いつかの学校にて
「くはは。楽しいな。楽しいな。こういうのは何ていうんだろうな」
がりがり。
がりがりと。
「そう。あれなんだよ。成功も失敗も全てはこのときの為に用意されていたんだろう。全てはこの時の為。順調だ。もう出来る。ああこの世界は美しいのだ。それゆえに、愛しく憎らしく、楽しくつまらないのだ」
紙に万年筆の硬質な先端が走る。
そして、万年筆の動きに合わせてがりがりという音が響く。
明かりは一切無い。
しかしそれでも部屋の明るさは、執筆作業をするのには問題のないくらいにあった。
外に面した壁の上半分くらいは窓ガラス。そこからは大きな満月が見える。雲ひとつなく、降り注ぐ月の明かりは、余すところ無く部屋を照らしている。
月の優しい明かりに照らされる部屋の中には、大きな木製の机が六つ。それぞれの机の周りには木で作られた背もたれのないそまつな椅子たちが机を囲うように並ぶ。
そして壁に並ぶ棚には大小さまざまなビーカーやフラスコ、アルコールランプ、蛇やカエルなどのビン詰などがところ狭しと並んでいる。それらは、月の輝きに照らされ怪しく光る。
そんな部屋の中の、おおきな机のうちの一つに、ひとりの男が座っている。顔に嬉々とした表情を浮かべて、一心不乱に紙に文字を書きなぐる。
がりがり。
がりがり。
大きな机を埋め尽くすように、何かの図形や何語か分からない文字で埋め尽くさた紙が散乱している。
男は一枚の紙を埋め尽くすとそれを投げ捨てる。そして近くに積んである紙の山から一枚を手に取り続きを書く。
がりがり。
がりがり。
男の指は止まらない。
大きく硬質な印象の手は、熟練の刀鍛冶の手のようにごつごつとして、岩のような印象を見るものに与える。
その無機質な岩の塊は休むことなく動き続ける。
ひたすら、ひたすら。
記すため。
残すため。
快のため。
「いい。いいな。もうじき終わる。ははは」
「何が……完成するのかしら?」
不意に響く女性の声。
それでも男は一瞬も手を休めない。
ぎい、ぎし。
そんな男のことをしっかりと目に捉えながら、床の軋む音と共に女性は部屋へと入室する。
きし。
きしきしきし。
そして彼女に無数の小さな足音が続く。
三匹の犬たちの足音。
漆黒の体毛に全身を覆われた彼らは、真っ赤な目に明らかな殺気と敵意もって、筆を走らせ続ける男を睨みつける。
女性は今にも男性に飛びかかろうとする犬たちを右手で制すると、ゆっくりと腕を組んだ。
「もう、貴方の自由にはさせません。……先生」
「自由?」
男はゆっくりと顔を上げる。
無精ひげに覆われた初老の男性。死んだような光のない瞳で女性を見やる。美しい黒髪を持ったセーラー服の女性が生気を失った瞳に映っている。
「君は私の楽しみを奪うというのか? ん?」
そう言って手を休め万年筆を置く。
そしてゆっくりと、優雅な動作で頬杖を突く。余裕であることを示すように口元を歪めた。
「ええ。先生のやろうとしてらっしゃる事は、世界に混乱をもたらします。あらゆる倫理観や世界観が破壊され、最悪人類が滅びかねない」
「ふん。そういう事態も考えられる。しかし人類が大きく飛躍する可能性だってある」
「可能性があるというだけです。それに先生の言う飛躍というものが現在の秩序を捨ててまで得る価値のあるものだと私には思えません。それに先生?」
女性は薄く口元に笑顔を浮かべる。
「……それに先生が人類の進化だとか進歩だとかを願っているとは思えませんけど」
「そうか。まあそうかもな。くははは」
笑う。
笑いながら、男は両手を大きく広げ、天をあおぎ高らかに言葉を紡ぐのだ。
「そうだ! 人類の進歩がなんだ? 進化がどうした! そんなものは私には関係ない。私が欲しいのはそう、適度な刺激と、好奇心を満たしてくれる発見だけなのだ」
女性はその様子をみて眉間にしわを寄せ、頭を左右にゆっくりとふる。
「……相変わらず身勝手」
「くは。どうでもいいだろうそんな事は。それこそ私の自由だ。で? どうする? ん。そこにいる三匹の僕に私を襲わせてみるか?」
男は嘲るようにへらへらと笑いながら犬たちをみやる。
一方の漆黒の犬たちは、姿勢を低くし今にも飛び掛りそうに眼をぎらつかせ、乱雑に並ぶ牙をむき出しにしてうなり声を上げている。
「くは、いいだろう襲わせてみるといい」
そう言って椅子から立ち上がると少し左足を踏み出し、首をかしげて見せる。
