25-10
依然、竜人の優位は揺らがない、と、ビッカーシエルは確信する。
残る厄介な敵に隙を見せずじりじりと敵ににじり寄る彼に、皇が眉を潜めた。
「ビッカーシエル……貴様、耄碌したか?」
「は……?」
「貴様が結界に引きずり込んだ男、余には無傷に見えるが」
一瞬の思考の空白。
振り返った時には、既に手遅れだった。
「幻術だ」
そこには、先ほどの激戦で見せたそれを遙かに凌ぐ紅蓮のオーラを纏い、漲る力の余りに服や髪が逆立つライカゲの蹴りが迫っていた。
――ライカゲは、ビッカーシエルを確実に倒すには持久戦では勝機が薄いと感じていた。故に彼は弟子にも伝えていない切り札の一つを切った。
『幻遁・胡蝶蕩夢』――目を合わせた相手に精巧な幻覚を見せる術だ。
この術は強力ではあるが対象人数が一人だけな上に、使用中は自分自身も動くことができないため、本来は尋問等に使うことが多い。だが、自身が動けないということは、動かない術であれば問題なく併用できるということでもある。
ライカゲはビッカーシエルの一瞬の隙を突いて幻術に落とし、ずっと己の力を研ぎ澄ませた。オーラ、バフ、忍術特有の強化術の数々……そして僅か八度の行動のみ限界を超えた力を発揮するパーソナルスキル『遁甲八卦』を発動させていた。
『遁甲八卦』は八度の行動を前借りするかのように、静止した状態で八段階オーラを貯める必要がある。代わりに、放つ八度の行動は全て己の発揮出来る能力の二倍。限界まで別のバフで己の力を底上げしたらば、そこからの更に二倍だ。
全て、この瞬間の為。
幻遁は、幻だと相手に気付かれれば長くは続かない。
ビッカーシエルの揺るぎない勝利への自信が彼に災いした。
勝利を確信し、完全に油断するこの瞬間を、ライカゲはずっと待っていた。
(『遁甲八卦』の消耗は始まっている。彼奴に向けて踏み出した一歩が一度目の行動としてカウントされた。だが、それでいい!)
代わりにこの踏み込みは、次に続く絶大な一撃の布石となる。
「オオオォォォォォォォォッ!!」
地を裂き岩を砕く蹴りを、ビッカーシエルは腕で辛うじて防ぐ。
しかし、不完全な防御に加えてライカゲの限界を超えた蹴りの威力に体が浮き上がり、彼はそのまま皇城の天井に衝突、陥没した。
「チェェェェェイッ!!」
(まだ、来るだと……!!)
ライカゲの殺人的な回し蹴りを前にビッカーシエルは丹田に力を込めるが、想像を上回る威力が直撃した腹部で爆発し、意識が飛びそうになる。
なんという重さ、これがヒューマンの蹴りだというのか。
最早、体が言うことを聞かない。
「ハァァッ!! セェェイッ!! ヌゥンッ!! オリャアアアアアアッッ!!!」
「がっ、ぐふっ、おおぉ……ッ!?」
無防備になったビッカーシエルの肉体に、ライカゲは四連続の鉄拳を叩き込む。その全てが、バランギア最硬を誇ったビッカーシエルの肉体の芯を揺さぶる。拳の一発一発が生み出す衝撃で、ビッカーシエルは城の天井を突き破って空に吹き飛ばされた。
先代の時代から、皇の盾であり矛であり続ける為に実戦と訓練の両方で練りに練り、鍛え上げた鋼をも上回る竜鱗。それが物の役に立たず、ただ一人の男に打ち抜かれていく。自信が、誇りが、積み重ねてきた不敗の歴史が。
(それだけは……それだけはぁッ!!!)
