夫は私を愛していないらしい
「あそこまで夫君から冷遇されて、どうして平気に笑っていられるのでしょうか。私なら絶対に耐えられませんわ!」
「ご結婚されてから早くも三年、未だに社交界で侯爵様が夫人に微笑まれているところを誰一人見たことがないなんておかしくありませんか?」
華やかな社交パーティーの会場、その一角に設えられたテラスで楽しげに噂話に花を咲かせる貴婦人たち。
彼女たちが話題にしている人物は誰かって?
それはもちろん、私、ヴィオレッタ・ルペルシア侯爵夫人のこと。
まあ、なんてお優しい方々なのでしょう。私のことをそこまで案じてくださるなんて。
だけど、私はむしろあなた方の方を心配してしまうわ。
仮にも身分が上の私を好き勝手に噂して、当人の耳に入るとは考えもできないの?
私でなければ、今すぐにでも罰していたかもしれないわよ。
つい先ほどまで、ニッコリと笑みを浮かべて私を褒め称えていたというのに、ほんの少し席を外しただけでこの有様だ。
……ふう。
私は心の中で小さく息を吐き、何事もなかったかのように彼女たちの方へと歩み寄った。
「皆さん、一体何のお話をされているんですか?」
「侯爵夫人……! 随分と早いお戻りでしたのね」
「実は、今宵の主役であるルドベル伯爵夫人のペリドットを基調にしたドレスが素敵だと話していたところなんですの」
「そうだったんですか? 実は私も同じことを考えていたんです! あれだけ素敵でしたら皆さんの視線を釘付けにして当然ですものね」
私がそう言って柔らかく微笑むと、彼女たちは露骨に安堵した様子で媚びるような笑みを浮かべた。
相変わらず、手に取るように分かりやすくて助かるわ。
「それでは私はこの辺りで失礼します。皆さん、また必ずお会いしましょうね!」
「はい、侯爵夫人。侯爵様によろしくお伝えくださいませ」
「私も侯爵夫人にお会いできてとても嬉しかったですわ。今度は是非侯爵邸にお招き下さいね!」
少しの談笑を終えた後、私は形ばかりの別れの言葉を告げると足早にその場を去った。
ドレスの裾を軽く持ち上げて、宴会場を進む。
人々の隙間をかき分けて、一際目立つ男の元へと。
「あなた」
私の呼びかけに、彼はゆっくりと振り返った。
「こちらに居たんですね。ふう、宴に参加するのは久しぶりでしたから少々疲れてしまいました」
私の夫、エリオット・ルペルシア侯爵。
黒髪に冷ややかな印象を与える碧眼。
齢十七にして侯爵家の当主となり、まもなく二十歳を迎える若き侯爵だ。
エリオットと共に居た紳士達からの、男の談笑に割って入るなどなんて無礼な女だとでも言いたげな視線が刺さる。それよりも鬱陶しいのは、貴婦人たちの哀れみと嘲笑の目。
はあ……まったく、どいつもこいつも。
「ねっ? 一緒に帰りましょう?」
ニッコリと笑みを浮かべて言った私に、エリオットは何も返事をすることなく、踵を返してすぐに会場の出入り口へと足を進めた。
すぐに後を追おうと足を進めようとした私の歩を止めたのは、先ほどまでエリオットと談笑していた紳士たちの一人。今宵の宴会の主催者であるルドベル伯爵だった。
「侯爵夫人も大変ですな」
「……はい?」
「侯爵様は仕事においては非の打ちどころがない完璧なお方ですが……少々、夫人に冷たくはありませんかな? 私どもには、あれほど気さくに話してくださるのに」
私は首を傾げ、変わらぬ笑みを浮かべたまま問い返す。
「ええ、まあ、そうですね。それで、私が大変というのは?」
「それは……ほら、言葉にせずとも分かるでしょう?」
「まあ、ルドベル伯爵ったら、おかしな事を言うのですね? 言葉にせずとも分かるという、そのお考えには同意できますが、あなたが仰ることにはまるで共通性がありませんわよ」
終始にこやかな笑みを崩さずそう告げると、伯爵は引きつった表情で曖昧に笑った。
私は軽く会釈をして別れを告げると、今度こそ夫の後を追った。
。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
「それで、レイモンド家の令息はロレイス家のご令嬢との婚約を考えているそうです。両家が手を組むことになれば、恐らく継続している事業が――……」
馬車に乗り込んだ後、屋敷へと向かうまでの長い道のり。対面に腰掛けたエリオットは、ただ一方的に話し続ける私を静かに見つめていた。
いつもと同じ。通常運転。
彼は一度も口を開くことなく、私に黙れと言う訳でもなく、ただ黙って私の話を真剣な眼差しで聞いている。
「侯爵様、到着いたしました」
そうして、御者の声で私の一方的な独演会はようやく幕を下ろす。
ここまでを含めて、いつものルーティンだと言えようか。
屋敷で待っていた使用人たちの手によって馬車の扉が開かれ、先に立ち上がったエリオットが外へ降りた。
それに続いて、私も立ち上がると、かけられた階段に足を乗せた。
「きゃっ!」
その瞬間だった。長時間立ち歩いた疲れが一気に表に出たのか、足から力が抜け、踏み出した足がもつれた。
しまった……!
