Mum
黒影の刃が夜行の巨躯を逆袈裟に走り、木刀を持つ手になんとも嫌な感触が伝わってくる。斬った異形の身体をマジマジと見るのは初めてだが、傷の向こう側に詰まっていたのは血の通った肉ではなくドス黒く濁った泥だった。
当然ただの泥ではなく魔力の込められた黒泥、それが生物の形を成していられるのは彼らの心臓に当たる”魔核”があってこそ、言うなれば魔核とは核であり楔なのだ。
『……ムカつくガキだ、仕返しのつもりか?』
魔核という楔を失った体内では制御不能になった魔力が圧縮され、絶命と同時に黒塵を撒き散らしながら霧散するのだが夜行ほどの魔力量となるとその進行も緩やかなものだった。仰向けに倒れ伏した彼の身体にもはや神経や痛覚などはなく、どこか穏やかな声色で目の前に立つ少年に話し掛ける。
「────ああ、これでおあいこだ……!」
『”おあいこ”だと?人間風情が笑わせやがるッ!』
その傷跡は奇しくも幼き頃の自身が負ったものと逆向きだったがギリギリの戦いの中、そういった意趣返しをする余裕など千歳にはなかった。しかし咄嗟に出た虚勢に夜行は黒い血を吐き散らしながら高笑いを響かせる。
『ハ────ゴホッ、笑かしてくれた礼だ……ひとつだけ教えてやるよ。お前らの敵は俺らだけじゃねぇ……』
「……なんだって?それはどういう────」
意味深な言葉を遺し、物言わぬ泥の塊となったそれは花火のように散っていった。それに伴って結界も消え、先程までの血なまぐささが嘘のようである。幼き日の雪辱を果たした千歳は肺の中の淀んだ空気をすべて吐き出し、花冷えのひんやりと澄んだ空気で満たす。
時計を見るとこの公園に来てから15分ほどしか針は進んでおらず、”そんなバカな”と見たスマホも同じ時刻を示す。どう考えても1時間以上は戦っていたはずだがこれ僥倖と家へ帰ろうとした時、ある不安が心を過りピタッとその脚が止まった。
(そういえば……何匹か逃がしてたな────)
収まっていた殺気が心臓の鼓動と共に湧き起こる。だが全身の疲労感に筋肉痛、魔眼を酷使したせいか瞼が重く万全には程遠い。唯一の武器だった木刀も最後に夜行へ見舞った一太刀で砕け散った。
だがそれは戦わない理由にはならない。幸いにも自身が通う酒蔵台高校はすぐそこにあり、道場の木刀ないしは竹刀でも拝借すればいい。音が鳴るほどの空腹感と軋む身体に鞭を打ち、再び夜の町へ駆け出そうとしたその時────
「ピピーッ!そこの不良少年、止まりなさい!」
と、後ろから突然声を掛けられ、振り向くとそこには母親と同年齢くらいの女性が佇んでいた。
「おばさん……え、なんで?」
「それはこっちのセリフなんですけど、とりあえずこっちに来なさい。そこ夜は立ち入り禁止なの知ってるでしょう?」
今さっきまで弓弦のように張り詰めていた闘志はどこへやら、手招きされるまま素直に広場から出てきた千歳の頭を”おばさん”と呼ばれていた女性が優しく撫でる。彼女の名前は黛泉 椿、幼馴染みである彩葉の母親で幼い頃から息子同然のように可愛がってもらっていた。以前までは生活安全課の警察官だったが妊娠をきっかけに退職、現在は免許センターのパート職員として復職している。
「ここって夜たまにヤンキーの溜まり場になってるのよ。千歳に限ってありえないとは思うけどアンタ、仲間とかになってたりしないわよね?」
「ないない。それでおばさん……俺と外で会ったこと母さんに内緒にしてもらえると……」
「たぶんもうとっくにバレてるわよ。えぇと……ほら、これ────」
ズボンのポケットから出したスマホを指で操作して椿が見せてきたのは千歳の母、楓とのRAILのやりとりだった。
『千歳が家にいないんだけどもしかしてそっちにお邪魔してる?』
そのメッセージを目にした瞬間、サーッと血の気が引いていくのを感じる。部活の同級生からランニングに誘われたと言い逃れする手もあったがそれはこうして椿と鉢合わせた時点で破綻した。もとより叱られるのは覚悟の上、しかしここにいた事を両親に知られればそれどころでは済まないかもしれない。
「もし今から一緒に帰るなら、お母さんの雷からおばさんが庇ってあげましょう♪」
「…………はぁ、わかった。帰るよ────」
逃げた異形は追いたいがこれ以上帰りが遅くなれば後が怖い。悩んだ末、観念した千歳は深いため息をつきながら椿の提案を受け入れた。
────
──
─
「千歳も18になったら免許取りに行っちゃいなさいよ、合宿ならたった2週間よ2週間!」
