Complex
生徒会の活動を終えて有間家の屋敷に帰宅し、夕飯と入浴を済ませた美琴が部屋に入ると旅館のように丁寧に敷かれた布団へ身を投げて深い深いため息を吐く。自分だけの空間、静寂と洗いたての布団の柔らかな感触に張り詰めていた神経が緩む。
ちょうど1年前、有間家次期当主である千尋の許嫁として身近にいた方がよいという父の助言を受け、関西の私立、玹帝学園から公立の酒蔵台高校へ転入した。中等部では生徒会長も務め、そのまま高等部へ進むと思っていた千尋がとつぜん公立への進学を決めたと聞いた時は驚き戸惑ったものである。
そして登校初日、待ち受けていたのは名門私立に通っていた自分への憧憬、好奇心に満ちた視線と尾ひれのついた噂話、成績も玹帝では中の中程度だったのがここでは上位組、やるつもりのなかった生徒会役員も周囲に強く押され流されるまま立候補する羽目になり、当初は2年生にして生徒会長に立候補させられそうになっていたところを生徒会副会長候補として生徒会選挙に臨み当選。元来の気立てのよさも相まっていつの間にか”頼れる生徒副会長”が板についてしまっていた。
この屋敷に来た当初は夜になるたび関西にいる親友と通話をして日々のストレスを発散していたのだがあちらがアルバイトを始めた事がきっかけでその頻度は減り、春休みに帰省した際にも会う暇がなかったのでもう半年以上は彼女の声を聞いておらずRAILでのやりとりだけになってしまっていた。
このまま寝てしまおうかとも考えたがもうすぐ課題テストだ、夏にある生徒会役員選挙に向けて次期生徒会長候補としては上位の成績を収めなければならない。机に並べた問題集とノートを前に両手で頬をぺちぺちと叩いて気を引き締め、ペンを握ったところにスマホの着信音が鳴る。
「……もしもし、お父さん?」
『おう……元気か、美琴────』
応答ボタンを押し、スピーカーモードにしたスマホから実家にいる父の声が聞こえてくる。どこかぎこちない声色と口調に親子の会話とは思えない緊張感が漂う。
「元気だけど……っていうかどうしたの、電話なんてめずらしい」
『……おととい会合があったやろ。有間の御隠居からなんや厳しいこと言われんかったかなと気になってな』
実家にいた頃は厳格で寡黙な父に度々叱られたし時には喧嘩もした、そんな父からの言葉に美琴が目を丸くして内心驚く。
「え、なに、ウチのこと心配してるの……?」
『当たり前やろ、久しぶりに会うた娘が”ご無沙汰しております”なんてそんなん父親なら誰かて心配するわ!お前まさか有間の屋敷で変なもん食わされてんのとちゃうやろな?』
「……ふふっ、食うてませんー、なんならめっちゃ上品なもん食べてますー。あとは礼儀作法にめっっっちゃ厳しい人がおって────」
ペンを置いて勉強を忘れ、すっかりもとの言葉遣いに戻った美琴は酒蔵台であった事を父に話す。他愛のないこの親子の会話も彼女にとっては心休まる瞬間であった。
「……ほなそろそろ勉強せなあかんから切るよ。また夏休みには帰るわ」
『あぁ、お前は根が真面目やさかい、あまり根を詰め過ぎてぶっ倒れんようにな────』
通話を終え、部屋には再び静寂が訪れる。突然の電話には驚いたが、実家にいる時には気付けなかった父の意外な親心というか優しさを垣間見る事ができて思わず笑みが零れた。気を取り直し、勉強を再開しようとしたその時────
「美琴お嬢様、すこしよろしいでしょうか?」
部屋の外から聞こえた声に美琴が襖を開けると有間家に仕える使用人頭の魁がおり、挨拶以外では滅多に言葉を交わさない彼の来訪に思わず身構えてしまう。
「あ、えと……ごめんなさい、父から電話があって……その、うるさかったですよね?」
「いえ、今すこしお時間よろしいでしょうか?お話……というよりご相談がありまして」
電話の声が大きく関西弁だった事を注意されると思ったがそうではないようで安堵しながら今日はめずらしい事が起こる日だと、応接間で待つこと数分、盆を持った彼が入ってきて茶の注がれた茶器と茶菓子を丁寧に差し出す。
淹れたてのお茶から漂うなにやら薬草のような香り、琥珀色のそれを啜って味わうとまた不思議な風味が喉や鼻を通っていく。
「すごい、香りも独特で不思議な味ですね……」
「まあハーブティーみたいなものでして、眼精疲労や疲労回復に効果があるとのことです。友人から頂戴したのですが私ひとりでは消費が追いつかず、茶菓子も貰い物なので遠慮せず召し上がってください」
