断章-8(6/6)
「飯というのは、人生を豊かにするためのもんなんだよ」
町の片隅にひっそり存在する屋台ののれんの下で、エバクエルは透き通ったスープの塩ラーメンを啜りながら呟く。
「勿論、美味い不味いの差はあるし、人間できれば美味いもんを食いたいのは確かだ。でもな、美食ってのは結局上り詰めれば詰める程に美味さの差異は微細になっていくし、雑に美味いもんも美味いことに変わりはないんだ。得られる満足感が問題なんだ」
隣で同じくラーメンを啜るトッカーは、ハマオの『野営スープ』を思い出す。
「故郷の味、ふと食べたくなる味、オフクロの味……あれには美食の極みとは異なる満足感がありました」
このラーメンにしてもそうだ。
超一流の工夫やインパクトある外見などは見当たらないごくシンプルなラーメンだが、不思議とするする胃が受け入れる優しい旨味に満ちている。
トッカーが意を汲んでくれたことに気を良くしたのか、エバクエルは初めて彼の前で美食家としての話を口にした。
「環境飯って個人的に呼んでるものがある」
「環境飯?」
「特定の土地、環境下で食うと最高に美味く感じる飯。たとえばこのラーメンは冬に食った方が美味く感じる。温かいからな。逆にネルヴァーナみたいな暑い土地じゃ冷たいモンが喉を通る瞬間が最高だ。他にも、土地の伝統料理には土地の事情と旬の食材が凝縮されているから、その環境に最適であることもある。まぁ、仰々しく喩えずとも肉体を酷使して疲れた時に食べる飯はいつも以上に染みるだろう?」
二人はラーメン屋に来るまでそれなりに歩いたし、日が傾いて少々肌寒くなっている。屋台で食べるには環境が整っているということだろう。
「同じ食べ物なので味に変化はないけれど、そのとき身体が求めているものを食べるというのはある意味一番の贅沢ですね。庶民にとっては当たり前の楽しみ方なのに、ガストロノミアンの審査基準ではそこは曖昧というか、万全の肉体とコース料理的な考えを前提としているため幅が狭い気がします」
「ボンジョルドの奴は温室育ちのお坊ちゃまだからな。どうしても最後までそこを理解できなかった」
貴族には伝統があり、形式に拘る。
庶民的な生活をしたことがないしする気もないから、彼らが美味しいと感じる食べ物にエバクエルの言う環境飯はそもそも存在しない。
「儂なりにあちこち連れ出して説明したりもしたんだがな……奴は知識として理解はしたが重要なこととは終ぞ思わなかったらしい。ガストロノミアンが組織として熟成すればするほど、審査員は環境を理解する必要がなくなっていく。儂の中ではガストロノミアンの格式はもう役割を終えていた」
「だから去ったのですね。これ以上留まってもガストロノミアンの名は束縛にしかならないから……」
そうして生ける伝説は自由の旅に出た。
トッカーと出くわしたのは、奇蹟にも等しい偶然であった。
「エバクエルさん。私、エバクエルさんが料理大会で時折点数に関係なく嬉しそうな顔をして料理を食べてるのが気になってたんです」
「ほう。で?」
「何の違いがあるんだろうかって思って真剣に考えてたんですが……やめました」
ガストロノミアンとしては思考放棄としか言いようのない投げっぱなし。
しかし、トッカーはそれでいいと思った。
「エバクエルさんの好物とか、そのとき食べたかったものが来たとか、そんな感じできっと深い理由なんてなかったんじゃないかって気がしまして。それを美食的にどうか判断するっていうのは無粋というか、余計なことですよね。私は今、こうして貴方と並んで他愛もない話をしながら啜るラーメンに満足しています」
「君の推測が当たっているかは敢えて言わないが、美食家が無粋であるという側面は同意する」
いつの間にかラーメンの汁まで飲み尽くしていたエバクエルは、また満足そうな笑みを見せた。
「このラーメンは屋台で出す前提のラーメンだ。超一流じゃないが、食欲をそそる創意工夫が為された、この値段で食べるには十分すぎるラーメンだ。それに対して素材が何流だとか、屋外なのは接客として異端とか、啜り方が汚いだとかは、全く以て無粋と言う他ない呆れた指摘だよ」
そう言って笑ったエバクエルは、二人分の代金を屋台のカウンターに置いて去って行った。トッカーは何となく、彼はボンジョルドと肩を並べてここで自分の好きなものを共有したかったのではないかと思った。
――この大会を境に、ガストロノミアンを介さない食文化の広まりが少しずつ料理界に浸透していった。
決して誰もがガストロノミアンに背を向けた訳ではなかったが、ガストロノミアンの影響がなくとも得られる美食があるのだと人々が知った。そのことが新たな潮流を生み出したのだ。
彼らはガストロノミアンの美食的価値観を犯している訳ではないので、ボンジョルド含む古参の美食家たちも何も変わらなかった。相変わらず彼らは気に入らなかった料理人の悪評を広め、伝統的美食を重んじている。
彼らは気づくのだろうか。
