これまでの終わりと、新しい世界にこんにちわ
競馬、パチンコ、競艇、また、日本では違法ですがカジノなど。
ここで行われているのはすべて賭博、ギャンブルと呼ばれるものです。
賭博には大変な魅力があり、多くの人がこの賭博に一喜一憂しています。
ギャンブルで巨大な財を築き上げた人がいます。
ギャンブルで巨大な負債を抱えてしまった人がいます。
ギャンブルは人に大きな夢を見せてくれます。
そのせいでしょうか? 賭博にはタバコや、お酒のように依存性があります。ただ、ここで言う依存では体を壊したりはしません。
ただ、人生を壊すことは出来ます。
それは一重に、賭博には勝敗があるという事に尽きます。
勝つ人が居ればその影には必ず負けた人がいます。笑う人が居れば、泣いた人が必ず居るものです。
だけれど不思議なもので、負けても賭博を嫌いになる人は居ないそうです。
さて、賭博の話を少々しましたが、賭博・ギャンブルが好きな人に朗報です。
絶対勝てるおいしい話があります。
絶対負けないギャンブル。
とても魅力的で、素敵な響きではありませんか?
それはトランプを用いたギャンブルにしか適用されませんが、効果は絶大です。それはそれは例え様の無いほどの効果です。一度このトランプを使ってしまえばもうほかのトランプなどすべて捨ててしまってかまいません。
さぁ、欲しくなってきましたね。知りたくなってきましたね。
そうじゃない?
そんなはずありません。だってこの文をここまで読んでしまっているでしょう?
それでは始めましょう。
用意するもの。
トランプ・一箱。出来れば新品のもの。
刃物・お好みで何本でも。ただ、よく切れるものの方が良いと思われます。
水槽・トランプ全体が沈めば、大きさはどんなものでも構いません。要は水をある程度貯めることが出来れば良いというお話です。ただ、そこはそれなりに深い方が良いようです。
花・一輪で構いません。ただこの花は貴方が自分の足で歩いて見つけてきた、根の付いた自然のものでなければいけません。
さて、用意は出来ましたか?
出来たなら、まずは月の状態を確認しましょう。月が見えない新月の日ならば次へ進みましょう。それ以外の日なら新月の日を待ちましょう。
新月の日になりましたか?
それでは次に時間の確認です。
夜中の0時から、1時の間に行わないと、このおまじないは効果がありません気をつけましょう。
確認できましたね。
そうしたら『場』を作りましょう。
何も難しい事はありません。
誰にも見られないようにこっそり、お庭に出て水槽に水をいっぱい入れればいいのです。簡単ですね。
ここで注意して欲しいのは誰にも見られてはいけないと言う事です。おまじないが完全に終了するまでその姿を誰にも見られてはいけません。
それでは本格的に始めましょう。
まず水をいっぱいに入れた水槽に、新品のトランプを箱から出した状態でばら撒きましょう。
次に、用意した刃物で手首を切りましょう。
血が沢山出るかもしれませんが、死ぬことは無いので安心してください。
さて、そうして血が沢山出ている手を水槽に差し入れて水槽の中の水をかき回します。
ハイ。ここから重要なのでちゃんとやりましょう。
ちゃんとやらないと効果がありません。
まず、かき回す方向は右に三回、左に四回。ゆっくりとかき回します。
このかき回すときに『トランプが私に勝ちを運んで来てくれますように』と心から願いながら唱えましょう。口に出すのが恥ずかしい人は、心の中でも構いません。どちらでも良いので真摯な気持ちで真剣に唱えましょう。
かき回し終えた時にはきっと水槽の中の水は貴方の血で真っ赤に染まっているはずです。
貴方はゆっくり、水槽から手を抜き取ります。
最後に花を静かに水に浮かべましょう。
そして見守ってください。
浮いていた花はゆっくりと水槽に沈み見えなくなるはずです。注意して欲しいのは、花が完全に見えなくなるまで、待つということです。
この花は、神様への贈り物なので浮かべたら絶対に手を触れてはいけませんし、底に沈んで完全に見えなくなるまでは決して水槽の中の水に触れてもいけないのです。
