36-29
シーゼマルスは武装を解除したが、依然としてハジメへの警戒心を解かない。
否、警戒の性質が変わってきた。
「結局、貴方は転生者らしく最後まで場を引っかき回した挙げ句、部外者を気取るのですね」
「事実、部外者なのだが……」
騎士として他国の冒険者など信用に値しないのは当然のことだが、それにしても棘のある物言いだ。この敵愾心の源は、単に転生者のせいで酷い目に遭ったというような短絡的なものではなさそうだ。
シーゼマルスは視線をソーンマルスに移す。
「ソーン。貴方はそれでいいのですか。理解している筈です、貴方は――」
「姉上。彼を大事に巻き込んだのは俺の意思。むしろハジメはよくここまで付き合ってくれたと思いますし、彼には彼なりの因縁あっての参戦です。聡明な姉上におかれては、これ以上ハジメの行動の是非を論じる必要性がないことはおわかりでしょう」
「……」
シーゼマルスの表情はどこか暗い。
その理由をハジメは理解出来ないが、ソーンマルスは覚悟を決めたように姉に歩み寄る。
「姉上。姉上の気持ちは、少しは分かるつもりです。グラディス家が数奇な運命を辿ったのは、元を正せば転生者が発端であるのは事実。それで姉上がどれほど苦しみ、屈辱を味わわされてきたのかは側にいた俺がよく知っています」
「ソーン……」
「ハジメは確かにおかしな奴です。大分常識とずれたところがあるし、女にも少々だらしないところがあるようだ。妻が三人いると聞かされたときは耳を疑いました」
「……!」
シーゼマルスの眉間に皺が寄った。
彼女にとって、そこはかなりのマイナスポイントだったらしい。
冷静に考えれば大抵の人にとってマイナスポイントなので当然だが、ソーンマルスは恐らくそのことを理解した上で開けっぴろげに語っている。
「それでも、ハジメにはハジメなりの苦労や経緯、出会いや別れがあってここにいる。彼に仕事を任せている間、こんなにも周到で用心深く、そして僅かな可能性でも犠牲を厭う冒険者は見たことがないと何度も思いました。あの周到さは過ちを悔いて何度も何度も己を改めてきた者ゆえだと俺は思います」
あながち間違いとも言い切れない。
事実、未熟だった頃にハジメの実力や知識不足で死なせてしまった者は10や20では済まない。客観的に見てハジメのせいだったかはさておき、助けることもできたかもしれない命だ。その度にハジメは自らの行動を省みて用心を重ねるようになっていった。
シーゼマルスは弟の言葉を冷たく切り捨てようとする。
「それは美化したものの見方です」
「そうかもしれません。しかし、少なくともハジメは先の未来を真剣に考えている。我々の父方の祖父とハジメではそこが決定的に異なる。どうか祖父や姉上の父への恨みを切り離して今一度お考えいただけませんか」
「夢見心地のまま死んだあの愚かな老人はさておき、父に恨みなどありません。あれはそもそも人間未満の存在でしたからね」
(姉上の父……人間未満……)
普通に考えれば首を傾げる微妙な言い回しだったが、ハジメはふとあることに思い至り、呟く。
「ゴーストチルドレン……か?」
その一言に、シーゼマルスとソーンマルスがはっとして同時に振り向く。
シーゼマルスが忌々しげに呟く。
「俗にそう呼ばれることもあります。知っていたとは意外ですね」
「伊達に30年生きている訳じゃない。そうか、ゴーストチルドレンは歪んだ境遇に置かれやすいからな。成程……確かにお前達は転生者の身勝手の最たるものの犠牲者と言える」
「厳密には私だけです。弟は普通の生まれだ」
「異母兄弟……いや、口ぶりからして異父兄弟か」
カルセドニー分隊の面々は知ってはいたのか気まずそうに視線を逸らす。
