36-29.9
遠い記憶の奥深く、セピア色の断章が蘇る。
母がシーゼマルスを己の娘として愛したのは、人間未満の父が消えて以降のことだ。肉親であるという認識はあったようだが、再婚して新しい家族を産んだ母の瞳にをシーゼマルスは恐ろしいと感じたことがある。
偽物の子供ではなく、本物の子供が欲しい。
再婚後の父は、母がそう言っていたとシーゼマルスを指さして嘲笑った。
それが虚言なのか真実なのか、真実だとしてそれが母の真意なのかは永遠に明かされることはないだろう。
少なくとも再婚後の父は最初からシーゼマルスを自分の娘だと思っていないことは子供心に理解していたから、裏切られたとは思わなかった。上手く説明できないが、母が存命であったときから既に身体を触ってくる手つきに悍ましさを感じていた。
――そんな父の暴力が強姦の域にまでエスカレートしていった頃、ほんの僅かだが、人の善意で父と引き離された状態でソーンと共に暮らした時期が彼女にはあった。
シーゼマルスに妊娠の兆候が見られたことで、父はまずいと考えたらしい。それが母体への影響のことか、子供が増える面倒を考えてのことかは定かではないが、父は初めて子供を医者の下へと連れて行った。
結果は、父の予想通りだった。
医者の説明を聞いて、シーゼマルスは初めてあの穢らわしい行為のきちんとした意味と結果を知った。胎の中の赤子を堕ろすこには反対しなかったし、当然だと思った。
育てられるわけがなかったからだ。
産めば自分のような目に遭い、死ぬことになる。
このときに二つの幸運があった。
ひとつは、父に髪を引かれて連れ込まれた診療所の医者が、二人の子供の虐待の痕跡を哀れんで父に要求を突きつけたことだ。
金がないようだから代金は取らない。
ただし、医者として退院の許可を出す前に診療所から子供達二人を連れ出した場合、全額を要求するし、払わないならば借金取りに売って北方の漁船に乗って貰う。
医者はいわゆる闇医者で、親の明らかな犯罪を憲兵に報告することはなかった。それが我が身可愛さだったのか、それとも憲兵が面倒がって取り合わないであろうことを予期していたのかは定かではないが、どちらにせよシーゼマルスは感謝している。
確か名はクリストフだったろうか。彼のいたエリアはスラム街で、近年になって感謝を伝えようと思っていた矢先に魔王軍のものと思われる魔物の群れに襲撃を受けて壊滅し、彼は行方不明になってしまった。
スラムには行政も対応が鈍いことが招いた悲劇であった。
運良く生き延びていればよいが、そうでなければシーゼマルスは数少ない恩人を守れなかった役立たずの騎士ということになり、申し訳がなかった。
もう一つは、闇医者が『サファイアの騎士』と個人的に知り合いで、事情を聞いた『サファイアの騎士』が特別に代金を立て替えたり多少の勉強や武道を教えてくれたこと。
後に二人が力を付けるきっかけとなったのはこれだ。
治療終了と同時にふたりが人身売買や児童買春に使われる不安もなくなった。
幼い身体での妊娠と堕胎は母体への影響が大きく、シーゼマルスは当分の間、一日の大半をベッドの上で過ごす生活になった。それでも、何のきっかけで暴力を受けるか分からず怯えていた弟が一時とは言え解放されたのは何よりの安堵であった。
入院期間が終われば、今まで以上に虐待は熾烈になるかもしれない。
だが、時間を稼げればそれでよかった。
ソーンは三日間ほどは看護師と医者に怯えていたが、やがて本当に謂れのない暴力を振われないことを知って安堵すると、シーゼマルスの看病に集中するようになった。自分に時間を割かせてしまい申し訳なかったが、弟の健気さが愛おしく、不甲斐ない姉を慕う優しさが嬉しかった。