さあ、これで終了です。
これで貴方の血に染まったトランプを使って勝負すれば、貴方は絶対に勝ち続けることが出来るはずです。
凄腕ギャンブラーの称号は貴方のものです。
そうそう、言い忘れていましたがこのトランプを使うと、敗者に不幸が訪れますので、仲の良いお友達とはやらないようにしましょう。
高校一年。冬。
平凡で安穏とした僕の日常がそこまでは流れていた。
僕の日常。
勉強とか食べ物とか友達。それにちょっとの恋心。いや、最後は無かったかも。
そんな日常だった。
誰だってもっている、ありきたりな、本当に極ありきたりな日常を送っていた。
だけれども僕のちょっとした好奇心でその日常は、至って静かに滑らかに、まるでそうなる事で、歯車が噛み合ったかのように自然に終わりを迎えた。
僕は今日も顔を洗ってから、鏡を覗き込んだ。
覗きこんだ鏡には、僕の顔は映らない。
「ふぅ。なんだかなぁ」
僕はコンビニで立ち読みしていた雑誌を、乱雑に棚へと突っ込んでいた。
その乱暴さに息を悪くしたのか、しゃと小さな音がして雑誌の表紙がしわになってしまった。
「やべ」
僕は店員がみていないのを横目で確認してから手早くシワのばした。
やや荒めに伸ばされシワの後をきっちりと残しているその雑誌。その表紙には『心霊特集』だとか、『本当にあった、恐怖のトンネル』などの穏やかではない文字が多数躍っている。おどろおどろしいし、目立つ奇怪な表紙がチャームポイント。しかし僕にとっては、見飽きた漫画のようなもの。
得に興味を引くようなものではなかった。
でもまあ習慣というべきか習性というべきか。どうしても気が付いたら読んでしまっている。そんな長い惰性から出た生活習慣病の様な癖を中断し、顔を上げる。
ガラスごしに見えるコンビニの外側の風景はすっかり闇に染まっている。
僕は左腕に巻き付いている時計を確認。そろそろ良い時間だ。そう判断してコンビニを後にした。
その当時僕は、高校一年生。
すでに高校受験から、一年余りが経過した春休みだったと記憶している。誰かの脳内改変がなければ間違いないはずだ。
大学受験のことなど頭の片隅にも無く、二年生になった暁には『中だるみ』の文字が二年生と言う文字の頭にくっつく事は間違いなかった。まあ付いたからといって、何か起こる訳でもないし、悪名を払拭するために、勉強であったり部活をするわけでもない。まあ、中だるみの称号に恥じることの無い学生になるであろう。名は体を表す。有言実行なのです。
そんな僕が宿題も出ない春休みに、家で熱心に勉強をするはずも無い。
当然、部活をやっている訳でも無い。友達と遊ぶのも良いが金が無いので、誰かの家に言って気長にテレビゲームでもしているぐらいしかなかった。でも、それも直ぐに飽きが来る。
かといって、恋人といちゃいちゃする事も無く、と言うかまあ、恋人なんて居なかったのだけれども。 ああ、恋したい。
まあ、そんな感じの僕は長い休みで暇を持て余していた。
それでも刺激が欲しいのが思春期の性というものだろう。だって青春だもの。だって動きたい年頃ですから。
じゃあどうするか。
僕は考えた。必死に勉強以上に考えた。
あまり良くない友人の中には、街で暴れ廻ったり、バイクを乗り回したり、喧嘩で若い性を発露したり、ドラッグなんかに刺激を求める人間も居たが、僕は暴力的な人間ではなかったし、ましてタバコも酒もやる勇気の無い、小さい器の持ち主である僕がドラッグに手を出すはずも無い。一度は浮かんだものの、脳みそに勝手に住み着いていた良心さんに却下された。
それでも何処かへ行きたい僕の気持ちが行き着いた先が、心霊現象や、恐怖映像、心霊写真などの所謂ホラーモノと言うか。
何でそんなものに、と思う。
特に霊感の無かった僕だが、たまたま目にした雑誌に投稿されていた心霊写真に心奪われすっかりはまってしまっていたのだ。まあ、穴が開いていて其処に落っこちてきたものが勝手に占有したとう感じ。なのか?
