121.蘇る魔獣
――ザワリ、ザワリ。
リディアの頭の隅で不快な音が響く。
息が荒い、煩い。それは自分の呼吸の音。
巨大な蜘蛛の頭部が自分に迫っている。前足でリディアを抱え込み、かぶりつこうとしているのか、口をあけている。牙らしきとがったものが見える。
だがリディアの瞳には違うものが見えていた。
虫の黒い目に何かが映る――それは、金髪の人。
端正な顔、皆が天の光の君の再臨と謳うほど麗しい美しい顔。
なのにその顔が笑みを浮かべると、リディアには恐ろしいことが起きるのだ。
リディアの胸に恐怖が飛来する。
(――いやっ!!)
「――先生」
(…………やめて!)
「先生!!」
緊迫した声がリディアを現実に、目の前に引き戻す。巨大蜘蛛の背後にはキーファがいた。
「あ……え……?」
リディアは息を呑んで、キーファの顔を見つめる。険しい顔、動くなと言うジェスチャー。
(な、なに……?)
リディアには何が起こっているのか、わからない。彼が魔法剣を振りかぶる、両手で渾身の力をこめて頭部と胴体の接続部へと、刃先を滑り込ませる。
蜘蛛がいきり立ち、激しく首を振るう。
足を掻き背後のキーファに向けて顎を突き出し、がちがちと口を鳴らす。
あまりにも硬く頑丈な接続部。キーファが揺れ動かされて、突き立てた刃から手がはずれそうになる。
「……にげて!」
キーファは一度抜いた剣を蜘蛛の口内に突き立てる。
蜘蛛はしかし、刃先に構わず、キーファの腕ごと口を閉じる。
「コリンズ!!」
キーファは逃げなかった。魔法剣を持つ腕を喰われたまま、彼は先ほど切り裂いた頭部と胴体の接続部に片腕を回し、逃げないように締め付ける。
がちがちがちと蜘蛛の口が打ち鳴らされる。
リディアの血の気が引く、キーファの腕が噛みちぎられてしまいそう。
だがキーファは魔法剣を突き立てたまま腕で頚部を拘束し、そして魔法をそそぐ。
芋虫のように蜘蛛の巣の上で転がったまま、リディアは彼の姿を凝視して、頭の中で術式を構成させる。
(どうすればいい? どうすれば……)
遠隔魔法は、キーファも巻き込む。蜘蛛だけを直接狙うには、どこか対象に触れないといけない。
キーファの顔がゆがむ。
魔獣が激しく暴れる、キーファはそのまま魔法剣を動かし、魔獣の頭を切り裂いた。
大量の粘液が飛び散り、蜘蛛の欠片が散らばる。
「先生、大丈夫ですか」
キーファは、汚れた魔法剣を己の腹の辺りで頓着せずに服で拭うと、その剣でリディアの手足を拘束する糸を切断する。
彼の両手にリディアは目を向ける。大量の粘液にまみれているが、彼の手は不自由なく動く。
「腕は……怪我はない? 噛まれたり引っ掻かれてもいない? その粘液はどう? 刺激はない?」
「俺は平気です。先生に怪我はありませんか?」
リディアは自分の身体を見もしないで首を振る。キーファに手を伸ばすが、思うように動かない。
「無茶よ、こんなこと。あなたに何かあったら……」
言葉に詰まるリディアに、キーファは拘束されていたリディアの手足に素早く触れ、怪我がないかを確認する。
「動きますか?」
リディアはぎこちなく動かして、首を振る。
「まだ少し、鈍いみたい」
「すぐに戻りましょう」
「あ……、ケイ……ケイ・ベーカーは」
リディアは反射のように尋ねていた。まだ頭が働かない、手足ががくがくとする。
「彼の拘束は外しました、周囲の糸も切断済みです。自力で逃げるように告げました。シリル・カー指導者に指示された糸も切断済みです」
蜘蛛は死んでも、張り巡らされた巣は有効だ。ケイの逃走路と、シリルが銃撃するための予測される弾道を確保したのだという。
「先生、逃げましょう」
リディアは頷きかけて、目を見開いた。
唐突に腹の底にずんと重みを感じる。
背筋が泡立つ、危険――恐怖――この感覚は覚えがある。
人外の存在、あまりにも純度の高い禍々しい魔力にふれた時に感じる生物としての本能――恐怖。逃げなくてはいけないという、切迫感。
なぜ?
これは何?
何かを目覚めさせてしまった。
視線をめぐらせば、数十メートル離れたところ、大樹の前でケイが仁王立ちになり、右手にはロッドを掲げ、頭上に巨大な炎を発現させていた。
「ベーカー?」
リディアには、何がどうしてこうなったのか、わからない。
「ベーカー!? ケイ・ベーカー!! ……やめなさい!」
ケイは熱に浮かされてでもいるように、空に浮かぶ炎に見入っている。演習で炎を上げたときと同じだ、自分の効果に酔いしれている顔。
リディアはすぐに打ち消すべく魔法を組み立てる。
“大いなる水の……めぐみ、のろわれし渇きの地を……潤いと”
だが唇が震えるだけで動かないのを自覚した。全くスムーズに詠唱ができないのだ。
(魔法が――)
――出てこない。見下ろす手が震えている。頭が真っ白で――。
『キーファ!! 油断するな!』
シリルの声、キーファの受信機から叱責に近いそれが叫ぶ。
リディアは、目を見開いてケイから目の前の魔獣の屍骸に目を移す。
大量の粘液を溢れさせた蜘蛛の魔獣。そこからさらに大量の粘液が溢れ出し、蜘蛛を覆い尽くす。ぼこりぼこり、と粘液が泡立つ。
ずるり、と死骸が引きずられるように動く。
キーファは迷わずリディアの前に出て、魔法剣を構える。
「コリンズ、無理よ! 離れて」
「無理なのは先生です、後ろにいてください」
まだ手足が動かない、どうしてなの?
――目の前の魔獣の屍骸が、爆発する。
いや爆発に見えたそれは、内部から何かが噴出しただけだった。
崩れたゼリー、最初はそう見えた。それが伸び上がり、大樹へと――いや、その眼前に立つケイへと、明らかに攻撃をしようと力をためて飛び立とうとする。
だがそれは、いきなり横殴りをされたように吹っ飛ぶ。
シリルの銃撃だ。連続で十発打ち込み、魔獣はそのたびにねちゃねちゃと粘液を飛ばし、頑丈なこんにゃくのように吹っ飛ぶ。
空中でダンスをするように不自然に衝撃を受けたそれは、何度も形を変えて、最後にはべちゃり、と地面につなぎとめられる。
『キーファ、てめえ、糸を切るだけっつったろ!』
「俺が攻撃することは予測していましたよね」
『っ、この! とりあえずリディを担いで逃げろ』
「可能ならばそうします。が、難しいようです」
シリルの舌打ちが響く。
キーファがリディアを背後に魔法剣を構える。
形をいびつに変えた何かの塊が、びくびく動いている。
シリル特製の弾丸を受けてもなお、生きている。いや、これは生きているのか?
一方、大樹の前ではケイが術式を完成させる。ロッドをもつ手が、高く振り上げられる。
「駄目、やめて! コリンズ、ベーカーを止めて!」
「でも」
「お願い、あれは聖樹なの! 傷つけたら紛争がまた起きる、こっちはなんとかするから!!」
リディアが叫ぶと同時に、キーファがケイを止めようと駆けだす。
それを見つめるリディアの視界に、目の前の魔獣の成れの果てから、いびつな形をした塊が無数の突起を噴出し、そしてリディアを掴んだ。




