36-19
「――という感じでして、いい加減に拠点に戻った方が良いかと……」
気弱そうな分身ダンゾウの懇願めいた提案に、バニッシュモンスターに食いつかれていたマルタは「そ」と、素っ気なく返事した。拠点でおおよその作戦が決まったのならそれも道理だろう。
朝から単独行動を続けていたマルタは仕事はしつつもバニッシュモンスターに敢えて身を曝け出していたが、何度やっても結果は同じ。情報を消し去るバニッシュモンスターでは情報ごと肉体を再生するマルタの不死を突破出来ず、逆にモンスター側が砕け散った。
マルタに噛みついたバニッシュウルフも同じ運命を辿り、彼女の手の内できらきらと光るガラス状の破片となって消える。
マルタは大あくびをして伸びをすると、だらりと両手を下げた。
「クマもシカもイノシシも私の死ではなかったかぁ」
柄にもなく浮かれていたのかもしれない、と、マルタは珍しく自省する。
600年の人生のうち、一体何百年死を望んだのだろう。
期待を持つことさえ厭になっている自分の心を騙し、本音の取り戻し方も忘れ、もう何を忘れたのかも忘れてしまった。
マルタの服は彼女の肉を食み、彼女の思考をトレースする変形スライムだ。
このスライムをくれた転生者の友達の顔と名前も、今はもう思い出せない。
「……?」
ふと我に返る。
何故今になってスライムの送り主を思い出したのだろか。
神に指定された仕事は何故今、ここであったのだろうか
浮かれているのは本当に死が近づいたからなのだろうか。
マルタは周囲を見渡す。
ひたすら視界に広がる純白の雪に彩られた静謐の黒い森。
欲深い人間を拒絶した光景に、人は美を見出す。
遠い昔のマルタも同じことを思ったのだろうか。
「ま、マルタさん……」
「ん、帰ろっか」
これ以上ダンゾウを虐めても仕方が無いとショージに貰った『帰還の天糸』の導きに身を任せながら、自問する。
もしかして過去のいずれかの時間にて、マルタはこの地にいたのではないだろうか――。
◆ ◇
カルセドニー分隊は、複数の第二等級騎士と第三等級騎士によって構成されている。優先権は隊長と副隊長が高く、それ以外の第二等級騎士はほぼ横並びだ。
『ジャスパーの騎士』、分隊長ヘインリッヒ。
『アゲートの騎士』、副隊長ザイアン。
『カーネリアンの騎士』、分隊一の実力者バルドラス。
『クリソプレーズの騎士』、本名を名乗らない期待の新人クー。
彼らの他には『ヘリオトロープの騎士』と『オニキスの騎士』、そして出世街道に乗れなかったものの軍の経験が豊富な十数名の第三等級騎士たちで固められている。戦闘は専ら第二等級騎士の役目で、残るメンバーは全力でそれをサポートする。
そんなカルセドニー分隊の主力たちが予定時間を超過しても帰還しないことで、分隊は不安と焦燥にじりじりと焦がれていた。
唯でさえこれほどまでの特殊な事態だ。
第三等騎士たちの不安は時間の経過と共に膨れ上がる。
「まさかこれ以上トラブルって言うんじゃねーよな……」
「あの人達がやられたとは思えないけど、それにしたってな」
下っ端騎士達は彼らの間近に存在する非現実的な光景からなるべき目を背け、時折愚痴をこぼしながら時間を潰していた。
非現実的な光景の中心にいるのは、肉塊としか言えない怪物だ。
人語を解し魔法を使役していたと彼らは聞いているが、本当なのか信じられない。魔族の類かとも思ったが、それにしてもあのグロテスクな姿は異質さばかりが際立つ。あの異物の腹の中に貴重な【ダイヤモンドの騎士】の鎧が収められているというのだから、悪夢のような話だ。
一時は彼らの騎士団長である『アメジストの騎士』にすら深手を負わせた埒外の肉塊はしかし、今は動かない。
否、肉塊はおよそ一km近くに及ぶ円形の歪みに囚われて動けずにいた。
歪みの内部には木も土も雪もなにもなく、歪みの周囲ガラス細工のように結晶ですらない透明な何かへと変貌していく。幻想的ともいえる不思議な光景はしかし、少しずつ歪みを中心にナメクジが這うような速度で拡大を拡大を続けている。
試しにこの透明化したエリアに分隊が所有するゴーレムを内部の偵察に行かせた所、透明になった足場が重量に耐えきれず沈み、歪みの側へ転げ落ちなからゆっくりガラス片のように崩壊していった。
もしも生身の人間がこの中に入ればどうなるのか?
