36-32
ミュルゼーヌが建物を出ると、外は寒風が少しはマシになっていた。
吐き出す息は相変わらず真っ白だが、寒気は辛うじて肌を突き刺すほどのものではなくなっている。空を見ればここ数日には見えなかった青空が雲の隙間からちらほら見え隠れしていた。
まるで自分をよそに全てが解決したかのようで忌々しく思える。
そして、差し込む日差しに照らされたハジメが数名の仲間を連れて自分の下に向っていることが、まるで選ばれた人間とそうでない人間の不平等を物語っている気がした。
「……第三次捜索隊は大勢いた筈だが、来たのは君だけか?」
「……、……はい」
反射的に、お前が邪魔をしたのではないのかと言いかけた。
理屈の上ではそれは八つ当たりだ。
だが、自分は正しくて、正しくて、正しい筈だ。
正しい行動、正当な努力には相応しい結果が与えられるのが社会のあるべき形だ。
「そこにいるということは、中の人間に事情は聞いたと考えて良いのか?」
「……はい」
「救援は必要か?」
「……いいえ」
「俺たちはこれからここからギルド支部までの簡易的な道を作り、ギルドと話し合って救助者たちを軽傷の者から順番に護送してもらえるよう手はずを整える。第三次捜索隊にはそれを手伝って欲しいが、あくまで希望なので判断は任せる。当面の危機は去ったので今ならば冒険者達が森に入っても大丈夫だとは思うが、念のために深層には近づかないように周知して欲しい」
淡々とした簡潔な伝達。
自分たちで全ての物事を解決したかのような物言いであり、事実、大部分を解決している。それが口惜しくて、尊敬する人の教えを穢されたようで、気付けばミュルゼーヌの口はハジメへと刺々しい言葉を吐き捨てていた。
「危機を救った英雄の凱旋とでも言いたげですが、途中で現場に入り込んで正当な捜索隊に協力もしないワンマンプレーは如何なものかと。高位冒険者としての地位を笠に着てギルド長たちを懐柔し、自分たちの実力を見せびらかして冒険者の仕事を聖域化し、必要以上に依頼と富を独占する。そんなやり方がいつまでも通用すると思わないことです」
彼女はハジメの実績を認め、ハジメの仕事の過程に不備を見出すことにした。
が、同行していたショージが「こいつ何言ってんの?」と首を傾げる。
「ハジメが富を独占って、それマジで言ってる? 遭難者の保護と治療費、一時避難場所の改築、ついでにあの建物にバニッシュモンスターの接近を感知する設備まで全部ハジメが自腹で用意してんだぞ? おまけに改築したこの施設、そのままタダでギルドに管理を譲渡するつもりだし?」
ショージはハジメが今回の依頼で幾らのマイナス収支を出したのかを知っている。彼はハジメから追加で支払われた支払われた改築などの諸々の費用をヤーニー、クミラと三人で山分けしたからだ。
その総額はソーンマルスの依頼達成料が一息で消し飛ぶ額だったし、ハジメの散財癖も知っているショージとしては、ミュルゼーヌの言っていることとハジメのやっていることがまるで噛み合っていないように思えて仕方がなかった。
しかし、正義に執着するミュルゼーヌはその一言を以てしてショージを彼女の価値観内での「既得権益にぶら下がる寄生虫」と分類づけた。
施設の移譲も道理に反した行為をギルドに咎められない為の鼻薬にだと、この男は考えないのだろうか
彼らには平等と公正さという考えがまるで分かっていない――!
