34.本当の支え
実験室から戻ってきたリディアは、化粧室の洗面台で鏡を見つめた。
……ひどい格好だ。
ウィルの怪我は治ったが、彼の血がブラウスについている。
リディア自身が負ったのは擦り傷や軽い熱傷だが、汚れを拭くと皮膚がピリピリ傷んだ。
ウィルの貸してくれた薄手のコートを羽織って、ボタンをしっかりとめる。
生徒から物を借りるのは複雑な思いもあるが、コートを持っていなかったから、ありがたく借りることにする。
顔の汚れを拭いて、髪の毛を直す。
ふと、唇に触れる。
(私、何やってるんだろ)
放課後。生徒にキスされて。生徒を大怪我させた。
――キス。
どうでもいい。そう、キスなんて――どうでもいいことだ。
――生徒に大怪我をさせたことに比べれば。
リディアは拳をぎゅっと握りしめる。
(怪我を――させてしまった)
あの時、不安はあったのに。
ウィルは以前も魔法が暴走したのに。それを知っていたのに。
彼は今回のことがトラウマにならないだろうか。どう償えばいいのだろうか。
リディアは、自分の研究室に戻り、椅子にへたりこんだ。
部屋には他の教員はいない、帰ってくれていてよかった。
「報告書、書かないと……」
でも、疲れていて作業用のMPを開く気にもなれない。
リディアは鞄から個人端末《PP》を取り出した。時刻は、二十一時過ぎ。
学内からのメッセージはいつもどおりに大量だが、外部メッセージは知り合いの名前があった。
――昔の知り合い、しばらく連絡を断っていた人。
メッセージは短く、一言だった。
“――防護室? 馬鹿か、やめとけ”
(そうですよね――)
防護機能が働いていても、いなくても、ディアンほどの魔法が暴走したら関係ない。リディアの読みが甘かった。
(ううん、私も気がついていた)
ディアンに訊いたのは、不安があったからだ。もしかしたら、特別防護室でも防ぐことはできないかもしれないと、リスクの予測もしたからだ。
――なのに決行した。
(私、全然、駄目だ)
よぎる不安を無視した。大抵失敗する時はそうだ。わずかな予感があるのに。
――着信履歴が、十件もある。同じ人物からだ。
リディアは、息を吸って、それから折返し通話のボタンを押す。
五コールほどで直ぐに、通話に変わる。
息を止めて備える。
『――この、馬鹿』
「すみません――先輩」
何を話せば、最初にどう口を開けばいいのか、そう恐れていたのに。相手からの第一声で、すんなりと謝罪が口をついた。
『何があった?』
(ああ、バレてる)
これまでの経緯、リディアが音信不通になっていたこと。終わった問題よりも、今何が起こっているのか、そう尋ねる性質は、ディアンの団長としてのものだろう。
そして、何かが起こっていると察知する能力も流石だ。
『じゃなきゃお前は連絡してこない』
「すみません。本当に――今まで」
その沈黙の向こうで、何を考えていますか?
『実験室で何をやった?』
「暴走させてしまいました、生徒の魔法を」
疲れていて、口がため息と同じくらいにすんなりと言葉を発してしまった。そして、発したと同時に、小さな息遣い。
『――十分で行く。大学だな』
「――待って!! 待ってください、駄目」
いやいやいやいや、あなた、今は私のボスじゃないよね?
「先輩、ディアン先輩! 今どこですか? と言うか、任務は?」
『さっき終わった。一ヶ月隣国に潜入して、人質を救出した』
(そんな、重要任務の後に来なくていいです!)