唯一クーだけはその言葉の意味を知らず、おずおずと手を挙げた。
「あの、ゴーストチルドレンとは一体……」
「一言で説明するのは難しい。そうだな……転生者は殆どの者が通常ではあり得ない特殊な力を持っている。それらは神に乞うて手に入れるものだが、中には変わったものを要求し、本当に実現させる者もいてな」
ハジメも数人しか現実に出会ったことはないが、その転生特典は少なくとも彼には極めて異質で歪んだものに思えた。
「自分の理想の伴侶やイメージ通りの伴侶を異能の力で具現化する。そういうことをやるやつがいる」
「……えっと、すいません意味分かんないです」
「だろうな。俺も理屈は分かるが理解できる気はしない。ただ、その欲望の源はありふれたものだと思う。物語に出てくる理想的な王子がもし自分の伴侶だったら……美しい姫がもし自分を慕い求めてくれたら……誰もが抱いて可笑しくない願望だ」
クーは話自体は分かったが、嫌悪感が邪魔して上手く咀嚼できないようだった。
「自分の欲望のためだけに、自分の理想の人間を神に作って貰う……なんていうか、人という存在への冒涜のような……」
「自らに絶対の好意を抱き理想を逸脱した思考を許さないと定める者もよくいるらしい。それは奴隷と一体何が違うのか、と、よく疑問に思う。ただ、虫の良すぎる話はなくてな……神はこれにひとつ、制約を課した」
「制約、ですか」
「理想の伴侶は会話もできるし老化するかどうかも選べる。身体を重ねて子を成し、その子供がまた子を成すことが出来る。しかし――理想を思い浮かべた転生者本人の死と共に、彼、彼女らは忽然と世界から消え失せる。実体ある空想なんだ」
仮に転生者が男だとして、理想の妻がいて子を成したとしても、その子供は空想から生み出されたもの。転生者自身が死ねば妻も消え、間に生まれた子供も因子の半分を喪失して最初から存在しなかった者となる。
「だが、孫の代はたまに生き残ることがあるんだ。つまり、実在の男の因子と女の因子があれば人間として成立するということらしい」
「じゃあ、例えば転生者が男で、生まれたのが女の子で、男の人と結ばれて子供ができたら――」
「その時点で、孫は転生者の死と共に消えることが確定する」
「あんまりです。何の為の子供、何の為の命なんですかッ!!」
クーが思わず怒りを覚えるのも無理はない。
余りにも理不尽で、生まれた子供が哀れだ。
しかも、偶然性別の関係で生き残った孫にも悲劇が待っている。
「残された子供は突然親の片割れと祖父母のどちらかが消滅する。しかも、転生者の因子と赤の他人の因子によって繋ぎ止められた命は、厳密には祖父母世代と親世代の遺伝子の混ざり合い。実の親に似なくなり、場合によってはいきなり別の子供のように容姿が変わる。家族の消滅と共に突如変貌する生まれるはずのない子供――ゴーストチルドレンの誕生だ」
想像出来るだろうか、この残酷な現実を。
ハジメは偶然そうした境遇の人間と知り合う機会があったが、世間の殆どがそんな稀有な事情など知らない。
いきなり血縁が消滅して変貌した子供を、世間は、突然伴侶の消えた親は、一体どう思ってどう扱うのか。
呪われた子供、親を殺した子供、家族に逃げられた子供、薄気味の悪い子供――子供の形をした化物。そう誹り、相手が反撃出来ないほど弱く孤独だと知っていて集団で石を投げ、痛みと悲しみに呻く姿を見て嘲る光景をハジメは見たことがある。その子供はたまたま助かったが、世界のどこかには誰にも手を差し伸べられず事切れた子もいたことだろう。
シーゼマルスがぎちぎちと音を立ててガントレットの中の拳を握りしめる。素手であれば自分の爪で皮膚を突き破る勢いだ、
