序章 一話 「いつも通り」の最後の日
いつものように木を切っている。外はもう気温が下がり、今着ている長袖の服では肌寒く感じることが多くなってきた気がする。
「今年も雪が降りそうだな」
日課の薪割りを終え、家に帰ってきたニクスはそう呟いた。
「雪なんて毎年降ってるでしょ?今更なに感傷ぶってるの?」
そうやって毛布で暖をとりながら眠たげに返すのは年のころ20代といったところの女性。
「5年くらい前は雪なんてめったに降らなかっただろ?プロビアもその頃は喜んでたじゃないか」
「そりゃ珍しいもの見たら多少喜ぶわよ、でもここのところ毎年でしょ?少し飽きちゃったよ」
プロビアは少し伸びをして、欠伸をこらえきれない様子だった。また夜更かしでもしていたのだろう、彼女の今の職業的に夜遅くまで起きていることは多いので見慣れた光景である。
「そんなことより今日の朝ご飯は何?私はお肉が食べたいんだよね」
「もう夕飯だよ……というか明日は街に降りるんだろ?今からこんな時間に起きていて大丈夫なのか?」
大丈夫大丈夫~と返す彼女の姿に説得力はあまりない。きっとまたニクスが起こす羽目になるのだろう。
そう思いながら咎める気にもならず、ニクスは夕飯の用意にとりかかった。
一昨日処理しておいた鳥肉をひと塊取り出して皮目から鉄鍋に入れる。皮の水分が蒸発する音を聞きながらに記憶にある彼女の予定を聞いてみる。
「明日の商談はどこに行くんだっけ?」
「フロースの街だよ。そこそこ遠いけど、あそこの商人は話の分かる人が多いんだよね」
ニクスはあまり地理に詳しくはないが確かあそこは農業が盛んだったはずだ。とりわけ魔法で品種改良された花は野生で生えているものとは一線を画す美しさを持っていると聞いたことがある。
「それじゃあ帰りに花の種でも買ってきてくれよ。この家にも彩りが必要だろ?」
「えぇ、自分で行きなよ……」
ひどく面倒そうにプロビアは返す。ニクスとしても試しに言ってみた程度の提案だったがすげなく断られてしまった。
それから程なくして、一通りの調理が終わった皿を持ってニクスはテーブルに向かう。
「出来たよ、プロビア」
鼻腔をくすぐる香ばしい匂いに、それまで丸まっていた体が飛び起きた。
「いい匂い!」
それまでの怠惰が嘘だったかのように機敏に動いた彼女の手には、いつの間に手に取ったのかナイフとフォークが握られている。
「朝起きるときもそのくらい動けばいいのに……」
「それは無理」
有無を言わせないほどの速度でプロビアは否定した。
「私が日の出ている間に動けるわけないでしょ?」
勿論、ニクスもいきなり早起きしろだなんて言うつもりは無かったのだが、こうも強く否定されてはなにも口を出す気にならなかった。昔からの事であるが彼女の怠惰さが治ることはこれからも期待できなさそうだ。
「大体さぁ、引きこもりなのに時間なんて気にしてもしょうがないじゃない」
怠惰な彼女からの追撃が飛んできた。
「そんな事ないだろ、明日は商談に行くんだし、ちょくちょく人には会ってるよ」
「じゃあ最後に人に会ったのいつか覚えてる?」
そう言われてニクスは記憶を探ってみる。
最後に人に会ったのは……いつだったか。半年前、いや1年前だったような気もする。何の用で会ったのかも思い出せない。
「あれ?」
してやったりといった顔でプロビアは笑う。
「ほらね、ニクスも覚えてないでしょ?」
したり顔で言われてしまう。それがとても癪だったのでニクスはかすかな記憶を手繰り寄せようと努力してみる。
「1年前くらいにこの山で遭難した人がいただろ、夜中に叩き起されたから覚えてるよ」
何とか絞り出せた記憶のおかげで反論することが出来たのも束の間、怪訝な目線がニクスを刺した。
「家出てないじゃん」
何も言えなかった。
「家出てないじゃん」
「2回も言うなよ……」
認めるしかなかった。ニクスとプロビアは2人揃って仲良く引きこもりである事に。
「……冷めるから早く食べようか」
そもそもニクスが育てている野菜もあるし、森の奥に入れば獣だっている。生きていくだけに必要なものはプロビアが大抵用意してくれるので外に出る必要性があまりないというのもある。そんなわけで二人が外に、というか森から出ることは少なかった。
「厳密に言うなら外には出てるんだけどなぁ」
そう呟いてはみても結局、積極的に人と関わる生活はしていないわけで、プロビアの評価が覆るとは思えなかったのでニクスはこの話題を封印することにした。
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「…………」
「ごめんって」
翌朝、ぶすったれた顔のプロビアと困った顔でその隣を歩くニクスは共にフロースの街へと向かっていた。
彼女の不機嫌の理由は間違いなく今朝の目覚めのせいだろう。
案の定、夜更かしをした彼女は当然のように寝坊した。そのままでは夕方まで安眠しそうな寝顔に見かねたニクスがかなり荒っぽい方法で目覚めさせたのが原因であった。
「……何もベッドから落とすことなかった」
「別に俺が落としたわけじゃないよ」
ニクスがあらゆる手練手管を使って彼女を起こそうとした結果、寝返りに寝返りを重ねたプロビアが落下してしまっただけの話である。もちろんニクスはそれを狙ってやったわけではなかったが、想定外の衝撃で安眠を邪魔されたプロビアは大層ご立腹の様子である。
不機嫌のまま見送るのも少々気まずかったので、今回は荷物持ちとしてニクスも同行することになったのだった。
「……え?」
突然、プロビアが足を止める。驚いて振り返ると彼女の目線は空に向いていた。つられるようにニクスも空に視線を移す。
それは黒い点だった。雲一つない、快晴だったはずの空に決して小さくない点が浮かんでいる。
「なんだあれ……」
青い空が生じた違和に何か悪い予感がして、異変は起こった。
二つ、三つと点が増える。まるでキャンパスに黒の絵の具が飛び散るように、加速度的に青の割合が減っていく。そしていつか黒は太陽すらも飲み込んで世界から明かりが消え、夜よりも暗い漆黒が辺りを包んだ。
いつの間にか二人の手は繋がれ、互いの手の感触だけが自身の存在を伝える証明になっていた。
そして何もかもなくなった世界にに一つ。声が降る。
「どうかもう、誰も死なないで」