Monochrome Dream
夢を見ていた─────
なにもない真っ白な部屋、そこに俺は1人で立っている。夢の中なのに自分の意識をはっきり感じる事に最初は戸惑ったが、小さい頃からずっと見ていた夢だからもう慣れてしまった。周囲を見渡してひとつ溜め息をつき、どこか壁なのかわからないほどの真っ白な部屋を歩く。
しばらく歩いていると背後から感じる視線に後ろを振り向いても誰もおらず、ただ眩さを感じるほど真っ白なのに光源が見当たらないこの部屋で黒い影が佇んでいる。黒い霧が人の形をしたかのような不気味なその影はひとりでに動き、主である俺の方に歩み寄ろうとしてくる。
構わず部屋を歩く俺の気を引こうとしているのか、人影は様々なイタズラをしてくる。服の裾や袖をくいくいっと引っ張ったり、脇腹や肩を突いてきたり、それが段々エスカレートしてくると耳に吐息のような生暖かい風を吹き掛けてきた事もあった。
たまらず振り向いたその先にあるのは人の形を融解させ、もはや暗闇と化した影そのもの。闇の帳に白い部屋もろとも呑み込まれた俺の意識は現実の世界で目を覚ますのだ。毎日のように見るこの夢の正体を知るべく家具ひとつない殺風景な部屋を歩き続ける。
歩けど歩けど何もないこの部屋では誰と会う事もなく、しかしそれに反して近づいてくる存在感と吐息のような息遣いに早歩きで距離を離そうとしたその時、背後から俺の身体を人影が強く抱き締めてきた。
『─────』
耳元で吐息混じりの声がなにかを囁いている。肩と腰に回された腕は細く、華奢と言ってもいい。だというのに異様な強い力で抱き締めてくるその腕を振りほどく事ができなかった。
『ど──て───の』
よく聞くとそれは低い女の声で、まるでノイズに遮られているかのように途切れていた言葉が段々と繋がっていく。そして─────
『どうして逃げるの─────』
どこか寂しげな言霊が響き、夢の中で俺の意識は暗い微睡みへと堕ちていった……
─────
───
─
『─────おにぃ!起きて!』
暗闇に呑まれてからどのくらい経ったのだろうか、暗い意識の中で馴染みのある声が聞こえてくる。身体をユサユサと優しく揺すられ、俺はその声の主である妹の呼び掛けに目を覚ました。
「んー……おはよう、秋葉ちゃん……」
「おはよう、今日はお出かけでしょ?もうすぐ朝ごはんできるから降りてきて─────」
そう言って妹が薄暗い部屋のカーテンを開けると窓から陽射しが差し込み、スマホで時間を見た俺はひとつ伸びをして起き上がる。
「もうこんな時間か、春休みはあっという間だな〜……」
「明日から私もおにぃと同じ高校だよ、可愛い後輩ができて嬉しいでしょ?」
「おー……自分で”可愛い”言うか……」
実際、美少女と呼べる程の美貌に長く綺麗な黒髪、スラッとした細身でスタイルもいいと兄ながらに思う。そのうえ性格も優しく真面目とまさに非の打ち所がなく、そんな自慢の妹の弱点を無理矢理挙げるとすればホラーと絶叫系が苦手な事くらいだろうか……
「じゃ、私はお母さんのお手伝いしにいくけどおにぃも早く降りてきてね、朝ごはん冷めちゃうから」
「ん、わかった─────」
部屋を出ていく妹を見送った俺はベッドから立ち上がり、開けた窓から吹き込む爽やかな優しい風を感じながら昨晩の夢のことを考えていた。
不思議な夢を見るようになったのは小学校低学年の幼い頃、記憶が朧気ではあるが公園で友達と遊んでいた俺─────長門 千歳はある事故に遭った。不思議なことに当時俺が着ていた服はボロボロで周囲は血の海だったというのに外傷などは一切見られなかったらしく、意識が戻った後も特に身体に異常がなかったため早々に退院した。