言われてみれば身体が芯からじんわりと暖かくなり、学校での資料作成作業や家の勉強で疲れた眼が楽になっていくような気がする。茶菓子もいわゆる練り切り餡なのだが上品な甘さで名店のものなんだろうなというのが一口で想像できた。
「美味しいです。ところで……お話というのは?」
「はい、率直に申し上げますと近々千尋坊ちゃんに家督を継いでいただこうと考えています。美琴お嬢様にもその際、坊ちゃんにお口添えを賜りたく……」
魁の口から飛び出した突拍子もない話に美琴が意味もわからず唖然としてしまい、その様子に彼は順を追って説明いたしますと話を続ける。
「千尋坊ちゃんが生まれる以前、有間と長門が対立関係にあった事はご存知かと、当時の有間家はまさに全盛期と言っても差し支えありませんでした。しかし長門と和解してからというもの、その威厳は地に堕ちてしまっているのです……」
隠居した現在でも向き合う者に深い畏敬の念を抱かせる有間の御隠居だが、それでも父曰く”多少丸くなった”らしい。そして冷静沈着を絵に描いたような魁の熱弁ぶりに彼がいつから有間家に仕えているのか、という野暮な疑問を挟む余地などなく美琴はただ聞き入るしかなかった。
「大袈裟に言えば私はあの頃の有間家へ再興させたいのです。が、当時の当主である万歳様は今や御隠居の身、それが再び当主の任に就けばそのご子息である道雪様、ひいては有間家そのものの手腕を疑われましょう。ですが千尋坊ちゃんが家督を継ぎ、有間家を再興したとあらば面目が立つというものです」
ただでさえ学校のテストや生徒会の行事の事で一杯の美琴にとってそれはあまりに飛躍した計画だった。琥珀の茶を一口飲んで情報を整理し、なぜそのような大事な話を千尋ではなく自分にするのかと訊ねる。
「ご存知の通り、千尋坊ちゃんは思慮深く謙虚な方です。何より道雪様を尊敬する坊ちゃんはこの計画に反対なさるでしょう。しかし美琴お嬢様が賛同なさっていると知れば、考えをあらためてくださいます」
自分の言葉ひとつで千尋の固い意思が揺らぐなど想像もつかないが魁はそう強く断言した。その根拠は一体なんなのか聞いてみると許嫁を決めるにあたり、万歳が名家の御令嬢を何名か推薦したらしいのだが千尋はそのとき候補にすら挙がっていなかった美琴を指名したのだと聞かされる。
「坊ちゃんにとって貴女様はそれだけ特別な存在だったという事です。話を進めますが、夏に生徒会役員選挙があるかと存じます。そこで坊ちゃんは生徒会長、お嬢様は副会長の席を獲得していただきたいのです」
「え……」
今年度こそは生徒会長へ立候補しようと意気込む美琴にとってそれはあまりに突然過ぎる申し出だった。今までの努力を否定されたような、そんな落胆が声になって洩れ出す。
「勘違いしていただかないよう率直に申し上げますが、これはお嬢様のためを思って申し上げているのです」
「私のため?それってどういう……」
「はい、今日までお嬢様は坊ちゃんに相応しくあるため並々ならぬ努力を積み上げできたことでしょう。であればこそ、役目を果たせた暁にはお嬢様が抱えていらっしゃる劣等感を払拭できるのではないでしょうか?」
これまで千尋が周囲から認められる度に心の内に芽生えていた焦燥感のような感情、その正体を言い当てられた美琴の心臓がひとつ強い鼓動を響かせた。そして魁の計画こそがこの燻る感情から解放される手段ならと、協力を申し出ようとする美琴を彼が掌で制する。
「とはいえ、私の計画は一歩間違えれば有間家への反逆です。お嬢様にそのような罪を被せるわけにはいきません。なので貴女は一言、『私も賛同している』とだけ仰っていただければ結構です。坊ちゃんや道雪様との交渉については私がすべて引き受けましょう」
「わかりました、あの……ありがとうございます」
「いえ、私の方こそ協力の意をいただき大変重畳でございます。善は急げと申しますし、千尋坊ちゃんには明朝にお話し致しましょう────」
その後、呆然と部屋に戻った美琴が机の前に座り、途中だった問題集を解こうとペンを握ろうとしたところでふと手が止まる。
(そうだ、もう頑張らなくていいんだった────)
有馬の屋敷に来てから欠かす事のなかった予習と復習を今日はじめて途中で切り上げ、片付けもしないまま電気を消して布団へ身を投げる。そして大きな欠伸の後に訪れた睡魔に身を委ね、その夜はぐっすりと熟睡した。
翌日────有間 千尋、榊 美琴の両名は学校を欠席、長門家に万歳の危篤の知らせが届く。