それから一週間ほどが経過した頃だったろうか。
夜に悪夢に魘されて飛び起きたソーンは、シーゼマルスに縋り付いて泣いた。
「ごめんなさい、お姉ちゃん。ごめんなさい……何もできなくて、ごめんなさい……!!」
シーゼマルスにはそれが何のことなのか手に取るように分かった。
ソーンは姉の身体が忌まわしい男の欲望の捌け口にされている光景に耐えられず、無謀にも父と戦おうとしたことがあった。シーゼマルスはそんな彼に精一杯の微笑みを送り、自分は平気だと暗に伝えた。
ソーンはそれを見て父を殴りつけるために用意した貧相な箒を静かに元の場所に戻したが、その手は震えていた。
「こんなことになるなら、おれはあのとき戦えばよかった……! おれが弱いから……お姉ちゃんに守って貰わないと死んでしまうほど弱いから! いつもお姉ちゃんばっかり傷ついて……!!」
「違うわ、ソーン。ソーンは本当は果敢に戦いたかったのに、わたしのわがままで止めたの。ごめんなさい、でも嬉しかった。私のせいでソーンが傷ついたら、この小さな胸は悲しみと苦しみで張り裂けてしまう。わたし、そんなのはきっと耐えられないわ」
泣きじゃくるソーンの小さな身体を抱きしめた。
優しいソーン、かわいいソーン。
父とも母ともちっとも似ていないこの弟を守り抜くことはシーゼマルスの使命であり、そして、今になって思えばそれしか縋るものがなかったのだとも思う。別にそれでも構わないと、ずっと思っていた。
でも、ソーンは父が違ってもシーゼマルスの弟だった。
「悔しい……! いつまであんなやつと家族でいなきゃならないの!? いつまでグラディスなんていう呪われた名字を掲げて生きなきゃいけないの!? お姉ちゃんは立派だ! 気高いんだ! 世界一凄いんだ! なのに、みんなグラディスの方の名前を馬鹿にして、許せない!! 許せないのに、ぼくは何度挑んでも負けるんだ!! 弱いから……弱くて泣き虫だからっ!!」
「ソーン……」
ソーンは果敢な少年だったが決して強いとは言い難く、更に二人を馬鹿にする者達はいつも徒党を組んでいた。悪口を言われて刃向かい、反撃され、シーゼマルスが死に物狂いで引き剥がして互いにぼろぼろになって家に帰っては、帰るのが遅いと父に罵声を浴びせられ暴行を受けた。
大人達は知っていて誰も止めず、子を気味悪がり、父のだらしなさを嘲笑し、それにプライドを傷つけられた父の八つ当たりがエスカレートした結果がこの入院だ。
家族は似る。
シーゼマルスがソーンを傷つけられるのが耐え難いように、ソーンもまたシーゼマルスが傷つけられるのが耐えられない人間だった。
一番の苦しみをソーンに押しつけたくはない。
しかし、それがソーンに一番苦しい選択を強いる。
ジレンマを解決する方法は、一つだけ。
「ソーン、貴方は間違っているわ」
「お姉ちゃん……!?」
「グラディスは呪われた名前ではない。あの男に……グラディスの名を穢した愚か者達に奪われた名前なのよ。私たちは捨てるんじゃない。グラディスの名に相応しくない者から奪い取るの。私たちが本当のグラディス家になるのよ」
「ぼくらの……グラディス?」
元々、グラディス家など唯の平民の家系だ。
無責任で愚劣な転生者と関わった女と交わったことで堕ちるところまで堕ちたが、もともと何でもない名前なのだ。
であれば、より相応しい者がグラディスの名を掲げて磨き上げるべきだ。
「知ってる、ソーン? わたしたちは共に名前にマルスとついているけれど、マルスとは遠い遠い土地で戦の神様を意味するそうよ。神様はきっとわたしたちに力を与えてくれるわ」