そう思った刹那、私の右手首は誰かによって強く掴まれた。
引き上げられる感覚に、思わず目を見開く。
そのまま支えられるようにして、私の身体はエリオットの腕の中に収められた。
彼は一瞬だけ目を見張り、驚いたような表情を浮かべていた。
あ、危なかった……。
彼が手を伸ばしてくれなければ、今頃私は、夫と使用人たちの前で無様に転び、顔を打っていたに違いない。
「大丈夫か」
「あ、ありがとうございます……ごめんなさい、気をつけますね」
微笑んでそう返事をすると、彼はそのまま先に邸宅の中へと入っていってしまった。
たまにこうして彼の方から話しかけられると、驚いてしまう。
せっかく素敵な声をしているんだから、もっと話したらいいのに。私が声を聞きたいと頼めば、願いを叶えてくれるかしら?
うーん、難しいかもしれないわね。彼女たちによると、どうやら夫は私を愛していないらしいから。
「奥様、お怪我はありませんか?!」
「ちょっと足を滑らせてしまっただけよ、侯爵様が受け止めてくださったおかげで何の怪我も負っていないわ」
エリオットがあまり話をしないことに、始め私は、彼が単なる話下手な性格なのかとは思っていた。しかし、それは私のただの勘違いだった。
だって、現に仕事の話をしている時は普通に話しているんだもの。
だったら、どうして?
うーん。
うーーーん?
うーん……。
「ううーん、疲れたあ……」
湯船に身を沈め、思いきり背伸びをすると張りつめていた身体の疲労がほどけていく。
私の蜘蛛の糸みたいな細い金髪に、丁寧に泡を含ませているメイドは、侯爵夫人らしからぬ私の呻き声にくすりと小さく笑う。
「かなりお疲れのご様子ですね、ご入浴後にハーブティーをお持ちいたします」
「ありがとう。久しぶりに外出したから疲れちゃったみたい……んん、眠い……」
白い浴槽いっぱいに浮かぶ、赤い薔薇を見つめながら私は小さく欠伸をした。
私の部屋は、いつも沢山の花で溢れていた。
薔薇を中心に季節ごとに選ばれた花々が飾られており、部屋中に甘い香りが満ちている。
白い浴槽の上に満遍なく浮かべられた赤い薔薇は、両手のひらですくい、匂いを嗅ぐと、その甘い香りが疲れた心を癒してくれた。
伸ばした足を交互に持ち上げ、水面を揺らす。小さな水しぶきが上がり、波紋が幾重にも広がって薔薇の花びらを押し流していく。
白い浴槽の中で、赤い花弁がゆっくりと散っていく様子を眺めていると……ふと、昔のことを思い出してしまった。
実の母親の真っ赤な瞳の色を。
私を見つめ、憎悪に歪められた、あの目を。
社交界のご令嬢や貴婦人たちは、私が夫の関心を引けていないという事実に大ごとのように騒いでいたけれど。
そんなこと、私からすればどうってことのないことだった。
元から私は、愛されたことなど一度だってないのだから。
高貴なる公爵家の娘に生まれた私は、生まれたその瞬間から家族たちから疎まれて育った。
特に、数年前に死んだ母は私を酷く憎み、恨んでいた。これは決して幼い私の勘違いなどではない。父も兄さんたちも、言葉にはしなかったが心の奥底では顔も見たくないと思っていたはずだ。
当然だ。私は、母を殺したも同然なのだから。
難産の中、私を産んだことをきっかけに母は衰弱していった。
母は、大好きだった社交界にも参加できなくなり、家にこもることが増えた。元々、父は公爵としての仕事が忙しく、家を空けることが多かった。年の離れた兄さん二人は隣国のアカデミーへ留学。必然的に、家では母と私の二人きりなことが多かった。
青白い顔を厚化粧で隠し、血のように赤い瞳で私を睨みつけ鞭を振るう姿は、すぐに思い返すことができる。
『なぜ、お前のせいでこの私が死ななくてはならないんだ! お前なんか産むんじゃなかったわ!』
何かにつけて理由をつけては、母は私に暴力を振るった。
皮肉なことに、母の生き写しのような容姿をした私は赤い瞳を除いて驚くほど母によく似ていた。
だからこそ、自分の居場所を私に奪われた気にでもなってしまったのだろうか?