遠のきかけたビッカーシエルの意識を繋ぎ止めたのは、皇への忠誠と誇り。
妄執と呼ぶほどに固められた、竜人こそ支配者であるという自負。
たった一人の男に突き崩されることなどあってはならないという生ける怨念のような力が、ビッカーシエルを繋ぎ止めた。
熾四聖天として今己が出来る最後の反撃を展開する。
「ぐおおおおおおおおおおおおッ!! リベリオン・スケェェェェイルッッ!!!」
竜人の中で恐らく唯一人、誰よりも敵の攻撃を正面で受け止めてきたビッカーシエルだけが習得に辿り着いた竜人固有のそのスキルは、まさに『甲聖』の名を冠する彼に相応しき力。
彼の周囲をハニカム構造のバリアが覆っていく。
これは、敵の攻撃が物理攻撃だろうが魔法攻撃だろうが呪いだろうが、ありとあらゆる事象を防ぐ鉄壁の障壁。そして、受けた力をビッカーシエルの拳に乗せて敵へと返す究極のカウンター技。
「これぞ我が誇り、我等の背負うものッ!! 幾多の戦いを経て無敵、最強、最善!! それが竜人!! それが不動のバランギアッ!! 貴様等如きの抵抗で我らの歩みを阻むことは、許されんのだぁぁぁぁぁーーーーーーッッ!!!」
ライカゲは、その言葉も自負もまるっきり無視した。
忍者は耐え忍び、越える者――彼の言う『不動』を動かす為に狂奔する者なのだから。
『遁甲八卦』のバフは既に六回消費された。
次の一撃であの障壁を破りビッカーシエルを倒し切らなければならない。
だが、ライカゲは何も闇雲に攻撃していた訳ではない。
先ほどまで放った攻撃は、実は一つのスキルの発動過程に過ぎない。
今までの六つの攻撃は、敵の『孔』をこじ開けるもの。敵に強制的に弱点を作り、最後の七発目で至る究極の破壊力に全て繋がっている。
ライカゲの習得した体術の中でも最高峰。
瞬間的な火力ならば『武御雷』を上回る絶技。
万感の思いを決めて、ライカゲは高みに挑む。
燃えるように熱い穿戸の蹴撃が、敵を貫くと信じて。
「破孔ッ!! 七 星 開 門 ッッ!!!」
足が、バリアが、軋みを上げる。
二つの力の衝突が首都バランシュネイルを揺るがし、窓ガラスが衝撃に耐えられず砕け散っていく。それでも収まり切らない衝撃は首都の外まで伝播し、野生の生き物たちが本能的に危険を察知して一斉に逃げ去っていく。
「貫けぇぇぇぇぇぇいッ!!」
「させるかぁぁぁあぁッ!!」
ビッカーシエルの障壁は凄まじい硬度だった。
唯でさえ大型魔物の骨すら一撃で砕くライカゲの蹴りを極限まで強化しているというのに、それでも彼の障壁は攻撃を通さない。ハニカム構造の隙間が赤熱していくが、破壊されるのを意志の力で拒んでるかのように蹴り抜けない。
ここを耐えきれば、反撃に転じられる――勝ったとビッカーシエルは確信し、そして、ぐらりと視界が揺らいだことを疑問に思った。
「な、なんだ……これは。気分が、わるい。力が上手く操れない……!?」
(当然だ。既に貴様は六つの『孔』を開かれているのだから……!)