確か母から聞いた話であり、本当かどうかシーゼマルスも知らない。
けれど、信じる心に力は宿る。
「強くなって、奪われたものを取り戻すの。知ってる、ソーン? 聖結晶騎士になれば、特別な力を得ることができるの。わたし、聖結晶騎士になって父を倒す力が欲しい。ソーンはどう?」
「……欲しい。欲しいよ! おれもお姉ちゃんを馬鹿にするやつに負けないよう、強くなりたい!!」
「なれるわソーン。だから、辛い事も悲しいことも全て二人で分かち合いましょう。独りよがりではだめ。わたしたちは世界で一番の絆で結ばれているんだから、取り返すときは必ず二人で奪うの。ううん、二人でやらせて? お姉ちゃんの我儘よ」
「うん、うん……ッ! ひっぐ、うん……!!」
二人はこの日を境に変わった。
シーゼマルスはソーンに対し、真剣に強くあるためのことを教えた。
共に強くなる方法、未来を勝ち取る方法を貪欲に話し合うようになった。
ソーンがシーゼマルスのことを「姉上」と呼びだしたのも、グラディス家の家訓をふたりで作り始めたのも、この頃だった。
数年後にシーゼマルスは当時形骸化していた『フェンリルの巫』に選ばれた。
フェンリル信仰はシルベル王国の中では女神信仰に並ぶほど古くから馴染んだものだが、フェンリルが正式に巫として認め人間に力を与えることは稀で、シーゼマルスの代では数百年も誰も認められていない為に形骸化していた。
フェンリルの巫の役目はフェンリルに感謝を捧げる儀式を行なうことだが、実際にはもう一つある。
儀式終了後、信仰を司る伝統的教団に儀式の続きと称して慰み者にされ、そのまま教団内で強制的に婚姻を結ばせらることだ。
過去の伝統を守るという神秘と伝統を防御壁としていたフェンリル教団は完全に腐敗しきっており、巫も本来は女である必要は無いのに、後のお楽しみのために貧乏で要求を断れない家の出や孤児の中から美しい娘を選び、教団に取り込み、洗脳してその一員とする。
一見して下劣極まりないが、逆にそれさえ受け入れれば一生貧困から抜け出せない運命を変えて人並みの生活が送れるようになる。親族たちもそうだ。教団は信徒を新たに確保できて、貧困層は貧困から抜け出せる。そして教団員の数を安定して確保できるフェンリル教団は弱者救済と嘯いて伝統の中にこっそり欲望を混ぜ込みながら天啓だと嘯く。
犯罪と救済の二枚舌――フェンリルが力を与えないのも道理だった。
父は生活がいよいよ限界になると、なんの躊躇いもなくシーゼマルスを巫女に推薦した。シーゼマルスは父に隠れて騎士学校入学の準備を裏で進めている最中だった。危うく全てが水泡に帰すところだったが、ソーンが証拠となるもの全て隠し通した。シーゼマルスが戻ってくることを信じて。
特に日記と金が暴かれなかったのは、二人で戦おうと誓っていなければできなかったことだろう。日記は将来父を正当な罪に問う為の情報が詰まっており、通帳は言わずもがな。どちらも見つかれば二人の未来が閉ざされるほど重要なもので、ソーンは様々な機転を利かせ、父の暴力を浴びながらも日記と金を疑われることなく隠しおおせた。
巫女にされてからは衣装の調整、儀式の動作指導と称して知らない大人達に肢体をまさぐられる屈辱的な日々だったが、悲しいことに父による性的虐待のおかげで耐性がついていたシーゼマルスにとっては何も感じることのない程度のものだった。
ただ、この者達にもいずれ天誅を下さねばならないと思った。
社会的な地位があるかどうかは関係ない。
グラディスの名に更に泥を塗りたくった愚か者たちだからだ。
弟の将来と、更にその先に続くかも知れない未来の邪魔をするならば、それは敵だ。