自分たちが行使出来る力が減少し続けていることに。
新たな潮流という新鮮な刺激とそこから生まれる道に目をやった料理人や民衆は、自然と過去に重視していたものの優先順位を落としてゆく。一時期は大流行した筈のものが、一時立つと「言われてみればあったな」と意識しない記憶領域に押しやられるように、伝統派ガストロノミアンの権威は色褪せ始めている。
もしかしたらトッカーがガストロノミアンを去る日も来るのかもしれない。
尤も、トッカーは今回の一件を境に真面目にガストロノミアンの将来を考える一派に一目置かれてしまったので、一つ位は世話になった組織に義理立するつもりだ。
それはそれとして、ハマオの料理はまた食べたい。
「今度またダメ元で店に行ってみよう。彼も気が変わっているかもしれないし」
トッカーは懲りない男であった。
その自覚はあったが、しょうがない。
だって食べたいのだから。
エバクエルの言葉を借りれば、ハマオの料理は今のトッカーの環境飯である。
◆ ◇
ワニ革の歴史は古く、古代エジプトでは財や権威の象徴であったという。
現実の現代社会でもエキゾチックレザーの一種としてワニ革は根強い人気があり、ウロコのような美しい紋様に艶、そして何より頑丈さから今も高級素材として扱われている。
つまり、スケルゲイターの舌が食べたいが為にスケルゲイター狩りを実行したラシュヴァイナ達の手元には、スケルゲイターの可食部位の他に沢山のワニ革が残ることとなった。
さて、ワニ革を用いた加工品は現代に於いては多くがワニの腹の部分、所謂『肚ワニ』を用いて作られている。何故かというと、腹以外の部分――『背ワニ』は外敵から身を守る為に凹凸が激しくゴツゴツしているからだ。
嘗ての人々は逆にその頑強さに目を付け、背ワニをレザーアーマーに加工した。
この世界でもレザー防具と言えばお財布に優しい軽量装備で一定の需要がある。
ならばこのワニ革、結構な価値に――。
「ならないなぁ」
「ならないんですねぇ」
綺麗にスケルゲイターのワニ革を処理して持ち込んだハマオに、ショージは申し訳なさそうに頭を掻いた。
「悪い品って訳じゃないんだけどなぁ」
素材をショージに確認して貰ったところ返ってきた返答は、「この世界でワニ革は不人気」という身も蓋もないものだった。
「肚ワニは特に昔から『リザードマンの革剥いだみたいでグロイ』って色んな種族から不評らしい。背ワニはそこまででもないけど、やっぱ競合相手の多さを考えると大した需要はないな」
「う~ん……なんとも私らしい失敗ですねぇ」
散々踏んだ轍をまた踏んでしまい、ショージはいっそ懐かしい気分になった。
思えばいつも現代知識と異世界の感性の摺り合せの失敗を重ねてきた。やはり、自分はとことん自分で考えたときは上手く行かない性質らしい。
と、ショージが思い出したように尋ねてくる。
「そういや、さ。ほれ、ガストロノミアン出禁のやつ。あれは続行すんの? 副料理長としては聞いておきたくてさ」
「あー……どうなんでしょうね。トッカーにそこまでの意図はなかったにせよ、大会で友達増えたし、自称食通の滑稽さも世間に晒されたし、ラシュヴァイナさんたちも満足させたし、結果的にはいいことしか起きてないんですよ」
最初は乗せられたことに小憎たらしいとも思ったが、今はもうガストロノミアンに対する嫌悪感は薄らいでいる。彼らを許したというよりは、ハマオ自身が過剰に意識していた強大なイメージ像が薄らいだことで気が楽になったという印象だ。
少なくとも彼らの退席後に会場でガストロノミアン――というかボンジョルド一派を擁護したり賛同する人間はほぼいなかった。星持ちシェフの中にも途中で大会を放り出して帰るという暴挙に眉を顰める者は多く、中には品を出す前に帰られて憤慨している者もいた。
そんな彼らを見て、ハマオは思ったほど自分が喜んでもいないことに気づいた。
しかし大会前と後では明確に心が軽くなった。
「多分、ちょっとしたトラウマだったんでしょうねぇ。だから過剰に反応しちゃってただけなんです。乗り越えてしまえば大したハードルじゃなかった訳で、まぁ、とりあえず次にガストロノミアンを店で見かけたときに方針を決めます。あんまり気にならないようならもういいかな」
「ハマオは偉いなぁ。俺だったら定期的にわざと顔出して嫌味言うし許してくれって言われても許さないし死んだ後も悪評流すし一生ネチネチ文句言うわ」
「それ口に出して堂々と言えちゃう貴方もそこそこ凄いですけどね」
いっそ清々しいくらいに嫌いなものに対する憎しみを隠さないショージに危うく尊敬の念を覚えそうになるハマオであった。
なお、このワニ革たちは最終的にワニにもリザードマンにも馴染のない人魚族の面々向けの加工品として消費されることになったのは余談である。
おかげで人魚族の間ではワニベルトを無駄に身体に巻き付けたりワンポイントで装着するのが流行ったとか。