「ん〜……でも悟志から聞いたんだけど、検定とか試験って難しいんじゃ────」
「そこはおばさんがコツを教えてあげましょう。伊達に免許センターで働いてませんもの!もし免許取ったら彩葉を海にでも連れて行ってあげてよ」
そんな世間話をしている間に2人は長門家の前に着き、緊張した様子で千歳がインターホンのボタンを押すと玄関のドアがガチャっと開く。
「っ!千歳アンタどこに────なんで椿がいるのよ」
行き先も告げず家からいなくなった息子の顔を見て楓が眉をひそめ、声を荒らげそうになったところでその背後にいる椿になんとか思いとどまった。
「買い物帰りに偶然会ったから荷物持ってもらったの。そのお礼を言いに来たのです♪」
「あまり千歳を甘やかさないでよ。この子私に黙って出掛けたんだから……」
「あらそうなの?反抗期かしら、うちの娘にはそういうのなかったのよね────」
普段は優しく温和な楓も今回の件は看過できず息子を叱ろうとするが椿に宥められ、そんな2人の言い合いを遮るかのように”くー”となんとも頼りない音が鳴る。
「……はぁ、テーブルの上にご飯あるから温めて食べなさい」
「ん、うん……」
傍らで気まずそうに顔を逸らし、腹部を手で押さえる息子にすっかり怒る気をなくした楓はそう言って椿と2人きりになる。そして千歳がどこにいたのか訊ね、酒蔵台公園の名前を彼女の口から聞かされても驚愕したり怒りが再燃する事もなくただひとつ深いため息を吐いた。
「うちの旦那が言ってた通りだわ、なんで私に黙って行ったのかしら……」
「私は皆の御家柄とか事情はよくわかんないけど、きっと心配させたくなかったとか理由があるのよ。別に千歳が不良になったとか思ってないでしょ?」
「当たり前でしょそんなの、まあ本人に聞いてみるわ────」
千歳を見つけ、家まで送ってくれた事に礼を言いながら黛泉家に帰っていく椿を見送った後、リビングに戻るとそこには温めた夕飯のハンバーグと茶碗の白飯に掌を合わせて拝む息子の姿があった。ハンバーグを一口食べ、”美味っ”と呟く千歳の向かいに座り頬杖をつく。
「言っとくけどできたてはもっと美味しかったからね」
「……ごめん、ていうか夕飯抜きかと思った」
「あの音聞いてそんな事できるわけないでしょ、母さんの優しさに感謝なさい」
言われずとも母や自分を庇ってくれた黛泉のおばさんには感謝してもしきれない。温かい白飯とハンバーグを口いっぱいに頬張り、先程まで死ぬかもしれない状況にいた千歳の眼からほろりと安堵の涙が零れそうになる。
(泣きそうな顔しちゃって、いったいなにしてたんだか……)
昨夜、紫が丘で娘の秋葉が遭遇した”異形”と呼ばれる怪物、それを追い払った千歳が居場所を突き止めるため酒蔵台公園を訪れるかもしれない事は会合から帰ってきた夫に聞かされていたがまさかその日のうちに行くとは……いや、部屋からいなくなる直前にリビングへ顔を出した時のほんの一瞬見せた何かを見据えたかのような冷たい眼差し、てっきり会合でまた有間の御隠居に厳しい言葉を掛けられたのだろうと当時は違和感を感じなかったが思えばアレがサインだったのかもしれない。
あまりに静かなので部屋を覗き、不自然に膨らんだ布団を捲ると息子の姿がなく慌てて自身も向かおうとしたが夜の酒蔵台公園に行って万が一の事があっては危険だと夫に止められた。車で探しに行った夫と息子の帰りを待つ間、もしかしたら隣の黛泉家にお邪魔してるかもと椿にメッセージを送るが望んだ返事は来ず不安は募る一方だった。
だからこそ帰ってきた千歳の顔を見た瞬間、抱きしめたいやら引っぱ叩きたいやら安堵と怒りがごちゃ混ぜになったが今となってはあの場所から息子が無事に帰ってきた。それだけでじゅうぶんだ。
玄関の鍵が開く音と共に玄信も帰宅し、リビングで夕飯を食べる息子の姿にひと安心する。そんな父に千歳はいったん食べるのをやめ、黙って酒蔵台公園に行った事を詫びた。
「よく無事だったな。けど、今度からはもうちょい父さんを頼れ。俺だってお前のおじいちゃんに剣道習ってるんだぞ?」
「……うん、わかった」
「よし、じゃあ父さんはひと風呂浴びるかな」
叱る事もせずただ頼ってほしいと言った父はきっとあの公園であったできごとをおおよそ想像できているのだろう。なにしろ父にもあの眼があるのだから……。
夕食後、母に言われて風呂で汚れや汗、全身にまとわりつく鉄のにおいを洗い流していると身体中の生傷に石鹸やお湯が沁みて、”これが罰だ”と言わんばかりの痛みに千歳の小さな呻き声が浴室に響き渡った。