『孔』は言ってしまえば東洋医学におけるツボの概念であり、破孔・七星開門とはそのツボの中でも人体を動かすのに最も重要な七つの点を気で撃ち抜くスキルだ。『孔』を強引に撃ち抜かれればたとえどんな生物であっても気の流れが狂い、万全の力は発揮できない。
加えて、最後の一撃に抵抗しているとはいえビッカーシエルは既に六カ所もの『孔』を打ち抜かれている。常人なら意識を保つのが精一杯になっているところだ。その状態でもスキルを発動させ続けている彼が異常なのだ。
そして、ライカゲの蹴りは力の制御がおぼつかない相手の守りを貫けないほど軽くはない。雄叫びを上げたライカゲは、ビッカーシエルの『リベリオン・スケイル』を貫いた。
「ィヤアアアァァァァァァッ!!」
砕け散るバリアを突き抜け、神速の蹴りがビッカーシエルに突き刺さると同時に最後の『孔』を開く。蹴りそのものの威力も上乗せされた衝撃が彼の全身に迸る。
相乗に相乗を重ねた忍者の意地の一撃が、遂に『甲聖』を蹴り崩した。
「あっては、ならない……こんなことはぁぁぁーーーッ!!?」
吹き飛ぶビッカーシエルの体内で七つの『孔』に叩き込んだライカゲの力が連鎖爆発してビッカーシエルの意識を刈り取り、空を北斗七星の形の光の爆発が彩った。
その光の合間に見える小さな光、八つ目の星である死兆星を象ったようなそれが地上へ落ちてくる。竜人と人との戦いが静止するほどの戦いを演じたライカゲの帰還だった。
「次に星になりたい者はいるか?」
「「「ま……師匠ぁぁぁぁ~~~~~!!!」」」
オロチ、ツナデ、ジライヤが師匠の勇姿に感動の余り号泣する。
師匠が大好きすぎる弟子達であった。
◆ ◇
皇は苛立っていた。
目の前の光景が理解できなかった。
「余は、何者かに化かされておるのか?」
これまで望む全てを叶えてくれた最強の熾四聖天たちの、なんと無様なことか。ジュールエリエルもセルシエルもヒューマンの女などに敗北し、ビッカーシエルに至っては耄碌して不覚を取り、たった今吹き飛ばされて戻ってこない。
熾聖隊の志気が低下している。
戦闘不能になった兵士が百を超えた。
誰よりも早く戻ってくるものと信じていたガルバラエルが未だに戻ってこないことにも苛立つ。
どれほど状況が悪化しようが、ガルバラエルなら一人で覆すだろう。
この苛立ちも、奴がクオンの親を始末して戻ってくれば晴れる。
そう信じて、待った。
しかし、現実は皇の希望を悉く裏切った。
『試練の結界』が解かれた先には、互いに流血しながら戦意を剥き出しに睨み合うガルバラエルとハジメがいた。ガルバラエルは結界を解いたのではなく、二人の戦闘による結界への負荷が想定を凌駕したことで強制解除されたのだ。
常に冷静沈着なガルバラエルが冷汗を流し、取り乱したように叫ぶ。
「ハァッ、ハァッ……シャントゥロン・レイを打ち破るとは、貴様本当に人間か!?」
対するハジメは、両手に巨大な双剣を握って不敵に笑う。
「娘の為なら、阿修羅にでもなんでもなってやるさ……」
皇は戦いに関しては専門ではないが、二人の様子くらいは分かる。
ガルバラエルは傷ついているが、ハジメはもっと傷ついている。
しかし、気圧されているのはガルバラエルの方だ。
それもまた、皇には理解出来ないことだった。
◇ ◆
――遡ること少し前、ハジメとガルバラエルの戦いは熾烈を極めていた。
発動者から独立して意のままに動く二つの雷龍『シャントゥロン・レイ』は、ガルバラエルに仕える忠実な僕として、またガルバラエルに仇為す者を滅ぼす顎として縦横無尽にハジメを襲った。
対してハジメは雷を弱める地属性のエンチャントを全ての武器に付与し、足場として操る大剣と『不動雷切丸』以外の全ての剣を以て全力でガルバラエル本体を追撃した。
戦闘開始初期であれば自分が飛ぶことで精一杯であっただろうハジメだが、ガルバラエルとの戦いの中で『攻性魂殻・飛天』の慣熟が為されたことで今まで以上に攻撃的な動きが出来るようになっていた。
