断章-6
天使シャルアは悩みを抱えていた。
それは天使族と現実の人間関係との葛藤という以前イスラたちから逃げ続けていた際の悩みとは、全く別種のものだった。
「はぁ……先生、私はどうすれば……」
冒険者の間で有名な湯治場のひとつ、グロラゴ丘の露天風呂に浸かりながらシャルアは満点の星空を見つめる。彼は温泉とあらば人の多い時間帯に賑やかに入る派だ。そんな彼が人のいない夜の時間帯を選んでいる時点で一種の異常事態と言えるだろう。
彼の異常事態はそれだけではない。
ここ暫く彼は通い詰めだった『大魔の忍館』に足を運んでいない。
急に来なくなったことで心配した嬢から手紙が届いたくらいだ。
もちろんシャルアはその全てに律儀に返信したが、未だに足が進まない。
シャルアは不意に身じろぎする。
水面の下で彼が何をしているのかは濁った泉質に遮られて見えない。
「ん、んぅ……ふぅ。またヤってしまった……」
悩ましげな嬌声をあげたシャルアは困った顔で自分の身体を見やる。
上気した肌の赤らみは温泉による血行促進のみではない。
最近、この身体が意思に反した動きをしてしまう。
原因は理解しているが、これは薬や魔法、装備品で治るものではない。
シャルアの心構えと生き方の問題なのだ。
「先生のことを考える度にこれじゃ、またヤってしま――」
と――。
「お前……公共の場とは言わないが、温泉で変なものを出してないだろうな」
「ふぇっ!?」
敬愛する先生――ハジメの呆れた声に、シャルアは驚きの余り悲鳴をあげて立ち上がる。声の主は紛れもなくハジメであった。何故彼がここに、と思ったが、シャルアははっとして自分の胸と股間を隠す。
しかし時既に遅し、ハジメはシャルアの身体を見て驚愕に目を見開いていた。
「お前、その身体……」
「ああ、やぁ……!! 先生見ないでぇ……!!」
弱々しい悲鳴をあげるシャルアの股間にはあるべきものがなく、そして必死に隠そうとする両手からは溢れんばかりのたわわな二つの果実が自らの存在を主張していた。
◇ ◆
性に過剰なまでに開放的なシャルアは今、普段の様子が嘘のように大人しい。
いつもの鎧ではなくシャツと短パンなのは、慌てて着替えたからか。
恥じらいを隠せない顔はずっと紅潮している。
「先生、なんでここに……」
「ガブリエルとノヤマがお前の様子が変だと言うのでな」
「あの二人か……嬉しいとは素直に言えませんね、こんな姿を見られて」
着替えをしている間に彼の胸の膨らみは元の男性的なものに戻ったが、シャルアがちらりをハジメを見た瞬間にむくむくと胸が膨らみ、鎖骨の位置がずれ、中性的だったシャルアは完全に女性になってしまった。
いよいよ隠しきれないとばかりにシャルアはため息をつくと、事情を説明する。
「天使には元々性別がありません。雌雄同体、どちらにもなれますし両方の性質を同時に持つことも出来ます。今、私は男の気持ちと女の気持ちを同時に抱いたせいで性別が安定しないんです」
「そんなことあるのか……?」
「多分、天使では私が初めてです」
ちょっと驚くくらいのサイズにまで膨れた胸を健気に手で隠しながら、シャルアは憂いの視線を逸らす。
「普段は平気なのに、先生のことを考えると駄目なんです。こんな気持ちが揺れ動いてる状態じゃ『大魔の忍館』の皆と愛を確かめ合えない……」
「……」
「……」
「……え? 俺のせいなの?」
「先生が悪い訳じゃありません。ただ、愛と恋は違うものだったことに気づいただけなのです」
曰く、浮遊島で転生者とドンパチしている最中にこの全身煩悩人間は何故かハジメへの恋に落ちてしまったらしい。あの命を賭けた場でどうしてそのような思考回路に至ったのか全く理解できない。
「先生は最初から一番大切なことを教えてくれていた」
(何それ、知らんぞ)
「それに気付いた時、私の中で先生への尊敬の念が別の形に変容してしまった……極めなければならない精神力の鍛錬は乱される一方で、もうどうすればいいのか……」
女になったせいで性格まで変わっているのではないかと思えるほどしおらしいシャルア。普段の彼なら「このパトスは先生との夜の聖戦でしか解き放つことは出来ない!!」とか言って夜のニャンニャンバトルに持ち込もうとする所だが、発情の気配はない。
