術式に触れてみる
アリスの衣服とベッドシーツには黄色いシミ。
勘違いさせるには十分な状況だろう。
「ここまで汚れたのなら交換を頼んだ方がいいな。
まぁ匂いを嗅げばすぐに卵だとわかるだろうが、アリスの見た目年齢だと、このシーツを交換にやってきた清掃員は『やっちゃったんだなぁ』と思うかもしれないが」
「そ、それは恥ずかしすぎます……最後におねしょをしたのって、確か9歳……いえ8歳ぐらいだったはずなのに……
それが600歳を超えてって……」
アリスはそう言いつつ頭を抱え、耳まで真っ赤にしてプルプルと震える。
当たり前のことだとは思うが、アリスにもちゃんと『恥ずかしい』という感情があって安心した。
これが『600年も1人で生きてきたことだし、今更おねしょぐらいならまぁいっか』とか言い出したら、特訓前に1時間ほど説教してやるところだったが。
それにしても9歳の出来事をわざわざ8歳と言いなおすほど大差はないだろうが、そこはアリスにとって譲れないラインなのかもしれない。
あくまでアリスの自称最後のおねしょ年齢ではあるが、それを覚えているあたり、600年余りの人生の中で最大の恥辱なのだろう。
もしかすると、時代的には既に働いていた年頃だろうから、その『大人の部分』としてのプライドがあるのかもしれない。
ちなみに私はここ数百年、様々なことがあったので当然ちびりそうになったこともあれば、実際……
……あー、うん…………
……それはさておき……
「ル、ルシアさん……」
「ん?」
「こ、こういうときに魔法や魔術でぱぱっと誤魔化せるような……」
「んー。あるにはあるが」
プロの清掃員なら、こんな痕跡一目見て『あぁ何かこぼしたんだな』で終わるだろうから、誤解されるようなものでもないと思うが……
「お、お願いします! このままでは恥ずかしすぎます!」
「う……」
アリスに現実的に起こりそうな清掃員の心情を話そうとするよりも早く、アリスのこの必死の懇願。
こんな必死の泣き顔は命乞いの時にも見たが、今回の場合は恥辱による必死。
こんな困り果てて懇願する必死の泣き顔だと、もうちょっといじめたい、という一方で、無性に庇護欲を掻き立てられてしまうほど可愛い……これはずるい……
これには思わず『私に任せなさい』と簡単に言ってしまいそうになるが、私は襲いかかってくるいじめ欲と庇護欲を振り払い、1つの名案を思いつく。
「大丈夫だ、アリス」
「本当ですか!?」
私がそう言うと、アリスの表情は一転、ぱぁっと明るくなる。
この状況を利用すれば、アリスに魔力を使わせるいい特訓になりそうだ。
「こういうのは生活魔法でどうとでもなる。
現代では魔導洗濯機の普及で使い手も減ったが、私の魔力制御なら魔導洗濯機と同等以上に綺麗にできるぞ」
「さすがルシアさん! それでは早速……」
「でもな、アリス。これはアリスがやらかしたシーツだ。
今後も同じようなことが起きるかもしれない。だからこの機会に生活魔法を使えるようになろう。
そうすれば私がいないときでも、おねしょを誤魔化せるようになるぞ」
「お、おねしょはしません……そう、村を出て600年の間は一度も……してません……けど……わかりました。がんばってみます……」
強気に断言しきれず、やや目をそらすことで白状しているようなものだが、そこにツッコむとアリスが恥辱に耐えきれず逃げてしまうかもしれないので、あまりいじめないでおこう。
それにしても、やはりアリスは自分がピンチの時は、食べ物以外でもちゃんとがんばれるようだな。
それに『生卵と茹で卵を同じ場所に置いておくのが悪い』と人のせいにしないあたり、本当にいい子だ。
私だったら即、人に罪をなすりつけて都合が悪くなれば即逃げるけど。
「まぁそんなに緊張するな。