頭数を三に増やして圧倒する筈だったガルバラエルもこの攻勢には手子摺り、しかしハジメも襲い来る雷龍の攻撃の全ては捌けず、互いに傷を負い続けた。
されど、耐久力の面ではどう足掻いてもガルバラエルが有利。
やがて雷龍の攻撃を避けきれなくなったハジメはガルバラエルから強烈な攻撃を受ける。
「堕ちよ! ドラゴニック・ディスチャージ!」
「くあぁッ!!」
真上からの突進を咄嗟にパリィで弾くが、ステータス的に劣るハジメでは全ては受け流しきれず、衝撃で大地に激突する。ドウッ! と、土煙を上げるハジメに、ガルバラエルは今が好機と捉えた。
虚空である足下に魔法陣を展開したガルバラエルは、詠唱と共に陣を拳で殴る。
「天の災い、地の嘆き! 空に善悪貴賤の分別あろう筈もなく、汝らの理解及ぶこと能わじ! 脆く儚き数多の命運に果てを告げる無情の息吹よ、降り注げ――『グレイトダウン』ッ!!」
それは荒ぶる風であり、降り注ぐ雨であり、全てを奪う雪風であり、鳴り響く雷鳴でもある。四属性複合、ハジメでさえ習得どころか知りもしない超級大魔法が、弾け飛ぶ魔法陣の中から降り注いだ。
更に、四属性の濁流の中に二頭の雷龍までもが数多の落雷とともに降り注ぐ。
現実の城で使用したらば城そのものが崩壊する程の質を伴った物量がハジメたった一人を押し潰す為だけに迫る。
降り注ぐ絶望的な破壊の力。
叩き落とされたことで回避は間に合わず、魔法で迎撃するにも詠唱の有無の差で押し負ける。ならば――と、ハジメは更なる奥の手に手を伸ばした。
手が伸びた先は、足場にしていた大剣。
ハジメはその大剣の取っ手を握り、念じる。
すると中央から大剣が真っ二つに割れ、双剣へと変形してハジメの手に収まった。
「言葉遊びの好きな神のおかげで、抵抗くらいは出来そうだ……!」
全ての力をバフに乗せ、敵の攻撃の直前にボルカニックレイジを発動する。
ハジメの使う魔法の中でも最強の破壊力を誇るボルカニックレイジも、複合属性の上に完全詠唱、更に魔法攻撃力においても上回る相手に対して杖なしの詠唱破棄ではあっさりと消し飛ばされるだろう。
それでも、一瞬でも敵の魔法の勢いを押さえられれば上等だ。
双剣を前後に構え、体を捻るように力を込めたハジメは、渾身の力を籠める為に、ありったけ腹に力を込めて叫ぶ。
「うおぉぉッ!! 断空双牙衝ォォォッ!!!」
大地を蹴って空に向かって解き放たれた刃が、斬撃の螺旋を描いて空を斬り裂く。
双剣スキルと刀スキルを鍛え抜くことで発現するこの大技は、一対一の戦いで使うにはかなり癖が強く使いづらい。しかし、このスキルには一つだけ特殊な効果がある。
格闘スキルの『ティタノマキア』の巨人特攻然り、風魔法『エアロバースト』の風魔法破壊然り、この世界のスキルは名前に即した特殊な特攻や特性が付与されることがある。その法則に則り――断空双牙衝は空、すなわち天候に由来するモノへの特攻を持つ。
ガルバラエルの放った大魔法は詠唱の内容からして「自然災害」や「空から降り注ぐ天罰」のようなニュアンスを含んでいる。で、あるならば――。
「吹き飛べぇッ!!」
「我が魔法がいとも容易く切り裂かれる……ッ!?」
下から上へ、突き上げる特大の双斬撃が膨大な破壊力の魔法を千々に散らしながら空へ昇ってゆく。やがて斬撃は『シャントゥロン・レイ』と激突し、大地から登る力と天から降り注ぐ力が拮抗する。
「もう一撃ッ!! エアリアル・ティースッ!!」
肉体を限界まで酷使し、ハジメは断空双牙衝の発動終了と同時に空に駆け出す。無数の剣を足場に奥義と雷龍が衝突する場所へとジグザグに駆け昇る彼の両手には、膨大なオーラが収束した大双剣が輝いている。
肉体が軋む、空間が軋む、結界が軋む。
それでも、ハジメは歩みを止めない。
たとえ失敗すれば二つの雷龍に呑み込まれて死を迎えるとしても、そうさせないための力が自分にはある筈だから。
「生きて勝つ!! それが俺の選んだ正しい選択だッ!!」
