107.うさぎの耳
「なあ、ちょっといいか?」
マーレンの元に戻ろうとしたリディアは、天幕の中の団員から呼び止められる。
血液検査をした技師だ。
彼が示した紙片を見て、リディアは呆然として、それから口を引き結んだ。
マーレンは、天幕の中でモニターをつけられていた。
どこからか背もたれのある簡易椅子を持ってきて、その背もたれに腕をかけて、アンニュイな顔。
ふてぶてしく堂々とした態度は、なんて偉そう。
リディアは彼の前に立ち、それからモニターを見る。三点誘導の心電図の波形も心拍数も、全て正常値。
「なんで、お前……」
マーレンはぽかんと口を開いて驚いた顔、けれどリディアを見てその顔を一変させた。
リディアは無言で、彼の顔を見つめたまま正面の簡易椅子に座る。検査をしていた他の団員に目配せで二人きりにしてもらう。
「な、どうしたんだ」
マーレンが不安げに曇らせた顔で、おどおどとリディアに問いかける。
リディアは答えず、彼の実習中の魔力波の変動の記録をモニターに呼び出して確認した。いきなり急上昇したのは、彼が激高する前だった。
リディアが知っているのは、ヤンと話していた後だということ。
リディアは画面を消して、マーレンに向き直る。
「おま……泣いてる、のか」
マーレンの指がリディアの顔に伸びてくる。その手をリディアはピシャリと払い落とした。
「な」
「――泣いてません」
「でも、目赤い……」
「血液検査の結果を見たの」
「は?」
マーレンは本当にわからない、という顔をしていた。
リディアは顔を歪めて、一つ深呼吸をした。こみ上げる感情をなんとか抑えようとする。
一回目を閉じて、それからマーレンの顔を見て、キョトンとした眼差しにまた悲しみと複雑な感情がこみ上げてきて、だめになる。
「――魔力増強薬使ったでしょ」
マーレンはハッと表情を変えて、そしてバツの悪そうな顔をする。こんな直接的な表現はいけないと思う。相手に事実を尋ねる時、追い詰めてはいけない。
だって、彼の顔は既に気持ちを表してる。してはいけないことをしたって、わかってる。
冷静に、と思いながらも、けれどリディアは言葉を選べない。
「しかも、結晶」
「あれは、その」
マーレンは学生が魔力増強薬を禁止されているのを知っている。だからバツが悪いのだろう。口ごもる。
「いつから?」
「――昔からだ。お前らはそれをだめだっつーけど、俺の国、というか俺にとってはガキの頃から当たり前のように勧められてきて、王宮では誰もが使ってる」
「魔力、異常値だわ。検査では肝機能や腎機能、心臓の機能にもまだ影響は出てない。あの時はスキャンしていないからわからないけど、多分相当負荷がかかっていたはずよ」
「違反したのは――悪かった」
「――そのことは、今言ってない!」
リディアが声を荒げたのを見て、マーレンは驚いて口をあけたまま呆然としている。
「どうして使ったの?」
「どうしてって……、別に当たり前」
「実習ごときで?」
リディアが問うと、マーレンは顔を強張らせて、それから口を尖らせる。
「実習ごときっててめえが言うか?」
「命を削ってまで、することじゃない!」
リディアは一度頭を振って、少し声を落とす。
「ずっと――使わなきゃいけない環境だったの?」
「仕方ねぇだろ。強いことが、最大の魔法が使えることが有利になる」
彼は自嘲するように呟いて、リディアから顔をそらす。
「俺が哀れか? 俺がかわいそうか?」
ふいにリディアに向き直り、睨むように目を尖らせリディアに言い募る。
「違う」
「俺の育った環境が、そんなとこに生まれてかわいそーって思ってんのかよ!」
「かわいそうなのは、あなたの身体よ!」
リディアが怒鳴ると、マーレンは虚をつかれたように、ハッと目を瞬く。
「は? からだ?」
「あなたはかわいそうじゃないわ、自分で選んだんだもの。自業自得よ」
マーレンは呆然とリディアに目を向けている。
「あなたの環境も同情しない。かわいそうなのは、あなたの身体。それに心」
「……どういう」
「魔力増強薬が学生に禁止されているのは、心身への負担が大きいからよ。まして結晶なんて――」
リディアは息を吐き出して、心を落ち着かせようと努力をする。
「まともに成長できない。長く生きられない、廃人になってもおかしくない」
「俺は平気だ」
「馬鹿!」
リディアは続けて怒鳴る。
マーレンはリディアの変貌ぶりに動揺している。人に怒鳴ったことなんてめったにない。新人教育の時、フザケて魔法を使って民間人に怪我をさせかけたアホに怒鳴った以来だ。
リディアはマーレンの手を掴む。
魔力波は落ち着いていて、変調はない。彼が長寿のエルフ族で人よりも頑丈だからだろう。
そのまま彼の頭を引き寄せて、胸に抱きしめる。
「辛かったわよね。値には出ていなくても、ずっと痛かったと思う。あなたの、心も、身体も」
「――」
マーレンは黙り、微動だにしない。
リディアもマーレンの頭を撫でて、背中を叩いてあやすようにしながら自分の心を落ち着かせる。
――魔力増強薬の結晶を摂取し続ける、それがどれほど危険なのか。
追い込まれた彼に同情しないわけじゃない。でもリディアは治癒能力者だ。魔力増強薬で心身を傷ませた魔法師を治療してきた。
辛い――同調するととても辛いのだ。
リディアは、痛みを感じなくても、その心の痛みを感じる。身体の悲鳴を聞いてしまう。
マーレンにもうしないで、とは軽々しくいえない。在学中は魔法省の規制に従い禁止させることができるが、大学を出れば彼には必要不可欠なものなのだろう。
でもその痛みを無視し続ける彼がかわいそうだ、無視される彼の身体がかわいそうだ。
だめだ、考えがまとまらない。うまい言葉掛けができない。
マーレンのサラサラな髪を撫でて、リディアはおもむろに彼を離す。
マーレンはまだ呆然としているかと思えば、複雑そうな顔をして、そしてリディアを見て眉をひそめる。
「泣いてるじゃねーか」
マーレンは、今度こそリディアの頬に指を伸ばす。
「お前は――俺のために泣くのか」
彼が晒した指は濡れていたのだろうか。
リディアは彼を睨んだまま、目をぐいと乱雑に擦る。
「違うって言ってるでしょ」
「俺のために泣いてくれたやつは、初めてだ」
マーレンは視線を落として呟く。その耳が、珍しく赤くなっている。
ぴくっと動く耳の銀の産毛、まるでうさぎみたい。
こんな時なのに、若干リディアは触れたくなってしまう。
さっきのディックのやりとりのせいだ。
……うさぎはかわいい。
リディアは深呼吸をして心を再度平静に保った。




