Evil Eyes
中学時代の剣道部の後輩、橘 若葉と紫が丘へ遊びに行った妹が夜になっても帰ってきておらず連絡もないので心配していた矢先、RAILに着信していた秋葉からのメッセージを千歳が慌てて母、楓に見せる。
「『おにたすけて』……『おにぃ助けて』って事かしら……?」
「多分ね、ちょっと急いで紫が丘に行ってくるよ……っと─────」
そう言いながら部屋の片隅に立て掛けてある護身用の木刀を手に取り、開けた窓から”影が視える眼”で夜の町並み、紫が丘の周辺を睨むと瞳孔を中心に回転する黒い円環の紋様が赤と白緑色に灯る影の揺らめきを視界に写す。そして妹たちに迫ろうとしているドス黒い影も観測し、いよいよ外へ飛び出そうとする息子を母は引き止めなかった。自転車や車、バスよりも速く紫が丘にたどり着ける術がある事を知っているのだ。
「気を付けてね、なにかあったらすぐ電話するのよ?お母さんたちもすぐ車で行くから……」
「うん、じゃあいってくる─────!」
身体に黒い影のようなものを纏い、黒い突風と不気味な風切り音を残して千歳が夜の帳へと駆け出して行った。あっという間に見えなくなった漆黒の流れ星に子供たちの無事を願い、楓は夫のいるリビングへ階段を小走りで降りていく。
─────
───
─
自分たちの背後に忍び寄る何かの存在に気付いたのは日が暮れだした頃、まだ明るいうちに帰ろうとショッピングモールを出た後の事だった。離れた場所にあるバス停へ向かって歩いていた秋葉と若葉はなにやら感じる視線に振り向くが誰も何もおらず最初は気の所為だと思っていた。
しかし次第に増していく得体の知れない不気味な雰囲気に振り向くのが怖くなり、早歩きで近くの工事現場の前を通り過ぎようとしたその時、バリッ!という稲妻のような音の直後に2人の悲鳴が響き渡る。
驚きのあまり音のした後ろの方を振り向いてしまった彼女たちの前には道路に植えられた木の太い枝が無惨にも転がっていた。しっかりした枝をへし折るような強風など吹いておらず、不自然な程に人気もいないこの場所で誰かが切り落としたという事もそれこそ目に見えない何かがいなければありえない。そう思っていた次の瞬間─────
『█▇▄▆▅▉!!!』
これまで見た事もない巨大な怪物が黒い霧と共に現れ、奈落の底から這い上がってくるような咆哮をあげた。驚きと恐怖に近くの工事中の建物の中へと駆け込み、物陰から自分たちを追うその”異形”の姿を覗く。
遠目からでもわかる2メートルはあろうという巨躯、不気味に光る2つの赤い眼が明かりの灯っていない建物内を見渡す。物音を立てないようにしながら慎重に物陰を転々とする秋葉や若葉とは対照的に夜目が利くのかその異形は暗闇へ迷い込んだ獲物の潜む場所へと着実に迫っていた。
ホラーやパニック系が苦手な秋葉は悲鳴をあげてしまいたい衝動をグッと堪え、RAILで千歳に助けを求めるメッセージを送信したところで残り少なかったスマホの充電が切れてしまう。すぐに兄が助けに来てくれると心の中で自分に言い聞かせ、それが現実になるよう祈りながら掌をあわせるその背中を優しくさすり、道中で拾った鉄パイプを力強く握りしめた若葉が覚悟を決め、彼女の耳に手を添えてそっと耳打ちする。
「私が適当に暴れて気を引くんで、秋葉さんはその隙に逃げちゃってください……」
「そ、そんなこと……!できるわけない!橘さんも一緒に─────」
迂闊だった。気力、体力ともに限界のはずだった秋葉が立ち上がり、声をあげてしまったのだ。それを聞き逃すはずもなく化け物がすぐそこまで歩み寄り、獣のような顔の歪んだ口元から鋭い牙を覗かせる。
『若い人間の女が2人……今夜はツイてるな……』
目の前の”ソレ”が紡ぐ言葉、声はとてもこの世の生物が発しているとは思えない不気味な響きだった。そして威圧感さえ感じる体格差とまるで人狼のような姿に腰を抜かした秋葉はペタンと座り込み、体を小刻みに震わせながら涙を流す。
恐怖に怯える獲物を前に化け物の口角はよりいっそう吊り上がる。その行く手を阻むかのようにもう1人の少女が立ち塞がり、手に持っている鉄パイプを構えた。
「まず私が相手です、やあアアアッ!!!」
