朝 + コミュニケーション = 容量不足
窓際に配置された白と茶のチェック柄のシングルベットがもぞもぞと動いている。
枕元にある携帯電話はバイブレーションで朝を知らせていた。
神谷涼太はその携帯電話を手探りで探しあて、慣れた手つきで止めた。
今日は休日、隣で眠る皆川香織を起こしてしまったか気になったが、香織は頭がかろうじて見えるほど布団にもぐり込んでいるため確認できなかった。
いつも同じスタイルだが、この寝方は息苦しくないんだろうか。
「どうして生きてるの?」
香織は僕を視認することなく問いかける。
「君がいるからっていう答えを期待してる?」
朝の天井までの気体は昼のそれよりも重い。
手のひらで目元を覆いながら絞り出した回答としては中々秀逸だった。
「できれば正直な方を期待してる」
「そっか。君がいるから」
「そう言うと思った」
「うん」
「全然嬉しくない」
「うん」
これ以上、寝ることを諦めた僕は、上半身をねじらせて、フローリングに置かれたコーヒーカップに手を伸ばし、昨晩淹れたコーヒーに口をつける。
「昨日の?汚いよ?新しいの淹れようか?」
「飲む前に言ってくれればお願いしてたけどね」
カップをフローリングに置きながら答える。
「さっきの話だけど・・」
この女性は本当に伝えたい話に限って一度に言い切らない特性がある。
そのインターバルは数秒から数カ月まで様々で、どの話の続きなのかリンクさせるのに苦労するのだが、今回は瞬間的にさっきの話とは「どうして生きるのか?」という問いだとわかった。
「ん?コーヒー?」
「違う」
やっぱり・・・少しだけこの面倒な話題でなければいいなと思ってしまった。朝だから。
息を吐きながら上半身を起こした。
「なにゆえ生きるのか?」
「うん」
布団で顔を覆い、天井を向いていた彼女は身体ごとこちらを向いた。
「さぁ?生物学的に生きたいと思ってるんじゃない?」
「何度か言ったことがあると思うけど、答えに疑問形は嫌いです」
「あー・・えーっと、正直わからんかな。まだうまい物も食いたいし、楽しいこともあると思う。だから生きたい」
「そっか。わかってるじゃん」
「そうやね。わたくしの欲求はまだ満たされておりません」
「いいね」
「いいやろ?」
「うん。私はもう何もいらないかも」
「ん?この前、猫が欲しいとか言ってたやん」
「あれは嘘」
「なに?その、意味のない嘘」
「君がどんな反応をするかと思って」
「っで?採点結果は?」
「100点」
そう言うと彼女は上半身を起こし、ベットの上でくるくるになった白いスエットを手に取り、素早く着替えた。
「いつも思うけど、俺が寝た後にTシャツ着るの?」
「そうだよ」
「どうして?」
「君は私が下着でうろうろしたら嫌がるんじゃない?」
「うーん。確かにそうかも」
「だから。偉いでしょ?」
「うん。100点」
この子は僕をよく理解してくれて、それを先回りして実行してくれている。
きっと他にも先回りしてくれている。今はまだわからないけど。
「何が欲しい?熱いコーヒー?朝ごはん?」
「コーヒー」
「わかった」
彼女は僕の上を通り過ぎて、2つのコーヒーカップを拾い、キッチンへ向かう。
僕も上半身を起こして行方不明のTシャツを探していると彼女が上下の紺色スエットを持ってきてくれた。
「ありがと」
彼女はTシャツをつまみながら
「だって私のこれ。君のだから」
「え?あーそっか」
彼女が来ているTシャツは確かに僕の物だ。この場合は昨晩僕が着ていたTシャツというのが正解。
「いくら探したってないよ」
「うん。でもありがと」
「うん」
スエットを着てベットに座ると右斜め前に彼女のワンピースが見える。
フローリングの上でバナナのようにねじ曲がっている。
視線はワンピースを捉えたまま、少し昨晩のことを思い出すがすぐに面倒になって思考を止めた。
朝は考えたくない。
ドアの向こうのキッチンで冷蔵庫を閉じる音や、フライパンをコンロに置く音が聞こえる。
きっと、朝ごはんを作っている。僕のコーヒーのリクエストは却下されていた。
「じゃあ聞くなよ」
彼女に聞こえないボリュームで呟いて、コキッと首を鳴らしてから立ちあがり、キッチンに向かう。