突き上げた二本の剣と雷龍は激突し、互いに互いの存在を否定するように衝突し合い、やがて――ハジメの双剣が二頭の雷龍の脳天を貫き、爆発が起きたことで『試練の結界』は限界を迎えた。
――そして、現在。
(無茶はしたが、甲斐はあったかな……)
雷龍を破壊した名残のように未だ帯電する剣の先を地面に当てながら、ハジメはガルバラエルの様子を見る。
ハジメはこれまでの戦闘に加えて『シャントゥロン・レイ』を強引に打ち破ったことで雷の裂傷や火傷、あちこちの出血を起こしている。端から見れば満身創痍だろう。対してガルバラエルは傷ついているが、ハジメと比べれば度合いは少ない。
しかし、ハジメはガルバラエルの冷や汗が自分の必殺を破られた焦りだけが理由ではないと見抜いていた。
(強力無比なパーソナルスキルだが、その分だけ打ち破られた際の反動も大きいらしいな)
普通、どんなものであれ一度発射した魔法やオーラが無限に力を持ち続けることはない。発射後は少しずつ消耗していずれは消滅する。しかし『シャントゥロン・レイ』は発動後、いつまで経っても弱り、消えることがなかった。
察するに、あの双龍は発動後もガルバラエルと使用する力のラインが直結していたのだ。ハジメの『攻性魂殻』も一見すると無制限に虚空を飛び回っているように見えるが、実際にはハジメのオーラや魔力を消耗して動いている。
それに、制限の薄いパーソナルスキルなら、龍二頭と言わずもっと大量に出せばいいだけだ。なのにガルバラエルは二頭しか出さず、代わりに下手なダメージなら即座に修復するほど龍が強力だった。そういうスキルだからと言えばそれまでだが、そんな形に至るまでには必ず理由がある。
ガルバラエルにとってリスクとリターンが最も釣り合った形、それが二頭の龍だったのだろう。そして、この世界には特に意味もなくただ強力なだけのスキルはない。ガルバラエルのスキルが余りにも強力すぎると感じたハジメは、何かしらのデメリット――たとえば破壊された際に発動者に大きなフィードバックがある等の欠点を内包していると当たりをつけた。
果たして、それは当たった。
シャントゥロン・レイを破壊した瞬間、ガルバラエルが放出するオーラがあからさまに乱れ、弱まった。肉体的な損耗はハジメが上だが、それ以外の消耗はガルバラエルの方が上だ。
あと一度同じようにシャントゥロン・レイを破壊すれば、ガルバラエルの力は更に落ちる。
腕から滴る血も気にせず、ハジメは双剣を構え直す。
傷は申し訳程度ながらリジェネレートの魔法で回復している。
絆創膏程度の効果だが、長期戦ではバカにできない。
周囲を見渡せば、どうやら残る熾四聖天はガルバラエルのみで、味方にも目立った損害がない。ライカゲも戦いに加わるとなれまもはや勝利は目前だ。
(あと少しだぞ、クオン――ん?)
ハジメの視線が不意にクオンに留まる。
クオンは口元を押さえ、瞳孔の開いた目でハジメを見ていた。
もしや自分に命の危機が迫っているのかと思ったが、どんなに気配を探っても今ハジメを即座に脅かすような要素はない。はて、と思ったところで、クオンが口を開く。
「ママ……ちまみれに……」
「?」
「クオンのママを、いじめる……殺す気なの、このひとたちは」
「……クオン? これくらい大した傷じゃ……」
「ゆるさない」
直後、クオンの体から背筋が凍り付く程の圧倒的な威圧感が放出され、場の空気を塗り潰した。
そこに至ってハジメは漸く重要な事実に気づき、青ざめた。
我が子のためと盲目になり、大変なことを見落としていた。
「あなたたち……ゆるさない。ママをいじめるなんて、クオンからママを奪うなんて、絶対に、絶対に絶対に絶対に、許さないッッ!!!」
ゴウッ、と、その場の全員が巨大な、余りにも巨大な怪物が目覚める錯覚を覚える。ハジメでさえ知る由もなかった文字通りの逆鱗に触れられたクオンは、普段の愛らしい顔からは想像も出来ないほどの激憤を露にしていた。
――そういえば、クオンは親しい人が傷つき血を流すところを生まれてこの方一度も見たことがなかったのだ。