表情は変わらないが、それだけに分かる。
彼女の胸中に渦巻く莫大な負の感情、瞳の奥に燃ゆる憤怒が。
「それでも運良く消えた伴侶に似たために愛を受けて育った者もいるかもしれません。しかしそんな問題ではない。愚劣極まる祖父母を持ったせいで受けた差別、侮蔑、数多の謂れない仕打ち……世間の無理解はやがて関係ないソーンにまで及んだ」
「俺は……俺程度、姉上に比べれば――」
「私は、弟までもが謂れのないそしりを受けることが腹立たしくてしょうがなかったッ!! 私のせいでソーンが傷つくのが口惜しくてしょうがなかったッ!!」
ソーンマルスの、恐らくは慰めの言葉を、シーゼマルスは突っぱねて怒鳴った。
彼女の怒りは彼女のもので、慰められて消えることはないという強い意志を感じた。堰を切ったように彼女の激憤は怒濤の言葉となって溢れ出す。
「父が突然消えて娘の様相が変わった母は、愛する者の喪失と夜逃げされただ何だと無責任に囁く世間の蔑んだ目に耐えられず再婚し、ソーンを産んだ後に心労が祟って病死!! おかげで父までおかしくなって私もソーンも疫病神扱いし、そのくせして家族の権利を振り回し、八つ当たりの道具か奴隷のように扱われた!! 幼かった私たちはいずれ成長して親の呪いを断ち切るまで震えるソーンと互いを励まして耐え忍ぶほかなかったッ!!」
感情を爆発させた姉の言葉に、ソーンマルスは言葉もなくただ耳を傾けていた。
ヘインリッヒがさりげなくハジメに近づいて耳打ちする。
(二人の父はシーゼマルス殿の騎士学校入学から間もなくして逮捕され、50年の懲役刑を受けて監獄に収監されている。虐待もあるが、決定打は妻の連れ子であるシーゼマルス殿に対する多数の強姦と、堕胎。ソーマにその光景を見せつけたことまであると裁判の証言記録に……)
ハジメはそれを聞いてどこまでも憂鬱な気持ちになった。
ただただため息しか出てこない、人間の醜悪さの最たる部分に対する無力感だ。
転生前にハジメのいた国では児童相談所が年間に受ける性的虐待の相談はおおよそ2000件近くだというのはホームレス賢者との会話で知ったことだったと思う。性的虐待でよくあるのは、再婚者の連れ子に手を出すケースだ。
総人口のうちの2000なら少ないと思うだろうか。
あくまで相談件数であり、被害者数とイコールではないのも事実だ。
それでも、親の地位と経済的な稼ぎを背景に、大人の体躯を以って強引に子供の肉体をまさぐる人間が――表になっていない更に悪質なものを含めれば更に膨れ上がる――社会人面で日常に潜んでいることを恐ろしいと感じてしまう。
もっと言えば、虐待そのものの年間相談数が20万に上るのに対して立件まで至るのは二千数百件。それはつまり、立件に至らなかったり経済状況等さまざまな関係で訴えることが出来ずに野放しになった虐待者と耐え忍ぶことを強いられた子供が幾らでもいることを意味している。この場合、虐待者は一件につき一人とは限らない。
シーゼマルスもソーンマルスも、ハジメのいた国の考え方で言えば公表された数に含まれない側だ。
政治家や公的機関の代表は時としてこうした見えない数字に含まれる人間を存在しない人物として扱う。まさにゴーストチルドレンだ。
この事実から目を逸らし、やれ外国人排斥だ、やれ減税だと目先のことばかりに触れて騒いでいる連中のなんと的外れなことか――そう呟いて酒を呷るホームレス賢者の遠い目がハジメには物悲しく見えた。
ふたりはその地獄を歩いてきた。
シーゼマルスはその中でも目を覆いたくなる悲惨な扱いだった筈だ。年齢から考えて被害を受けたのは十代前半か、下手をしたらもっと前。トラウマになって人生を狂わされるほどの恐怖だった筈なのに、彼女は耐え抜いた。