私はお母様のことがとても好きだったから、私に手を上げることで少しでも活気を取り戻し、少しでも長く生きてくれればと心から願っていた。
決して愛されることは無くても、どれだけ疎まれ殴られようが、私が彼女の娘である限り、私はお母様を想わずにはいられなかったから。
しかし私が侯爵家に嫁ぐ丁度一年前、お母様は死んだ。あっけなく、ある朝ぱたりと死んでしまった。心は寂しかったが、涙は出てこなかった。
結局、私たち親子の関係なんてそんなものだったのだ。
母の死の知らせを聞いて飛んで帰って来た父が真っ先に私に告げたのは、私の結婚が決まったと言うことだった。
それこそ手をあげられたことは一度も無かったが、お父様の目に私は、娘だという前に愛した女性を奪った存在としか映っていなかったと思う。
それでも慈悲深い父は、私に良き結婚相手を見つけてくださった。
今の生活は充実しているし、不満の一つもない。
それでも、嫁いでからはお父様や兄さんたちを社交界で見かけても、彼らが私に声をかけてくることは無かった。
私も、何となく察して、なるべく関わらぬように距離を保つようにしている。それくらいしか、私にできる償いは他に無いから。
「少し風に当たってくるわ。すぐに戻るから、就寝の準備をお願いね」
「かしこまりました、奥様」
メイドにそう告げて、私は庭園に出た。
過去の記憶を掘り起こしてしまったせいで、混雑する頭を整えなければ眠れないと思ったからだった。
ぼーっとしながら適当に歩いていると、音色が耳に届く。
ああ、今日もまた弾いているの?
顔を上げると、夫の自室の窓が開いているのが見えた。
そこから流れ出すのは、優美なヴァイオリンの音色。エリオットが弾いているのだろう。
貴族の子供は勉学だけでなく音楽や様々な芸事を学んだりもするけど、彼は趣味の一環としてヴァイオリンを楽しんでいるのかしら。
時折、部屋の隙間から零れた音が耳に届くことはあったが、こうしてしっかりと聴くのは初めてだ。
どこか不思議な気持ちになりつつ、私はまた歩を進めた。
幼い頃……もう記憶も微かにしか残っていないほど、昔の話。
確かに私にも、淡い期待と憧れを抱いた経験があった。
だけど、とっくに成人を迎えてしまった今では、何かを期待することも、望むこともできないのよ……。
。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
「実に素敵な庭園ですわね、侯爵夫人」
「侯爵様が王室の庭師をわざわざスカウトされたとか。前侯爵夫妻が亡くなられてから早くも五年の月日が経ちますが、仕事だけでなく家の管理まで徹底されていらっしゃるとは」
「さすがですわ、うちの夫にも見習ってほしいくらいです!」
貴婦人たちが扇子で口元を隠しながら、談笑する中、話題は夫への愚痴へと変わっていく。
私はいつものように柔らかく微笑んで一生懸命に相槌を打った。
貴婦人たちの集まりは、決して仲良しこよしのお茶会ではない。
ここは情報が行き交う場であり、侯爵夫人としての仕事の一環でもある。
そして、この場において私の役割は明確だった。
身分は高いが、思慮が浅く、ただ愛想よく笑っているだけの女。
人形のように扱いやすく、害のない存在。
つまり、頭の弱いバカな女というわけ。
彼女たちが私を見下して、噂の中心に持ってくるにはうってつけの存在。
私は公爵令嬢の頃から、その役回りに徹してきた。
人は、自分よりも下だと見下した存在を前にした時、極端に油断を見せるから。鼻を高くして偉ぶったところで、利益なんて何一つない。プライドを高くして何も得ることなく落ちぶれるよりは、私はずっと賢い生き方ができていると思う。
円卓を囲んで茶を楽しんだ後、私たちは庭園を散策することになった。色とりどりの花々や、枝の間を飛び交う小鳥たちを眺めながら、それぞれ思い思いに歩く。
私は微笑ましく彼女たちを見つめながら、足を進めようとした。
うーん、私の歩みを防ぐのが趣味な人間が一定数いるのは何故かしら?
