもしれないと思っていたのだよ。
人の一番弱いところを突いてくる。あながち魔女というのも間違いではなさそうだ。
「そしてもう一つ」
「もう一つ?」
「それは、持ってきてからのお楽しみよ。……それでどうするのかしら?」
嫌味な奴だ。
僕の答えは一つしか無いのを分かっていて言っているに違いない。
嫌々ながらも、魅力的なお誘いに僕は飛びついた。ばっくし。
「分かったよ。やるよ」
水霧は、子供のような無邪気な笑顔を顔に浮かべる。その顔を見て僕は思わず顔を逸らした。理由は分からない。
「そう。そう言ってくれると信じていたわ」
「で、僕は何を、つーか誰からトランプを取ってくればいい訳?」
横目に水霧を見ながら質問する。
「赤いトランプと言われている物を取ってきてもらいたいの」
「赤いトランプ? うんそれは良いとして持ち主は?」
うん。何となく分からないに近い言葉を貰えそうな気がします。
「分からないわ」
はい正解。ううわ、面倒くさいですー。自分で探せって事? 其処から。
「何だよそれ? そんなのどうやって見つけてくればいいんだよ?」
背筋に電流が走ったような感覚に襲われて、背筋がびしっと伸びた。
僕の両頬に水霧が細くて冷たい指を這わせてきたから。顔はそのまま固定されて、水霧の顔の距離だけが近くなる。赤い唇が動くのが見える。
そして、その後の言葉によって更に僕は震える。
「大丈夫よ。貴方のその『眼』を使えばね」
水霧は僕の目をじっと見つめながら言った。僕はその言葉に諦めと言うか何というか。体から強張りが無くなって弛緩してしまう。
「眼の事まで……判るのか」
「当たり前よ。私は魔女なの。それぐらい知っているわ」
魔女と知っている事に関係はないと思うんだけれども。問い詰めてもしょうがないし面倒なのでしません。
「見えるんでしょう? 悪意が。その痕跡が」
「……ああまあそんな感じだけど」
僕が『俺』に憑かれて得た力だ。
霊感が無かった僕にも霊を見る力が付いた。そしてオプション的に付いた力が、この悪意の痕跡を見る力だ。
まあ、悪意というのは正確ではないんだけど。
悪意を含んだ言葉や、強い思いを持ったもの、それが幽霊でも人間でも動物でも構わないがそれが通った痕跡を黒い糸くずのようなものとしてみる力が備わっていたのだ。
これに大分助けられた。
僕を襲うような凶暴かつ危険な霊というのはまず間違いなくこの糸を垂れ流している。だから、この糸の続いている先には餌が確実に居るという訳だ。
そんで、その糸が残っている時間は十分ぐらい。まあ、長時間残り過ぎても辺り一面真っ黒になるだけでいい事は何一つ無いので丁度いいとも言えるんだろうけど。
水霧は暫く僕の事を見つめていて。
「もう」
もう開放してくれと言おうとしたら、僕のほっぺたを捏ね繰り始めました。頭が左右に揺れて上下に動いて。水霧さんは楽しそうに笑っていました。お仕舞い。
小学生の日記風に纏めているうちに僕の頭部は、水霧の両手から開放された。
水霧は何故か顔を上気させて、何かをかみ締めるかのように眼を細めている。
「貴方のほっぺた最高にきもっちいい」
うっとり顔でそんなこと言われましても。僕はこねられて少し温度の高くなった頬を手で触ってみる。手が冷たくていい感じー。
「いやぁ何? ほっぺ好きなの」
「時にはそういう事もあるかもね」
「じゃあ、僕のほっぺたをたまに触らせてあげるから代わりに、先ほどのご褒美を頂けると非常にあり
がたいのですけど」
うむ。それが一番楽なのじゃ。僕のその心を察してくれたのか、水霧は何故か真剣に考えてくれてらっしゃる。腕を組んで思案顔。期待通りの結果が出ることを臨みます。
「分かった。じゃあ、何時でも触れるようにほっぺただけ切り落として置いて言って頂戴。それで妥協してあげる。任せて痛くしないし。後処理も完璧にしてあげるから」
無理。絶対無理。
「丁重にお断りさせていただきます」
「じゃあ、宜しくね。悪魔使い君」
「はい。頑張ります」
僕は椅子から立ち上がる。何だか精神を削られた気がするけど、気のせいだろう。方向転換。曲がれ右して理科室からとっとこ脱出。成功。
水霧笑顔で僕のことを理科室から送り出した。と思う。勝手な想像ですけど。
立て付けの悪い理科室の扉を何とか閉じる。また鈍くて重い音が響く。そんなに喚くなよ。五月蝿いから。閉じた扉の前。軽い倦怠感を感じた僕は、大きく伸びをする。そうしてから旧校舎の出口へ向かって歩き出す。
廊下に面した窓からは、夕日の赤と、夜の黒が混じりあい見通しが悪い。そんな黄昏時の風景を眺めながら小さく呟いた。
「はあ、だるい。今日は帰って寝よう」
僕はそう心に強く誓って、旧校舎を後にした。
色々と面倒くさいことが絡まりあっているなぁ。それが今日の率直な感想。