「正しいルールの下に公正に執行される力こそが世の中を最も安定させるんです!! ハジメ・ナナジマ!! 貴方はそれを乱し、あたかも一部の実力者による独断専行の方が正しいものであるかのように民衆を勘違いさせる!! それは誤った知識による堕落の始まりなのです!!」
「なんか語り出したな……」
「だが言っていること自体はそう的外れでもない。法律遵守は国家の基本だ」
如何にも騎士然としたソーンマルスが同意を示してくれたことに気を良くしたミュルゼーヌは前のめりになる。
「……!! そうでしょう!! そうなのです!!」
「しかし、だ」
ソーンマルスが続けて放った言葉は彼女の望むものではなかった。
「法律や道義だけ守っていれば人が助かると思っているのならば、それは欺瞞か或いは無知だ。道義的な正しさは危機に瀕した人間を助けないし、時として足を引っ張ることさえある。人を助けるのは結局のところ人間だ」
「その人を助けるという動機こそ正しい秩序の中に育まれるものでしょう!!」
「甘いな。そして見聞不足だ」
ソーンマルスは――その法律と道義に見捨てられながら姉と共に辛苦の道を這って進んだ男は、この世の残酷さを誰よりも知っていた。
最初はソーンマルスも人の不道徳を恨んだことがあったが、騎士となったことで見聞の広まったソーンマルスはある結論に達した。
人間は、世界にしがみついて必死に生きるしかない矮小な存在なのだ。
だから差別もするし目先の欲に囚われる。
それを矮小な人間の定めた正しさだけで完全に束ねることなど出来はしない。
「世界も自然も運命も、人間のことなど考慮しない。我々はその都度、よりよいと信じる答えを限られた時間のなかで選び続けるしかないのだ」
「だから! 選び取る選択を導き出す正しさにこそ意味が……!!」
「君の仲間が死に瀕したとき、君の正しさは仲間を救う力を与えてくれたのか?」
呼吸が一瞬停止し、視界が白んた。
その一言は、心臓を貫く氷柱のようにミュルゼーヌの心の奥を傷つけた。
ずっと、そのことから目を逸らし、認めることが出来なかった。
ミュルゼーヌが己の正しさを信じて共に行こうと背中を押して出立した9人の仲間のうち3人が、もうこの世にいないであろうという厳然たる事実を。
「それでも無辜の民を一人助けたことは尊敬に値する。が、それは正しかったからではなくそれが君に出来る限界だったからに過ぎない。いいか、正しいかどうかなど選んだ人間の《《気分》》だ。そこに力は宿らない」
なればこそ、と、小さな声で呟いたソーンマルスはもう語ることはないと閉口した。ミュルゼーヌは言葉が出ないほどのショックに言い返せないようだったが、恐らくソーンマルスはシルベル王国の王が自分に下した甘すぎる処断を思い出したのだろうとハジメは思った。罰されたい訳ではなく、王たる者のしてよい決断ではないとヘインリッヒ共々熱弁していたほどである。
ミュルゼーヌはやがて言い訳の場をなくして幼児の我儘のように泣きわめきだした。
「なんで!! なんでどいつもこいつも分からないの!! 私は正しいのに!! 私の教えは正しいのに!! ああ、和多橋総理!! この世界はあなたの正しさを理解しない者ばかりです!!」
とうとう自分の尊敬するであろう人の名前を叫んで本を抱きしめる奇行を始めたミュルゼーヌに、ウルが「おぉう……」とドン引きの声を漏らす。
彼女は周囲のいたたまれない視線を一顧だにせずその本をハジメたちに見せつけ始める。
「見なさい!! これが歴代最長の長期政権を更新し続け、民衆の支持率70%以上をキープし続ける世界に誇る偉人、和多橋結心総理大臣の偉大な教えが刻まれた現代の聖書よ!! 私は総理のお考えの素晴らしさをこの世界に広めるために――」
その、瞬間。
本に印字された名前を見た瞬間。
レヴァンナが一瞬で彼女との間合いを詰め、竜人覚醒した右腕でその細い首を締め上げた。
余りにも突然の出来事だった。