そしてあの事故によって俺の身体も変化しており、視力─────特に動体視力が妙によくなっただけでなく人や生物、モノが持っている魂の色というのか、それが影として視えるようになっていた。聞けばこれは長門家の家系に代々遺伝として受け継がれてきた特異体質で父や祖父も同じものが視えるんだとか。それほど意識しなければ影が視える事もなく日常生活になんら影響はない。いわゆるスイッチのオンとオフのようなものだ。
(っと、そろそろ降りないと秋葉ちゃんに怒られちゃうな……)
あまり遅いとまた妹が起こしに来るかもしれない、いや次はお母さんかも……?そう思った俺は部屋を出て家族のいるリビングへと向かった。
長門千歳/16歳
髪の色/シルバー
瞳の色/ブラック
職業/高校生
特技/”魂の色が見える”─────
千葉県の北西部に位置する愛宕市、その中の酒蔵台という町の閑静な住宅街に千歳の暮らす長門家はある。緑が豊かな田舎町で自衛隊の基地と演習場があるのが特徴で、その広大な敷地を活用した盛大な祭りが毎年夏に開催されている。幼稚園から小中高までの教育施設があり、交通の利便性も良くバスや電車に乗って様々な場所に行けたりと酒造業や農業が盛んだった昔よりだいぶ近代化が進んでいた。
千歳と秋葉の部屋があるのは家の2階、1階のリビングでは秋葉と母親の長門 楓が一緒に朝食の準備をしている。『おはよう』と挨拶を交わし、なにか手伝える事はないかと訊ねる息子に母は皿が乗ったお盆を持って行って欲しいと頼んだ。
そしてテーブルに座った3人は『いただきます』と掌を合わせ、朝食を食べはじめる。そこに一家の大黒柱である父の姿はなく、木曜日のこの日は出張で朝早くから出掛けていったのだと母は言う。公務員務めで平日は忙しく、まともに顔を合わせられるのは週末ぐらいだが娘の入学式に出席するため明日は有給休暇をとったのだとか。
朝食の献立はトーストとサラダ、ベーコンエッグにアイスコーヒー。コーヒーをひとくち飲んだ後に千歳がいつもの母の作るベーコンエッグとなにかが違うと違和感を感じる。
「おや、このベーコンエッグはもしかして秋葉ちゃんが?」
「うん、明日お父さんに作ってあげたくてお母さんに教えてもらったんだ。味見してくれる……?」
可愛い妹の頼みを断れるはずもなくベーコンと目玉焼きを頬張ると卵もベーコンも火の入り具合がちょうどよく、味付けもいい。
「うん……美味しい。よくできてるよ」
不安そうな秋葉の表情が兄の一言で晴れていく。これなら父も大喜び……いや、娘が作ってくれたという時点で父は仮にこれが真っ黒焦げであっても喜んで食べるだろう。
手先が器用でなんでもそつなくこなし、絵を描くのが大好きな秋葉は所属していた美術部で描いた作品が全国大会の最優秀賞を受賞する程の腕前でプロの画家からも賞賛されていた。学業においても試験や模試では必ずと言っていいほど上位に名前があるほどの秀才、そんな彼女が都内にある有名な進学校や美術系の高校ではなく千歳と同じ公立の酒蔵台高校を受験していた。
家から近いうえに規模は小さいが美術科もあり、鉛筆を使用したデッサンによる実技や筆記テスト、面接を経て難なく合格した彼女はその優秀な成績から新入生の代表生徒に選ばれた。入学式の明日が楽しみであると同時に新入生代表として挨拶を述べねばならず緊張に駆られてもいるようだ。
一方、兄の千歳は普通科の生徒で成績はまあまあ良く、得意科目は現代文と古典。運動神経もいい方で幼少期から祖父に剣道を教わっており、今では週末や春休みなど学校が長期休業に入ると道場で一般の部を指導する祖父に代わって少年の部で子供たちに剣道を教えるアルバイトをしている。
特に優等生ではないがかといって不良でもなく、むしろ武道を通じて礼儀作法を学んでいたため礼儀正しく生活態度も良好で教師たちからの評判はいい。いたって平凡な地元の公立へ進学した秋葉をもったいないとは思いながらも近くで妹を見守れる事や『兄と同じ高校がいい』と言ってくれたのを心のどこかで嬉しんでいた。