夢の自覚
結論から言おう。ここは夢の中だ。
無駄にだだっ広い真っ白な空間に、どこぞのヴィジュアル系バンドがライブで焚いたスモークのような霧。
これだけでもう、俺にここが夢の世界であることを悟らせるのに十分過ぎる非現実感をかもし出している。
それに、俺は寝る前のことをはっきりと覚えている。波の音を遮るためのラジオを聴きながら眠りにつくという、ごくありふれた日課をこなしてそのまま眠りについたはずである。
内容さえ記憶している。チリだかどこだかで大地震が起こったとか、確かそういう内容だ。
明日は一日その話でもちきりになるだろう。これはこれで非日常だな。遠い日本にいる自分にはあまり関係ないことだが。
そして最後にもう一つ。これは決定的だ。
非現実的な状況に置かれたとき、人間がまずとる行動。漫画やドラマでおなじみの、あの行動さ。
そう、「頬をつねる」って奴。御多分に漏れず、俺もそれをやってみたわけだが──結果はもうわかっているだろう。何の痛みもなかった。
そういうわけで、俺はここにきて数秒で最初の一行を確信した。
夢が夢だとわかってしまう。よくあることだが、それはそれでつまらない。
まあ、どうでもいいだろう。どうせこんな夢の内容など瑣末な問題の上、起きたらもう忘れているだろうし。
俺はそう考えて、所在無げにポケットに手を突っ込んだ。
かさり、と何かが擦れる音が耳に入る。右ポケットに入っていた音の主を取り出してみると、それはメモ書きだった。
しわだらけになったその紙を広げ、内容を読んでみる。
『残された時間は少ない。チャンスをやろう。青の扉を目指せ』
なるほど。この夢には一応ストーリーがあるらしい。
結構なことだ。いくら明日になったら忘れるとはいえ、こんなけったいな場所でただ無為に時間を過ごすのはご免被りたい。それならば、まだ何かをしていたほうがマシだ。
視線を紙から目の前に戻すと、いつのまにやらいくつかの扉が出現していた。
いまさら驚きはしない。夢というのはこういうものだ。何の前触れも無く物が消え、現れる。意味や理由など考えるだけ時間の無駄だった。
だがしかし、だ。
青の扉? そんなもの、この中には無い。すべてがモノクロだ。
模様の差はあれど、色の違いなどない。
どういうことだ?
何かあのメモ書きに秘密はないだろうかともう一度見ようとして、俺はあることに気が付いた。
いつのまにか、手や服の色がなくなっている。肌色を自覚できず、ただ白と黒の濃淡がわかるだけだ。
つまるところ、おかしくなったのは扉ではなく俺の目の方らしい。
我ながらなかなかに凝った夢だ。もし明日起きても覚えていれば、大地震と並んでのトピックスとなるだろう。
色がわからないのだから、模様で推測してみるしかない。
全部で三つある扉には、左からそれぞれ「りんご」「空」「海」を象ったモザイク模様が描かれていた。
「りんご」。これはまあ、赤いのだと判断していいだろう。「青りんご」なんてものもあるが、あれはどちらかと言えば緑色だ。ホントに真っ青なりんごなんてあったら俺は金を積まれたって食べたかないね。どう見たって毒りんごだ。
「空」。これはまあ、普通に考えれば青いのだろう。だが少々低い位置に描かれた太陽が気にかかる。単にこういう構図なのかもしれないが、日の傾きかけた「夕日」の可能性も捨てきれない。
「海」。穏やかな波を湛えたその上には、まさしく正午の位置であろう太陽があった。他には何も描かれていない。
どれもこれも疑わしいが──あえて選ぶとすれば、やはり「海」の扉だろう。
「りんご」は真っ先に除外。青であったとして、そんなものは俺が認めん。
言う権利はあるはずだ。なんせここは俺の深層意識が作り出した世界なわけだからな。ちょっと医者に相談したほうがいいような内容だが。
次に「空」だが、やはり日の位置が気にかかる。それにモザイクで作ったがためにわかりにくいが、あの太陽の横にある建造物を
象ったような模様は実は山なのではないか? だとすれば、この扉の色は「赤」ということになる。
だが「海」はどうだろうか? 日は正午の位置だし、たとえ曇り空だったとしても海は青色のままだ。この三つの中では最も「青」である普遍性を備えている。
決まりだ。俺は一番右の扉に手をかけると、躊躇することなく──当然だ、ここは夢である──ノブを回して開け放つ。
「──ッ」
声にならない声が、喉をかすれて出ていった。
俺は地上から遥か上空にいた。そこから見慣れた自分の港街を見下ろしている。
いや、見慣れたというのは語弊があるだろう。なにせそこは、とても自分のいた街とは思えないほどに醜く潰れていたからだ。
原因は一目でわかった。まるで何百年か後のベニスのように水没した街並、波にさらわれた砂の城のように崩れた建造物。「津波」という名の災厄以外に何がこんな事態を引き起こせる?
既に夢であることに気付いていたのは僥倖だった。そうでなければ、思わず叫びながら目覚めて家族に怒鳴られていたことだろう。
さっさと目を覚ましてこんな夢は忘れたい。
そうは言うものの、どうすれば目覚めるのかわからなかった俺はまたも所在無げにポケットに手を突っ込む。
かさり、と何かが擦れる音がした。さっきのメモではない。今度は左ポケットだ。
何か奇妙な感覚にとらわれながら、だが逡巡することなく俺はそれを開く。
『ハズレ』
一筋の冷や汗を垂らしながら、俺は視線を戻す。
そこで目に映ったもので、俺はようやくと悟った。
まさしく正午の位置に座した満月と、夜闇に照らされひたすらに黒く塗りつぶされた海。
この扉は、現実行きの扉だったのだ。
色が無くなったとき、世界が大きく変わっていたことを、理由もなしに納得した。“誰か”による頭の中へのささやきで。
どうやら俺はその“誰か”の用意してくれた救命ボートに乗り損ねたらしい。
念のため、もう一度頬をつねってみた。
やっぱり結果は同じだったが、意味合いは違っただろう。
死んじまった人間もまた、痛みなんぞ感じない。