「夫人、侯爵夫人。ちょっとよろしいでしょうか?」
「はい、どうされました? ルドベル伯爵夫人」
ニコッと爽やかに笑いながら私に声をかけてきたのは、先日参加した宴会の主役ルドベル伯爵夫人。
「改めて、本日はお招きいただきありがとうございます、ルペルシア侯爵夫人。とても有意義なティーパーティーでしたわ」
「紅茶はお口に合いましたでしょうか? これでも一生懸命に準備してみたのですが、何か不足があったら遠慮せず仰ってください」
「不足だなんてあるはずありません。実に素晴らしい物でしたわ」
「本当ですか? そう言っていただけて安心しました。実は、皆さんに招待状をお出しした時から、ずっと緊張していたんです」
「そうなんですの? そうは見えませんでしたわよ? まあ……夫人はご令嬢の時からあまり私たちをお招きしてくださりませんでしたものね……」
あら?
「公爵夫人の容態を考えれば、当然と言えば当然なのでしょうが……」
先ほどまで彼女の瞳には悪意の一欠片も見えなかった。
二人きりになる時を窺って、息を潜めていたというのだろうか。
私が、実の母親と険悪な関係にあったことは、社交界では周知の事実だった。
母はそれを隠そうともしなかったし、本来なら社交界の中心に立つべき立場の私が、主催の催しを一切行わず、参加も控え、ただ母の機嫌を伺って微笑む姿を見れば誰にだって察しはついた。
だから、こうして私に面と向かって今は亡き母の話をする者はいない。
……私に悪意を持つ者を除いて、だが。
「伯爵夫人の言うとおり、お母様は身体の弱い方でしたから……。だから今、こうして皆さんをお招きすることができて、とても嬉しいのです」
眉尻を下げて、善意に満ちた笑顔を浮かべる。
私は貴女に興味なんかないの。だからお願い、どうか私のことは放っておいて。面倒ごとに巻き込まないで。
「相変わらず可愛らしいお方ですね。夫人とは、前々からゆっくりとお話がしたいと思っていたんですの。侯爵様とは幼い頃から社交界で顔を合わせていましたから、何か侯爵夫人のお力になれると思いまして」
そう言うと、ルドベル伯爵夫人は何とも慈悲深そうな顔で私の手を握った。
「侯爵様から愛されていない夫人が、お可哀想でならないんです」
ルドベル夫人の若草色の瞳に、涙が薄っすらと浮かんでいる。
心底私が哀れだとでも言いたげな眼差しだ。
「伯爵夫人が何を仰りたいのかは私にはよく分からないのですが……私を心配してくださっているのですよね? 夫人はお姿だけでなくお心までお美しいなんて。ありがとうございます、夫人」
心の底から感謝しているかのような笑顔を浮かべると、ルドベル伯爵夫人は顔をしかめているのか微笑んでいるのか曖昧な表情をした。
そして、右頬をピクリと動かすと、もう一度仕掛けてきた。
「昔はあのような方ではなかったのです。ほら、五年前の事故で前侯爵夫妻を失ってから、侯爵様はとても苦労されたようですから……。ですから私、侯爵様の結婚の話を聞いて本当に安心したんです。ついに、侯爵様の御心を射止めた幸運なお方が現れたのだと。ですが……あまりにも夫人がお可哀想で……。夫人も分かっていらっしゃいますよね? ご自身が夫君から愛されていないことを」
「ええっと……?」
「……時折私は、侯爵夫人を見ると頭がおかしいのは自分の方なのかと疑ってしまう時があります。どうしてこんなにマヌケな人が侯爵夫人なんて座に収まっているのか……愛されていなかったとはいえ、公爵家の一人娘に生まれれば良家に嫁ぐことができるなんて羨ましい限りですわ」
ふむ。今度は、あまりに直球に仕掛けてきたわね。
あれだけ善意そうに悪意を隠していたのに、あまりに私がバカすぎて嫌気がさしたのかしら。
私が夫に愛されていない。
……だから?
