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たぶん、これは恋じゃない

作者: 谷口凧
掲載日:2025/05/29

 人の心が読めるからといって、恋に強くなれるわけじゃない。


 むしろ逆だと思う。

 誰かを好きになるという行為は、期待の上に成立している。

 けれど、ボクの中には期待という感情が育ちにくい。

 相手が自分のことをどう思っているのか、何を考えているのか、透けて見えてしまうから。


 だから、これは恋じゃない。

 たぶん、きっと――違う。

 


 「……おはよ」


 午前十一時、ふらりと出社してきたその人は、いつものようにカップ麺片手に眠そうな目をしていた。

 左の目の下と口元に、ほくろがある。

 瞳にかかる長い睫毛が、表情をどこかけだるく見せていて――時々、つい目で追ってしまう。

 綺麗だ、なんて。別に、思っているわけじゃない。


 ボクの七つ上の先輩。

 だけど遅刻と無断欠勤とサボりが日常で、上司にも怒られっぱなし。


 なのに、不思議と誰にも嫌われていない。

 それは、先輩が特別だから。

 会社にとって有益な能力を持っていて、結果を出している。


 面倒をかけても、それを補って余りある成果を出すから。

 社長だって口にはしないけれど、黙って認めている。


 ――でも、ボクは知ってる。

 先輩が見せないもう一つの顔を。

 ただのサボり魔なんかじゃなくて、優しいこと。

 本当は誰よりも、人のことを見ているということを。

 

 昨日も無断で姿を消して、誰にも行き先を告げなかった。

 上司には「またかよ」と舌打ちされていたけれど、ボクは知っていた。


 先輩はあのとき、道端で泣いていた子どもを保護して、警察署まで付き添っていたんだ。

 誰にも言わず、当たり前の顔で、そんなことをしていた。


 そういう人だって、ボクだけは知ってる。

 心が読めるからじゃない。

 ちゃんと、見てきたから。


 「こっち見過ぎ」


 先輩がカップ麺の蓋を開けながら、口元だけでニヤッと笑った。

 まるで、ボクの心なんて最初からお見通しだと言わんばかりに。


 心を読めるのは、ボクの方のはずだ。

 なのに、どうしてこんなに動揺してるんだろう。


 思わず視線をそらしてから、

 「見ていません」

 と、いつも通りの口調で言ったつもりだった。


 本当は見ていた。

 今日もちゃんと、無事に来てくれたことが嬉しかったから。

 それだけで、少しだけ安心してしまったから。


 この会社で働くということは、時に命を賭けるということだ。表には出ない仕事ばかりで、報われることなんてほとんどない。

 無茶をして戻ってこない人だって、いないわけじゃない。


 だから、彼女がここにいる。

 それだけで、ボクの一日が、少しだけ軽くなる。


 どうして、そんなふうに感じてしまうんだろう。

 ただの先輩後輩の関係で、遅刻常習犯で、たまにちゃんとサボっていて、自分を大切にしなくて。

 それなのに、どうして、誰よりも先に声をかけたくなるなんて。


 人の心は読めても、

 自分の気持ちだけは、いつもよくわからない。


 ボクはまだ――

 恋だとは、認めていない。

 

 

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