掛け声と共に正眼の構えから放たれた一振は化け物の胴体を直撃した。しかし手に伝わるなにか空気の塊を打ったかのような妙な手応えに鉄パイプを振り抜く事もできず、全国女子中学生の頂点に立った若葉の一撃をものともしない異形の者に払い除けるように弾き飛ばされた彼女の体は勢いよく壁面に叩きつけられる。
「かっ─────は……」
全身に走る激痛と今にも飛んでしまいそうな意識に抗いながらぶん投げた鉄パイプは『カランカラン』と音を立てて化け物の足元に虚しく転がり、必死の抵抗を煩わしく思ったのか振り向いた”ソレ”が獣のような四足走行で素早移動してきた。
『お前のように活きがいいのは久々だ、楽しみにとっときたかったんだがな……』
化け物が振りかざす爪の鋭さに思わず閉じた瞼の裏にはこれまでの思い出が走馬灯のように駆け巡る。その時、建物内に一陣の風が吹き抜け、妙な浮遊感に包まれた若葉がおそるおそる瞼を開くと彼女の体は黒い人影にお姫様抱っこで抱きかかえられていた。
「あ、あの……」
『よかった、間に合って─────』
それは化け物のように不気味で、しかし不思議と聞き馴染みのある優しい声色、しだいに晴れていく黒い霧の中から自らが師匠と慕う千歳が姿を現した。安堵に涙が頬を伝うのも束の間、景色が変わって離れた場所にいたはずの秋葉が目の前で震えながら座り込んでいる。
「っ!千歳先輩……!」
『秋葉ちゃんを頼むよ─────』
そっと降ろした若葉に妹をまかせ、布に包んでいた木刀を取り出した千歳は刀身の部分に影を纏わせながら突然の乱入者に警戒を示す異形の者と対峙する。
『このにおい……人間如きが狩りの邪魔を……』
『”狩り”─────か、いつだってそうなんだな、お前ら異形っていうのは……』
張り詰めた空気のなか先手を打とうと地面を蹴り、脇構えから放った木刀の一振りは難なく躱され、異形の爪による反撃とその後の猛攻も魔眼の動体視力と剣道で培った足捌きでギリギリ回避していく。人間と異形では膂力の差は歴然、木刀で防御すればもろとも切り裂かれてしまうだろう。
『えぇい、ちょこまかとッ!』
と、鬱陶しげに爪を振りかざした異形の隙を見計らい、その懐に飛び込んだ千歳の木刀による一閃が急所を捉えた。断末魔と共に切り口から黒い液体を吹き散らし、床へ倒れ込んだ巨体がのたうち回る。
『ガアアアッ!!!クソがッ!なぜ人間に魔核の位置が─────』
その時、自身が絶対捕食者と疑わなかった異形は目の前に佇む人間、両眼に宿る禍々しい眼光に初めて戦慄した。古来より妖魔や魔性として人々を脅かしていた同胞に対抗してきた者たち、その中に同じ眼を持つ”長門”という名の人間がいた事を思い出す。
『─────チィッ!』
『うわっぷ!?』
それは生存本能か、異形が魔力を煙幕のように撒き散らし、あまりの魔力濃度に魔眼でさえその姿を捕捉できない。もしやと思い妹たちのいる場所へと戻るがなにも起きず、ただ甲高い音と共に割れた窓から煙が外へ出ていく。やがてクリアになった視界にあの異形の姿はなく、黒い液体の跡が窓へと続いていた。
弱っているであろう異形の追撃よりも妹たちの安全を優先とし、木刀を布に包んで周囲を警戒しながら秋葉と若葉を連れて建物を出るとすでに父の運転する車が迎えに来ていた。2人を後部座席に乗せた千歳は助手席に乗り込み、走り出した車の中で心配する父に工事現場の建物内で起こった状況を説明する。
場所は変わって酒蔵台の住宅街の中にある公園、かすかな街灯が照らすだけの薄暗いその場所にはひとつの人影もない。そこで身体に傷を負った異形が鳴らす不気味な咀嚼音、辺りに溜まっている黒い液体に肉の塊と骨が散乱していた。
「随分と食い散らかしてるな、共食いをするほど弱ってるってとこか……」
そこへ歩み寄って来た少年、青白い稲妻を纏いこの凄惨とも言える状況を戦慄する事もなく観察している。
『雷の魔力……有間の人間かツイてねぇ、今テメェを相手する暇はねぇんだよ─────!』
煙幕のような魔力を撒き散らし、この場を逃げ出そうとする異形を天から落ちた雷が無慈悲に射抜く。
「俺たち有間がいる限り、お前たちにツキなどない─────」
そう言い残して踵を翻し、去っていく少年─────千尋の背後で轟音は断末魔さえもかき消し、聖なる光に焼き尽くされた邪悪なる者は黒き灰となって風に散っていった。