まあ、それで行動開始と相成りました。はまってからした事。最初にしたのは、レンタルビデオ屋のそう言った類のビデオを借りる事。幸いなことに、そう言った類のビデオは今のご時世、腐るほどレンタルしていた。
素人が投稿した動画や、心霊写真、怖い話などを収めたDVDがお気に入りで、確か四日で近所のレンタルビデオ屋を制覇 〔そういったもの限定〕していた。
そして次は実際に心霊現象が起こるという現場に行く事。
常に金欠気味の僕は自転車でいける範囲の現場を廻る事にした。
封鎖されたトンネルであるとか、それらしい廃屋を見つけては入り込んだ。そして、ぱしゃぱしゃと写真を取りまくる。もちろん心霊写真を撮るためなのだが、残念な事にそれらしい写真が撮れたことは一度も無かった。
こうして完全に煮詰まってしまった僕の好奇心は、なるべくしてといいいますか。一つの到達点として其処に狙いを定めた。
都市伝説なんかでもよくある、ちょっとした儀式のようなものに、である。
たとえば、何とかという話を聞いたら、三日以内にその話が自分の身に降りかかるといった類のものにである。
まあ、最初はそれを行うのにちょっと後ろめたいと言うか、実際起こったらやだなぁ、と言った何と言うか漠然とした不安みたいなものが僕の中に渦巻いていた。
死んだらどうしよう。でも気になる。好奇心と、不安のせめぎ合い。
こういった争いは普通有耶無耶のまま、いつも間にか消化されてしまうものだろうけど、僕の場合は違った。
消化される前に、決着が付いてしまったのだ。
苦戦しながらも、粘りに粘ってのKО勝利。好奇心に軍配が上がってしまったのである。
今でもたまに思ってしまう。
僕にあんなに好奇心が無ければ、ホラーなんかに興味を持たなければ。
そして何より、あんな事を実行するほんのちょっとの勇気を持ち合わせていなければ。そんなものが無ければ、あの日までの退屈で、充実した日々が今でも続いていたんじゃないかと。いやまあ、それまでの生活が充実していたかどうかは、まあ、うん。そうでもないんだけどね。
まあ、そんな事考えてもしょうがない。過ぎてしまった事をやり直しなんて出来っこないのだから、ね。思い出しても辛いだけだし。はあ。
と、まあ、話の続きだけど、数ある都市伝説といわれる話の中で、僕がその時に行おうとしていたのは『合わせ鏡』にまつわるものである。理由は手順が簡単だからである。
ただ二枚の鏡を向かい合わせるだけ。
実に簡単である。金も手間もほとんど掛からない。いや、手間はそれなりにかかるか。まあそんな事はあまり今回の話とは関係ない。
本題に戻ろう。
『合わせ鏡』
それは二枚の鏡を向かい合わせると、お互いの姿が映りあい無限に奥に続く鏡が作られると言うもので、古くから『別な次元に続いている』とか『死者の国への入り口だ』などと言われていたりもする。
また、鏡自体が、神とのコンタクトをする為であったり、未来を覗いたり、過去を知ったりと、かなり魔術的目的で使われることも多いものだ。
卑弥呼なんかも、ピカピカに磨いた金属の鏡。当時は貴重だった銅鏡を用いて占いをしていたなんて言う話はかなり有名だろうと思う。いや、水に顔を映していたんだっけ?
それはともかくとして、『合わせ鏡』の話である。
『合わせ鏡』に関する伝説というか、ホラー染みた逸話は枚挙に暇が無いが、僕がその時チョイスしたのはかなりマイナーな部類に入る逸話に違いが無かった。それは起こる現象ではなく、時間によるところが大きいと思われる。
これは僕が町の古本屋で『奇怪な小話』と言う本を買ったのだが、この本に記されていた方法である。
ちなみに、この本は1972年に出版されたもので、作者の名前などもちろん聞いた事など無かった。内容は聞いたことの無いような、奇妙な話が、短編として複数収録されているものだった。
さて、その複数乗っている話の中で、唯一短編ではなくただの解説のようにやり方だけが淡々と書かれていたものがあった。
それが『合わせ鏡』と題されたものだった。
内容はこうである。
まづ、幾つか用意してもらいたい物がある。
一つ、姿見ようの大きな鏡。二つ。
一つ、時計。時間の合っているもの。以上である。
日時・行う日は出来れば満月の日がよろしい。