今回アリスに覚えてもらう、というか、覚えていて損のない、魔法初心者が最初の授業で習うような生活魔法の基礎だから、そんなに身構える必要はない」
「そ、そうなんですね……それならいいのですが……」
茹で卵特訓に加え、新しいものを覚えなければならい、と硬くなっていたアリスだが、少し緊張が和らいだ模様。
「だから今回は初級も初級。水を作り出す魔法の術式に慣れることから始めてもらおうと思う。
今回のようなシミ抜き洗濯魔法は普通の洗濯魔法に比べると術式が複雑化するからな」
「お水、ですか? でも私、お水は作れますよ?」
そう言ってアリスは、テーブルの上にあったコップの中に水を作り出す。
「まぁそうなんだが、アリスのそれは『食物魔法』であり、水分補給ができる『本物の水』だ。
しかし生活魔法に限らず、魔力で生み出す水魔法には本来そのような効果はない。
シャワーとしては問題なく使用できるが、喉の渇きに対しては一時的に喉が潤う感覚はあっても、水分補給にはならない。
なのでアリスの『食物魔法の水』と『水魔法の水』では術式の構成、つまり魔導回路が全く違う作りになっているはずだ」
「む……難しい……ですね……」
アリスの頭は早速混乱し、少し首をひねる。
というか、アリスの『食物魔法』に関しては私も全然解析を進められていない謎魔法だ。私だって首をひねりたい。
「まぁ『術式』だの『魔導回路』だのと言っても、普通に学校に通っている連中でも頭こんがらがる奴もいるからな。
だから難しく考える必要はない。
今回は触ってみて、少し慣れるだけだ」
私はそう言いつつ、部屋に置かれたペンと紙を手にとって、初歩的な『水魔法術式』を書き込んで、アリスに手渡す。
「……これでお水ができるんですか?」
それを見たアリスはさらに首をひねる。
「そうだ。ごく簡単な術式だから少量の水だけどな。
ちなみに、これをさらに複雑化して他の術式と組み合わせたものを『魔導回路』と言って、例えばアリスも普段使うようになった『水道魔術』ができあがるんだ」
「へぇ、凄いです。これが水道に……」
私の説明を聞いてアリスは術式の書かれた紙をまじまじと見るが、さすがにこの程度の術式では水道はできない。
「それで今回アリスにやってもらうのは、茹で卵と同じように気楽に魔力を浸透させるように、この術式を指でなぞるだけ。
簡単だろ?」
「難しいお話はよくわかりませんでしたが、なぞるだけなら私でもできそうです」
アリスはあまり難しい作業ではないことに安心したようで、テーブルの上に紙を置いて言われた通り術式をゆっくりなぞり始める。
アリスは漫画を読むためだけに独学で文字を覚えたからな。興味があることには熱心に打ち込み、吸収が早い。
だからこそ、今回をきっかけに術式に興味を持ってくれれば爆発的な成長を見せてくれると期待してはいるのだが……
「あ」
と、アリスからこぼれた小さな声に、急に嫌な予感がしてきた。
「……どうした?」
「ちょっとはみ出しちゃいました……」
「それぐらいなら気にするな。
最初はなぞるだけもちょっと難しいかもしれないからな。大丈夫だ」
と、アリスに言った言葉ではあるが、まるで自分に言い聞かせるように不安を感じる。
魔力制御が上手くできない魔導初心者の『ガチャ術式』なら被害は出ないが、アリスの場合だと……
「あ……ぅ……むずかし……」
素人が失敗することは恥ずかしいことではない。
だが、アリスが声を漏らすたびに、私の心音が高鳴る……
「これで終わ……は……くち……」
そこへアリスの可愛いくしゃみ。
「あ……ずれちゃいました……」
びしゃり。
今回のこの術式、成功させれば紙が少々湿る程度だったのだが、アリスの失敗に失敗を重ねた『ガチャ術式』で発動したのは、コップ一杯分の水が跳ね散って私のベッドをピンポイントで濡らした……
……これじゃあ私がおねしょしたみたいじゃないか……