きっと唯一愛する一人だけの家族と、祖父への憎しみを糧にして。
「孫の未来になんの興味も抱かず勝手に逝った愚劣極まる祖父をどうして恨まずにいられようか!? そんな連中の仲間として気紛れに世界を荒らし回る転生者を見て、どうして思い出さずにいられようかッ!?」
転生者が異能で生み出す伴侶は、転生者の思う範囲でしか物事を考えない。
自分達が結ばれれば不幸な子供が産まれることは、転生特典を得る時点で神から説明があるらしい。しかし、不思議と多くの者が聞き流すか忘却する。
理由はなんとなく分かる。
人は、都合の悪いことを聞きたがらない生き物だからだ。
覚悟を決めて子を作らない者もいるが、極めて希有な例だという。
恐らくシーゼマルスの祖父は自分の人生、自分の認識、自分の目の届く範囲だけが世界だった。だから自分の子孫がそのうち泡沫の夢と消えるとしても、自分が死んだ後のことがどうでもよかったのだ。それは何も転生者固有の思考ではないが、遺された者にとってはたまったものではない。
中には無理解が原因で呪われた子として人知れず親に殺された者までいるかもしれない。
もしも天国と地獄が実在するのなら、間違いなく地獄に堕とされるべき悪徳である。
(……シーゼマルスの父親は自分の運命を知らないか、知っていても何も思わなかっただろうな。そういう風にできているから……人間未満とは、残酷な言い方だが的を射ている)
祖父の影響で彼の理想の子供として育ったシーゼマルスの父は、理想のまま妻子を作り、そして未来を案ずることもなく忽然と消え失せた。それはある意味、真の理由で人間ではないからこそ起きる事だ。
シーゼマルスの瞳には涙さえ浮かんでいた。
アロとソーンマルスが余りにも悲しそうな顔で狼狽えている。
二人でさえシーゼマルスがここまで露骨に感情を露にした場面に出会ったことがないのだろう。国王の勅命の部分的失敗、許されない筈の実質的敗北、そして両方を持ち込んだ転生者が弟を誑かしている現実。それらが積み重なった結果が目の前のシーゼマルスの剥き出しの人間性と本音だった。
「人間じゃないのなら……子供を産む資格がないのなら、子供なんか産むな!! 育てられもしない癖にッ!! 責任なんかひとつも取らず、余計な呪いしか遺さないくせにッ!! お前はどうなんだッ!! ハジメ・ナナジマッ!! 貴様が一体何の責任を持ってこの世界を生きているッ!? お前がソーンの未来に何をしてくれるというのだッ!!?」
彼女はその問いかけが八つ当たりであることにきっと自覚がある。
しかし、それを指摘したところで彼女の心の底から沸きあがる激情は、その源泉となる深く引き裂かれた心の傷は抑えられない。
それに、あながち全てが八つ当たりでもない。
きっと彼女がハジメにこれほど憤ることになった最大の理由は――本来不可能な妨害を転生者であるハジメの手伝いで成功させたソーンマルスが、シルベル王国の規律により罰せられ、最悪の場合は裁判を受けて牢獄に幽閉される可能性があることだ。
人は家族を守る際、時として凶暴になる。
シーゼマルスは弟のことが心配で仕方がないのだ。
奪われ、傷つけられ、貶され、それでも必死で守り続けてきた唯一人の弟の未来が不安で仕方がない。彼女の怒りの根底にあるのは、転生者によって生まれた時から運命を狂わされた者としてこれ以上家族を狂わせないで欲しいというささやかで切なる望みだ。
(ソーンマルス、お前の姉は本当に愛情の深い人間だよ……)
果たしてハジメの誠意程度で彼女の溜飲を下げられるかは分からないが、この問いかけには全力を賭して返答しなければならない。