微塵も揺らがぬ覚悟は、幸運にも神獣フェンリルの目に留まった。
『丁度良いわ。あの連中の生臭さにはいい加減に辟易しておった。おぬし、神獣フェンリルの代行者として連中を思うように罰せい。眷属をつけてやる』
それが、アロとの出会いだった。
アロという名前はシーゼマルスがつけたが、大人に純潔を穢されていた彼女にとってアロは余りにも心強く、そしてソーンマルス以外で心許せる始めての味方だった。当時はまだ中型犬ほどの大きさしかなかったアロを引き連れて教団に戻ったら教主を始めとした教団上層部の顔面が蒼白になっていたのは、なかなか痛快な光景であった。
教団はシーゼマルスを口封じのために亡き者にしようとしたが、アロは小さかろうが神獣の眷属だ。疾走する神秘の白獣は圧倒的な戦闘能力でシーゼマルスを害する者たちをものの数分で全て蹴散らした。事の全てを『サファイアの騎士』に暴露して後始末を任せたシーゼマルスは、堂々と家に帰った。新たな白い家族を連れて。
人生で初めてシーゼマルスと引き剥がされて過ごしたソーンは、姉の教えと強くなるという意思のもと想像以上に逞しく生きており、しかし姉への愛情は変わらず出迎えてくれた。
やっと失った幸せが少しずつ戻ってきたと感じた。
アロの報復を恐れた父は途端にシーゼマルスに手を出さなくなり、更にアロがソーンを守護対象として見たためソーンに手を出した途端にアロは父に牙を剥いた。もはや二人は堂々と未来の為に特訓したり、時として遊ぶことができるようになっていた。
シーゼマルスは偶然にも聖結晶騎士の鎧と恐ろしく高い親和性があった。
在学中に一気に上級騎士に召し上げられ、予定より早く父を監獄に叩き込んだ。
シーゼマルスの目的は一通り叶い、その分余裕ができて弟の未来を心配する時間が増えた。
ソーンが家訓を守った上で正しく生きようとするのは構わない。
シーゼマルスを賛美しているというのは、少し恥ずかしいが微笑ましくもある。
女性が苦手になったのは、きっと幼少期のショッキングな光景が影響しているのだろうと思いお節介が増えた自覚がある。
心配だったのは、ソーンに引き寄せられる人が増えていくに連れて、転生者と出会う確率も必然的に増加していったことだ。
騎士として活動する内に何度も思い知ったが、転生者というものは本当に身勝手に過ぎる。
自覚的か無自覚かに限らずそうした者達は力を翳して都合の悪いものを遠ざけ、目先のものにばかり夢中になって未来を考える能力が育まれないまま享楽的に生きる。
全員がそうでなはく、騎士団内にも話の分かる転生者はいるが、その中でさえ人によっては未来を考えない傾向が見え隠れした。元『ダイヤモンドの騎士』リュウヤ・ブレズベルグも自分の力を過信して後継について後回しにしてきたことを後になって悔いていたほどだ。
後になってからでは遅い。
手遅れになってからでは遅いのだ。
なのに、結局転生者はソーンを唆して重い責任を伴う選択をさせた。
敢えて己のことを棚に上げて問う。
ハジメ・ナナジマ。
『死神』とまで謳われたその実力と経験は尊敬に値する。
しかし、貴様はこの不始末を一体どうしてくれる。
厳然たる王の裁断と処罰を免れぬ道に、この世でたった一人の弟を連れ込んだことに、自覚はあるのか。
「お前はどうなんだッ!! ハジメ・ナナジマッ!! 貴様が一体何の責任を持ってこの世界を生きているッ!? お前がソーンの未来に何をしてくれるというのだッ!!?」
また、戻るのか。
ゴーストチルドレンですらない弟を、力が足りずに守れない日々に。
幽霊ではない弟が幽霊として扱われる、あの頃に――。