場所・月明かりの入る部屋。または屋外。ただし、月の明かり以外の明かりが絶対に無い所。
手順・用意した二枚の鏡を合わせる。ただ、この時鏡のうちの一つに布などで目隠しをしておくこと。 二枚の鏡の距離は自分の肩幅の倍程度が望ましい。
そして二枚の鏡の間に立つ。そしてから、鏡の布を取り去る。ただ、取り去った側の鏡に目をや ってはいけない。
時間を確認する。
時間は午前二時三十六分。
この時間になった時。
それが終わりの時である。
以上が記してあった全てである。
何が起こるのか、そもそも何が目的なのかも分からないものだ。だけれども、ちょっとした好奇心と刺激を求める心が、初心であり原動力でもあった僕は、この何が起こるか分からないところに激しく魅かれた。お金も掛からんしな。はははっ。
そしてこれを実行することにしたのである。
であるがしかし。しかしである。ここで問題が発生したのである。
僕の部屋にはそんなに大きな鏡など無かったのである。
それは住まいが学校の寮だったからである。部屋ある鏡といえば、クローゼットについている小さな物しかなかったし、知り合いも姿見などもっているものは皆無だった。
そこで、僕が取った手段といえば夜の学校に忍びこむと言うものだった。
これは、もう考えただけでわくわくした。
夜の学校に忍び込むというだけでも、どきどきモノなのに、忍び込んだ上で変てこな何が起こるかすら分からない儀式を行うのだ。
これが、ホラー大好き少年だった僕の心に響かないはずも無かった。
と、言うわけで僕は学校の手前にあるコンビニで時間を潰してから、夜の学校へと向かった訳である。意外と行動力あるんですよ。僕。
コンビニから学校までは徒歩三十秒ほど。ちなみに寮から学校までは徒歩で三十分ほどかかる。
寮なのに遠いよねぇ。学校は何を考えているんだろうか。知らんけど。
暫く歩くと、粗末な柵とその向こうに見えるグラウンド、そして巨大な校舎が見えてくる。
僕は二十秒ほど歩いてから、柵を乗り越え学校の敷地内へと足を踏み入れた。そして柵沿いに移動を開始する。
夜の学校だあ。若干興奮気味に闇に包まれている校舎を見上げる。心霊写真を撮るため様々な廃墟やトンネルを廻っていた僕だが、やはり夜の学校の持つ独特の雰囲気には参った。ドキドキがとまんない。
静まり返り、明かりすら付いていない校舎は、廃墟となんら変わるところ無く、昼間こんな所で勉強していると思うと、なぜだか鳥肌が立った。
そんな校舎を見上げながら、僕は廊下に面した窓へと手を当てる。
ひんやりとした感触が手にある。僕はその感触が消えないうちにポケットから針金を取り出す。その針金を窓の隙間から内側にすべり込ませ、手首を捻るように動かすとかちゃ、と乾いた音がして、ロックが 外れた。
僕は針金をポケットにしまいながら、窓を開けて、窓枠に足を掛けた。
立て付けの悪いこの窓は、窓と窓の隙間から、曲げた針金なんかを滑り込ませば簡単にロックを外す事が出来るのだ。
学校に侵入した僕が向かう先は、準備室と呼ばれる小部屋。準備とあるが何のことは無い、ただの物置部屋であり、ものが雑多に置かれている。そんなところに向かう理由は簡単で、そこには大きな窓がある事と、大きな鏡が三つ以上あるからだ。
夜の校舎を足早に歩く。
なんだろう。
ただ暗いだけだというのに、夜の廊下や教室は異様で異質なもののような気がした。誰も居ないのに後ろが気になったり、ちょっとしたスキマに何かいそうな気がした。
そう。ただ怖かった。ドキドキの質が変わっていたのです。
それ以外には何も無く。でもここまで来たからには引き返せなくて。何かに憑かれたように準備室へと急いだ。
僕は準備室にたどり着くと、鍵の掛かっていないドアを静かに開けた。
中は思っていたよりも遥かに明るい。
差し込む月の光が、本当に明るいのだ。
僕はその光に安堵した。
そして、準備を開始する。音を立てないように、ドアを閉め、ずかずかと奥へと歩を進める。
「よいしょ、っと」
石膏の像の後ろにあった鏡を引っ張り出す。きいきいと嫌な音を鳴らしながら鏡は僕の前に姿を現した。
薄汚れた鏡。ゆがんだ僕の顔が映っている。
僕はその鏡を丁寧に持っていたハンカチで拭いた。
水色のハンカチは鏡に付いていた埃であっという間に真っ白に染まってしまった。僕は白くなったハンカチを軽く振って、埃を払ってからポケットにしまった。