なので思ったままに指摘すると「先生にそんな恥ずかしいこと言えない……」と耳まで真っ赤になって首を横にぶんぶん振られた。まるでこちらがセクハラしてるみたいなのでやめてほしい。客観的に見ればセクハラなのは否定できないが。
(確かにちょっとは慎ましくなって欲しいとは思ったが、いざなると事情が事情なだけにやりづらくて仕方ないな……)
シャルアが上目遣いにハジメを見る。
「せんせぇ……どうかこの堕ちた天使を導いてください……」
庇護欲を擽る弱々しい懇願。
本人は本気で困っているのだろうが、グラビアアイドルみたいに太ももを強調し、腹の前で交差するように組んだ手のせいで豊満な胸がこれでもかと存在を主張している。潤んだ瞳に艶のある唇は、相手がハジメでなければそのまま押し倒されそうなくらいには女だった。
こんな態度を普段からされようものなら新たな誤解を招く。
かといって、幾らシャルアが困っているからといってこれを女として抱くのは話が違う。
さりとて、今の彼に自力で恋心を抑えることが出来るとも思えない。
ハジメは唸り悩んだ末、結論を出す。
この手の話はよりその道に詳しい人間の意見を聞くべきだと。
◆ ◇
「――久しぶりに店に来たと思ったらそういうことだったのね」
『大魔の忍館』の主、キャロラインは物珍しそうにハジメとシャルアを交互に見ながら一つ頷く。
「シャルアくんが来なくなってうちの子たちもちょっと退屈みたいだし、太客のために一肌脱ぎますか!」
キャロラインは物理的に脱ごうとしたのでハジメは手で制した。
彼女は「冗談よ」と舌を出しておどける。
シャルアはキャロラインの魅惑の姿を前にしても横のハジメが気になるのか女のままだ。もしかすれば、それがキャロラインに問題の深刻さを感じさせたのかもしれない
「ここは一つ、プレイになぞらえていきましょ?」
「プレイ?」
「お客が館に求めるニーズは千差万別。虐めて欲しい、甘やかして欲しい、縛って欲しい、淡々と事務的にして欲しいなんて人もいる。中には行為ではなくそこに至る過程にこそ満足を覚える人もね。そんな人のためにあるのが、シチュエーションプレイよ」
ぴんと来ていないハジメにシャルアが補足する。
「嬢と互いに演技をして、自分の望む設定になりきることで満足や高揚を得るプレイの仕方です。先生は以前に妹さんと一緒に身分を隠して旅行に行かれましたよね? ああいう状況は現実にはしづらい、でもやってみたい……そういう人がシチュエーションプレイで願望を満たすんです」
「ふむ……レンタル彼女とか、そういう類か。しかしそれになぞらえるとは、俺には想像ができん」
今のシャルアは欲望の発散を恥じらいが上回っている。
これではどんな状況でも結果は一緒なのではないだろうか。
しかし、キャロラインは己の案に自信があるようだった。
「シャルアくんっていう子は、ガマンを強いられることがあってもその先に強い目標があれば受け入れられるタイプ。でも今の君は『望みが叶わずとも想っているだけでよい』っていう風に考えてるんじゃない?」
「それは、言われて見てそうかもと今思いました」
(奥手……)
「うんうん、最後まで想いを告げられずに負けヒロインになるタイプの考え方ね」
さらっと酷いことを言うキャロラインだが、分かりやすい喩えだ。
ハジメはこれ以上妻を抱えることは避けたいし、弟子のシャルアもそれは承知している。しかしそうなればシャルアはこの募る想いをどこで発散すればよいのかというのが現状の問題だ。
キャロラインは容赦なくダメ出しする。
「でも、それじゃダメ。どっちつかずの心だから男にも女にもコロコロ変わっちゃうのよ。だからハジメへの恋はちゃんと意識した方がいいわ」
「女として生きる方を選ぶと? 確かに女になっても愛は追求できますが、男としてのシャルアは、諦めるしかないんでしょうか……」
シャルアの反応を見れば明白で、彼は男をやめたくないという思いも強く抱いているようだった。キャロラインはちっちっと人差指をたてて横に振る。
「諦める必要も無いわ。要は使い分けよ。そして、ハジメの協力があれば貴方はマインドセットで男女を切り替えられるようになる。このやり方には自信があるわ。うちの嬢も何人かはこれで欲望をコントロール出来るようになったし」
「それがシチュエーションプレイなのか?」