だから何だって言うの?
私と夫の話に、どうして無関係なあなたが入ってくるわけ?
私よりもずっと前からエリオットを知っているからって何だっていうの? 無関係のあなたが、妻の私に意見するのは何故?
沢山の疑問が頭を駆け巡るが、私はため息を一つついて、頭を冷静にさせた。
「あのう、伯爵夫人?」
「どうか誤解されないでください。私は侯爵夫人を心から心配して言っているのです。だって、そうじゃないですか。社交界でお見掛けしても、いつも侯爵夫人が一方的にお話しされているだけで、侯爵様が積極的にお話しされているところを見たことがないなんておかしいでしょう!」
「伯爵夫人、それは……」
「いいのです、仕方のないことなのですよ。侯爵夫人は元は、公爵家のお姫様だったんですもの。母である公爵夫人を失ってから、夫人は――……」
「そろそろ口を閉ざしてはいかがです? 愚かな伯爵夫人」
私はただの人間。少しだけ自尊心が低く、利益のためならば自分を下げることも厭わない、貴人には少し珍しい部類の人間。
そう、私はただの人間なのだ。
限度を越した発言を繰り返されると、腹が立つのが普通というもの。私にだって、我慢の限界というものがある。
これ以上、このマヌケな女の話を聞いていて私に利益があるとも思えないし、ヘラヘラとバカみたいに媚びへつらった笑みを浮かべることにも疲れてしまった。ふう……。
「はい……? 侯爵夫人は、侯爵様から永遠の愛を誓われて夫婦になられたのでしょう? それなのに、この愛のない結婚生活に我慢できるとでも仰るのですか?」
「だから、その愛だの恋だのと、頭が痛くなるようなくだらないことを言うのは止めていただけますか? 逆に聞きますが、ルドベル伯爵夫妻のお二人は社交界でも随一のオシドリ夫婦として有名ですが、それと同時に伯爵が愛人にのめり込んでいるという話も有名ですわよね?」
「……それは今、関係のない話ですよね? 先ほども申し上げましたが、私はただ侯爵夫人が心配で……」
永遠の愛。夫から永遠の愛を誓われたとしても、私はその永遠がいつまで続くのかと悩み、悩んでは悩んで、そのまま朽ち果ててしまうことだろう。
「私にはどうも理解できませんの。たとえ、私たち夫婦の関係が冷めきっているとして、それが伯爵夫人に何の関係がありまして? 自分と私を重ねていらっしゃるのでしたらお控え願えますでしょうか。これでも私、あなたのくだらない妄想に構っているほど暇では無いんです」
愛や恋など、ロマンス小説の読みすぎなのだろうか? 私たち貴族社会を生きる女にとって、そんなものは物語の世界にしかない夢物語だろうに。
そう、くだらないものなのよ。愛なんて、この世に存在しない方が合理的に決まっている。くだらない感情に振り回されたところで、最後に待っているのは悲しい現実なのよ。
「伯爵夫人……あなたの行動の全てが間違っているとは言いませんが、牙を剥く相手はしっかり見極めないと。ああ、どうか誤解なさらないでくださいね。これは、私がとても夫人を心配しているから言っているんです。夫君から愛の言葉を日々囁かれているのに、ちっとも幸せに満ちていない夫人がお可哀想で……」
目を見開き、苛立ちと驚きに満ちた顔をしたルドベル伯爵夫人に向かって、私はいつものように穏やかな笑みを向けた。
「ふう、今日はとっても良いお天気ですね。せっかくですから、我が家の庭園を楽しんで行ってくださいね、夫人?」
。*⑅୨୧┈┈┈┈┈┈┈┈┈୨୧⑅*。
ルドベル伯爵夫人は、元来ああいう人ではなかった。
侯爵夫人として社交界に出たばかりの私を、積極的に貴婦人たちの輪へと導いてくれたのも、彼女だった。
これまで一度として、彼女から悪意を向けられた覚えはない。
恐らく、夫であるルドベル伯爵が愛人にのめり込み始めたことをきっかけに、歪んでしまったのだろう。
でなければ、一人の貴婦人が自分よりも身分の高い女に対してあそこまで自棄になって牙を剥くはずがない。
沈んだ表情のまま去っていくルドベル伯爵夫人と、気まずそうな顔をした他の貴婦人たちを見送ったあと、私は庭園のベンチに腰掛け、しばらくぼんやりと空を眺めていた。
私が夫から愛されていない。
アハハ、そんなの当然でしょう?