「朝ごはん?」
「そう。じゃあ聞くなって?」
「いや。朝ごはんが正解」
「100点?」
「そうやね」
すでにコーヒーメーカーからは湯気が上がっている。
僕のリクエストの半分は採用されていた。50点。
「コーヒーまだ?」
「まだだね」
「あとどのくらい?」
「もう少しだね」
「そっか」
「朝はほんとに頭の回転率が悪いね。普段はこんな意味のない会話は少ないもん」
「うん。60%減」
「でも、さっきの話の時に頑張ってくれたから、好きだよ」
「え?・・・うん。」
「そういうリアクションも好き」
「そういうリアクション?」
「簡単に『俺も好きだよ』とか言わないところ」
「俺も好きだよ」
「言うと思った」
カチッ・・コーヒーができあがる。
まだ水滴が付いているカップにコーヒーが注がれる。
「はい」
「ありがと」
「君はコーヒー好きだよね」
「うん」
「できたら言うから」
「うん」
ベットに腰をおろし、熱いコーヒーを片手にたばこに火を付ける。
まだコーヒーと煙草のタッグに敵うコンビには出会えていない。
一口のコーヒー、ひと吸いの煙草で徐々にもやのかかった頭がクリアになっていく。
煙草が丁度半分くらいになったところで今日のタスクについて考える。
このペースだと朝食は8時30分頃に完了。
それからメールのチェックとリプライ。
その際問題があれば対応。
ものにもよるが30分前後といったところか。
久しぶりの二連休は満喫できそうだ。
「スイッチは入った?」
彼女はテーブルの上を片付けながら僕を見ずに問う。
「うん」
「ご飯は食べるよね?」
「いただきますよ。朝食後、1時間程度で仕事は終わる。あとはお好きなように。ちなみに二連休だよ」
「え?ほんとに?」
普段から休日も仕事に終始することが多いこともあり、彼女の声のボリュームと表情が一気に上がる。
クールな彼女のこういう一面が最も愛らしい。
「うん。どこかに行く?」
「え?ちょっと待って。考える」
一気にクールダウン。こういう一面も素敵な部分。
ご飯、わかめと豆腐の味噌汁、卵焼き、焼き鮭、キュウリの漬物がキチンとテーブルに並ぶ。
「鮭とか昨日買ってきてたの?」
「そうだよ」
「すばらしいね」
「そうでしょ」
得意げな彼女の表情を見て、言って正解だったと確認する。
立派な朝食に手を付け、しばらく言葉が途切れる。
「どうして今日は午前中なの?」
「ん?仕事?」
「うん」
「たまたま。先週のようなトラブルがないから」
「そっか。無理してない?」
「ん?どうして?」
「どうして生きるのか?とか言ったから気を使ってない?」
まさかそれとリンクされるとは思わなかった。
「いや、本当にそのタスクで終了」
「そっか」
「どこか行きたいところ、したいことはありますか?」
「君はないの?」
「俺?そうやねぇ。久しぶりの休みやし、映画とか見たりするのは悪くない」
「映画?」
彼女が片目を閉じて嫌そうな顔をする
「いや、やっぱり映画以外」
「わかりやす過ぎた?」
表情を崩し、声のキーを上げて悪戯っぽく問う。
「なにが?なんのこと?」
こういう露骨な表情(豊かな表情とも言う)で自己主張する時は決まって機嫌がいい。
だから僕もおどけて答える。
「せっかくだから映画以外がいい。散歩とか、散歩は嫌だけど共有できること」
「共有ね。じゃあこれ食べて、仕事しながら候補を俺も考える」
「うん」
朝食を終え、PCを起動。
また暖かいコーヒーが用意された。完璧なタイミング。
彼女は財閥のお嬢様のメイドや大企業のワンマン社長の秘書でも務まるのではないだろうか。
PCの立ち上がりを待って、メーラーを立ち上げる。
新着メールは32通。ざっと一通り目を通してみる。
報告関連が主でリプライが必要なのは14通、内ヘビーな内容のメールは2通。
モニタの右下の時計に目をやると8時34分。
9時00分を目標に設定し、ライトなメールから機械的に返信していく。
キーボードを叩きながら、ふと考える。
いつからこんな仕事ばかりの生活になってしまったのか。
大切な人に休みを告げるだけで喜んでもらえるような乏しいプライベートのために働いている。