確証はないが、肉体が透明になって崩壊するか、或いは時折歪みの中から放たれる透明な獣がその答えなのだろう。
辛うじて光の屈折で形状は分かるが透明化したそれはもはや肉も心臓の鼓動もなく、生物時代の名残が行動として残る現象とでも言うべき獣たち。彼らは物質を求めるように襲いかかり、そして物質を道連れに消滅する。
カルセドニー分隊ほどの練度であれば苦戦することはないが、それでも触れられただけで死にかねないというプレッシャーが不定期的に襲ってくる現状はかなりのストレスを強いられる。
この透明化などの理解に苦しむ現象の元凶については、状況証拠的だが察しがついている。分隊と肉塊を挟んで反対側に鎮座し、ずっと肉塊に対して複数の手足や触手を押しつけるよう干渉を試みている異形の怪物だ。
あれは、本当に何なのだろう――肉塊に比べれば魔物的ではあるが、明らかに生物として異常なそれは確かに脚部を見れば蜘蛛のような複数の長い足を持っている。しかしその巨体には古代魚のような鱗、猛禽のような鋭い爪、植物のような蔦、虫のそれを彷彿とさせる複数の巨大な羽根など、キマイラ以上にあらゆる要素がごちゃ混ぜになっていた。
特に見る者を不安にさせるのが、その胴体だ。
あれほどの異形であるにも拘らず、怪物はその胴体だけがいやに女性的だった。
肌色の柔らかそうな質感に、妙齢女性を思わせるくびれや膨らみ。顔は角や複眼めいた瞳など異形的なのに、頬や唇、そこから時折覗く桜色の舌が見える度、彼らは悍ましくもそこに性的な美を感じてしまっていた。
あんなバケモノを相手にすれば近づいただけで無に帰してしまうかもしれないというのに、それでもあの異形の中心にある足も腕もない胴体だけの人間的要素に魅力を感じてしまう己の心が彼らには何よりも恐ろしかった。それは男だけでなく女もそうであるのだから、あの魅力は魔性と言う他ない。
異形の怪物は肉塊に干渉しようとしているが、肉塊は無尽蔵とも思える魔力でひたすら障壁を張り続け、時に反撃らしいそぶりを見せる。しかし、歪んだ空間が肉塊を中央に押し止める作用でもしているのか、今の所肉塊の抵抗は異形の怪物に抑えこまれていた。
そのうち緊張で精神に変調を来してしまいそうなカルセドニー分隊が主力たる隊長の戻ってこない状態でそれでも平静を保っていられるのは、偏に『アクアマリンの騎士』シーゼマルスがいるからである。
彼女はこの膠着状態に至るより以前に三日間は継続して戦闘を行い、今も均衡が崩れて漁夫の利を狙える瞬間を虎視眈々と狙っている。
何よりもカルセドニー分隊が驚いたのは可憐な容姿にそぐわぬ彼女の神経の図太さである。
彼女は今、仮眠と食事を終えて藤色の淡い長髪を櫛で解かし、編み込んで髪型をセットしている。いつ事態が動くのかまるで読めない中で、食べて寝て体を洗い、髪を整える余裕があるのだ。髪など手入れしている場合なのかという問いに「ルーティーンです」と平然と答えた彼女は、この危機的状況を眼前にして余りにも自然体だった。
それが決して脳天気で世間知らずの令嬢がやることではないのを彼らは知っている。
眠り姫のようにぐっすり眠っているように見えても肉塊と異形の趨勢が僅かに動いただけで気配を察してぱちりと目を覚まし、食事中でも分隊の元に透明な獣たちが迫ると片手で結晶のボウガンを形成して的当てのように仕留め、何事もなかったかのようにしっかりよく噛んで野戦食を腹に収める。
彼女がシャワーの最中に動きがあったとき、呼びに行った女性騎士は驚いた。何故なら、風呂の間も鎧を手放していなかった彼女は下着も身につけないまま臨戦態勢を整えていたからだという。
カルセドニー分隊は騎士団長が彼女を嫌う影響でそれほどよい印象を持っていなかったが、今では騎士団長の気持ちがよく分かる。
次期『ダイヤモンドの騎士』もありえなくはない――そう思わせるほどの存在感と安定感、そして使命への忠実さが彼女にはあった。
と――偵察中だった騎士の一人が叫ぶ。
「分隊長がお戻りになられたぞ! 全員ご健在だ!」
おお、と、喜びの声が上がる。
