Marks of blood
夕方の18時を報せるチャイムが町中に鳴り渡り、千歳たちの通う愛宕市立酒蔵台高校では部活動を終えた生徒たちが校門から教員に見送られながら次々と下校していく。その目の前には愛宕市立酒蔵台小学校があり、同じような微笑ましい光景が見られた。
しかしよく見ると両校の教員たちの表情は些か険しく、その人数も3人と生徒たちを見送るだけにしては多い印象を受ける。さらに異様なことに、彼らは帰っていく生徒たちへ揃って同じ言葉を掛けるのだ。
『1人で酒蔵台公園の前を通らないように』と……。
酒蔵台高校、小学校前の信号交差点を渡ればすぐ入り口があり、面積は35,000平方メートルと愛宕市内でも比較的規模が大きなこの酒蔵台公園は遊具が充実した広場はもちろんのこと、サッカーやバスケができる運動場に野球グラウンド、ショウブ池や夏季には無料解放の幼児用プールもある。
さらに春になると100本近く植えられた桜の木が花を咲かせ、苑路に多くの屋台が立ち並んでの花見が行われる。秋は紅葉が美しく、真冬の雪の日は子供たちが雪合戦をして遊んでいたりとまさに春夏秋冬、毎日多くの人で賑わうこの公園では昔から怪奇現象が多発していた。
誰も何もいないのに遊具や物が勝手に動いたり、足音や話し声が聞こえる。とつぜん強い力で引っ張られ、宙に持ち上げられたと話す人もいる。他には黒い影や霧がまるで生き物のように徘徊するなど挙げればキリはないが、人が神隠しにあう事例もあったため夜間は苑路を過ぎた全広場への立ち入りが禁止されている。
下校する生徒たちがいなくなった頃、日はすっかり沈んで街灯がぼんやりと道を照らす。周囲を走る車でさえ突然止まったり、見えないなにかにぶつかって吹っ飛ばされるなどの現象に見舞われる事もある。そんな人っ子一人いない公園の黄色と黒のテープが張り巡らされた入り口を抜け、とある広場へ侵入した千歳は周囲を見渡しながら漆黒の透明マントを脱いだ。
夜間は全広場が立ち入り禁止になっている酒蔵台公園だが唯一、終日立ち入り禁止になっている広場がある。それがいま千歳のいる噴水広場、以前は人々の憩いの場として親しまれていたここで血だらけになって倒れている小学校低学年の男の子が見つかった。現場の血痕や衣服に染みついていた血液は本人のものであり、少年はすぐ近くの診療所へ緊急搬送されたが不思議なことに致死量とも言える出血量にもかかわらず外傷はなく命にも別状はなかった。
『黒い霧の怪物に襲われた』
少年と一緒に保護、搬送された女の子の証言から殺人未遂事件として警察の捜査が行われたが容疑者の手掛かりを一切掴めず次々と起こる怪奇現象に難航し、ついには夜中にチームで現場を調べていたとされる捜査員たちが神隠しに遭い行方不明となった。そして当時の状況からなんとか逃れたという捜査員までもが”黒い霧の怪物”が彼らを連れ去っていったのだと言って恐怖に怯えていた。
後日、酒蔵台公園広場内の茂みから人間のものと見られる腕が発見された。鑑定の結果、その腕は行方不明になった捜査員のもので人間の腕力では不可能な、それこそまるで猛獣にでも食いちぎられたかのような損傷を受けていた。切り口に付着していたDNAも人間のそれとは掛け離れており、生き残った捜査員の話からしても人間が対処できる域を超える生物のものだった。
かといって武装しようにも住宅街のど真ん中にある公園で銃を発砲するとなれば流れ弾などのリスクも高く、徒に犠牲者を出すわけにもいかないので捜査はやむなく断念される事となった。
不可解な怪奇現象に人々を襲う”黒い霧の怪物”、これらの危険に警戒を促すため警察は黄色のひし形に”!”のマーク─────つまり”その他の危険”を示す標識を酒蔵台公園周辺の所々に設置した。