人はこれほど憎しみを顔に凝縮出来るのか、と戦慄するほどの形相と共に本気で握り締められた腕は、辛うじて止めに入ったハジメの渾身の妨害でミュルゼーヌの首がへし折れることを回避していた。
「あ……っ、か……っ、ぃ……?」
ハジメは上位の魔物も絞め殺す万力めいた力でレヴァンナの手をミュルゼーヌから引き剥がそうとしているが、レヴァンナの執念は限界を越えた握力を発揮し、みるみるうちにミュルゼーヌの顔面が青く鬱血していく。
「手を離せ、レヴァンナ!! 窒息している!!」
「五月蠅いッ!! こんな莫迦なこと、許されてたまるかぁぁぁぁッ!!」
持ち上げられて足の浮いたミュルゼーヌは必死でレヴァンナの腕を拳で叩いて足をばたつかせているが、その勢いも見るからに弱っていく様が彼女の限界が近いことを物語っていた。
ハジメは脂汗を浮かべ、とうとう短剣を引き抜いてレヴァンナの腕に突き刺した。
刃が深々と肉を裂き鮮血が噴出して雪に散るが、アドレナリンで痛みを感じないのか尚もレヴァンナは力を緩めようとしない。
ミュルゼーヌの身体は痙攣しており、見るからに限界だった。
余りの剣幕に周囲も割って入れない。
二人の必死で生々しい叫び声が響く。
「やめろと言っているんだッ!! このままでは本当に彼女が死ぬぞッ!? 人殺しになる気か!?」
「巫山戯んなぁッ!! 他ならぬアンタが何でが止めるッ!! あんなのを信奉する莫迦は救えないでしょうがッ!! アンタは……こちら側でしょうがあああああッッ!!!」
「だからと言って、彼女を手にかけて何になる!? 世間知らずな子供一人が預かり知らぬところで死んだ程度で、あいつが何か思う筈がないだろう!! もうこの世界に生きる俺たちにはどうしようもない話だ!! ――お前はレヴァンナか!! それとも季田カノンかッ!!」
「――……」
その一言ではっとしたレヴァンナの握力が緩む。
瞬間、ハジメは目にも留まらぬ早業で二人を引き剥がし、レヴァンナにのし掛かって彼女の動きを封じる。両手両足で彼女の両手両足を封じ、攻性魂殻でいつでも押さえ込めるよう武具や盾まで展開している。
死の淵から漸く逃れたミュルゼーヌは倒れ伏して激しく咳き込んだ。若き美貌を台無しにする涙や鼻水、涎を大地にぼたぼたと零す彼女はぜいぜいと酸素を求めて肺を必死に動かす。
失禁して股間から零れた体液が雪を黄色く染めていることを気に掛ける様子すらない。もう理想を振り翳していた時の威勢は微塵も感じられなかった。
やっと自分が死にかけ、そして生き延びたことを実感したミュルゼーヌは、自分が聖書とまで呼んだ本を取り落としたことにすら気付かず、ただ恐怖に慄いた顔でレヴァンナから後ずさる。震える足は見るからに上手く動かせていない。
全員が、レヴァンナの凶行に認識がついて行かずに無言になった。
この場の皆が知るレヴァンナは、謙虚で物憂げだが誰に対しても優しく分け隔てのない人物という印象だった。ウルに至っては恐怖の余り立ったまま失神しており、ツナデが途中で気付いて慌てて倒れないよう支えていた。
沈黙を破ったのは、転生者であるが故に状況にある程度の予想がついたショージだった。
「和多橋結心総理って言やぁ、政治に詳しくない俺だって大物だって知ってるぜ。最年少の38歳で総理大臣にまで上り詰め、アイドルみてぇなおっかけファンまでいる日本一の人気者だ。一回健康問題だか何だかで退陣したけど一年で復活して、どのテレビでも褒め称えられてる。そいつがどうしてレヴァンナさんの恨みを買うんだ?」
「そんなの、決まってるでしょ」
底冷えするドスの利いた声で、レヴァンナは怨嗟混じりに叫ぶ。
「そいつは、中学のときにハジメを殺すように嗾けて、私に全部の罪をなすりつけて逃げ切った最低最悪の屑野郎だからよッ!!」
ハジメは、虐めの主犯者が誰なのか直接知る機会はなかった。
ただ、容疑者を考えた時に和多橋だろうなとは思っていた。
彼は顔が良く朗らかだった。
友達を作るのがとても得意だった。
友達をうわべだけの言葉で唆すのも得意だった。
友達に己の卑怯さを気付かせないのも得意だった。