「そうそう。じゃ、始めますか――!」
キャロラインは二人を手招きして奥の部屋へと入っていく。
気がつくとシャルアは不安からハジメの服をぎゅっと握っていた。
なんともいじらしい姿だ。仕方ないので背中を撫でて「行こう」と促すと、シャルアは「はい、先生」と勇気を振り絞ってハジメの背を追った。
◆ ◇
翌日、シャルアは完全復活とばかりに冒険も娼館もこなす勢いを取り戻していた。
「愛の天使シャルア、完全復活!!」
姿もちゃんと男性で、以前と同じように初対面の相手にも愛を囁く。
元気そうな姿を見たガブリエルとノヤマも一安心だ。
「あっさり復活したなぁ」
「師匠の薫陶の賜物なんでしょうか? でも何があったかは秘密らしいです」
「ま、本人が嬉しそうだからいいことあったんじゃねえのか?」
「あれ? 君たち何の話? もしかして私? 私の話かな? 仕方ないな、君たちの望みとあらばこの身体を……」
「「それは言ってない」」
こうして日常に戻ったシャルアだが、天使としての使命はやや増え、コモレビ村に里の意向で訪れる機会が増えた。そうすると必然的にハジメと顔を合わせる機会が増えるが、シャルアはハジメの前で以前より慎ましくなった部分は変わらず、急にメス化することもなくなった。
ただ一つ、シャルアの首に見慣れないチョーカーが増えた。そのことに気づく人間はいたが、彼は元々お洒落な方だったので誰も気にすることはなかった。
そんな中、唯一シャルアの男女逆転に気づいていたミニマトフェイは彼が自分の欲望にどう折り合いをつけたのかが気になった。自分には縁の無い話になりそうだが、天使にとって初めての事例なので興味があった。
シャルアは同じ天使であるマトフェイの質問にすんなり応じた。
「実はね……先生に服従させられているんだ」
首のチョーカーを愛しげに撫でるシャルアに、マトフェイは「この色欲天使、とうとう妄想と現実の区別が……」と哀れみの視線を送る。
シャルアは慌てて訂正した。
「いやいや、もちろん本当にそうという訳じゃないよ。そういう設定にしておいて、先生には『許可無く女の姿になるな』と命令されている……そういう心構えで過ごすようにしただけさ」
これが、キャロラインの用意した秘策だった。
『裏ではハジメに服従させられている』というのは、シチュエーションだ。そういうプレイだ。プレイの一種であればシャルアは抵抗なく受け入れることが出来るし、ハジメにも負担はかからない。そしてハジメとそういうプレイ中であるということを自覚していれば、メス化を堪えることが出来る。
シャルアはうふふ、と嬉しそうに笑う。
「あの淫魔の主は天才だよ。これはもう新たな束縛プレイだ! 先生に迷惑をかけず興奮でき――」
と言いかけたそのとき、二人が話をする教会前の近くを通りかかったハジメがアマリリスと会話しているのが天使たちの鋭敏な耳に届いた。
「ちゅー訳で、あの人バリッバリに有能だわ。バランギアから来たお手伝いさんズも圧倒される勢い。よく呪いの主はあんなの封じられたなって思うくらいよ?」
「皇の母親、イザエルか。この村がお気に召すかどうか少々不安だったが――」
「はうっ」
シャルアがビクンと震え、一瞬女になりかけた。
鎧を着ている為に傍目から見たら急に悶えたようにしか見えないが、息を乱すシャルアは頬を紅潮させて「危ない危ない……」と湿り気のある声を漏らす。
が、耐えたのも束の間だった。
「《《女々しい》》我が子に代わりバランギアの威光を知ろしめすために《《女》》だてらにやってきたとか言い出すタイプじゃなくて良かった」
「はぎっ、ひぎっ、ふくぅぅぅ……!!」
見えない何かに悪戯でもされているかのようにびくびく震えて嬌声を漏らすシャルアはもう殆ど女になっていた。なんとか倒れないよう内股で堪えているが、蕩けた顔があまり公共の場に相応しくない感じになっている。
マトフェイは目頭を押さえて首を横に振る。
「悪化している気がするのですが」
「せ、先生に特定のワードを言われなければ大丈夫……ふぅ、ふぅ……でも、これヤバ……逆にクセになりそう……」
だらしなく開いた口から熱い吐息と唾液を漏らして下腹部に手を当てるシャルアはもう色々とダメだった。
それでもハジメは何もやってないのだが、フェオにバレたら爛れた浮気認定不可避である。