道化のようににたにたと笑いながら、三匹の犬たちをねめつけるように見つめる。それに反応し女性の足元に居た犬の一匹が前ににじり出た。
「ぐわう!」
「やめなさいっ!」
女性の制止にかまわず、その一匹の犬が飛び出した。大きく口を開く。真っ赤な口に乱雑に配置された牙が、男性の首元を狙って高速で襲い掛かる。しかし、その牙は男に届くことはなかった。
ゆっくりと右手を男性が挙げる。そしてその瞬間、
「喰らえ」
「ぎゃ」
ごりごりと硬質なものを削り取るような音が辺りに響く。
音に合わせ犬の牙を含む頭部が何かに削り取られるように、男性の手前一メートルほどの地点でこの世界から消滅した。捻れてはじけた血液と肉があたりに散乱し、鼻をつく異臭が立ち込める。
頭部を失った犬の体は、見えない壁に激突したかのように空中で不自然に停止している。そしてゆっくりと、だんだんと早く落下を始める。犬の体の落ちた、どちゃんと湿った音が室内に響いた。落下した黒犬の体は力なく痙攣している。
「まったくしつけがなっていないな。君の制止を聞かないんだからな」
そう言って床に転がっているものを見下ろした。
床には赤黒い血が煮立ったお湯のようにぼこぼこと音を立てながら広がり、その中心には先ほど飛び掛った犬が横たわっている。犬ではなくもはやただの肉塊と化したその様子を冷めた視線で見ながら女性は淡々という。
「……見事なものですね。あらゆる物との境界を作り出す力。確か実験の副産物でしたね」
「あらゆるモノか。少し語弊があるがまあそういうことだ」
くは、と小さく笑いそして女性へ顔を向ける。
「さてどうするんだ? それで君に私をどうこうできるのか?」
「出来ます」
「ん? どうやってだ? まさかまた同じことを繰り返すのか? その犬の様な肉の塊を作るのも面白い」
女性は目を閉じてその声に耳を傾けていたが、何かを決意したように小さく息をはきだすと目をゆっくりと開いた。
「先生」
「なんだね?」
「私。先生から色々学びました。この世界に足を踏み入れたとき、うかつなことをして殺されかけていた時に命を救ってくれたのは貴方でした」
「……」
「そして、色々な陣の作成から薬の調合、悪魔の使役の仕方まで教わりました。感謝して
います。心の底から。貴方がいなければ今の私は居ない」
女性は目を閉じ何かを思い出すように、頭を少し上げる。
そして、目を見開くと、男を、先生と呼んだ男を強い視線でいる。
「……ふむ」
男は椅子に腰掛け、転がっていたペンを手に取るとまた筆を走らせ始めた。
そしてがりがりという調べに乗せてぽそりと呟いた。
「……本気のようだ」
女性はゆっくりと自らのポケットに手を滑り込ませる。ポケットから現れた白い手には、小さな、けれども複雑な刻印の施されたナイフが握られていた。
「ええ。だからこそ、私が貴方を止めて見せます」
そう言って手に持ったナイフを人差し指にあてる。
ナイフは留まる事無く横に走り、朱線を描いた。赤い玉が盛り上がり、とろりと紅い粘液が溢れ出した。粘液はゆっくりと糸を引きながら床へと落ちる。
それと同時に、落下する緩慢な速度からは想像出来ないほどの速度で、床に落ちた地点から十本の真っ赤なラインが走りだした。それは教室を縦横無尽に走り回り、複雑な文様を描きながら広がっていく。
男は、感心したようにふむといって頷く。
「縛鬼か」
「ええ。最初に貴方に教えていただいたものです」
「上達したものだ。まさかこれほどの規模で発動できるとは思わなかった。しかしいいのかね? この方法では私は殺せないぞ?」
「何を言っているんです? 殺したりなんかしたら先生のことです。気が付いたら生き返ってしまうでしょう?」
「くは。違いない」
「ふふっ、でしょう。ならば、貴方を封印して、ここで貴方を見張っているほうがよほど現実的」
「確かにな」
「では、このまま封印させていただきます」
そういって笑顔を顔に受かべる。
と同時にパチンという乾いた音。
指の鳴るその音に合わせて、教室中に広がっていた文様が中心に向かって、今度は先ほどとは逆向き、一気に収束を始めた。そしてその収束の中心点は血液の落下地点ではなく、男の体だ。
虫の大群が一斉に動いているような音と共に、赤い文様が男の体を這い上がっていく。
足先からくるぶし、膝を経て腰へ。
文様は男の体から自由を奪いながら上へ上へと移動を続ける。