様々な大切なものを捨て、諦め、気付かないふりをし続けたおかげで、会社では年齢には不相応なポジションに自分がいることは理解している。
もちろん全て満足というわけではないが、自尊心を慰めるには十分な環境が会社にはある。
ひたすら走り続けた。
趣味や睡眠時間を捨て、友人や恋人の誘いを諦め、疑問や憤りに気付かないふりをして、ただただ仕事に打ち込んだ。
周囲からは「仕事好き」「変わり者」「負けず嫌い」などといった評価があることも理解しているし、大きく外れてはいないとも思っている。
ただ、自分には特筆すべき才能がないことを最も自分が理解しているので、人よりも多くの労力が必要だっただけだと自己分析している。
残業をせず、休日はしっかり休み、趣味はカメラと旅行という同期が主任の位置にいる。
部下である彼の方が自分よりよっぽど才能人なのだろう。
自分に何か一つでも才能があれば、その才能を伸ばすための努力は他者よりもできたはずだ。
無神論者ではあるが、神様や仏様が才能を振り分ける業務を行っているとすれば、僕に才能を振り分け忘れた。何とも雑な仕事ぶり。
そんなことを考えながらメールの文面を見返し、煙草に手を伸ばす。家で仕事をするメリットは煙草を吸いながらできる環境。
このスタイルで仕事ができれば、よりクオリティの高いパフォーマンスを上げることができるはずだ。
送信。
モニタから視線斜め上に、大きく煙草を吸い込んだ煙を吐き出す。
煙は壁に当たりふわりと拡散する。僕は煙草の煙の動きが好きだ。
吸わない人にはわからないだろうが、吐き出す煙と煙草から直接発生する煙とは色が若干違う。
特に煙草から直接ゆらゆらと漂う煙は円を作ったり、くるりと一回転したりととても動きがユニークでキュート。
煙の動きを眺めながら、ヘビーな内容のメールに対処するために、頭の中をクリアにする。
1通はクレーム。1通は現状の報告を仰ぐ上司からの催促。
クレームから手を付ける。
内容を要約すると、システム構築を依頼したが、こちらの意図とは違うシステムになりつつある。
担当者のクオリティが低いからこういうことになった。お前が来い。という内容。
この案件は開発当初は僕と部下の葛西というシステムエンジニアで打ち合わせし、途中から葛西に任せていた。
彼は構築についてはとても優秀だが、コミュニケーション能力に難がある。
葛西案件に関して言えばこういうクレームはよくある話しだ。
説明に専門用語が多いからクライアントが理解できない。
クライアントは理解できないまま構築が進むことを恐れ、自分に連絡する。
おそらく一度打ち合わせに同行し、軌道修正する必要があるだろう。
まぁ仕方ない。これは想定内。この段階で表面化したことで軽傷とも言える。
葛西に現状を告げ、現在の進行具合と仕様の報告を依頼し、クライアントにはお詫びと打ち合わせ候補日をリプライした。
さて、最も面倒な上司への進捗に関する報告。
定例ミーティングでの報告書に詳細な現状報告はしてある。
おそらくそれを見ていない。
「なんのためのミーティングなのか?」という問いに関しては、鎖に繋いで頭の隅に追いやる。
定例ミーティングの報告書をそのまま送ると嫌味なので、少しフォーマットを変えてメールに添付する。
この少しフォーマットを変えるという無駄な作業に時間がかかる。
会社という組織がパフォーマンスを上げるには交通費の削減ではなく、こういう無駄を要求する上司を削減することだと常々思う。これも頭の隅に。
「恐い顔・・」
「え?」
身体を右斜め後ろに捻らせると、テーブルに座る彼女からの視線に気づく。
「顔見えへんやろ?適当な・・」
視線をモニタに戻すと右斜め前にある卓上型の鏡が目に入る。
「これ?」
指を鏡に映る彼女に向け問いかける。
「うん」
鏡越しの返答。
「どうしても仕事だとね」
「元々攻撃的な顔だから余計に迫力あるよね」
「攻撃的な顔って初めて言われたわ」
「私も初めて言ったよ」
「あと数秒で終わるよ。送信。終わった」
「お疲れ様。早いね」
時計を見ると9時7分。予定より7分オーバー。
基本的には一回一回の投稿文の文字数は多いと思います。
読みづらいかと思いますが、何卒素人ゆえ、ご容赦下さい。
意見等ございましたら、お気軽に頂けましたら幸いです。