「来なくていいです! 失敗しました、失敗したけど――私の、責任なので」
『――』
「落ち込んでもいますが、反省しなくちゃ。怪我をさせたんです、私は償いと保障をしなくてはいけない。彼と大学への対応を考えなくてはいけない。これは私の責務だから」
ディアンは、直接は何もしてくれないかもしれない。けど顔を見て、心が緩んでしまったら、慰めの言葉を期待してしまったら、駄目だ。
慰められるべきじゃない、被害を受けたのは、リディアではない。
落ち込むことは許されない、反省して対応を考えるのがすべきことだ。
「ここでは、まだ私は全然使えなくて。何もできない。だから今は、まだ――会えません。もっとマシになれたら、先輩と顔を合わすことができるかもしれない」
『怪我を回復させたのか? 魔法を使ったのか?』
「はい、肉体にひどい損傷を負っていたので、蘇生魔法に近いものを」
端末の向こうで、悪態が聞こえた。本当に、すみません。
『――すぐ行く』
「いやいやいや! ですから、来ちゃ駄目って!」
リディアは、立ち上がり、部屋中をウロウロした。
「顔を合わせられません。慰めないで!」
(一人で立てなくなる! 甘えたくなる……)
『馬鹿か。慰めに? んなわけあるか――』
「――はい」
口が悪くても、それでも、私はこの人を知っている。
自分の部下じゃないのに、違う職場でも、大変な任務後でも駆けつけようとしてくれる人だ。
「呪詛は進行していません。近いうちに受診して見てもらいます」
思案するような僅かな沈黙の後に、声が響いてくる。
『リディア、――お前はミジンコなみの度胸だけどな』
はい、ビビリです。いつも怖くて仕方がない。いつも『ミジンコ』呼ばわりされていた。
『気づいているか? お前がやるって決めたことを、やめさせることは、誰にも不可能だった』
彼は上に立てる人だ。部下をちゃんと見て、叱咤して、立てるようにしてくれる。
『お前はいつも、やり遂げてたよ』
ああもう、何でこの人、こんなふうに時々優しくなるのだろ。
ううん、厳しくする時と、そうじゃない時と使い分けることができるんだろ。
『だからお前は、やり遂げられる。――どこでも、いつでも』
「はい――」
自分も見習いたい。そうなれるように、なりたい。
『お前は俺たちのところに来た。離れても、仲間だ。俺たちは、仲間を見捨てない』
――ソードに入った時は、この仲間意識が嫌だった。突っ張って抵抗して、けれどいつの間にか受け入れていた。いつも、彼らは最後までリディアを見捨てなかったから。
『お前が、身体を張って俺たちを助けたように、お前が求めるなら、いつでも俺たちは助ける。――いいな』
「わかります。――ありがとう」
いつもの教えだ。この精神がある限り、ソードは最強なのだろう。
『ところで。お前が――音信不通だった件だが――』
(――っ!)
『――いきなり病院から消えて、辞職届出して国元に逃げて。で、いきなり大学に勤めて?』
「――」
『その間、相談どころか、一切連絡もなくて?』
「は、はい。その節はどうも――後始末もしていただいて」
怖い、声が怖い。色々怖い。はん、と鼻先であしらわれる気配。
そうですよね、そのことじゃないですよね。
『確か――来るんだったよな。うちに、ガキどもを連れて』
「――そうで、ございます」
『楽しみだよなあ』
やばい。『楽しみ』なんて言葉、この人から聞いたことない。「この人、生きてて楽しいの?」って思ったことならある。
「えっと。――よろしくおねがいします」
『俺だけじゃないぞ?』
「は?」
『うちの奴らも――楽しみにしてるそうだ』
「ええと、先輩が、他人のこと話題にするの、珍しいですね」
あの、団員のみなさんがですね。
喧嘩っ早いソードのみなさんがですね。喧嘩以外に楽しみがない、皆さんが、楽しみにしてくださるんですね。
「――先輩、お願いがあるんです!」
『は?』
突然、遮ってみる。
「ウチで気になる生徒がいるんです。ウィル・ダーリング、今日魔法が暴走しちゃった生徒ですけど、火属性が二千五百もあるの。ちょっと気にかけて欲しい」
『……ふーん』
沈黙が長い、ちょっと興味が惹かれたみたい。
『そいつだけか?』
「あと、キーファ・コリンズ。すべて五百超えするのに、魔法が発現しない。あと、マーレン・ハーイェク・バルディア、バルディア王国の王子。攻撃魔法だけにやたらに特化していて、戦闘中の闘争心が異常なんです」
一気に言えば今度は不自然な沈黙。
多すぎだろうか?
『ソイツらが、気になる、か?』
「具体的には、まだ何かはわからない。けど――」
『まあいい。お前が“気になる”、なら、なにかあるんだろ。わかった』
「――ありがとうございます」
こういう、認められている感、に心が落ち着く。これが今の職場で得られないものだ。
それでも、自分は今この職場を選んだのだから、やり遂げるしかない。
『うまい言い訳考えとけよ。アイツラも、俺も――楽しませるようなものをな』
プツリ、と通話は唐突に切れた。
「え、切れたの? え!?」
(私、言い訳に楽しさ求められてる?)
その、期待値上げられても困るんですけど!