友達に逆らえない空気を押しつけるのも得意だった。
友達に虐めの楽しさを気付かせ、手懐けるのも得意だった。
彼は自分を善良な人間だと思い込んでおり、罪悪感という概念を解さない男だった。
あのクラスで全員を巻き込んで虐めを主導でき、なおかつ逃げ切れる男は和多橋しかいない。レヴァンナに確認を取るまでもない帰結だった。
そして、ハジメの予想は見事に的中していた。
レヴァンナの剣幕はまるで巨龍の顎門を眼前にしたかのようだ。
ハジメを殺そうとした時の彼女をも上回る殺意は、ここにはいないたった一人の男にのみ向けられていた。
「何が正義だ、何が秩序だ、平等だ!! そいつは自分の手を決して汚さず他人を弄ぶ、この世で最も唾棄すべき殺人者よッ!! それが総理大臣!? 支持率70%!? どうなってんのよ……国民全員ラリっちゃってる訳ッ!!? あり得ない……あり得ないでしょうがぁぁぁぁぁぁッッ!!!」
彼女の慟哭には、憎しみの他にどこかやりきれなさ、絶望が入り交じっていた。
和多橋の健康問題による退陣というのは表向きの話で、実際にはレヴァンナの秘匿する転生特典――自らの行いによって貯めた善行を別の事象に変換する力による復讐の影響だ。
彼はそれにより確かに一度沈んだ。
築いたものが崩れ去り頭を抱えるあの男の姿を、レヴァンナは女神を通して夢で確かに見た。そして、目を離している間にあの男はあっさりと復活したのだ。
当時はスキャンダルの話も世間で流れた筈なのに、ショージがまるで知らないというのは単に彼が世間知らずだというだけではない。
国民がそのことに興味を失い、なかったもののように扱われたということだ。
(そんなバカな……かなりの善行を注いで復讐したのよ。馬鹿でかいスキャンダルになったんだから。なのに、それでもあいつを国は望んでるって言うの……!? その口で秩序だ正しさだと薄ら寒いことを語ってるって言うの!? 許せない、許せる訳がないのに……!!)
今すぐ不幸のどん底に叩き落として、今度こそ報いを受けさせたい。
しかし今、最初の復讐以上の不幸は用意出来ない。
一時期かなり貯まっていた幸運を全て消費してしまった上に、その後に貯まった善行はたったいま目の前の勘違いした女の首を短絡的に絞めたことで大きく減少してしまった。
今、レヴァンナがあの男に出来ることは何もない。
ハジメとレヴァンナ――七嶋創と季田カノンの人生を狂わせて死に追いやった男は、恐らくは何の罪にも問われないまま躍進し、今は国家一億人の運命を左右する人間として崇められている。
ミュルゼーヌはその信奉者の一人に過ぎない。
彼女を見れば和多橋がどんな政治をしているのかは大体の想像がつく。
彼はハジメ達を貶めた時と大して性根は変わってはいないだろう。
嗾ける相手が同級生から自分の支持者に変わった程度だ。
それで国が上手く回っているのか、それとも国民が張りぼてを本物と思い込んで満足しているのかは定かではないが、少なくとも彼は政治家としてこの上ない才能を持っていたようだ。
レヴァンナは歯ぎしりしてくぐもった呻き声を漏らし、やがて抵抗をやめた。
静けさに支配された場で、ミュルゼーヌの「そんなはずない」という空っぽで震えた言葉が木霊のように時折繰り返されるだけだった。
――フェオはこのとき偶然にも建物内で治療に専念しており、更に壮絶な光景を彼女に告げる勇気が全員になかったため、このことを知らないまま村への帰路に就くこととなった。
普段の察しの良い彼女ならば空気が重いことに気付けていたかも知れないが、このときのフェオは森の声に集中しすぎた反動や複数の救助者の治療に忙しかったこと、初めて純血エルフの魔法を経験したことで集中力が切れていた。
帰り道でうつらうつらし始めた彼女は、素直に自分の限界を告げ、村までの帰路をハジメに背負われてすうすうと寝息を立てながら終えた。
多分だが、その方がいい。
レヴァンナの時に彼女にハジメの死因を告げなかったときと同じで、知ったところでフェオが傷つくだけで何の意味もないのだから――。




