香姫、悪だくみを実行する
「くう~っ」
自分の部屋に戻る香姫は悔しさを露わにしている。
「なによ、あの態度。余裕ぶって嫌な奴!」
右手の親指の爪を噛む。
「姫様、命ぜられたことの手はずは整っておりますが、本当にやるのですか」
香姫付きの女中頭がそう確認をした。
まだ子供の香姫よりも大人な女中頭は、香姫の命令には逆らえないが、先ほどの満天姫の言葉で主人が考え直さないかを期待したのだ。
「当たり前です。あの女もまとめて葬ってやりますわ」
香姫はそう命じた。
(そうよ、元々、共闘をするつもりはなかった。あいつの出す料理を知って邪魔するつもりだったから)
実のところ、香姫は満天姫以外の姫たちの料理が何かを知っていた。
姫付きの女中は一人を除いて全員、秋葉藩の人間である。
香姫の命令で情報を流すことは厭わない。
ただ、満天姫付きの三女中だけは口を割らなかった。
知らないということもあったが、三人とも満天姫にばれればすぐにお手打ちになると震えて懇願するので、取り込めなかったのだ。
(……さすがに刀姫というところだわ。あの威圧感は半端ない)
「でも、このわたくしを敵に回すとは愚かなり。お兄ちゃんは絶対に渡さないわ」
ポンポンと手を叩く香姫。
その合図で後ろの女中たちはみんな消えて行く。
代わりに庭に一人の男がいつの間にか現れ、跪き、頭をたれている。
「軒猿、満天姫に少しお灸を据えてください。多少手荒なことをして傷つけても構いません」
「姫、よいのですか?」
「刀姫とか言われて調子に乗っているようです。お前の力をもってそんな女の剣など通用しないことを教えてあげなさい。そうすれば、あの女、能面のような人を見下した面も少しは愛想がよくなるというもの……」
「御意」
軒猿と言われた男は全身黒づくめで顔もよく分からない。
ただ、黒頭巾から唯一出している目が青い。まるで宝石のような青だ。
この越後松平家に昔から使える影の存在。甲賀者の一派の下忍である。
香姫が軒猿と呼んで侮蔑しながらも、時折呼んでは仕事を命じるのも彼がとても優秀な下忍であるからだ。
(刀姫を脅す……。なんとも可愛い意地悪ではないか。しかし、こんなしょうもない任務を命ぜられるとは……)
軒猿は甲賀者の下忍の中では最年少である。
よって、任務はほとんど姫や奥方の雑用ばかり。たぶん、仲間内では忌み嫌われる青い瞳が姫や奥方たちには受けがよいからなのであろう。
甲賀者とはいっても、軒猿の属する一族は常に危険な任務を命じられ、使い捨てにされてきた。
今は秋葉藩に仕えているが、金さえ払ってもらえばだれにでも仕えた。
だから雇い主に対する忠誠心は基本的にない。
さらに軒猿は甲賀の一族とは血縁関係のない拾い子であったから、頼れるのは自分一人であると常に思っている。
軒猿の行動動機は『金』である。
金は自分を拾って育て、忍者に育ててくれた師匠への恩返しである。
軒猿を育てくれた師匠は、五年前に任務でしくじり、右腕左足を失った。今は田舎で細々と暮らしている。
(香姫はわがままだが、金の払いはいい……。それに高慢ちきな大名の姫君を脅すなんて仕事はやりがいがある)
軒猿は植え込みの中に姿を隠し、そして縁の下へ潜り込んだ。縁の下のある空間に自分の隠れ家の一つがあるのだ。
(さて……どう脅すか……)
軒猿は若いが場数をいくつも踏んでいる。ある時は追手の侍、七人と斬りあい、全員を倒したこともある。
軒猿は冷酷無比の人斬りでもあった。
(所詮はお姫様の剣術であるが、あの太刀筋、油断はできない)
軒猿は能楽の番にあの場にいた。満天姫の抜刀術で斬られた能楽師の一人であったのだ。
別の任務であの場に紛れ込んでいたが、機会をうかがう前に面を斬られたのだ。
(あの腕は相当なものであった。だが正当な剣術など、我ら忍びの殺人術の前には無力。あの姫とて人を斬ったことはあるまい。実戦がない剣など、所詮は道場剣術だ)
軒猿はそういうとまずは満天姫の偵察に伺うとする。暗い縁の下の空間を這いずり、満天姫の部屋の下へと移動する。
普通なら方向感覚を失うものだが、軒猿には全く問題ない。
「それでは満天姫様。材料を買いに町へ出てまいります」
床下で筒を当て、部屋の会話を聞き取る。
床板と畳の防音効果で天井裏よりも聞き取りにくいが、訓練された忍びの軒猿なら十分であった。
忍具の竹でできた筒も音を集約するのに一役買っている。
(これはお付きの祐筆の娘の声だな……)
軒猿は満天姫の家来の情報を当然ながら知っている。別の人間から命ぜられている任務があって、密かに調べていたのだ。
(祐筆の娘は国元から付いてきた。勘定奉行の娘……雪乃と言ったか。頭のよい娘と聞いているが……)
「わらわも参る」
「えっ、姫様もですか?」
そんな声が聞こえてくる。どうやら、満天姫はお忍びで町の市場に足を運びたいらしい。
(これは好機。向こうからわざわざ飛び込んでくるとは……ありがたい)
軒猿はほくそ笑んだ。
満天姫がお忍びで屋敷からこっそり出るということは、護衛の侍はいないということだ。
(やるなら徹底的に脅してやろう)
軒猿はそう決めた。
明日は満天姫と雪乃の二人だけで町の市場に行く。その途中で襲うのだ。
(くくく……。女のいじめに加担するくだらぬ任務だが少しは楽しめそうだ)
軒猿はにやりと笑い、筒を耳から外そうとした。
「ネズミがおるのう」
唐突にそんな満天姫の声が聞こえた。軒猿は背筋に寒いものが走った。
(ネズミ……やば!)
軒猿はとっさに身をかわした。そうしなければ肩口から腰にかけて、一気に串刺しにされるところであった。
地面にまで届こうとばかりに伸びた刀身が暗闇の中でも怪しく光った。ツツーっと頬に温かいものが伝う。
完全にかわしたはずなのに、頬をかすったようだ。軒猿は混乱した。
「満天姫様、いきなり床下に刀を突きささないでください。畳が傷みます」
「ネズミがおったのじゃ」
「床下にねずみがいるのは当たり前です。気になるのなら猫を飼いましょうか?」
貫かれた刀が引き抜かれていく。
軒猿は次の攻撃を警戒する。
もし、次の攻撃があれば逃れられないと感じ、全身にびっしりと冷たい汗が流れていく。
(なんだ……この威圧感は……。姿も見えないのに、刀をもつ満天姫の気配を強く感じる)
「今から三つ数える間だけ見逃してやる」
「満天姫様、一体、何をおっしゃっているのでしょうか?」
満天姫と雪乃の声が聞こえる。
「一つ」
その声が聞こえた時、軒猿は脱兎のごとくその場を去った。
「くそ……この借りは絶対に返す!」
そう心に誓った。
ここは狭い床下。
自由に動けないから仕方がないと心の中で言い訳をする。
「まともに戦えば、絶対、俺の方が強い」