ヘインリッヒに限らずカルセドニー分隊の分隊長は代々役立たずが多いので実際には副隊長の帰還を喜ぶニュアンスもあるが、ヘインリッヒは歴代の我が儘な役立たず達に比べれば幾分かはマシで戦力にもなるというのがおおよその見方だ。
なにより、不安要素がひとつでも多く減ることが今の騎士達には精神衛生上有り難かった。
しかし、いざ帰還した際、その喜びに幾何かの困惑が混ざる。
見知らぬ冒険者と、任務に就いていない筈の騎士が帰還した面々に混ざっていたのだ。
片方はシャイナ王国の最上位冒険者の写真と顔が似ているが、もう一人は明確に誰なのかが分かる。『アイオライトの騎士』にしてシーゼマルスの弟、ソーンマルスだ。型破りなソーンマルスはどの騎士団でも有名だったが、彼が援軍としてやってくるという話は聞いていない。
分隊員はそれぞればらけ、ヘインリッヒ、ソーンマルス、冒険者の三人が髪を解かして編み終えたシーゼマルスの前に立つ。
何か、起きる――様々な仕事に従事してきたカルセドニー分隊の意識は、自然と彼らに集中した。
――一方、ハジメはシーゼマルスを前にして彼女の纏う雰囲気に「ああ、これは強いな」とひとり納得した。自分とレベルを比較してではなく、ハジメの記憶する限りこういった気配を放つ相手が《《脆かった》》試しがない。
条件次第では転生者も下してしまう、そういう手合いの気配がする。
(この姉にしてこの弟ありだな。姉弟だけあって顔が似ているが、それ以上に泰然自若とした佇まいがそっくりだ。或いは姉の躾の結果がこっちなのか……)
ちらりとハジメに視線を向けたシーゼマルスの宝石のように透き通った瞳には、たおやかな令嬢のよな可憐さと、やると決めたことは容赦なくやり通す超然的信念が同居していた。
一応は事前に話し合って今後の展開は決めているが、結局はシーゼマルスがどう動くのかが端緒となる。
こちらから切り出す前に、シーゼマルスが鈴のように透き通った声で弟を諫める。
「任務中です。部外者は王命無い限り去りなさい」
王の命令以外で動く気が一切ないという端的な意思表示。
騎士としては当然の姿勢だが、取り付く島もない。
だからといって弟が予想外の場所にいるのだから話くらいは聞いてくれても良いだろうにとも思うが、ここで弟の言うことを聞けば逆に王の命令にソーンマルスが干渉したという受け取り方もされ兼ねないため、弟を庇う側面もあるのだろう。
それでいてヘインリッヒとソーンマルスが一緒にいることで、二人の間で情報のやりとりがあったであろうことも予測した上で、シーゼマルスは拒絶した。
姉に拒絶されたソーンマルスがどんな顔をするか不安だったハジメだが、意外にも彼はまるで動じていなかった。
覚悟はとっくに決めていたのだろう。
果たして、彼は彼女に何と切り出すのだろうか。
この問題はシルベル国王の予測を凌駕した複雑な問題で、とか、このまま命令を続行するだけでは姉上は勅命を全う出来ない、とか、下手なことをすればシルベル王国にも損害が、とか――。
「姉上。我々が問題を片付けるんで引っ込んでいていただけますか」
――そんな複雑なことは一切考えないゴリラワードだった。
弟の突然の生意気発言にすっと目を細めたシーゼマルスは静かに立ち上がると、身に付ける鎧がアクアマリンのような透き通った水色の結晶で強化された。ソーンマルスもまた鎧を結晶で強化する。
見つめ合った二人は、示し合わせたように喋り出す。
「覚えていますね? グラディス家、家訓その2――」
「正義がぶつかって譲れないときは――」
「「どちらかが折れるまで攻めあるのみッッ!!!」」
ノーモーションから突如として突き出されたシーゼマルスの槍のように鋭い拳と、腰溜めに弾丸のような速度で解き放たれたソーンマルスの拳が激突し、二人を中心にカルセドニー分隊の野営地の設備が吹き飛んだ。
風圧で吹っ飛んだヘインリッヒの鎧の首元を空中でキャッチしながら、ハジメは眉間に手を当てて盛大なため息をつく。
「やっぱりゴリラ姉弟じゃないか……」
奇しくもこの一撃で、当初の予定通り同時に三種の敵を相手取る作戦の決行が決定的なものとなったのであった。