そして、もう一つの鏡を引っ張り出す。こちらは布がきちんと掛けられているようだ。僕は布をちょっと捲って、中が鏡である事を確認する。どうやらちゃんと鏡のようだった。そして、って言うかどっちにもちゃんと掛けておけよと思いながら、もう一つの鏡を引っ張り出した。
そして二つの鏡を僕の肩幅の倍の距離を取って向き合うように並べた。
「ふう……」
僕は軽く呼吸を整えてから、時計を確認した。
時計は二時二十一分を示している。
「ちょっと早いか……ま、いいだろ」
僕は呟いて向き合わせた鏡の間へと足を踏み入れた。
ちょっと僕はがっかりする。
「何にも感じない」
まったく異質な感じもなく、また寒気も無い。
僕はそんな気持ちのまま、手探りで、自分の背後にある鏡の位置を確認。鏡の角度が変わらないように細心の注意を払いながら、鏡に掛かっている布を取り払う。
ふわりと音も無く埃にまみれた布は床へと落ちた。
そうして、僕の目の前には無限に続く鏡の回廊が形成された。
きっと後ろの鏡にも同じように回廊が形成されているに違いない。
時間は、まだ十分以上ある。
僕は例の時間が来るのを今や遅しと待つ。目の前の無限に続く自分の姿を見ながらである。
じっと見つめていると、なんだか自分の居場所がここでいいのか? という考えがわいてくる。ここに居るのは実は鏡に映った自分の一人でしかなくて、本当の自分は後ろか前に居るんじゃないかと。
僕は軽く頭を振った。
そんな訳無い事は分かっている。
僕は、本当の僕は今ここに立っている。
「はは」
僕は自嘲するように薄く笑った。確かにこりゃ、別な次元に続いてるとか、死者の国だとか思いたくなるよな。
そう思った。
思っただけならどれほど良かったか。
そして、時間が訪れる。
あの時間が。
二時三十六分。
僕は時計を確認した。
腕に巻いた重みが心地よい時計。その時計の長針と短針は二時三十六分を十秒ほど過ぎた時間をさしている。
「ふう。駄目か」
そう呟いた。
前後に無限に続く僕の姿も、僕と同じよう首を少しだけもたげ、ふうと小さく息を吐き出し、駄目かと呟いた。
ハズだったのに。
「そ、そうでもない?」
突然だった。
背後から、声がした。
僕の声とまったく同じ声で。
とっさに振り向こうとした。
しかし駄目だ。
駄目なのだ。どうしても、どんなに力を込めても首が、首が動かない。
いや、首だけではない。体のあらゆるパーツが、腕も足も指もまったく動かない。瞬きさえも自由に出来ない。もしかしてこれが金縛り?
まあ、紛れも無い金縛りに僕はかかっていた。全然動けない。こんなに動けないのは初めてだった。
そして、動けない僕に追い討ちを掛けるように、首にするりと何かが巻きついた。
その何かは指で、冷たくて。苦しい。
力を徐々に強めていく。
僕の首に食い込んでいく。
苦しい。
苦しい。
苦しい。
「俺はぁ……腹が減ってんだよ」
僕の声で喋る何かは、指に込める力を徐々に強めながら話し始める。
「ずっと待ってたんだ。俺を呼び出してくれる奴を。そうだ呼び出してくれる奴? そうだ呼び出してくれる奴。前の時、前の時っていつだっけなぁ? ずっと昔のようなそうでないような。そうだな最後に食事をしたのは、食事をしたのはだな何時? ……思い出せない。ただあの時は女の子だったなぁ」
そういったものは愉悦の表情を浮かべているに違いない。そして歪んだ口からは絶えず、人間のようなぬくもりを持った息が吐き出されている。耳に生暖かい空気が浴びせかけられる。
それがどうしようも無く気持ち悪い。
だって、まるで人間のようなのだ。明らかに人間でない。なのにこの温もり、肌の感じ、息の湿り気。一体こいつはなんなんだ。
気が遠くなりそうな僕の耳元に何者かは呟くようにささやき続ける。
「俺は腹が減ってるんだよ。お前は美味そう。いい匂いがする。いい匂いうまそう。うまそう? 前の女の子とどっちが美味しいかな? こっちかな? でも女のこの味忘れたな。どうでもいいか」
首を絞める指にいっそう力が込められた。
皮膚は裂けそうなほど、つっ張っている。
息なんてとっくの昔に出来ない。
ただ苦しい。
悶えたくても、指から逃れたくても、体が動かない僕にはどうすることも出来ない。