「くはっ、くははは」
そんな状況にありながらも男は笑っていた。足の指が踝が膝が腰がそして背骨も。そして文様がアバラにまで到達したところで、更に大きく口を開け、面白くて仕方ないというように楽しそうに楽しそうに笑っていた。
「……何が可笑しいんですか」
訝しげに眉根を寄せる女性。
「いや、何。必死だなあと思ってな」
「……」
「だがまあ、私はとりあえずここまでだ。ほら見たまえ」
男は右腕を上に上げようとするが、五センチほど上げたところで、複雑な文様に飲まれ動きを止めた。
「この通りだ。君の張った陣はこうも見事に私を捕らえている。最早逃れることは不可能だろう。そして、これが私の全身を覆いつくしそのまま黒く収束して私の封印は完了という訳だ。うむ。実に見事な手際だ。賞賛に値する」
そう、弟子の手際を褒め、自らの負けを完全に認めながらも、にやにやと人を馬鹿にしたような笑顔を浮かべている。
「では……」
女性はうっすらと汗の滲んだ顔で睨みつけるように目を細める。そして搾り出すように、言葉を紡ぎだし男へとぶつける。
「ではなぜ、なぜ貴方はそうして笑っている! どうして、そんなに平然としていられるんです? 自由がなくなるんですよ! 何も出来なくなるんですよ? なのに、なのに」
「くは、心が乱れているな。まだまだ甘い」
「くっ」
女性は悔しそうに唇を噛む。唇から血が流れ、顎に赤いラインを残していく。
「まあ、いいだろう。私の可愛い弟子の為にいい事を教えてやろう」
そういうと同時に男は口をパクパクと動かす。
音の無いそんな口の動きに反応するように、机の上に散乱している紙の一枚一枚が薄く緑色に輝き、がさがさと動き出す。
「何を!」
女性の声に反応するように二匹の犬が走り出し、空中を舞いだした紙たちを襲い始める。飛び掛り、薄い紙をまとめて引き裂こうと口を開く。牙を剥く。
「ぎゃう」
「ぎゃふ」
短い悲鳴のような声。犬の小さな体を無数の紙が覆い尽くしていた。紙は躊躇い無く収束し、犬の体を握り潰した。
くぐもった断末魔と共に紅い液体が紙の隙間から飛び出し、あたり一面に飛び散る。
犬を圧殺した紙はバラリと散らばり、赤く染まったまま再び踊りだす。
「くははは。まあ、何体か食われてしまったようだが仕方あるまい。この状況では上出来なほうだ」
「くっ、まだだっ」
女性が叫ぶと同時に、彼女の影がぼこぼこと脈打つ。そして現れた水泡を引き裂き、無数の犬が吐き出されていく。
「無理はするな。造型が若干不安定だぞ。それにもう遅い」
犬が舞い踊る紙をその牙で破り捨て、爪で引き裂く。緑色に発光する紙が次々に消えていくのを見ながら悲しそうに眼を細める。
「遅い。もう遅いんだ。私の遊びはもう始まっているのだよ。いや、終わっているというべきか」
紙は舞う。犬の牙が破り、爪が切り裂いても、それでも追いつかない。
犬や女性を嘲笑うように男の周りを紙達がさがさとこすれあう音を立てながら、彼の周りをぐるぐると回り始めた。
全身を文様に覆い尽くされ黒くなった主人を、哀れむように、嘲るように。
「くはは。私のコレクションした数百に及ぶ悪魔たち。彼ら弱いものから強いものまで全てを封印した紙たち。それがこれらだ。これらは、今から各所に散らばり、様々なものに擬態し、変化し、波長の合うものに取り付き喰らいつき、付き従う。操るもの操られるもの、変化するもの、しないもの。全てが絡み合い、ねじれ、世界は歪む。美しく、醜くそれは見るものに何を感じさせるか? くは。楽しみだ」
そしてまた笑い出す。
見れないのが残念だが。と小さく呟いて。ほぼ同時に顔を文様が覆いつくす。硬直した男の体が今度は小さく収束し始める。
主人が小さい箱の様な形に圧縮されたと同時に、紙が放つ光が強くなり一気に爆ぜた。
「あああああああああああああああああああああああああ」
悲痛な、金属をこすり合わせたような甲高い叫び声が響き渡る。
紙が叫んでいるのか、犬が叫んでいるのか。それとも女性か男か。何も分からない。
そしてそれを嘲る様に、しかし哀れむように薄く笑いながら男が呟く。
「まあ、よく頑張った。よくな。君にとってはベストだ。まさしくベストだ。だが一歩遅かったって奴だ。くははははは……、っておおっ。この姿でも喋れるのか」
そうして大音響が響く。
少し遅れて、高温と、衝撃が全てを飲み込んだ。