事件から10年経った現在、あの事件の被害者である少年Aはここへ戻ってきた。広場の真ん中にそびえ立つ立派な噴水のオブジェは長年水が流される事もなく放置され、枯れ果てた水盤には亀裂が走り、苔むしている。その前のアスファルトに染みついて今も残る血痕をそっと撫でると当時のことを鮮明に思い出す。
体を切り裂かれた痛みと鉄の味、死の絶望のなかで響く女の子の泣き声。その苦痛の悪夢から目覚めた後はまるで天国にでも来たのかと思うほど穏やかだった。
ともすれば自分がこうして生き延びているのは奇跡で本来ならばここに戻ってくるべきではないのだろう。しかし妹たちの平穏のためとは別にこの魔眼を授かった時、ひそかに復讐を夢見ていたのだ。そんな感慨に浸る暇もなく下卑た笑い声と共に容疑者X─────”黒い霧の怪物”こと異形が群れとなって姿を現す。
『誰かと思えばそのにおい……覚えているぞ。あの時のガキか……』
先頭に立ち、鋭い爪をひけらかすその異形に千歳は見覚えがあった。いや、忘れるはずもない。いま目の前にいるソイツこそが10年前、自分と当時いっしょにいた彩葉を襲った因縁の相手なのだから……。
あれから長い年月を経ているので当然というべきか、記憶と比べてだいぶ大きく見える。それだけではなく身にまとう影の濃度や存在感、威圧感が他の個体とは段違いであった。
『わざわざ戻ってくるとはな、せっかく拾った命を捨てに来たか?』
「まさか。この中に昨日の夜、紫が丘に行ったヤツがいるだろ。そいつを探しに来ただけだ」
『生憎だな、そいつならここへ帰ってきてすぐ有間のガキに殺られた。こそこそ影に隠れるしか能がないくせして”魔眼のガキにやられた”とかぬかしながら仲間を食いまくりやがってよ、最期は雷に撃たれて一瞬で灰になったぜ─────』
昨夜、橘家から帰る道中で聞いた雷鳴の正体を知り、有間家に借りができたと一旦の目的が果たされた事に安堵する。しかし異形共がこのまま素直に自分を帰らせてくれるだろうか、などというのは問答にもならない。その証拠に周囲の逃げ道はおよそ彼らに塞がれ、ざわめきはいっそう大きくなる。
『勘違いするなよ。敵討ちだなんて考えちゃいねぇ、弱ぇヤツが死んでせいせいしてるくらいだ。だがノコノコやって来た獲物を逃がす道理はねぇ、オレは一度お前を取り逃してるからな……』
苑路や広場を照らしていた頼りない灯りが次々と消えてゆき、それに比例するかのように異形共の眼光が暗闇の中でギラギラと赤く光る。まるで世界と遮断されたかのような独特の雰囲気、長門の魔眼はこの広大な公園を囲む漆黒の天蓋を捉えた。
「”結界”……?」
『あぁ、オレはあるお方から”夜行”の名とお前ら人間を狩るための力を授かった。そして俺たちはそろそろ動き始める。長門の人間であるお前の死を皮切りにな……』
死んでいった同類を哀れむでもなく、むしろ嘲笑する。そんな連中がまるで統率でもされているかのような言いぶりだった。そして千歳と因縁ある異形、夜行はこの群れの長として人間界への侵攻を目論んでいたのだ。
『テメェの家族、それと一緒にいたチビの女も、オレらが全員狩り尽くしてや─────』
と、夜行の横にいた1体の異形が言葉を言い終える前に黒い塵となり、木刀に付いた血を振り払った千歳は再び全身に影をまとうとそのまま暗闇へ消えていった。この一撃が開戦の狼煙となり、異形の群れは雄叫びを響かせながら公園内へと駆け出していく。
そうして1人 (?)になった頃、暗闇のどこかからあの人間の声が夜行の耳に聞こえてくる。
「あの時の子供と同じだと思うなよ、結界を張られたのは想定外だったけど……好都合だ─────」
『おもしれぇ、暗闇でオレらに喧嘩売るとはな。オレとお前、どっちが狩る方なのか決着つけようじゃねぇか。人間─────!』
名を与えられ、群れの長という地位を得てもその矜恃や本能は獣のまま。人間から叩きつけられた挑戦状に夜行もニタッと口角を吊り上げ、高笑いを響かせた。