「だけど俺が食事するには、お前の肉が邪魔なんだ邪魔なんだ。だから死んでくれ。肉から抜けろ。魂をくれ、肉が邪魔だ、邪魔だしね」
僕の肩に何かが乗ってきた。
ずうんと、重いもの。ボーリングの玉くらいの重さだったと思う。
視線すら動かせない僕が見たのは、
目の前にある鏡に映ったそれは。
「死んでくれよ……」
恨めしそうな顔をした僕だった。
まずい。
殺される。
そう思った僕はとっさに口を開く。
「……待ってくれ。は、話がある」
そう言ったんだと思う。
本当に声に出したか、心の中で叫んだのかは分からない。まあ、金縛りにあっていたので心の中で叫んだ、というほうが正しい気がする。
どちらにしたとしても僕の声が届いたのだろう、不意に首を絞める指の力が緩む。しかし肩にのっている重みは消えない。今だ、完全に解放されたわけではないのだ。
だが、僕を殺そうとしている僕の形をしたものに、その言葉が届いたらしい事だけは確かだった。
僕は少しだけ広くなった気道にいっぱい空気を送り込む。恐らく痣が出来ているだろう僕の喉はひりひりと痛んだ。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
肩に首を乗っけるようにしながら、その僕の形をした何かは話す。
「話ってなんだ?」
僕は慎重に言葉を選ぶ。せっかく得た延命の機会を無駄にしないためにも、下手なことを言うことは出来ない。首にいまだに絡み付いている指には、いまだ殺意のようになものを持って小刻みに力が入ったり抜けたりしている。
唇が震えている。
心がバラバラになりそうだ。
落ち着け。落ち着け。
僕は深く深呼吸をし、暫く考えた後、恐る恐る口を開く。
「お前、腹減ってるんだろ?」
「ああ」
「お前は……魂を食う?」
「ああ」
「この……そうだな『儀式』をしないとお前は食事が出来ない」
「ああ」
「じゃあ、質問だ」
「なんだ?」
「この『儀式』は僕が死んだら終わりなんだろう?」
僕の顔をした別なものは不思議そうに首を傾げながらもこたえる。
「……俺がお前を食ったら終わりだ。俺は強制的に帰らされる」
帰らされる? 地獄とかにか? っといけない今はそんな事を考えている場合じゃない。僕はふるっと頭を軽く振ってから、一つの提案を『彼』に投げかける。
「そこで、提案がある」
「なんだ?」
「僕は生きたい。お前は腹を満たしたい。どっちも叶える名案だ」
突然の申し出に、僕の形をした何かは少し考えるように黙り込む。そして、口を開いた。
「なんだ言ってみろ。くだらない事だったらすぐ、お前を食ってやる。それもあれだ、苦しめながらじわじわとだ」
……それは困る。いやマジで。
僕はふうと息を吐いて、話を始める。
「僕が生きていれば、お前はずっとこっちにいる訳だ」
「ああ」
「だから、お前は僕を殺さずにこっちに留まれ。僕がお前に餌をやる」
「餌……? 俺の腹を満たしてくれるのか?」
「ああそうだ」
「本当か?」
「……ああ」
『彼』は僕と同じ顔を、僕には出来ない邪悪さを交えた不気味な笑顔に歪ませた。
「いいだろう。それが本当ならお前は殺さないでおいてやる」
この時ほど心霊特集なんかを見まくっていたことが良かったと、思えた時は無い。
魂を喰うってことなら、こっちには沢山いるのだ。
首無しの侍のでる丘。
日本兵が行列を作って練り歩く、細い街道。
鉈を持った着物の女性が出る竹やぶ。
餌なんて言ってはなんだが、魂って事ならそれこそ掃いて捨てる程いるのだ。
これから餌になるであろう、死したる者達へ静かに感謝と、反省の意を示しながら金縛りから解放された体を、くるりと後ろへと向ける。
目の前には、僕が立っている。
邪悪な僕が。
「さあ、契約だ。契約」
反転した僕はそう歌うように呟いて。眼を細めた。
僕はこの瞬間まで気がつかなかった。悪魔との契約には対価が必要だという事に。
「じゃあだなだな俺はお前の『 』を貰っておくおくのか? おくっ」
そう言って、僕の口が耳まで裂けた。伸びて変形。食わ、れた。……。
こうして平凡な日常を生きていた僕は死んだ。
そして、死に付きまとわれ、逃げ続ける新たな日常に生きる僕が生まれたのだ。
鏡を見つめる僕の先にあるのは、僕の顔をした別なモノ。
終わりの匂いをさせた、異形の僕なのだ。