私は、親が子に与えて当然の無償の愛を得ることが出来なかった異質な存在。
血の繋がった実の親からさえ与えられなかったものを、結婚という契約で結ばれただけの他人に求めるなど、あまりに傲慢だろう。
愛を知らない私が、誰かを愛することはできない。私には、夫を愛することはできない。自分が与えられないものを、他者に求めてはいけないの……。
「ここに居たのか」
「……侯爵様? あれ? いつお戻りに? 確か今日は、夜までお帰りにならないはずでは……って、どうして空が暗いのかしら……」
「使用人が、どれだけ声をかけても上の空だったと言っていたが」
「あ、あはは……ちょっと考え事をしていたら、こんなにも時間が過ぎていたなんて気が付きませんでした。使用人たちには後で謝っておかないと……」
必死に取り繕うように笑う私を、エリオットはただ静かに見つめていた。
そして私の視線は、彼の顔から手元へと移る。
「まあ、今日もとっても素敵なお花ですね?」
その手には、美しい花束が握られていた。
今日は、ピンク色の薔薇らしい。
二十四本の薔薇の可愛らしい花束。
「ありがとうございます、侯爵様」
私の部屋に溢れる花々。
邸内のあちこちを彩る、そのすべて。それらは、私が使用人に命じて用意させたものではない。
結婚式の日に、たった一度だけ、私は夫に花が好きだと口にした。
それ以降、彼は毎日欠かさず私に花束を贈ってくれるようになった。
当然、甘い言葉なんてものや、通常的な会話はほとんどない。ただ、花束を私に渡すだけ。
執事からこっそり聞いた話では、冬を迎える前に温室庭園を建設する予定らしい。
本当は完成するまで黙っているつもりだったようだが、さすがに奥様に伏せておくわけにもいかない、と苦笑しながら教えてくれた。
社交界で、私がまだ「侯爵夫人」ではなく「公爵令嬢」と呼ばれていた頃。
私は、誰からも贈り物を受け取ったことがなかった。
母が、あらゆる理由をつけて私と外の世界を遮断していたからだ。
それなのに、今はどうだろう。
彼と結婚してから、一日たりとも欠かさず贈り物を受け取っている。
人から贈り物をされるという行為が、こんなにも不思議な感情を抱かせてくるのだとは思ってもいなかった。
……うん、やっぱりそうだわ。
私には、甘い言葉など必要ない。
形ばかりの言葉を与えられても、きっと何も感じられないだろうから。
「いつもありがとうございます、心から嬉しいです」
そう言って微笑んだ私を見つめるエリオットの表情は少しも崩れることはない。
私を見下ろす冷たい青色の瞳が、恋情に揺れることもない。
人々の言う愛が何を形容しているのかは分からない。愛された経験がない私に、そういう常識を求められても困るのだ。
「外出用の服のままだってことは、夕飯はまだ召し上がられていませんよね? でしたら、私と一緒に食べましょう。私ったら、こんなところにずっと居たせいでお腹が空いちゃって今にも倒れそうなんです。さっ、行きましょう? あなた」
私が少し強引に手を引いても、彼はそれを振り払うことはない。
私の手よりも一回り大きなその手が、私に苦痛を与えることもない。
彼が私に与えてくれるのは、不可解な感情と、美しい花だけだ。
彼の冷たい青の瞳に温かみを感じるのは私の錯覚かしら?
私の頭がおかしかろうが、どうだって構わない。
だって今この瞬間、こんなにも満ちていて暖かい気持ちになれるのだから。
私が夫に愛されていない。そんなこと、どうだっていい。私は心から幸せで、この結婚生活になんの不満も無い。周囲の人間の声なんて、どうでもいいのよ。
彼が贈ってくれる沢山の花……。
言葉にせずとも伝わる彼の想いに気づくことができるのは、この世でただ一人、私だけが知っていれば良いことなのだから。
なんかふわふわした感じになってしまいましたが、私の可愛いこの子達が幸せなのでOKです。
少しでも面白いと思っていただけましたら下にある☆マークから評価をお願いいたします。感想、レビューもお持ちしております。励みになります⋈*.。




